一章
ベルギー国際コンクールは何度か名前が変わっているが、ベルギーの王妃の名前を冠していたこともある、正統と伝統を特に重んじるコンクールである。
柚木が演奏家としてそんなコンクールの理想に適っているのか、審査員や聴衆に受け入れられるのかという問題があったが、彼は順調に新曲の審査まで進んだ。
世界中から何百人もエントリーし、ここまで残ったのは十五歳から三十二歳までのヴァイオリニストたち十四人だった。これで十分。
柚木を含め彼らのうちのほとんどは、自分の価値について知っている。音楽は、競うものではないということも。
けれども、その上でまだここで戦いたいと思う者が十二人、残りの二人は棄権し、家族や友人のもとへ、そして自分の求めるべき音楽へと帰った。
柚木と間宮は、指定のホテルで新作の曲を受け取った。すぐさま部屋に併設された練習室へ行き、その楽譜を広げた。
『これを弾く伴奏者にも賞が与えられるべきでは?』
間宮は心の中で嘆いた。
曲のあまりの難しさ──難しさと言っていいのかも、間宮にはわからない。もはや彼にはこれは音楽ではないようにさえ感じられた──に、間宮はそう思った。
これは他の参加者が連れた伴奏者も苦戦するだろう。こんな大変な仕事を受けるのではなかったと後悔している者もいるかもしれない。
「ぼくが一位をとったなら、コンクールにそう掛け合おう」
柚木はグランドピアノの、閉めた蓋の上に広げた楽譜を頭から見ていきながら言った。
目は爛々と輝いている。新たな冒険にわくわくする心を抑えきれないのだ。
間宮は、え、と思った。
「何を掛け合おうって?」
「だから、君がさっき言ったこと。さあ、始めよう」
間宮は柚木に慣れていたけれども、このような不可思議な現象には馴染めそうもなかった。
やはり柚木がまとうオカルトについて彼に問い詰めようか、と思案したけれども、今回も間宮はまた、タイミングが良くないと思ってそれを控えた。
今は柚木の大事な局面なのだ。彼が集中したがっているのにそれを阻害すること。そして、彼の”オカルトを信じない世界”に終止符を自分が打ってしまうことは、間宮は避けたかった。
早々に楽器を取り出しチューニングを終えた柚木は、きらきらとした目を間宮に向け、こう言った。
「これは、まだ人が登ったことのない山だ。君はもうそんな山はないと言ったけど、ここにあったね」
新曲を勉強し仕上げていくことは困難を極めたが、岩壁に手をかけ身体を引き上げ、じわじわとものにしていくように、柚木は進んでいった。間宮も。
「テンポが書いていない。これって一体、どんな速さの曲なんですか」
「この曲は一見すると、混迷を極めているように見える。でも本当は非常に伝統的な形式に則って作られている」
「どこが」
「これはただのソナタだ。普通の、古典的な。よく見るとそうなんだよ。だから、それを知った上で最初から三つに分けて考える。テンポもね」
「普通の?」
間宮には、普通の、なんて言葉はこの曲には決して当てはまらないように思えた。
「ふふふ、ぼくを疑うの?」
柚木は笑った。
「いや、信じますけど、どうしてそう思うんですか。そう感じるってこと?」
「なに?感じるって。ウケる。馬鹿にしないでよ」
「……」
「そんなんじゃない。ぼくの考えだ。この世のすべてのことには、きちんとした理由がある」
柚木は、ヴァイオリンの卓越したテクニックのことを『運動神経だ』と昔からそう言った。運動神経の悪い奴は何をやらせてもだめ、だとも言った。
古来から名演奏家のテクニックは、悪魔的だと称される。けれども彼にとっては、どの時代の誰も悪魔に取り憑かれていない。悪魔なんて存在しない。身体を動かすのは脳と、電気信号だ。
間宮は、新曲についての柚木の考えを聞いた。そこにはきちんとした理由と、明快な答えがあった。間宮は舌を巻いた。
これは普通の、典型的な、ソナタだ。提示部、展開部、再現部の、A-B-A’で作られるソナタなのだ。
巨大で厄介で難しく、取り止めがないように感じられるから、見えにくいだけ。細部や音使いを革新的にし、酷く難解に見せておいて、伝統を重んじている。
これはコンクールのスタンスを表しており、コンクールからコンテスタントへのメッセージでもあるのだ。