新門紅丸
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「気持ちわりィんだよ」
数年前のある日、襖の向こうから聞こえた紅の言葉だ。
自分に向けられた訳でもないのに、胸にささって抜けない棘のようなそれを、私はずっと消化しきれずにいる。
✱✱
「おい」
「ん?どうかした?」
「どうかした?じゃねェ。んな格好でどこ行くつもりだ」
いつもは火消服か簡素な袴を着ている私が余所行きの格好をしているのを見た途端、目の前に現れた紅は私の行く手を邪魔してくる。苦笑しながら「たいした用じゃないよ」と言うも、納得してくれない紅はぎゅうっと眉間に皺を作って応戦してきた。
「最近時間が空いたら着替えて出て行ってんのは知ってる。素直に吐かねェと……」
「吐かねェと?」
「……ババァの大福やらねェぞ」
「ふっ、あはは!私があんまり大福食べないの知ってる癖に」
「うるせェ。昨日は三つ食ってたろ」
「えっ、見てたの!?」
「ちッ、んな事どうでもいいんだよ。てめェが何処ほっつき歩いてるか聞いてる……おい!」
「大丈夫!夜暗くなる前には帰ってくるよ」
呼び止める声を無視して駆ける。ちらりと振り向くと少し怒ったような顔つきが見えて、今日こそとっ捕まえられて説教かなと冷や汗をかく。それでも足を止める気はなかった。私には大事な用があるのだから。
✱✱
「紺炉さんお待たせしましてすみません!」
「大して待ってねェよ。じゃァ行くか」
「はい!今日は二人で行ったらトッピングサービスして貰えるなんともお得なお店ですよ!予約もバッチリです」
「そりゃ楽しみだ」
私と紺炉さんが向かうのは浅草から少し離れた場所にあるカフェだ。紺炉さんは第八に顔を出すようになってから、行き帰りに見る沢山の店を見て特に甘い物に魅力を感じたらしい。いやしかし、大の男が一人で入るのはなァと零したのを聞いて、付き合いますよと立候補した。
何度か行くと慣れてきたらしい紺炉さんは、二人の時にこっそり「次はここに行きたいんだが」と提案してくるようになった。正直とても可愛らしいが、本人に言うと仕返しされそうで口を噤んでいる。
「とはいえ、いつも任せきりで悪ィな」
「いえいえ。私も楽しみにしているのでそんなこと言わないで下さい。…というか私の方こそいつも話沢山聞いてもらっているのでお相子といいますか……なんというか…」
「若か」
「う……っ、今日も聞いてくださいますか…?」
「…くく、そうだなァ。今から食べるぱふぇのとっぴんぐを増やしてくれたらいいぞ」
「仰せの通りに……!」
わざとらしく紺炉さんにへりくだると、上から笑いが降ってくる。優しい響きを浴びながら、さっきの紅の怒りの表情を思い出す。どこほっつき歩いてるなんて問い詰めてくる脳内の紅に心の中だけで返事をする。
君への恋心の行き場がないから、優しい人に話を聞いてもらっているのだと。
へらへら笑うと、何故か眉間に皺を作った紺炉さんに額を弾かれた。痛い。
✱✱
「カップル限定でトッピング二種類サービスを行っております」
「あ、はい。カップルです」
「かっぷる……」
紺炉さんに寄り添うようにニッコリ笑って、息をするように嘘をつく。そう、無料ならば受け取るべきだ。横文字に弱い紺炉さんが首を傾げているのをよそに店員さんが席まで案内してくれた。
「さぁ紺炉さん来ましたよ!どうぞメニューです!」
「おう。…………こりゃァ多いな…!!」
「えぇ!全部自分で選べますからね!」
メニューを見た紺炉さんの目の奥がキラキラと輝いている。それもそうだ。ここのパフェ専門のお店は、プリン、ソース、アイス、トッピングを全て自分でカスタム出来るのだ。夢のようなパフェが完成してしまう…!といった風に紺炉さんの口角が上がっているのを見て、私も唇を緩ませてしまった。
「この紙に組み合わせを丸していって店員さんに渡す感じですね。紺炉さんはどうされます?」
「……………」
「あっ、本気で悩んでる…」
「きゃらめる……まろんくりぃむ…ばにら………?かすたぁどってのはこの前食べたやつだな……」
うんうん悩みつつ丸をつけていく紺炉さんを微笑ましく眺めながら、自分の食べたいものも手早くカスタムしていく。店員さんに渡してしまえば後は待つだけだ。温かいお茶を啜り、ゆったり寛いでいると紺炉さんが「で?」と声をかけてきた。
「若とはどうだ?」
「どうだって……。何もない事くらい見ていたらわかるでしょう。一人で一喜一憂する毎日ですよ」
