新門紅丸
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「若はこうして私が触っててもなんともないでしょ?」
押し出した音が図らずも震えていたことに気づいたのは、言葉尻が妙に上がったからだ。酒気を帯びて少し熱い若の頬に手のひらを添えたまま、私はへらりと笑った。
✱✱
「紺炉さん!聞いてください!!」
「そう何度も服引っ張らなくても聞いてやるから落ち着け。で、どうした?」
「あの、前言っていた団子屋さんの人と遊びに行くことになりました!楽しみで仕方ありません……!」
「おっ、そりゃ良かったな。俺の役目はとうとうそいつに譲るってわけだ。朝早いなら今日は夜更かししねェで早く寝ろよ」
「へへ、紺炉さんにはいつもお世話になっております……。酒盛りは明日にお預けします。それで明日何を着ていけば良いと思いますか?せっかくのお出かけなので目一杯可愛くして行きたいんです!」
「この前頼んでた袴とか良いんじゃねェか?靴は前送ったやつが合うな」
「流石紺炉さん完璧です!それで行きます」
夕飯の後、ヒカゲとヒナタと若が席を外したのを見計らって紺炉さんに突撃した。ふっと笑いながら、寒いだろうから羽織は忘れるなよと気遣いをくれて胸があたたかくなる。
この余裕は年の功なのか……?と畏敬の念を送る私をよそに、紺炉さんはお盆を下げるため食器を重ね始める。いけない。私も手伝わなければ。
まとめきった所で、紺炉さんが全て持ち上げてしまったので慌ててそれを止めようと出口の襖の前で邪魔をする。いつもいつもこうなのだ。気づけばひょいと流しへ運んで、慣れた手つきで洗ってしまう。
「紺炉さん!それ私持っていきますから!」
「構いやしねェよ。俺だってこれくらい平気だ」
「いやそういうことじゃなくてですね……っ!おわっ………っ!」
じりじりと食器が山盛りのお盆を持ったまま、襖に追いやられて今回も押し負ける……!と負けを確信した瞬間、背中に当たっていた襖の感覚がなくなり浮遊感に足のバランスを崩す。頭をぶつける未来がちらりと見えてしまって、恐怖で目をぎゅっと瞑る。
しかし一向に衝撃が来ないので、あれ?と首を傾げる。というかちゃんと立っている。下に視線をやるとお腹に逞しい腕が巻きついているのが見えた。抱きとめられている?誰に?
「わ、わっ、わっ」
「若いい所に。ヒカゲとヒナタは?」
「先に風呂入らせた。……何話してた?」
「名前のやつが明日出かけるみてェだ。若、髪結ってやったらどうだ」
「……二人も三人も同じようなもんだ。構いやしねェよ」
私の頭上でぽんぽんと交わされる会話。私の知らぬ間に髪を結う係が若になってしまっている。呆然としている内に、二人の話題は流れるように変わっていく。
この隙に若の腕から抜け出して且つ紺炉さんからお盆を奪い取りたい。私は、できるだけゆっくりと身じろぎを試みる。若の右腕がぐるりと私を支えているので、左へと逃げようと足を動かす。
「そういや明日の夜少し留守にしやすぜ。ヒナタとヒカゲにせがまれたんで六丁目の飯屋へ」
「あぁ最近できた所か。わかった」
「若と名前も来るか?」
「……いや、俺はいい。お前はどうする?」
「……えっ!はい!!……いや、明日は帰りが少し遅くなると思うので私に構わず楽しんで来てください」
「わかった。じゃあ二人とも早く寝ろよ。おやすみ」
「あァ」
「おやすみなさい」
紺炉さんの背中が完全に見えなくなった後で、今日も上手いこと持っていかれた…!と悔しくなる。追いかけようとすると、お腹に回された腕にぎゅっと力が入った気がして動揺する。
つい先程、逃げようとした時も同じように力を込められた。痛くないけどぎりぎり逃げられない程度の強さだ。破壊王だなんて言われていても、髪を器用に結い上げる指の繊細さがあるのだ。それだけでも尊敬に値するというもの。
若がなかなか私を離そうとしないし、何故か紺炉さんがいなくなってから一切言葉を発そうとしないのが気にかかった。
まだお風呂に入っていないから、臭っていたらどうしようとも思うが、若とは長い付き合いだ。気にしなくとも平気だろう。暇になった私は、目についた若の右の手を取り上げてまじまじと見つめる。
