一章
「君ってすごいね!順ちゃん!日本にこんなうまい伴奏の子がいると思わなかった」
演奏が終わって舞台袖に戻るや否や、柚木は興奮気味にそう囁いた。
伴奏の子。このとき間宮はアンサンブルのメンバーとしてこのコンクールに来ていたし、アンサンブルに魅力を感じていたものの、 “伴奏の子”と言われるのは不本意だった。
しかし、不思議とこの場では気にならなかった。
「順ちゃ…ん……?」
「順ちゃんでいい?それとも間宮のマミちゃん?」
「どちらも嫌なんですが」
「じゃ、順一郎ぼっちゃま」
「はあ?」
「怒んないでよ」
間宮さん、間宮くん、順一郎くん、もすっ飛ばしていきなり順ちゃん、と柚木は呼んだ。
対して間宮のほうは柚木に対して敬語で返した。
「順ちゃん十五歳なんでしょ。老けてるねぇアハハ。もしかして相手の歳を見てから圧のかけ方変えるタイプ!?どうなのそれ?」
「…………」
──Riki Yuzuki, Japan, Age18
演奏前に、ホールに柚木の名前がコールされて初めて、柚木が自分より三つも歳上だということを間宮は知った。
それに間宮が驚いている間に、弾くべき曲はメンデルスゾーンだということが伝えられた。
そのとき柚木は間宮のことを一度だけ振り返り、愛嬌たっぷりにウィンクした。面白がっていて言わなかっただけで、柚木は間宮の年齢まで知っているのだ。
この短い時間で調べたか、アンサンブル部門の参加者のプロフィールにまで目を通したか。
柚木のメンデルスゾーンは素晴らしかった。
激情と悲嘆の一楽章冒頭、叫び出してのたうち回らなければならないほどの苦しみ。
オーケストラパート──ここでは間宮のことだ──とヴァイオリンが手に手を取ってゆったり踊る、山の草原に陽が照って翳ってを繰り返すような陰影の二楽章、底無しのエネルギーで正確かつ快活に走り抜ける三楽章。
柚木と間宮の間に見えない糸が張り、それは二人が引っ張り合いすぎて切れてしまうこともなければ、緩ませすぎてたるんでしまうこともなかった。
柚木はやりたいようにやることができ、間宮は柚木に献身した。
「すごく良かった。このコンクール、柚木さんで決まりかもしれないです」
間宮は、言ってから後悔した。
良かった、なんて、何百回も言われて育ってきている人だろうに。決まりだなんて、ヴァイオリンをやっている身でもないのに偉そうに聞こえただろうか。
うまく言えないことを恥ずかしく思った。
すでに、同年代ながら柚木のことを尊敬する気持ちが強くなっている。
しかし間宮は柚木の演奏に対して尊敬を抱くと同時に、この柚木力という人物とは深く付き合うべきではないということを察し始めていた。
深入りすべきではない。
それがなぜかは、具体的な言葉にはできなかった。
一度ステージを一緒に経験しただけで、心の距離はぐっと近づくことがある。否応無しにそうなる。彼とそうなったら危険だと思ったのだ。
「順ちゃんって、すごいよ」
その言葉はまっすぐに射られた矢のように、間宮の心へと届いた。
嬉しいと思った。けれど、柚木にひどいとか、だめだとか言われたら、同じ勢いで心が傷つき、やがて長い時間をかけて心はそこから壊死するだろう。
柚木がひどいと言えばひどいだろうし、だめだと言えば本当にだめなのだ。
彼はそんな力をもった人だった。決定的な呪いの力をもっているのに、本人は普通の言葉として口にする。
「君って靴みたい!」
「……く、くつ?」
間宮の内心も構わず柚木は言い、間宮は柚木の言葉に呆気にとられた。
「良い靴!ぼくにぴったり合った特注の靴。足に吸い付くみたいで、いつまでだって踊っていられるんだ。全然疲れない」
「靴……」
「それにどこにでも行ける。氷や岩に足をかけて、どんな山にも登れる」
間宮は、深入りすべきではないことの理由として、具体的な言葉を見つけた。
──この人、普通に失礼だ。人をアイゼンのついた登山靴に例えるなんて。
ダンスシューズなら良くて、登山靴が嫌だというわけではないが、そんなものに例えられたことがとにかく間宮は不満だった。
人を踏みつけにしてどこかに行くだの、踊るだの、登るだのと表現する男。
それが無邪気さと魅力をまとって、今まさに人々を虜にするための準備を始めた。間宮はそれに力を貸したのだ。