「この前二人で出かけてたじゃねェか」
「それは私が髪飾り壊したって言ったら、暇だから買い物についてきただけです」
「今つけてるやつがそうかい?よく似合っちゃァいるが……」
「そうですか?へへ、店先でぐずぐず迷っていたらこれにしろって決めてくれました。お前は悩むと長いから、迷ったら全部俺が決めてやるって。他の奴じゃなくて俺に聞けって言ってましたねぇ。紅はいつも適当言う癖に何言ってんだって感じですよ」
紺炉さんは、ふぅっと息をついてからお茶を持ち上げる。所作が洗練されているとはまさにこのことだなとぼんやり見蕩れている私には「そこまで言われてどうして気づかねェ…」と呆れ返ったような紺炉さんの声は聞こえなかった。
「紅は恋なんて知らないでしょう」
「……お前」
「見るだけで胸が苦しくなって、顔を見て話したいとか笑顔が見たいとか、……ちょこっとでいいから触れてみたいだとか。あわよくば想いを通わせてみたいと願う…そんなの紅には似合わない」
「…それはお前さんが決めることじゃねェと思うがな」
少し強めに言われたその言葉にビクリと肩を揺らし、そろりと彼と目を合わせにいくと、仕方がないなという情を含んだ瞳に見つめられる。私たち以外の人達の会話は右から左に通り過ぎていった。
「俺はどっちにも味方してやれねェなァ。色恋なんて厄介なモンは当人同士でなんとかしてくれや」
そう諭してきた紺炉さんは、次の瞬間目をパッと輝かせ「おい!ぱふぇが来たぞ!」と、この人本当に三十八か…?という疑問を持つほど大袈裟に喜びを表してきた。
「可愛らしい」
「あァ?」
✱✱
紅に惚れた腫れたなど似合わないと言うのにも、きちんと理由がある。もう五年程前の話だ。紅に構ってもらおうと部屋に向かうと、中から紺炉さんと紅の会話が漏れていた。聞いちゃ悪い話だったら申し訳ないと立ち去ろうとした足が、紺炉さんのの一言で止まる。
「また言い寄ってきた女をこっ酷く振ったらしいな」
「誰から聞いた」
「誰だっていいだろうが。紅。そういうのは上手いこと交わせって何度言やァわかる」
「あァ?……ちッ」
駄目だ。これ以上聞いてはいけない気がする。足元から震えが体中を駆け巡る。声が漏れそうで必死に唇を噛み締める。動かなければと思うのに、膝が使い物にならなかった。その場に打ち付けられた杭のように私はそのまま立ち続ける。
「紅を想って言ってきてんだ。例え受け取れなくとも、目の前でちぎって捨てるみてェな真似してやるな」
「手紙なんざもらってねェぞ」
「はァ……紅……」
「第一俺のことろくに知らねェ、俺もそいつのことろくに知らねェってのに、好きだのなんだの言ってくる方が変だろうが」
「あのなァ……」
「気持ちわりィんだよ。……そもそも」
「それ以上はいけねェ」
紺炉さんが言葉の続きを紡ごうとした紅の頭を叩いたような音で、ハッと我に返る。バレたら不味いと顔を青ざめさせた私はそのまま自分の部屋へ逃げ帰って、布団の中へ潜り込んだ。敷き布を強く掴んで、違和感に首を傾げる。おかしい。おかしい。
「あれ…何でこんなに胸苦しいんだろ」
心臓辺りを拳で殴りつけてどうにかしようとするも無駄で、ますます苦しさは広がっていく。
この時は、よく分からないまま一人で泣いた。でも時が経つごとに少しずつ理解していった。私は紅の事が好きなのだと。想いを伝えた人達に自分を重ねて、気持ちわりィと拒絶されるのが何より恐ろしく感じたのだと。
他でもない紅に拒絶されるのがこの世で一番怖い。陳腐な呪いのような言葉は、私を雁字搦めに縛っている。
✱✱
「遅ェ」
「そうかな?ちゃんと門限内だよ?ほら、紺炉さんも一緒だし」
「紺炉」
「若……そんなに睨まないでくだせェ。こいつとはそこでちょうど会っただけ…」
「紺炉中隊長!!今聞いたんですが偉くめかしこんだ良い女と一緒に甘味食ってたって話は本当ですか!?」
「食べさせ合いしてたんですよね!どこの誰ですか!」
私と紺炉さんが浅草を頻繁に出ていると紅に知られれば良い顔はしないだろうと二人の秘密にすると前から決めていた。
しかし、紺炉さんの弁解にかぶせるように隊員たちが暖簾からなだれ込んで来て私は頭を抱えた。「全く、間がわりィな……」という紺炉さんの苦々しい声が響く。
「…お前がいない時、大体紺炉もいねェよな」
「ま、ば…ッ」
「あァ?……てめェ…!」
まさかバレた…!?という言葉は必死に飲み込んだが、長い付き合いのせいか表情だけで分かったらしい。紅は信じられないくらいに顔を歪ませて、私に肉薄してくる。手首を取られてぐいぐい引かれる。靴を脱ぐ時間もろくに与えてくれない。救いを求めるように紺炉さんを見やる。