「若の手は大きいですねぇ。あ、ここマメ出来てる」
「お前のが小せェんだろ。すぐ折られそうだ」
「誰にですか。そこらの悪党にでもやられるとでも?」
「あァ」
「大丈夫ですよ若!」
「あ?根拠の無ェこと言ってんじゃ」
「だって私には若がいますからね!!」
「は、」
若の言葉の先を奪うように言うと、虚をつかれたような声と共に拘束が緩む。今だ!とばかりに逃げ出して若の眼前に立つ。握ったままの手はどうしたらいいかわからずそのままだ。
どんどん体温が上がっているのは何故なのかについては目を逸らして、無表情ながらもぽかんとしている若を見て微笑む。
「私には、皆の浅草の破壊王がついてるから平気なんですよ」
***
次の日、約束ぎりぎりの時間に起きてしまった私は前日の夜置いていた紺炉さんセレクトの袴を身につけて部屋から飛び出した。編み上げの靴を片手に、鞄を片手に玄関へひた走る。化粧は手早く丁寧にした。いつもよりは濃いめだが、たまにはいいだろう。待ち合わせは詰所から少し遠いのだ。急げ急げと最後の角を曲がりきった時、名を一つ呼ばれて振り返る。
「行くのか」
「はい!髪の毛結ってもらうって言ってたのにすみません。寝坊しちゃって……今日が楽しみで昨夜よく眠れなくてですね」
「ガキか」
「あ、そんなこというなら酒屋さんがくれたとっておきのお酒分けてあげませんからね!」
「……今日は紺炉のやついねェぞ」
「え?」
「いつも二人で楽しくやってるだろうが……」
「じゃあ一緒に飲みましょう!今日夕方頃には戻るので!」
「遅くなるんじゃねェのか?」
靴紐を結びながら若の顔を伺うと、なんとも言えない表情を浮かべている。
「若と飲める機会は逃せないですからね。ご飯はどうします?」
「なんでもいいが、あまり遅くなるんじゃねェぞ。お前はすぐ厄介事引き連れてきやがる」
「引き連れてるんじゃなくて、巻き込まれてるだけです。それに大丈夫ですよ!私には若がいますからね」
「言うに事欠いてまたそれか」
「あはは、そんなに言ってますかねぇ。まぁ何度も言わないと若には伝わらないでしょう」
苦々しい顔つきの若ににこりと笑ってやる。さて、おしゃべりもここまでだ。そろそろ向かわないと間に合わない。扉に指をかけると、また呼び止められる。どこか迷いがあるような、絞り出したような声色に疑問が生じた。いつもはっきり物を言う若にしては珍しい。今もどこか言葉を探している様子が見て取れる。
「若……?そろそろ行かないと」
「お前、今日はどこに行くつもりだ」
「とりあえずご飯屋さんへ行きますよ。そのあとは誘ってくれた人が美味しい甘味屋さんを知ってるって言っていたのでそこですね!その後は河原の辺りをお散歩しながら沢山お話してきます!」
「……飯に甘味に散歩か」
「あ!心配しなくてもお土産ならちゃんと買ってきますからね」
「いらねェよ……」
「じゃあ、いってきます!若!」
手を上げて見送ってくれた若は、どこか喉に引っかかったような顔つきのままだった。
***
おかしい。
「あの、若」
「あぁ?なんだ」
おかしい。
「背中にはりついて催促しなくとも、もうすぐご飯はできますよ?」
「うるせェ……ほっとけ」
「えぇ……。では、早く食べられるようにお箸とお茶の準備をお願いします」
「ん」
「え、もう出来てるんですか?」
若が指さしたのは食器棚。私と若の分だけその場になく、既に運ばれているのがわかった。その後も、若を背中から引き剥がそうと何度も細々したことを頼んでみたが、先回りされているらしく全て終えているか後は私の仕事だったりで全く引き剥がせない。
私は若に気づかれないように、小さくため息をついた。実は帰ってきてからずっとこうなのだ。無言で私の後をついて回るし、私がそれを黙認して料理し始めるとべたりとはりついてきた。
一度ガツンと言ってやるべきか……とも思うが、ご飯の用意ができてしまった。とりあえずこれで解放される。
「若。出来たので隣に持っていきますよ。こっちはいいので先に部屋行っててください」
「俺が持つ。そのまま酒飲むなら部屋から持ってきとけ」
