一章
「ぼくが夕飯を作るからね。順一郎おぼっちゃまには任せておけない!」
そのコンクールの途中、柚木はそう言った。
二人の間には、互いの家を行き来しないという取り決めがある。演奏の合わせをするにしても、どこかのスタジオかホール、練習室を予約して行っていた。
だからレストランへ出かけるのではなく、自分たちのために料理を用意するのも二人にとっては初めてのことだった。
食事なんて、どこかで簡単に済ませてしまうのでもいいし、出来合いのものをマーケットで買ってくるのでもいい。そう間宮は思っていたが、柚木は作ると言う。
間宮は自炊の能力に乏しい。音楽を勉強することに忙しく……と表現すれば聞こえがいいものの、生活の中で料理にリソースを割くのを億劫だと思うタイプだ。
柚木は間宮とは違い、いろいろな料理を自作して試すのを好むらしい。何を作るか決め、食材を吟味して買い物をする。
手際よく調理して味付けをし、皿を選んで盛り付ける。そのすべてを柚木は楽しんでいるようだった。
「おいしい」
「それは光栄」
柚木の料理の腕前について、ここで間宮は初めて知ることになった。
料理をする技能と、音楽をやる技能は似ていると言われる。
料理が上手い人に音楽をやらせてみても上手くやるし、音楽を得意とする人は料理が上手い、という説である。
使う脳の部分が同じだからだとか、きちんと正しく真似をする能力がどちらも必要だからだとか、料理も音楽もマルチタスクをこなすことが要求されるからだとか。
そんな記事を読んだことがあるものの、これを間宮は信じていなかった。
しかし柚木がこうも手早く美味い料理を作るところを見ると、なかなかに信憑性のある説だったかもしれないと思う。
「音楽と料理の能力には互換性があるというけど、あなたはどう思います?名演奏家にだって料理下手はいると思うんですが」
「ぼくが考えるには、ヴァイオリンだのピアノだのでへとへとになってしまって、生活に欠かせない物事までおざなりになるようでは才能があるとは言えない」
料理が単に下手だとか、嫌いならそれでいいけれど、料理をする余裕もないなんていけない、という意味のことを柚木は言った。
「厳しい」
「別に厳しくないだろ。生活を全うし、人生を楽しんだ上でやるのが音楽なんだから」
「“生活を全うする”にきちんとベッドで寝るところまでは入っていないわけか」
間宮が料理をする代わりの片付けをし、柚木はその間リビングでソファに腰掛けて楽譜を広げ、ヘリオスを取り出してさらっていたようだった。
そして、いつの間にか睡魔に襲われたのだろう、二人掛けのソファに横になってそのまま眠ってしまっていた。
ヘリオスは柚木に半ば抱かれるような形で共寝している。
たくさん食べて満腹になり、眠くなって寝たとは。まるで赤ん坊だ。
柚木は飛行機でも電車でも、どこでも寝ることができるし、寝入るのも素早い。
すやすやと寝息を立てる柚木の顔は、こうして見るとまだまだ天使のような趣を残していた。邪気のない男のように見える。
『殺すまで叩くんだ。相手の息の根を止めるまでやる。ぼくが上だということをわからせる』と口走った人間とは思えない。
難しい曲はどう練習するか、と聞かれて柚木はそう答えただけだったから、誰か他の人間に対してそう言ったのではないことだけが救いだ。そういう気概でさらうんだ、というだけの話なのだ、おそらく。願わくば。
なかなかモノにできないパッセージやテクニックに出会ったとき、弱気になってその度に上手くごまかしていると、それに今度は自分がどこまでも追いかけられることになる。
しっかり潰してこちらがそれを飼い慣らさねばならない、ということだ。
間宮は部屋の中からブランケットを見つけてきて、柚木にかけてやった。ふとヘリオスのことが気にかかる。
柚木が身動きしたら床に落ちてしまうかもしれない。
柚木が寝返りを打てば、身体の下に巻き込んでしまう恐れもある。そうするとヴァイオリンは破損してしまう。
「柚木さん、ヘリオスをどうにかしてください」
そう声をかけて、間宮は柚木の肩を揺り動かした。
柚木は、ううん、とか、むにゃ、とか言ったきり明瞭な答えを返さなかったが、何度か声をかけ続けていると、「向こうへやって」というようなことを言った。
間宮は、仕方がないので慎重にヘリオスを移動することにした。いつも柚木が触っているところを触るように心掛けて持ち、テーブルの上へと安置することに成功した。