「こ、こん」
「俺とお前さんがかっぷるたァ……言ってくれるな?」
「……えっ、はい?」
「良い仲の事を言うんだろ?知らないと思ったかい?俺は一向に構わねェが、どうする?次も一緒にさぁびすしてもらうか?」
「なっ、ちょ、待った」
紺炉さんは私を救うどころか次から次へと爆弾を投げ込んでくる。そうだ、この人はそういう人だ。絶対可愛らしいとか言ったからだ。このタイミングで本当に仕返しをしてくるなんて酷すぎるだろう。背後にいる紅の顔を見れない。突き刺さるような威圧感に隊員が怯えているくらいだ。恐ろしい。思わず顔が引き攣る。
呆気に取られる私と、面白気に唇を歪ませる紺炉さん両方に視線をやって大きく舌打ちをした紅は私に的を定めたらしい。靴を脱ぐのが遅いとばかりに抱き上げられて、そのまま部屋へ連行された。
✱✱
どさりと畳に落とされる。私の正面にしゃがみ込んだ紅に足首を片方掴まれ、困惑した。動かそうとするも畳に押さえつけられている。ぴくりともしない。
「…………」
「離してくれない?」
「逃げんのか」
「に、逃げないから!」
「うるせェ。だったらこのままでも良いだろうが」
「いや、良くない…」
良くはない。とても困る。部屋が暗いから顔が赤くなっているのは見られていないと思うが、この状況と空気感が落ち着かない。紅がいつもとどこか違うのだ。怒っているからか。……一体何に?
「紺炉とどこ行ってた」
「カフェだよ」
「…ちッ、カップルってのはどういう意味だ」
「ん………?言葉の意味?」
「あ?ちげェ。紺炉と…付き合ってんのか」
「えっ!?」
驚き過ぎて思わず咳き込む。まぁ妙な勘違いをしても仕方ない言葉を先程の紺炉さんは吐いていた。どうせなら彼からの仕返しはもっと可愛らしいものが良かった。そんな事を言えば次は本当に仕留められそうだが。
「付き合ってないよ」
「食べさせ合いだとかなんとか言ってたじゃねェか。それにその格好」
「長い付き合いなんだからそれくらい構わないでしょ。紺炉さんだよ?」
「紺炉のこと好きか」
ちょっと待った。なんだかこの紅、質問が多くないか?後、会話を成り立たせようとする気はあるのか。それすらもあやふやだ。次から次へと自分の疑問を解決させようとしている。答えずにいると、ギリッと足首に回る手の力が増して顔を顰める。
「紅、なんかおかしくない?様子が、変だ」
「おい、聞かれたことに答えろ」
「だっておかしいよ。紅が話に恋愛ネタ持ち出してくるなんて」
「うるせェ。てめェは紺炉をどう思ってんだ」
「や、優しい人だとは思ってるけど……」
「ちッ。……それじゃあ俺のことはどう思ってる」
「……え」
薄暗い部屋の中、赤い瞳が私だけを貫く。言葉の意味を理解した瞬間、ドッと勢いよく脈打つのが速くなる。息遣いが荒くなったのが悟られないように口を噤むと、苛立った様子の紅が顔を近づけてきた。
待ったをかけようと出した左手はいとも簡単に掴まれ、そのまま引っ張られる。抵抗も出来ず自動的に紅にぐっと近寄る形になって、頭ぶつかる…!と目を瞑った数秒後。唇に柔らかいものが当たった感触がした。
「…ん、………え?」
「紺炉にも、誰にもやらねェ」
「は、ちょっと待った。紅今何した……?いややっぱり言わなくていい言葉にしないで頼むから…」
ついていけなくて、頭の中がぐるぐるパニック状態だ。一息で話しながら紅の拘束から逃げようとするが、全然離してくれない。手首はガッチリ捕まえられたままだし、なんなら後頭部も抑えられている。近い。近い。
「紅は恋なんてしない」
「あァ?」
「あの時、気持ち悪いって言った。だ、だから私は、紅は恋愛なんて興味がないって思ってた。そ、そう思わないと…」
容赦なく襲いかかってくる胸の苦しみに押し潰されそうだった。思わず涙が零れそうになったのを紅に見つかってしまう。揺れた視界では紅がどんな表情をしているかも分からない。ただ怒気は収まって、少し戸惑いが見えた気がする。
紅が口を開こうとした時、襖がガラリと開いてヒカヒナたちが飛び込んできた。慌てて紅を突き飛ばし、溢れていた涙を拭う。
夕飯だ!早く行かねェと全部食っちまうぞ!という彼女らの声をぼんやり聞く。飛び出した二人に続いて部屋を出ようとした私の背中に紅の手が添えられる。
「な、……に?紅」
「明日から覚悟しとけ」
「ちゃんと証明してやるよ」とよく分からない事を言って、紅はするりと私の背中を撫でた。