「二人ですしそれもいいですねぇ。おつまみも合わせてどうですか?」
「任せる」
「はい!」
背中から離れた熱の塊は、私からお盆を奪い去っていく。危なげない足取りの彼の背中に、すぐ戻りますと一声かけてから自室へ向かう。何故か、そう声をかけておかないとついてくるような気がしたからだ。
✱✱
「お酒絶対いいやつですね、これ。美味しいだろうな……」
「貰いもんか?」
「えぇそうです。酒屋の息子さんが二日酔いでぶっ倒れてたのを介抱してお店まで付き添ったら、そこのご主人にえらく感謝されまして。ご好意に甘えてこれをいただきました」
「……今日会ってたのはそいつか?」
どうぞどうぞとお酌していると、若に問われる。私は、どういうことだ?と不思議に思いながら否定する。素直に答えたのに、納得のいかない表情の若はお猪口に注がれた酒をじっと見ていた。
「どうしてそう思ったんです?」
「酒浸りになる奴なんざ優しくされたらうっかりその気になっちまうもんだろ」
「……まさか!若、既にお酒入ってます?恋愛話なんてらしくない。いや、見たところまだ愉快王じゃないので違いますねぇ。まぁ、細かいことはいいじゃないですか。ほらほら、乾杯!」
くっと飲み干して、すぐに若の方を向く。若と一緒に飲む楽しみは一杯目のすぐ後だ。来るぞ来るぞと期待して観察していると、若が口を開く。
「何ジロジロ見てる」
「……ふっ……っ!!いつ見ても素晴らしい微笑みですね若……くっ、」
「何がおかしい」
「いいえなんでも?はいどうぞ」
言葉とともに、下がる目尻と上がる口角。これがあるから若との酒盛りは止められない。いつもは紺炉さんや第七の人達がいるから、ワイワイガヤガヤと煩いくらいだが、今日は二人だけだ。夜の静けさが部屋にも染み渡るようだった。空いたお猪口になみなみとお酒を注いで緊張感を散らすように茶化す。
「で」
「はい?」
今日は何してたと低い声がする。今日の若は珍しく質問が多い。まぁ興味を持ってもらえているのは悪い気がしないし、私も酒で気分が上がり始めたので、すごく楽しかったんですよと口火を切って次から次へと話し出した。
しかし、話し続けていくと笑顔の若から滲み出てくる威圧感がどんどん増していくのを感じる。どうして、若は怒っているんだろう。
「若?」
「てめェはなんとも思ってねェ奴と、二人で飯食って店回って河原散歩するってのか」
「んん?若……?まぁ大事な友人ですけど」
「……どこのどいつだ」
「団子屋さんの看板娘、ちぃちゃんです!ずっと二人恋の話で持ち切りでした。ちぃちゃん相手がいるそうなので、今日は一日そのお話を……っていた……っ!若急に何するんですか!」
「うるせェ……」
並んでお酒を飲んでいた所、横から伸びてきた指で額を弾かれた。その瞬間、怒りも少し霧散していったようで安心しつつ、額の痛みに呻く。
相当手加減してくれていても痛いものは痛い。おつまみを噛み締めてぐっとそれに耐える。
しばらく互いに何も話さず、お酒を煽るだけの時間が流れた。若と飲むと、静かなのが良いといつも思っていたが今日はどうしてかそれが緊張してしまう。きっとちぃちゃんに余計なことを言われたせいだ。脳内でサムズアップしているちぃちゃんの幻影を首を振って消しさろうとしていると、若に何してんだと笑われる。
「ちいちゃんとやらの相手は誰だ?」
「あぁ、この前介抱した酒屋さんの息子です。呆れるほど酒飲みではありますが、ちぃちゃんに一途なので浮気の心配はないです」
「そこができてんのか……」
「世間は狭いですねぇ」
「全くだ」
「まぁ、酒飲んではぶっ倒れてしまうと今日も愚痴を零してはいましたが、好きな相手だと酔って甘えてくるのも可愛く見えてしまうみたいですよ?散々惚気られました」
「へっ、災難だな。」
「いいえ、恋のお話は誰しも好んでしまうものです」
「お前もしたのか」
「へっ?」
「素っ頓狂な声上げてんじゃねェ……名前もしたのかって聞いてんだよ……」
「恋の話ですか?……えぇそりゃあまぁ……人並みには……?」
