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一章


 その後、柚木は無事にファイナルに残り、オーケストラをバックにして行う協奏曲の審査を経て、一位に輝いた。

 彼はオーケストラと演奏するにあたり、少し強引で力づくだという評価がされた。が、それはこのとき、明確な演奏のビジョンを持って大勢を導こうとする姿勢だと解釈されたのだった。

 コンクールは、彼の積極的で強い部分を支持した。
 

 かくしてヘリオスは、柚木がその生涯を終えるまで、彼のそばをしばらくの住処とすることになったのである。柚木がそれまで使っていた古いヴァイオリンは、これ以降弾かれることはなくなった。

 柚木は、コンクールが終わり、日本に帰ってすぐ間宮へと連絡を寄越した。間宮はしばらくそれを無視した。

 靴呼ばわりされてプライドが傷ついていたのと、やはり柚木と距離を詰めるべきではないと思ったからだった。
 しかし、柚木から何本も電話が来ていた。いつかは自分がそれに出てしまうだろうことは、間宮には分かっていた。
 間宮は、不毛な時間稼ぎをやめることにした。

「……はい」
『あー!!やっと繋がった!嫌われたのかと思った』

 嫌われたのかと思った、なんて嘘だ。柚木はけろりとしていた。

 間宮の逡巡や躊躇いもお見通しなのだ。電話の内容は、間宮が予想した通り、伴奏を頼みたいというものだった。

『凱旋公演をするんだけど、それで、伴奏は順ちゃんがいいとぼくは思っているから』
「柚木さん。柚木さんって、よく伴奏者を変えますよね。どうしてですか」

 いつも同じ伴奏者に伴奏を頼むソリストもいれば、決まった伴奏者はいないというソリストもいるだろう。
 しかし、柚木の場合は特殊なのだった。

『どうしてって……』
「この前の人は?」
『さあ?まだ指折れてると思うけど』
「じゃあ、その前の人は?」
『なんで?』
「ただ気になって」
『今、たぶん弾いてないんだ』
「どうしてそんなことに」
『ピアノのことで悩んでたみたい』

 間宮は息を吸い込み、深く吐いた。

 その前の伴奏者、というのが、間宮の知り合いなのだった。間宮よりも歳上の、そのピアノ専攻の人間は、もとは明るい人物だった。
 精神のバランスを崩して、それがもとでピアノから手を引いたと聞いた。

 ピアノのことで悩んでいた、確かにそういう面はあったのかもしれない。
 十代は複雑な時期だし、ピアノなんて真剣にやっていれば精神的に追い詰められる局面は数多くやってくる。将来への不安もあっただろう。

 が、しかし。それだけが原因ではないと間宮は聞いていた。

「何かあったでしょう。その人と」
『え、なに、急に個人的なこと聞くんだね』

 柚木は心底意外だという声を出した。

『ぼくと誰が付き合ってたとかさ、当事者のいないところで話すのって、どうなの?』

 柚木とその伴奏者が交際関係にあったとは、間宮は知らなかった。

「責任は感じない?少しも?」
『どういうこと。ぼくのせいだって言いたいの?』
「有望な学生だったのに、いきなりやめるなんて考えられない。優秀だったのに」
『そうかなぁ』

 柚木の声の調子は、そうは思わない、と伝えた。

 そうかなぁ、という言葉だけで、彼は終わりにしてしまうのだ。
 ピアニストを志して、若い時期の多くの時間を捧げて優秀な成績をおさめていた一人の十代の演奏者の、その努力を。

 そうかな、の一言だけで。

「柚木さん、何かその人に言ったでしょう」
『いや、それは思ったら言うだろ。当たり前でしょ。例え何か言ったとして、それが何?ぼくに何の力があるっていうの』

 この議論は平行線だ。間宮が調べたところ、彼のまわりにはこういうことが多すぎるようだった。

 妬みの入った意見や尾ひれがついているだろう噂の全てを信じるわけではないが、彼はどうも普通ではない。

 これはあえて言うなら彼の気質や人格の問題で、決して才能の代償とは言ってはいけない。

 しかし間宮は正義感の強い方ではなく、また柚木の音楽に非常に惹かれていたため、次にはこう言った。

「これから柚木さんの伴奏を引き受けるにあたり、条件があります。あなたのまわりで誰かが大変なことになったりするのは、みんなあなたに近づきすぎたせいだと思う」
『はあ』
「長く音楽上の付き合いを続けたいと思うでしょ。伴奏者がころころ変わるのは、柚木さんにとって望ましいこととは言えない」
『新しい靴じゃ、靴擦れが起きて痛い思いをするかもだし?』
「あの……じゃあもうそれでいいですが…」

 近づかないこと。友人にもならないこと。
 音楽上の付き合いだけに終始すること。
 なるべく自分の前では善良に振る舞ってほしいということ。

 その条件を、間宮は柚木へと提示した。


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