✱✱
「降参していい?」
「馬鹿。まだ始まってもねェぞ」
朝、廊下でおはようと声をかけられながら額に唇を落とされて悲鳴を上げる。私の情けない一言を一笑に付した紅は、寝癖直してやるから部屋来いと私の頭を軽く叩いた。
寝癖を直してもらって、ついでに髪を結ってもらった。朝ご飯の時は珍しく隣で食べた。葱を苦々しげに見つめるのは変わらない。食べてあげようかとお皿を差し出すと、無言のまま口元まで持ってこられてギョッとした。
今日の紅は、よく私に触れてくる。今までの距離感どこに行った?と聞いてしまいたくなる程の詰め具合だ。詰所内ですれ違う度に、どこかしらに口付けを落としてくるのは勘弁して欲しいし、髪飾りを撫でて耳元で満足気に鼻を鳴らすのもやめて欲しい。
はっきり言って仕事に集中出来なくなる。恥ずかしい。紅は一体何がしたいんだ。
✱✱
「おい」
「散歩?夜遅いよ?外出るなっていつも言うじゃん」
「俺がいたらいい」
「なるほど……?」
紅の言葉に頷きつつ準備をする。寒いから羽織っていくかと服を着込めば完了だ。少し前を行く紅に続いて外に出た。何を考えているかさっぱりな紅の隣に並び、今日一日を振り返る。思い浮かぶのが紅ばかりだが、それはまぁいつものことではある。
名前を一つ呼ばれて、なぁにと返す。そうだ。二人きりになると声もいつもより柔らかい。ふわふわに包まれたような心地がして、ドキドキしてしまう。
「分かったか?」
「は?何が」
「…ちっ、俺がお前を好いてるってことに決まってんだろうが」
「紅って私の事好きだったの?」
ブチッと何か切れるような音がした。すごい音したなとキョロキョロ辺りを見渡していると、頭を鷲掴みにされる。
「え!?紅?何でそんなに怒ってるの?今日やっぱり変だよ」
「あァ?…てめェ本気で言ってんならここで犯す」
「……はァ!?」
「何とも思ってねェ奴に手出す訳ねェだろうが頭沸いてんのか!」
「紅ならしかねないでしょ!!」
「てめェ!!」
ぎゃいぎゃい言い合って、同時にため息をつく。ため息をつきたいのはこっちだと睨めば、紅も同じような事を思っているのだろう。それ以上の眼力で捉えられて、ひゅっと息が詰まる。
夜の暗闇が私たちを飲み込んでいきそうだ。どうしてか息苦しいのを振り払うように深呼吸をする。
「今日の俺は変だったか?……距離がちけェ上によく触ると思ったか?」
全てにこくこく頷くと、紅はまたため息をついた。
「……俺ァ、口付けした以外はいつもと何も変わんねェぞ」
「えっ」
「全部いつも通りだ。てめェがこれまで何にも意識してなかっただけだ」
「はっ、いや……えっ?嘘」
「嘘じゃねェ。俺が何とも思ってねェだろうって安心してたんだろうが……それが間違いってこった」
本当にお前は馬鹿みてェに可愛いなァ?と囁かれ、ボッと顔が赤く染まっていくのを感じた。駄目だ。逃げよう。そう思ったが、頭のてっぺんにあった手は私の肩に移動していた。
「好きだ」
「……ひっ」
「お前を好いてる」
「い、ちょ、まっ」
「待たねェ。お前がわかるまで言ってやる」
「わかった!わかったから!」
「いいやわかってねェ」
私の叫びを総無視した紅は、それしか言葉を知らないのかと突っ込みたくなるほど私に好きだと伝えてきた。紛れもなくお前に恋をしているのだと甘く言われる。私だけに聞こえるように耳元で動く唇が、耳に触れた気がして小さく息が漏れた。
これ以上聞いては体が溶けてしまうと泣きそうになる。慌てて耳を塞いだら、すぐに引き剥がされてまた好きだのなんだのの繰り返し。さっきの頭鷲掴みとは打って変わって、ぎりぎり逃げられないくらいの優しい力加減で手首を戒められて悲鳴を上げた。
首をふるだけのやるせない抵抗をしていると、催促するように名前を呼ばれた。そろそろと見やると自分しか目に入らないと言わんばかりの甘くてどろどろした瞳を向けられる。腰が抜けそうだった。
「お前も、」
「………ひ…ッ、も、すとっぷ…!」
「……俺を好きだって言え」
訳が分からなくて縋りついて助けを求めると、また好きだと言われて今度こそ腰が抜けた。ずるずると崩れ落ちるのと一緒に紅もその場にしゃがみ込んできた。逃げる気力も失せた私を見て楽しげに口角を上げた紅は、私の鼻先に噛み付いてくる。衝撃で開いた唇に紅のそれがすぐ重なってきて、手の中にある紅の服をぎゅうっと引っ掴んだ。
「……ッ、べに」
「気持ちわりィなんて言ったなんていつの話か知らねェが、そもそも、てめェがいるなら誰に言い寄られようが毛ほどの興味も湧かねぇよ」