一体どうしたのいうのだろう。この若。やはり今日の若はどこか体調でもおかしいのかもしれない。詰所から出ようとする私にやけに話してくるし、帰ってきてみれば金魚の糞のようについてくる。いや、若を糞呼ばわりするのはあまりに失礼だ。訂正。懐きすぎた猫のようについてくる。それに、たった今。顔が愉快なのはいつも通りだが、それ以外に違和を感じる。私はそれに焦りを覚える。そのついでに今日ちぃちゃんに言われた言葉が蘇ってきた。
***
それはある程度ちぃちゃんの愚痴と惚気話をひと通り聞いて、甘味屋でパフェをつついていた時だった。
『名前ちゃんは若とどうなの?同じ屋根の下何もないわけないよね?』
『いや……何もないよ……それに私と若はそういうんじゃないよ。第一若にはそんな気はこれっぽっちもないから』
『若の気持ちは若にしかわからないでしょうよ!それに気づいてる?若にはないって言うってことは
名前ちゃんにはそういう気あるんだ??』
『へ』
『まさか気づいてなかったの……?鈍いにも程があるわよ』
ちぃちゃんは長めの匙を私の方へ突きつけわなわなと震えている。クリームに突き刺したままの私の匙がみるみる底へ沈んでいく。ぽかんと口を開けたままの私の顔はきっと間抜けに見えたに違いない。呆れたと言わんばかりのちぃちゃんは、名前ちゃんはいつも皆の若って言うよねと呟く。
確かに言う。実際今でもそう思っている。浅草は若の縄張り。誰にも奪えないものだ。それを取り仕切る若は、皆の憧れで大切な人なのだから。
『じゃあ若が誰か一人のものになるのを考えたことはある?いつまでもそんな調子じゃ、横からかっさらわれるのがオチよ』
「おい」
皆の若。私は、若にとって大勢の中の一人だ。でも私にとって若は?
「おい、名前。聞いてんのか」
『若が誰か一人のものになるのを考えたことはある?』
そんなのいつも思っている。人気者の若が、女の子たちに囲まれているのなんて見た日には胸がぎゅうと苦しくなって、紺炉さんに散々ヤケ酒に付き合わせてしまった。傍にいられたらこれ以上は望まない。そう言い聞かせて、たまのガス抜きという名の酒飲みは紺炉さんと。そうしてお酒と一緒に若への気持ちも飲み干せてしまえばと何度も願った。
「おい!」
「はい!!」
「飲み過ぎだ……」
「ぼーっとしてました。へへ、すみません」
「酒も過ぎると体に悪い。ちょっとは控えやがれ」
「あはは、耳が痛いです」
忠告通り、煽るのを止めてお猪口から舐めるようにゆっくりお酒を飲む。考え事をしている内に何杯飲んでしまったのか。ぐらりと揺らつく頭と茹だる感覚。これは二日酔い確定だなと思っていると、横からじぃっと強い視線を感じる。ちらと見やると、にっこりと笑ったままの若が私を見ていた。
「ふふ、ふは、ふ……っ、やっぱりお酒飲んだら若は笑っちゃうんですねぇ。表情筋はどうなっているんですか……っ」
「笑ってんじゃねェよ……」
聞き飽きたと苦い顔つきの若に手を伸ばす。お猪口は手放さない。ゆっくりとした動きだ。若は止めなかった。無防備で、不用心だと心の中で小さく愚痴を零す。そんなだから私に触れられてしまうんですよ。そう思いながら。
私の右の手のひらは、若の左頬に添えられた。お酒を飲んでいるせいか少し熱い。しばらくそうして、すべすべの肌を堪能する。親指の腹で笑った目尻をなぞっていると、ずっと黙っていた若が唇を震わせる。
「お前は……俺を置き物の人形かなんかだと思ってんのか」
「まさか」
「なら、何でだ」
「若はこうして私が触っていてもなんともないでしょ?」
答えた瞬間、若の笑みが崩れて瞳が垣間見えた。煌めく赤に目をとられた瞬間、とんっと指先一つで肩を押されてぐるりと視界が回る。そのまま押し倒されてお猪口や徳利がひっくり返る音がした。畳と後頭部の間には若の右手のひらが差し込まれていて、全く痛みは感じない。
しかし、若の頬にあった右手は他でもない眼前の男に封じられている。なんだろうこの状況。目の前が、若でいっぱいだ。
「何でもねェのは、お前の方じゃねェか」
疑問形のようで、そうでない言葉に目を見開く。いや、あのと口をぱくぱくと動かして、弁解しようとするが上手くいかない。ろくに抵抗もできない私を見て、何を思ったのだろう。若はそっと頭の下から手のひらを出してきて、私の左手首を掴む。そのまま、若の胸に触れさせた。ちょうど心臓の上だ。
