一章
柚木にコンバースと名前をつけられたHAMAKAWAのヴァイオリンは、それを不満だと言うこともできずに、彼の手の中で静かにしていた。
間宮は昔、靴呼ばわりされたことに非常に不満だったため、ヴァイオリンに同情した。
「そのヴァイオリン、あなたが使っていた昔の楽器に似ている」
「本当に?」
「見た目も似ています」
柚木は、そのことに気がつかなかったらしい。目を瞬いて間宮の方を見、それからヴァイオリンをためつすがめつ観察した。
「それって最初に付き合った相手がいつまでも忘れられないみたいな?ぼくってそんな未練たらしい男なの!?嫌だ。こんな見た目してたかな」
「あの楽器は柚木さんの家にあるんですか」
「昔に売ってしまった。予備の楽器は一応他にあるけど、海外に置いてきたんだ。ヘリオスと二つ持って帰るのがめんどくさくて、預かってもらってる」
海外のどこに?というか、サブの楽器とはいえ、大切な楽器を預かってもらうな。預かった相手も扱いに困るだろう……間宮は言いたいことや聞きたいことがたくさんあったが、売ったんですか、とだけ聞き返した。
柚木にヘリオスをもたらしたヴァイオリンがもはや彼のもとにはなく、今はどこの誰が持っているかも分からないという事実は、間宮を少し切なくさせた。
「だいぶくたびれた楽器だったからね」
「薄情だな」
「何でよ。持ってたってどうせヘリオスを弾くんだろ」
「一番最初の楽器でしょう。愛着とかはないんですか」
「フルサイズにしてから最初の楽器ではあるけど、別に」
分数ヴァイオリンといって、幼いときには四分の一、二分の一等のサイズの小さなヴァイオリンを使い、身体の成長に合わせて段々と大きなヴァイオリンにして、最後にはフルサイズのものを使い出す。
間宮は、柚木少年が小さなヴァイオリンを持っているところを想像した。
柚木はスイスのコンクールのときでさえ妖精じみた雰囲気があったから、分数ヴァイオリンを使っていた頃などはもっとあどけなかったに違いない。
その実妖精というよりは妖怪に近いのだが。
柚木の子供時代のことについて間宮が知っているのは、柚木がしゃべったことだけだ。
彼がオカルトがらみ、非現実的なことを嫌うのは、彼がカナダから日本へ来なくてはならなくなった家庭の事情が関係しているらしい。
彼の片親がそういった非現実的な世界へ傾倒し、もう片方の親がそれに愛想を尽かしたのだった。
それに柚木少年が関係していたかどうかを間宮は知らない。
とにかく、そんな事情もあって、見えないもののうちで柚木が信じるのは、音楽だけだ。呪いも、幽霊も、予言も、彼の世界では決して認められない。
ヴァイオリンの神童と言われたことは何度もあったよ、と柚木は言った。神童はそのまま神に近いものになった。
”神童ってからには長じたら大人の神的なやつになるでしょ”と柚木はなんでもないことのように言うけれど、それのなんと難しいことか。神童の多くは、成長してみれば普通の人間だからだ。
そんなことを間宮が考えているうちに、柚木はコンバースという名付けを撤回した。
「コンバースはやめよう。花子にしよう」
「急な花子」
「いや、やっぱり……そうだな。博貴にしよう」
「浜川さんが驚きますよ」
浜川博貴は、柚木から楽器の代金を受け取ろうとはせず、ヴァイオリンをお貸ししますと言った。
柚木の愛器がヘリオスであることは知っているはずなので、そのヘリオスに何事かがあったということを察したのだろう。
紛失したとまでは思わなくても、メンテナンスが必要な状況にあるか、コンディションが悪いのだと考えている。
浜川は詮索しなかった。ヘリオスが弾けるようになったらヴァイオリンを返してくれれば構わないから、その代わり、明日のコンサートの途中でそのヴァイオリンがHAMAKAWAのものであることを宣伝してほしいと伝えてきた。
『柚木さんが弾いてくれれば、良い音がするようになるでしょうから!』と浜川は言った。
間宮はそれを聞いて、礼儀として微笑んだ。