数年前のある日、襖の向こうから聞こえた紅の言葉だ。
自分に向けられた訳でもないのに、胸にささって抜けない棘のようなそれを、私はずっと消化しきれずにいる。
✱✱
「おい」
「ん?どうかした?」
「どうかした?じゃねェ。んな格好でどこ行くつもりだ」
いつもは火消服か簡素な袴を着ている私が余所行きの格好をしているのを見た途端、目の前に現れた紅は私の行く手を邪魔してくる。苦笑しながら「たいした用じゃないよ」と言うも、納得してくれない紅はぎゅうっと眉間に皺を作って応戦してきた。
「最近時間が空いたら着替えて出て行ってんのは知ってる。素直に吐かねェと……」
「吐かねェと?」
「……ババァの大福やらねェぞ」
「ふっ、あはは!私があんまり大福食べないの知ってる癖に」
「うるせェ。昨日は三つ食ってたろ」
「えっ、見てたの!?」
「ちッ、んな事どうでもいいんだよ。てめェが何処ほっつき歩いてるか聞いてる……おい!」
「大丈夫!夜暗くなる前には帰ってくるよ」
呼び止める声を無視して駆ける。ちらりと振り向くと少し怒ったような顔つきが見えて、今日こそとっ捕まえられて説教かなと冷や汗をかく。それでも足を止める気はなかった。私には大事な用があるのだから。
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「紺炉さんお待たせしましてすみません!」
「大して待ってねェよ。じゃァ行くか」
「はい!今日は二人で行ったらトッピングサービスして貰えるなんともお得なお店ですよ!予約もバッチリです」
「そりゃ楽しみだ」
私と紺炉さんが向かうのは浅草から少し離れた場所にあるカフェだ。紺炉さんは第八に顔を出すようになってから、行き帰りに見る沢山の店を見て特に甘い物に魅力を感じたらしい。いやしかし、大の男が一人で入るのはなァと零したのを聞いて、付き合いますよと立候補した。
何度か行くと慣れてきたらしい紺炉さんは、二人の時にこっそり「次はここに行きたいんだが」と提案してくるようになった。正直とても可愛らしいが、本人に言うと仕返しされそうで口を噤んでいる。
「とはいえ、いつも任せきりで悪ィな」
「いえいえ。私も楽しみにしているのでそんなこと言わないで下さい。…というか私の方こそいつも話沢山聞いてもらっているのでお相子といいますか……なんというか…」
「若か」
「う……っ、今日も聞いてくださいますか…?」
「…くく、そうだなァ。今から食べるぱふぇのとっぴんぐを増やしてくれたらいいぞ」
「仰せの通りに……!」
わざとらしく紺炉さんにへりくだると、上から笑いが降ってくる。優しい響きを浴びながら、さっきの紅の怒りの表情を思い出す。どこほっつき歩いてるなんて問い詰めてくる脳内の紅に心の中だけで返事をする。
君への恋心の行き場がないから、優しい人に話を聞いてもらっているのだと。
へらへら笑うと、何故か眉間に皺を作った紺炉さんに額を弾かれた。痛い。
✱✱
「カップル限定でトッピング二種類サービスを行っております」
「あ、はい。カップルです」
「かっぷる……」
紺炉さんに寄り添うようにニッコリ笑って、息をするように嘘をつく。そう、無料ならば受け取るべきだ。横文字に弱い紺炉さんが首を傾げているのをよそに店員さんが席まで案内してくれた。
「さぁ紺炉さん来ましたよ!どうぞメニューです!」
「おう。…………こりゃァ多いな…!!」
「えぇ!全部自分で選べますからね!」
メニューを見た紺炉さんの目の奥がキラキラと輝いている。それもそうだ。ここのパフェ専門のお店は、プリン、ソース、アイス、トッピングを全て自分でカスタム出来るのだ。夢のようなパフェが完成してしまう…!といった風に紺炉さんの口角が上がっているのを見て、私も唇を緩ませてしまった。
「この紙に組み合わせを丸していって店員さんに渡す感じですね。紺炉さんはどうされます?」
「……………」
「あっ、本気で悩んでる…」
「きゃらめる……まろんくりぃむ…ばにら………?かすたぁどってのはこの前食べたやつだな……」
うんうん悩みつつ丸をつけていく紺炉さんを微笑ましく眺めながら、自分の食べたいものも手早くカスタムしていく。店員さんに渡してしまえば後は待つだけだ。温かいお茶を啜り、ゆったり寛いでいると紺炉さんが「で?」と声をかけてきた。
「若とはどうだ?」
「どうだって……。何もない事くらい見ていたらわかるでしょう。一人で一喜一憂する毎日ですよ」
「この前二人で出かけてたじゃねェか」