手のひらに、至極早く刻む鼓動が伝わる。お酒のせいだと言い逃れるには少々無理があった。驚いて手を離そうとすると、逃げるなと言わんばかりに強く押さえつけられる。
「名前」
「若、まさか……もしかしなくても、そういうことなんですか」
「いくら鈍いお前でもこれで伝わるか?」
「いや、待って!一寸待ってくださ」
「待たねぇよ」
胸を押し返した距離を壊すように近づいてきて、息を飲む。お酒と混じって、若の香りがする。いつもなら落ち着けるはずなのにこの状況のせいだ。全く落ち着けない。
取り乱す私を見てなんだか満足そうな若は、何でもねェ訳じゃねェようだなと言ってくつりと笑う。そうだ。何でもないわけがない。触れる時は心臓が爆発しそうだし、それでも触っていたいのだから恋というのは本当に厄介だ。
若がじゃれてくるのに違和を感じていたのは、線を踏み越えてこようとしていたのを、本能で察知していたからだ。まぁ、避ける間もなく捕らわれてしまった。今更どうこう画策しても、若には通用しないとわかっていても、悪あがきしてしまいたくなる。
「若、あのですね」
「名前」
お酒が回りすぎて少々大胆になってますよと茶化そうと思ったのに、名前を一つ耳元で囁かれただけで、次の言葉が唇の先で縺れた。ひゅっと息だけが漏れてどうしようもなくなる。
「お前には俺がいるって何度も言ってたな」
額をこつりと触れ合わせながら言われて、目だけで肯定する。それが伝わったのか若はゆるりと口角を上げる。楽しくて仕方がないといった風に。まるで大切なものを手に入れる瞬間のようだ。
それに気づいて、あ、わかと舌足らずに呼ぶ。若はそんな私をちらりと見てから、さらに言葉を紡いでいく。
「そうだ。忘れるんじゃねェ。お前には俺がずっとついててやる。ずっとな」
お前の隣は誰にも譲らねェよという囁きは、少し暗い部屋の空気と混じって、溶けた。
押し出した音が図らずも震えていたことに気づいたのは、言葉尻が妙に上がったからだ。酒気を帯びて少し熱い若の頬に手のひらを添えたまま、私はへらりと笑った。
✱✱
「紺炉さん!聞いてください!!」
「そう何度も服引っ張らなくても聞いてやるから落ち着け。で、どうした?」
「あの、前言っていた団子屋さんの人と遊びに行くことになりました!楽しみで仕方ありません……!」
「おっ、そりゃ良かったな。俺の役目はとうとうそいつに譲るってわけだ。朝早いなら今日は夜更かししねェで早く寝ろよ」
「へへ、紺炉さんにはいつもお世話になっております……。酒盛りは明日にお預けします。それで明日何を着ていけば良いと思いますか?せっかくのお出かけなので目一杯可愛くして行きたいんです!」
「この前頼んでた袴とか良いんじゃねェか?靴は前送ったやつが合うな」
「流石紺炉さん完璧です!それで行きます」
夕飯の後、ヒカゲとヒナタと若が席を外したのを見計らって紺炉さんに突撃した。ふっと笑いながら、寒いだろうから羽織は忘れるなよと気遣いをくれて胸があたたかくなる。
この余裕は年の功なのか……?と畏敬の念を送る私をよそに、紺炉さんはお盆を下げるため食器を重ね始める。いけない。私も手伝わなければ。
まとめきった所で、紺炉さんが全て持ち上げてしまったので慌ててそれを止めようと出口の襖の前で邪魔をする。いつもいつもこうなのだ。気づけばひょいと流しへ運んで、慣れた手つきで洗ってしまう。
「紺炉さん!それ私持っていきますから!」
「構いやしねェよ。俺だってこれくらい平気だ」
「いやそういうことじゃなくてですね……っ!おわっ………っ!」
じりじりと食器が山盛りのお盆を持ったまま、襖に追いやられて今回も押し負ける……!と負けを確信した瞬間、背中に当たっていた襖の感覚がなくなり浮遊感に足のバランスを崩す。頭をぶつける未来がちらりと見えてしまって、恐怖で目をぎゅっと瞑る。
しかし一向に衝撃が来ないので、あれ?と首を傾げる。というかちゃんと立っている。下に視線をやるとお腹に逞しい腕が巻きついているのが見えた。抱きとめられている?誰に?
