引っ越したら隣がバデーニだった件
なんて、ツイてないんだ。この中途半端な時期に引っ越すなんて。なにが住民のための改装だ。新たに提示された改装後の値上がりした家賃は、奨学金を借りている一人暮らしの大学生が払うには厳しい金額だった。確かに、結構――いやかなりボロくなってたけど、だからって愛着がなかったわけじゃない。とはいえ、まだ一年も居ないのに引っ越すには早すぎる…コンクリートの坂道の上を転がすキャリーケースが喧しい音を立てること数分後、目的地の建物が見えた。
***
一応、引っ越す住民には格安で物件を紹介してくれるというので、駅近南向き防音二階以上バストイレ別コンロ二口ベランダ有り…等と、向こう都合の退去を傘に着て図々しい条件を付けて探してもらった。色々揉めていたようだが、追い出されるこちらの身からすれば知ったことではない。急いで引っ越し準備をしてあれよあれよという間に新居へ移り、荷物整理もあらかた済ませ、日常を送れるようになった本日土曜日。
適当につけたテレビを流し見しながらぼんやりしていると、部屋の片隅に置いてあるお菓子の詰め合わせギフトが目についた。
「まだ渡せてないな…」
引っ越しから数日で、このアパートの住人には大体挨拶ができたのだが、一ヵ月近く経っても、右隣二〇四号室の住人にはまだ会えていないのだった。
このご時世、わざわざ挨拶をするのは防犯上よくないとは思いつつも、田舎上がりの癖が抜けきらず、結局挨拶回りをしてしまった。これで何かが起きても仕方がないと半ば諦めている。そう簡単に生まれついた性分は変わらないのだ。麦茶を飲みながら、ギフトに印字された小洒落たロゴを眺める。自転車圏内で口コミ評価の高かった、なんとか賞を受賞したらしい、焼き菓子のセット。自分用にもつまんだが、折角他人宛に買った手土産が無駄になるのも落ち着かない。置いてある紙袋を掴んで隣室の呼び鈴を鳴らした。
一回目…出ない。
二回目…反応なし。
三回目…やっぱり反応なし。
しかし、いつ来ても居ないな。それとも私のタイミングが悪すぎるせい?部屋に戻ってレポートでも片付けようと踵を返したその時、後ろでドアノブが開く音がした。
「…何か御用ですか?」
低く掠れた声にふり返ると、ドアから男が心底面倒臭そうに顔を出してきた。服装はジーンズに白シャツという至って普通の装い。ただし細い体を無理やり隠したように、裾は片方だけ出ており、ボタンも一つずれている。髪はくすんだ金色で、申し訳程度に束ねられてはいるものの、細かい毛が数本逆立っている。前髪は無造作に耳の横に流れ、流しきれなかった金糸が疲れの滲んだ顔に散っている。目の下にはマリアナ海溝より深そうなクマが、半分閉じた瞼の下に鎮座している。そして極めつけは顔の傷跡だ。鼻辺りに横一閃の傷、頬下から唇まで斜めに細く走る傷跡。一体どうしたらそんな傷が……。
ちょっと怖い。いやちょっとどころではない。近年稀に見る怖さだ。ついに怖い人に当たってしまったのではないか。というか、この人、もしかしなくても寝起きなのではないか。よく見ると頬にうっすら本の角のような跡がついて…、
「あの、私、隣に引っ越してきまして!良かったらこれどうぞ!」
もう正直挨拶とか捨てて逃げ帰りたかったが、悲しいかな、ここずっと手土産を渡す機会を窺っていた私の口はペラペラ回り、反射的に持っている袋を差し出していた。
「………」
目の前のまるで寝起き丸出しな男は、重そうな目蓋で訝しげに、私と袋を交互に、その琥珀色の瞳に映した。そして、ふらっと伸ばした指先で持ち手をつまむと、何も言わずに細い体をドアの内側へ引っ込めた。
そのまま、ドアが静かに閉まる。
残されたのは、鳴り終わったチャイムの音と、差し出していたままの自分の手。
えっと……これは、受け取られたってことでいいのだろうか。挨拶した内に入るんだろうか。まぁ一応渡せたし、顔も見れたし任務完了ということでいいか。
部屋に戻ろうとゆっくり自分の足元を見て、それから思った。
