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一章


 二つ目の敗北は、柚木が出た最後のコンクールだ。

 彼はこのコンクールを終えて、もう十分に競ったし、楽しみ終えたと思ったらしい。彼の経歴は概ね輝かしい。

 このコンクールにエントリーする計画を柚木が間宮に話したとき、「このコンクールはかなり大変だ」と言った。
 二人はそのとき、別件の柚木のリサイタルの合わせをするために集まっていた。

「まあ柚木さんといると全体的に大変ですからね」

 柚木と一緒にいると、息切れを起こさないようにするのに苦労した。柚木は忙しいし、要求も多い。演奏する曲も多く、柚木はエネルギーの有り余った男だから、それに付き合うのは骨が折れる。

 成人していた間宮は、他の伴奏の仕事もするようになっており、ソリストの中でも柚木の元気さはとりわけすごいと思っていた。

 柚木に置いて行かれず、柚木の満足のいくかたちで食いついていけるのは間宮だけなのではないかということを、柚木はそろそろ知っており、間宮はうっすらとそう勘づいていた。

 間宮の場合は、そうであったらいいという希望も入っていたから、お互いに口に出したことはなかった。



 柚木が取り組もうとしているコンクールは、ベルギー国際コンクールだった。世界的に有名なコンクールで、声楽、ピアノ、チェロ、そしてヴァイオリンのために開かれる。

 過酷なコンクールとして名高く、一般的な審査を一通り終えた後に、一週間ホテルに缶詰めになって新しく渡された新作の曲を仕上げなければならない。
 
 そこで七人にまで絞られ、そこから一時間のリサイタルプログラムでの勝負になる。
 リサイタルプログラムは、三十分間はピアノ伴奏付きで、その後の三十分はオーケストラをバックにソリストとして協奏曲を弾く。

 新作の曲は、現代に生きる作曲家がこのコンクールのために手がけた未発表の現代曲だ。

 その曲が渡されてからステージまでの一週間は、携帯端末もPCも取り上げられ、外部との連絡も禁止。
 その新作の曲はヴァイオリンのための曲で、ピアノ伴奏がつく。だから、その一週間に伴奏者一名だけは同伴させてよい。

 それ以前の審査でも伴奏者は必要だが、コンクールの前半と後半とで別の者、何人かに伴奏させることももちろん許可されている。時間的な拘束を含め、とにかく大変なコンクールだからだ。

 しかし、柚木は他の伴奏者は手配しないと言った。伴奏はすべて、間宮が弾く。コンクールの前半も、新曲も、ファイナルのリサイタルプログラムも。
 間宮は柚木からの信頼を感じ、それに応えたいと思った。

「君、ヴァイオリンは弾けないよね?」
「やったことありません」
「よかった。この前このコンクールに、伴奏者だって言って師匠を持ち込んだ奴がいたらしくてさ。伴奏者として届け出ると、そいつがコンテスタントにヴァイオリンを教えちゃわないかどうか、調査されるらしいよ」

 今後もしヴァイオリンをやりたくなったら、ぼくが教えてあげるからね、と柚木はにっこり笑い、間宮は絶対に嫌だと思った。

 携帯端末やP Cの持ち込みが禁止されるのは、新曲について、誰かのコーチングを受けることを防ぐためだ。どうしてもこれは参加者だけの力で仕上げなくてはならない。

「順ちゃん、大変だけど、できる?」
「やれと言ってくれれば」
「やって」

 間宮は、はい、と返事をした。柚木は満足そうに頷いた。
 それから柚木は間宮の目をじっと見て、ゆっくり言った。

「君ってバイタリティがあって、力強くて、本当に頼りになるね」

 柚木が、君って力強いねと言えば、本当に力強い演奏家になれた気がする。
 頼りになると言われれば、彼にそう言われるくらいのしっかりとしたピアニストでいようと思える。間宮はいつもそう感じる。

 呪いと祝福は表裏一体で、その多くは同じものなのだ。

 柚木はオカルトを信じないけれど、オカルトと表現するまではいかない自分の魅力や影響力について、自覚的なのではないかと思わされることが、間宮にはある。

「順ちゃんがいてくれれば、ぼくは何も心配いらないという気になるよ」

 柚木は他の伴奏者とであろうとも、最終的には強引に魅力的なステージにするだろうと、それでも間宮は思った。

 柚木はどんな安い革靴やスニーカーでも踊れるし、合わない靴なら踵をひどく踏みつけるか、自分の足に無理やり合わせてどこまででも遠くへ走ってゆく。
 
 けれども、そこにいるのが自分であれば、それ以上をも望めるかもしれないと、間宮は考えた。

 自分であれば、柚木は靴を履いていることさえ忘れるかもしれない。

 
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