「それは私が髪飾り壊したって言ったら、暇だから買い物についてきただけです」
「今つけてるやつがそうかい?よく似合っちゃァいるが……」
「そうですか?へへ、店先でぐずぐず迷っていたらこれにしろって決めてくれました。お前は悩むと長いから、迷ったら全部俺が決めてやるって。他の奴じゃなくて俺に聞けって言ってましたねぇ。紅はいつも適当言う癖に何言ってんだって感じですよ」
紺炉さんは、ふぅっと息をついてからお茶を持ち上げる。所作が洗練されているとはまさにこのことだなとぼんやり見蕩れている私には「そこまで言われてどうして気づかねェ…」と呆れ返ったような紺炉さんの声は聞こえなかった。
「紅は恋なんて知らないでしょう」
「……お前」
「見るだけで胸が苦しくなって、顔を見て話したいとか笑顔が見たいとか、……ちょこっとでいいから触れてみたいだとか。あわよくば想いを通わせてみたいと願う…そんなの紅には似合わない」
「…それはお前さんが決めることじゃねェと思うがな」
少し強めに言われたその言葉にビクリと肩を揺らし、そろりと彼と目を合わせにいくと、仕方がないなという情を含んだ瞳に見つめられる。私たち以外の人達の会話は右から左に通り過ぎていった。
「俺はどっちにも味方してやれねェなァ。色恋なんて厄介なモンは当人同士でなんとかしてくれや」
そう諭してきた紺炉さんは、次の瞬間目をパッと輝かせ「おい!ぱふぇが来たぞ!」と、この人本当に三十八か…?という疑問を持つほど大袈裟に喜びを表してきた。
「可愛らしい」
「あァ?」
✱✱
紅に惚れた腫れたなど似合わないと言うのにも、きちんと理由がある。もう五年程前の話だ。紅に構ってもらおうと部屋に向かうと、中から紺炉さんと紅の会話が漏れていた。聞いちゃ悪い話だったら申し訳ないと立ち去ろうとした足が、紺炉さんのの一言で止まる。
「また言い寄ってきた女をこっ酷く振ったらしいな」
「誰から聞いた」
「誰だっていいだろうが。紅。そういうのは上手いこと交わせって何度言やァわかる」
「あァ?……ちッ」
駄目だ。これ以上聞いてはいけない気がする。足元から震えが体中を駆け巡る。声が漏れそうで必死に唇を噛み締める。動かなければと思うのに、膝が使い物にならなかった。その場に打ち付けられた杭のように私はそのまま立ち続ける。
「紅を想って言ってきてんだ。例え受け取れなくとも、目の前でちぎって捨てるみてェな真似してやるな」
「手紙なんざもらってねェぞ」
「はァ……紅……」
「第一俺のことろくに知らねェ、俺もそいつのことろくに知らねェってのに、好きだのなんだの言ってくる方が変だろうが」
「あのなァ……」
「気持ちわりィんだよ。……そもそも」
「それ以上はいけねェ」
紺炉さんが言葉の続きを紡ごうとした紅の頭を叩いたような音で、ハッと我に返る。バレたら不味いと顔を青ざめさせた私はそのまま自分の部屋へ逃げ帰って、布団の中へ潜り込んだ。敷き布を強く掴んで、違和感に首を傾げる。おかしい。おかしい。
「あれ…何でこんなに胸苦しいんだろ」
心臓辺りを拳で殴りつけてどうにかしようとするも無駄で、ますます苦しさは広がっていく。
この時は、よく分からないまま一人で泣いた。でも時が経つごとに少しずつ理解していった。私は紅の事が好きなのだと。想いを伝えた人達に自分を重ねて、気持ちわりィと拒絶されるのが何より恐ろしく感じたのだと。
他でもない紅に拒絶されるのがこの世で一番怖い。陳腐な呪いのような言葉は、私を雁字搦めに縛っている。
✱✱
「遅ェ」
「そうかな?ちゃんと門限内だよ?ほら、紺炉さんも一緒だし」
「紺炉」
「若……そんなに睨まないでくだせェ。こいつとはそこでちょうど会っただけ…」
「紺炉中隊長!!今聞いたんですが偉くめかしこんだ良い女と一緒に甘味食ってたって話は本当ですか!?」
「食べさせ合いしてたんですよね!どこの誰ですか!」
私と紺炉さんが浅草を頻繁に出ていると紅に知られれば良い顔はしないだろうと二人の秘密にすると前から決めていた。
しかし、紺炉さんの弁解にかぶせるように隊員たちが暖簾からなだれ込んで来て私は頭を抱えた。「全く、間がわりィな……」という紺炉さんの苦々しい声が響く。
「…お前がいない時、大体紺炉もいねェよな」
「ま、ば…ッ」
「あァ?……てめェ…!」
まさかバレた…!?という言葉は必死に飲み込んだが、長い付き合いのせいか表情だけで分かったらしい。紅は信じられないくらいに顔を歪ませて、私に肉薄してくる。手首を取られてぐいぐい引かれる。靴を脱ぐ時間もろくに与えてくれない。救いを求めるように紺炉さんを見やる。