「あ、靴も履いてなかったな、あの人……」
隣人の名前を確認しようとしたが、横の表札には何も書かれていなかった。
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一応、引っ越す住民には格安で物件を紹介してくれるというので、駅近南向き防音二階以上バストイレ別コンロ二口ベランダ有り…等と、向こう都合の退去を傘に着て図々しい条件を付けて探してもらった。色々揉めていたようだが、追い出されるこちらの身からすれば知ったことではない。急いで引っ越し準備をしてあれよあれよという間に新居へ移り、荷物整理もあらかた済ませ、日常を送れるようになった本日土曜日。
適当につけたテレビを流し見しながらぼんやりしていると、部屋の片隅に置いてあるお菓子の詰め合わせギフトが目についた。
「まだ渡せてないな…」
引っ越しから数日で、このアパートの住人には大体挨拶ができたのだが、一ヵ月近く経っても、右隣二〇四号室の住人にはまだ会えていないのだった。
このご時世、わざわざ挨拶をするのは防犯上よくないとは思いつつも、田舎上がりの癖が抜けきらず、結局挨拶回りをしてしまった。これで何かが起きても仕方がないと半ば諦めている。そう簡単に生まれついた性分は変わらないのだ。麦茶を飲みながら、ギフトに印字された小洒落たロゴを眺める。自転車圏内で口コミ評価の高かった、なんとか賞を受賞したらしい、焼き菓子のセット。自分用にもつまんだが、折角他人宛に買った手土産が無駄になるのも落ち着かない。置いてある紙袋を掴んで隣室の呼び鈴を鳴らした。
一回目…出ない。
二回目…反応なし。
三回目…やっぱり反応なし。
しかし、いつ来ても居ないな。それとも私のタイミングが悪すぎるせい?部屋に戻ってレポートでも片付けようと踵を返したその時、後ろでドアノブが開く音がした。
「…何か御用ですか?」
低く掠れた声にふり返ると、ドアから男が心底面倒臭そうに顔を出してきた。服装はジーンズに白シャツという至って普通の装い。ただし細い体を無理やり隠したように、裾は片方だけ出ており、ボタンも一つずれている。髪はくすんだ金色で、申し訳程度に束ねられてはいるものの、細かい毛が数本逆立っている。前髪は無造作に耳の横に流れ、流しきれなかった金糸が疲れの滲んだ顔に散っている。目の下にはマリアナ海溝より深そうなクマが、半分閉じた瞼の下に鎮座している。そして極めつけは顔の傷跡だ。鼻辺りに横一閃の傷、頬下から唇まで斜めに細く走る傷跡。一体どうしたらそんな傷が……。
ちょっと怖い。いやちょっとどころではない。近年稀に見る怖さだ。ついに怖い人に当たってしまったのではないか。というか、この人、もしかしなくても寝起きなのではないか。よく見ると頬にうっすら本の角のような跡がついて…、
「あの、私、隣に引っ越してきまして!良かったらこれどうぞ!」
もう正直挨拶とか捨てて逃げ帰りたかったが、悲しいかな、ここずっと手土産を渡す機会を窺っていた私の口はペラペラ回り、反射的に持っている袋を差し出していた。
「………」
目の前のまるで寝起き丸出しな男は、重そうな目蓋で訝しげに、私と袋を交互に、その琥珀色の瞳に映した。そして、ふらっと伸ばした指先で持ち手をつまむと、何も言わずに細い体をドアの内側へ引っ込めた。
そのまま、ドアが静かに閉まる。
残されたのは、鳴り終わったチャイムの音と、差し出していたままの自分の手。
えっと……これは、受け取られたってことでいいのだろうか。挨拶した内に入るんだろうか。まぁ一応渡せたし、顔も見れたし任務完了ということでいいか。
部屋に戻ろうとゆっくり自分の足元を見て、それから思った。
「あ、靴も履いてなかったな、あの人……」
隣人の名前を確認しようとしたが、横の表札には何も書かれていなかった。
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