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一章


 そのコンクールの名前を、東京国際ヴァイオリンコンクールという。

 海外からの参加者が多く、世界に開かれたコンクールとして名高い。参加者をヴァイオリニストとして多角的に審査する点が特徴的だ。

 映像審査が一回、無伴奏の曲に加え伴奏ありのヴァイオリンソナタで競う審査が一回、参加者にオーケストラのコンサートマスターをさせる審査が一回、そして次がファイナルのリサイタルプログラムと進む。

 コンサートマスター──コンマス審査は一人ひとりに時間がかかってしまうため、その前にぐっと人数が絞られる。
 このときも柚木は伴奏に間宮を付けていた。


『ファイナルに進めなかった』

 柚木から電話でそう聞いて、間宮は驚いた。

 ファイナルに進めなかったということは、要するにコンマス審査を通らなかったということを意味した。

「あなたが大本命だと聞いていたけど!?」

 大きなコンクールでは、開かれる前から下馬評が立つ。

 誰それはどこそこのコンクールで既に優勝経験があるから今回もそいつだろう、この前のリサイタルでこの曲をとてもよく弾いていたからこの曲が課題曲ならあいつが強いだろう、というものだ。
 
 間宮自身も、柚木はコンマス審査を無難に終えてファイナルに進んだものと思っていた。

「何かあったんですか」

 この頃、柚木は一度入学した日本の国立の芸術大学、その音楽学部を退学していた。

 間宮が恐るおそるその退学の原因を探ったところ、人を殴った──柚木に言わせれば、殴られたから殴り返したところ、自分の拳が妙に効いて相手が向こうまで吹っ飛んだ──という。

 間宮はそれを聞いてなぜか安心した。
 想像したような修羅場はなく、即物的だったからだ。いや修羅場はあったかもしれないが、相手が柚木によって一方的に苦しめられたわけではなさそうだったからである。

 柚木が退学した大学で教授をしている審査員がいたかもしれない。
 ひょっとすると、柚木の印象はコンクールが始まる前から相当悪かったのかもしれないと間宮は思ったのだ。

 しかし、柚木はそれを否定した。

 そのコンクールの様子は録画され、公平さを守るためと、演奏家の勉強のために動画配信サイトで公開されている。間宮はコンマス審査の動画を見た。
 思わず大笑いし、柚木へと再び電話をかけた。

「あなたって集団を崩壊させる天才なんですか!?」
『なんだようるさいな。慰めてくれるかと思って電話に出たのに』

 オーケストラメンバーが板付きでいる中、舞台に出てきた柚木はそこから既に機嫌が悪そうだった。

 真っ黒の燕尾服を着ていた。彼は普段黒を着ないのだが、オーケストラの中で弾くのに一人だけ違う色味の衣装でいることはできないからだ。

「なぜ指揮者の棒が下りきる前に勝手にアインザッツを出す?」

 アインザッツとは、大まかに言えば”合図”のような意味の言葉である。
 無言の体の動きで集団の音を揃えるために出されるこの合図だが、指揮者がいるなら指揮者に合わせるべきところだ。

 柚木と指揮者の意見が合っておらず、柚木が指揮者に敬意を払わないために、オーケストラという集団も指揮者への信頼を失っている。

 弦楽セクションを中心とした、柚木についていこうとする動きと、それでいいのかと迷う動きでオーケストラは混乱した。
 衝突し、それぞれが違う方向へと走り、そして結果としてバラバラになる。

 それに、柚木の音が出っぱって、突出して聞こえた。
 いくら鳴りの良いヘリオスを弾いているからと言ったって、良いことではない。

「これはひどい。ひどいですね。柚木さんを落とすなんて勇気のあるコンクールだと思ったけど、これは仕方ないな」
『指揮者の奴が気に食わないんだよ。こいつが上から指揮棒を振ってくるとぼくは苛々するんだ。指揮棒の一振りで従うと思いやがって。そんなわけないだろ』

 上から指揮棒を振ってくる。なんて、指揮者なら当然のことだ。何故ならそれが仕事なのだから。

「気に食わなくても従わなきゃいけない。あなたってコンマスはできないんですね。集団の長はつとまらないタイプ。笑える」
『指揮者がこいつじゃなきゃもっと上手くやる』
「本当かな。怪しいですね」

 このコンマス審査の様子はまだ見ることができ、柚木に腹が立ったときや、柚木とは関係なく譜読みに疲れたときなどに間宮はこの動画を見ている。
 なんだか愉快な気分になってくるからだ。

 柚木はソリストとしての才能に溢れているが、コンサートマスターとしてのキャリアを積むことはないだろう。

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