「こ、こん」
「俺とお前さんがかっぷるたァ……言ってくれるな?」
「……えっ、はい?」
「良い仲の事を言うんだろ?知らないと思ったかい?俺は一向に構わねェが、どうする?次も一緒にさぁびすしてもらうか?」
「なっ、ちょ、待った」
紺炉さんは私を救うどころか次から次へと爆弾を投げ込んでくる。そうだ、この人はそういう人だ。絶対可愛らしいとか言ったからだ。このタイミングで本当に仕返しをしてくるなんて酷すぎるだろう。背後にいる紅の顔を見れない。突き刺さるような威圧感に隊員が怯えているくらいだ。恐ろしい。思わず顔が引き攣る。
呆気に取られる私と、面白気に唇を歪ませる紺炉さん両方に視線をやって大きく舌打ちをした紅は私に的を定めたらしい。靴を脱ぐのが遅いとばかりに抱き上げられて、そのまま部屋へ連行された。
✱✱
どさりと畳に落とされる。私の正面にしゃがみ込んだ紅に足首を片方掴まれ、困惑した。動かそうとするも畳に押さえつけられている。ぴくりともしない。
「…………」
「離してくれない?」
「逃げんのか」
「に、逃げないから!」
「うるせェ。だったらこのままでも良いだろうが」
「いや、良くない…」
良くはない。とても困る。部屋が暗いから顔が赤くなっているのは見られていないと思うが、この状況と空気感が落ち着かない。紅がいつもとどこか違うのだ。怒っているからか。……一体何に?
「紺炉とどこ行ってた」
「カフェだよ」
「…ちッ、カップルってのはどういう意味だ」
「ん………?言葉の意味?」
「あ?ちげェ。紺炉と…付き合ってんのか」
「えっ!?」
驚き過ぎて思わず咳き込む。まぁ妙な勘違いをしても仕方ない言葉を先程の紺炉さんは吐いていた。どうせなら彼からの仕返しはもっと可愛らしいものが良かった。そんな事を言えば次は本当に仕留められそうだが。
「付き合ってないよ」
「食べさせ合いだとかなんとか言ってたじゃねェか。それにその格好」
「長い付き合いなんだからそれくらい構わないでしょ。紺炉さんだよ?」
「紺炉のこと好きか」
ちょっと待った。なんだかこの紅、質問が多くないか?後、会話を成り立たせようとする気はあるのか。それすらもあやふやだ。次から次へと自分の疑問を解決させようとしている。答えずにいると、ギリッと足首に回る手の力が増して顔を顰める。
「紅、なんかおかしくない?様子が、変だ」
「おい、聞かれたことに答えろ」
「だっておかしいよ。紅が話に恋愛ネタ持ち出してくるなんて」
「うるせェ。てめェは紺炉をどう思ってんだ」
「や、優しい人だとは思ってるけど……」
「ちッ。……それじゃあ俺のことはどう思ってる」
「……え」
薄暗い部屋の中、赤い瞳が私だけを貫く。言葉の意味を理解した瞬間、ドッと勢いよく脈打つのが速くなる。息遣いが荒くなったのが悟られないように口を噤むと、苛立った様子の紅が顔を近づけてきた。
待ったをかけようと出した左手はいとも簡単に掴まれ、そのまま引っ張られる。抵抗も出来ず自動的に紅にぐっと近寄る形になって、頭ぶつかる…!と目を瞑った数秒後。唇に柔らかいものが当たった感触がした。
「…ん、………え?」
「紺炉にも、誰にもやらねェ」
「は、ちょっと待った。紅今何した……?いややっぱり言わなくていい言葉にしないで頼むから…」
ついていけなくて、頭の中がぐるぐるパニック状態だ。一息で話しながら紅の拘束から逃げようとするが、全然離してくれない。手首はガッチリ捕まえられたままだし、なんなら後頭部も抑えられている。近い。近い。
「紅は恋なんてしない」
「あァ?」
「あの時、気持ち悪いって言った。だ、だから私は、紅は恋愛なんて興味がないって思ってた。そ、そう思わないと…」
容赦なく襲いかかってくる胸の苦しみに押し潰されそうだった。思わず涙が零れそうになったのを紅に見つかってしまう。揺れた視界では紅がどんな表情をしているかも分からない。ただ怒気は収まって、少し戸惑いが見えた気がする。
紅が口を開こうとした時、襖がガラリと開いてヒカヒナたちが飛び込んできた。慌てて紅を突き飛ばし、溢れていた涙を拭う。
夕飯だ!早く行かねェと全部食っちまうぞ!という彼女らの声をぼんやり聞く。飛び出した二人に続いて部屋を出ようとした私の背中に紅の手が添えられる。
「な、……に?紅」
「明日から覚悟しとけ」
「ちゃんと証明してやるよ」とよく分からない事を言って、紅はするりと私の背中を撫でた。
✱✱