「順ちゃん、博貴さんのこと嫌いだろ」
浜川社を辞した後、再びハンドルを握った間宮に、柚木はそう話しかけた。脱いだ手袋を、間宮の鞄へと雑に押し込んでいる。
後部座席には銀のヴァイオリンケースが鎮座しており、その中にはコンバース改め“博貴”がいる。
「そんなことはないですよ」
「博貴さんは音楽に興味がないし、良い音かどうかなんて分かんない人だよ。だけど、ヴァイオリンやピアノの普及に、ぼくや君の比じゃないくらい貢献してる。ぼくらの飯の種を作ってくれてるってこと」
二人は行きの車の中で、柚木のマネージャーである秋元について、似たような会話をした。
奇妙なことに、言っていることは二人とも行きのときとは真逆である。
「だから嫌ってなんていない」
「HAMAKAWAの取材断っただろ。博貴さん気にしてたよ。だから、あいつはドイツ製のピアノしか弾かない凝り固まった男なんです、と言っておいた」
「ピアニストなんて他に星の数ほどいます。伴奏を仕事にしている人だってたくさんいる。そちらに頼んだらいい」
間宮は、音楽が普及していくことは素晴らしいと思う。
しかし、では貢献している企業の社長と、うまが合わないのに仲良くするべきかというと、否と思う。
「きみってほんとお高くとまっててムカつくね!これで下手くそだったら埋めてやろうかと思っちゃうとこ」
「それなら、自分の腕前に感謝しないと」
「いやな奴だな」
ちなみに、間宮の家にあるのは本当にドイツ製のピアノである。
間宮はその楽器を愛している。どっしりとして、タッチは重ためで、色彩豊かで厳格な感じのする楽器は、間宮が幼い頃から実家にあったものだ。
音楽関係者のいない家庭にあって、高価なドイツ製のフルコンサートが家にあった。
間宮は正直言ってHAMAKAWAのピアノは好かない。
好かないものの、仕事なら最大限よく弾くことを心がける。
「あ、そっちの道には行かないで。違うルートでホールに戻ろう」
「どうしてですか?」
いきなり柚木がそう言い出したので──最もこの男がいきなりなのはいつものことだが──間宮は聞き返した。
「事故があったって。渋滞してるみたいだ。さっきラジオの交通情報で聞いた」
確かに、ラジオの音声が車内にはずっと流れている。
しかし、間宮はその情報を聞いた覚えがない。
「本当?」
「さっき確かに聞いたんだ」
「違うルートで行くとかなり遠回りになりますけど」
柚木は間宮のことを見た。ぼくの言うことを信じないなんて!と非難している目だ。
いらつく梟の目。白っぽい梟がふわっと羽根を膨らませ、ぼくは怒っているぞと示している──そんな感じだ。
間宮は観念して、柚木の言った通りにウインカーを出した。
それから十分後のことだ。
『交通情報です。午後三時二十分頃発生した事故の影響で渋滞が発生しています』
現在、午後三時二十八分。三時二十分きっかりに事故が発生したわけではないかもしれないが、この情報はこれより前に本当にラジオで伝えられていただろうか。
そしてそれを間宮が聞き逃して、柚木だけ聞き取ったのだろうか。
明らかに、柚木はおかしい。
例えば彼は、迎えにやってきたジェダイの騎士たちを全員追い返し、ホグワーツからの手紙をついに無視し切っただろうし、クロゼットの奥にナルニア国が続いていると勘づきながら、一度も訪れることはしなかった。
彼はヴァイオリンを選び続け、それ以外の適性からは逃げ続けた。
それは間宮にとって幸いだった。間宮は柚木のことを、童話やオカルトの世界から守りたいと思った。
柚木がその世界から目を背け、音楽の世界にいるうちは、間宮は柚木に力を貸すことができる。柚木だってそれを望んでいる。
間宮は柚木の表情を窺ったが、柚木は外の風景に気を取られているようだった。
ビルには新作の映画の広告が出ていたけれども、彼はちらちらと降り始めた雪を眺めていた。
「順ちゃん、雪が積もったらさ」
「積もらないよ」
「積もる。積もったら雪合戦だからね」