一仕事終えた間宮は、余っている一人掛けのソファへと腰を下ろし、息をついた。ピアノへ向かっているときは透明になっている疲れが、今はふっと重みを増して両肩のあたりを包み込んでいる。
気持ちよさそうに眠る柚木を見ているうち、眠気がうつったのかもしれない。
まどろみが、照明を落とした部屋を這って、そっと近づいてくるのを感じた。
「順一郎」
間宮ははっとして、呼ばれたほうを振り向いた。柚木がいる。
ソファの上ではなく、テーブルの上に行儀悪く腰掛けて、ぶらぶらと組んだ足を揺らしている。
すぐ隣にある椅子を引いて座ることもできるのに、彼はそうして間宮のことを見下ろしている。
自分は束の間眠ってしまっていたのだ、と間宮は思った。暗い部屋なのに、どうしてか柚木の顔の表情まではっきりと伝わってくる。
「いつもありがとう」
彼はひそやかに言った。
間宮が掛けてやったブランケットのことか、ヘリオスを安全な場所へと移した気遣いのこと。あるいは、間宮の柚木に対する献身全般のことについて言っているのかもしれなかった。
改まって感謝されるようなことはしていない、と言おうとした間宮に、柚木はさっと手のひらを向けて黙るようにと示した。
「ま、聞きたまえよ。」
と彼は言った。奇妙な言葉づかいだった。
間宮は、柚木がふざけているのかもしれないと感じた。
「こどもっぽい奴を相手するのって骨が折れるだろ?でも、これからもよろしく頼む」
間宮はわずかに首を傾げた。自らのことをこどもっぽいと柚木が認めたことなんて、これまでにあっただろうか。
殊勝な言葉とは裏腹に、間宮を見下ろす彼の態度は尊大だった。
「こどもっぽいという自覚はあるんですか。意外だな」
「いや、ないんじゃないか。ぼくが思うに、さっぱり、ないと思うけどね」
「……ないと思う?あなたの話でしょ」
会話のリズムが噛み合わない。何かが変だ。
間宮は不審そうにテーブルの上の彼を見たが、相手は気にしたふうでもなく、組んだ足を揺らし続けている。
彼は靴を履いておらず、そしておかしなことに裸足だった。
「ぼく?ぼくはどうかな。確かに失礼な扱いには耐えられないし、退屈も嫌いだ。それに怠惰な奴も大っきらい。アハハ」
「……」
「力って勤勉なんだよ。知っていると思うけど。力が勤勉でいる限り、ぼくは彼のことが大好き」
柚木のことを“力”と呼んだ彼は、そう言ってにっこりと笑った。笑うと目が三日月のような弓なりを作った。
間宮はそれを見ているうち、驚いて声を上げるべきタイミングを完全に逸してしまったのだった。彼は柚木ではない。とても不思議なことが起きている。
夢にしては何もかもがはっきりと、くっきりとしていた。柚木の世界はいつもこんなふうに、はっきりすべきものではないものまではっきりとしているのかもしれない。
「力は、期待に応えようとするちからの強い人間だ。欠かせない資質だよ。神のためではなく、人のための音楽のほうがずっと優れていると君も思っているよね」
「……それは定義によるし、場合にもよる」
テーブルの上の彼は、若干拗ねたような顔をつくって間宮のことを見た。
「君らしい慎重な答えだな。とにかく、君のことも、応えるべき期待を向けてくる人間のうちのひとりだと力は考えている」
奇妙なこどもっぽさと、それに覆い隠される彼の本質は、間宮を落ち着かなくさせたものの、間宮は彼のことを嫌だとは思わなかった。
「力の前にも人はいたし、力のあとにも、ぼくは出会いを待つだろう。しかし、力のことは憎からず思っているし、特に気が合うとも感じている。だから彼のことを、よろしく頼みたいのさ」
「それは、言われなくてもそうするつもりですけど」
「力がまた登山するって言い出したら止めたほうがいい」
「えっ?」
どうして、と間宮が聞き返しても、テーブルの上の彼は足をぶらぶら揺らすだけで、何も返事をしようとしなかった。
やがて、他に質問はないの、と彼は間宮に対して微笑んだ。
間宮は彼のことを、急に、やはりかなりの歳上だと感じた。
「あなたって、日本語を話すんですね。イタリア語か、それかドイツ語かと……。いつもそのときの持ち主の姿でいるんですか」
やっと間宮がそれだけを言うと、彼──ヘリオスはきょとんとした目をして言った。
「だってそうしたら、君が喜ぶと思って」