「降参していい?」
「馬鹿。まだ始まってもねェぞ」
朝、廊下でおはようと声をかけられながら額に唇を落とされて悲鳴を上げる。私の情けない一言を一笑に付した紅は、寝癖直してやるから部屋来いと私の頭を軽く叩いた。
寝癖を直してもらって、ついでに髪を結ってもらった。朝ご飯の時は珍しく隣で食べた。葱を苦々しげに見つめるのは変わらない。食べてあげようかとお皿を差し出すと、無言のまま口元まで持ってこられてギョッとした。
今日の紅は、よく私に触れてくる。今までの距離感どこに行った?と聞いてしまいたくなる程の詰め具合だ。詰所内ですれ違う度に、どこかしらに口付けを落としてくるのは勘弁して欲しいし、髪飾りを撫でて耳元で満足気に鼻を鳴らすのもやめて欲しい。
はっきり言って仕事に集中出来なくなる。恥ずかしい。紅は一体何がしたいんだ。
✱✱
「おい」
「散歩?夜遅いよ?外出るなっていつも言うじゃん」
「俺がいたらいい」
「なるほど……?」
紅の言葉に頷きつつ準備をする。寒いから羽織っていくかと服を着込めば完了だ。少し前を行く紅に続いて外に出た。何を考えているかさっぱりな紅の隣に並び、今日一日を振り返る。思い浮かぶのが紅ばかりだが、それはまぁいつものことではある。
名前を一つ呼ばれて、なぁにと返す。そうだ。二人きりになると声もいつもより柔らかい。ふわふわに包まれたような心地がして、ドキドキしてしまう。
「分かったか?」
「は?何が」
「…ちっ、俺がお前を好いてるってことに決まってんだろうが」
「紅って私の事好きだったの?」
ブチッと何か切れるような音がした。すごい音したなとキョロキョロ辺りを見渡していると、頭を鷲掴みにされる。
「え!?紅?何でそんなに怒ってるの?今日やっぱり変だよ」
「あァ?…てめェ本気で言ってんならここで犯す」
「……はァ!?」
「何とも思ってねェ奴に手出す訳ねェだろうが頭沸いてんのか!」
「紅ならしかねないでしょ!!」
「てめェ!!」
ぎゃいぎゃい言い合って、同時にため息をつく。ため息をつきたいのはこっちだと睨めば、紅も同じような事を思っているのだろう。それ以上の眼力で捉えられて、ひゅっと息が詰まる。
夜の暗闇が私たちを飲み込んでいきそうだ。どうしてか息苦しいのを振り払うように深呼吸をする。
「今日の俺は変だったか?……距離がちけェ上によく触ると思ったか?」
全てにこくこく頷くと、紅はまたため息をついた。
「……俺ァ、口付けした以外はいつもと何も変わんねェぞ」
「えっ」
「全部いつも通りだ。てめェがこれまで何にも意識してなかっただけだ」
「はっ、いや……えっ?嘘」
「嘘じゃねェ。俺が何とも思ってねェだろうって安心してたんだろうが……それが間違いってこった」
本当にお前は馬鹿みてェに可愛いなァ?と囁かれ、ボッと顔が赤く染まっていくのを感じた。駄目だ。逃げよう。そう思ったが、頭のてっぺんにあった手は私の肩に移動していた。
「好きだ」
「……ひっ」
「お前を好いてる」
「い、ちょ、まっ」
「待たねェ。お前がわかるまで言ってやる」
「わかった!わかったから!」
「いいやわかってねェ」
私の叫びを総無視した紅は、それしか言葉を知らないのかと突っ込みたくなるほど私に好きだと伝えてきた。紛れもなくお前に恋をしているのだと甘く言われる。私だけに聞こえるように耳元で動く唇が、耳に触れた気がして小さく息が漏れた。
これ以上聞いては体が溶けてしまうと泣きそうになる。慌てて耳を塞いだら、すぐに引き剥がされてまた好きだのなんだのの繰り返し。さっきの頭鷲掴みとは打って変わって、ぎりぎり逃げられないくらいの優しい力加減で手首を戒められて悲鳴を上げた。
首をふるだけのやるせない抵抗をしていると、催促するように名前を呼ばれた。そろそろと見やると自分しか目に入らないと言わんばかりの甘くてどろどろした瞳を向けられる。腰が抜けそうだった。
「お前も、」
「………ひ…ッ、も、すとっぷ…!」
「……俺を好きだって言え」
訳が分からなくて縋りついて助けを求めると、また好きだと言われて今度こそ腰が抜けた。ずるずると崩れ落ちるのと一緒に紅もその場にしゃがみ込んできた。逃げる気力も失せた私を見て楽しげに口角を上げた紅は、私の鼻先に噛み付いてくる。衝撃で開いた唇に紅のそれがすぐ重なってきて、手の中にある紅の服をぎゅうっと引っ掴んだ。
「……ッ、べに」
「気持ちわりィなんて言ったなんていつの話か知らねェが、そもそも、てめェがいるなら誰に言い寄られようが毛ほどの興味も湧かねぇよ」