「わ、わっ、わっ」
「若いい所に。ヒカゲとヒナタは?」
「先に風呂入らせた。……何話してた?」
「名前のやつが明日出かけるみてェだ。若、髪結ってやったらどうだ」
「……二人も三人も同じようなもんだ。構いやしねェよ」
私の頭上でぽんぽんと交わされる会話。私の知らぬ間に髪を結う係が若になってしまっている。呆然としている内に、二人の話題は流れるように変わっていく。
この隙に若の腕から抜け出して且つ紺炉さんからお盆を奪い取りたい。私は、できるだけゆっくりと身じろぎを試みる。若の右腕がぐるりと私を支えているので、左へと逃げようと足を動かす。
「そういや明日の夜少し留守にしやすぜ。ヒナタとヒカゲにせがまれたんで六丁目の飯屋へ」
「あぁ最近できた所か。わかった」
「若と名前も来るか?」
「……いや、俺はいい。お前はどうする?」
「……えっ!はい!!……いや、明日は帰りが少し遅くなると思うので私に構わず楽しんで来てください」
「わかった。じゃあ二人とも早く寝ろよ。おやすみ」
「あァ」
「おやすみなさい」
紺炉さんの背中が完全に見えなくなった後で、今日も上手いこと持っていかれた…!と悔しくなる。追いかけようとすると、お腹に回された腕にぎゅっと力が入った気がして動揺する。
つい先程、逃げようとした時も同じように力を込められた。痛くないけどぎりぎり逃げられない程度の強さだ。破壊王だなんて言われていても、髪を器用に結い上げる指の繊細さがあるのだ。それだけでも尊敬に値するというもの。
若がなかなか私を離そうとしないし、何故か紺炉さんがいなくなってから一切言葉を発そうとしないのが気にかかった。
まだお風呂に入っていないから、臭っていたらどうしようとも思うが、若とは長い付き合いだ。気にしなくとも平気だろう。暇になった私は、目についた若の右の手を取り上げてまじまじと見つめる。
「若の手は大きいですねぇ。あ、ここマメ出来てる」
「お前のが小せェんだろ。すぐ折られそうだ」
「誰にですか。そこらの悪党にでもやられるとでも?」
「あァ」
「大丈夫ですよ若!」
「あ?根拠の無ェこと言ってんじゃ」
「だって私には若がいますからね!!」
「は、」
若の言葉の先を奪うように言うと、虚をつかれたような声と共に拘束が緩む。今だ!とばかりに逃げ出して若の眼前に立つ。握ったままの手はどうしたらいいかわからずそのままだ。
どんどん体温が上がっているのは何故なのかについては目を逸らして、無表情ながらもぽかんとしている若を見て微笑む。
「私には、皆の浅草の破壊王がついてるから平気なんですよ」
***
次の日、約束ぎりぎりの時間に起きてしまった私は前日の夜置いていた紺炉さんセレクトの袴を身につけて部屋から飛び出した。編み上げの靴を片手に、鞄を片手に玄関へひた走る。化粧は手早く丁寧にした。いつもよりは濃いめだが、たまにはいいだろう。待ち合わせは詰所から少し遠いのだ。急げ急げと最後の角を曲がりきった時、名を一つ呼ばれて振り返る。
「行くのか」
「はい!髪の毛結ってもらうって言ってたのにすみません。寝坊しちゃって……今日が楽しみで昨夜よく眠れなくてですね」
「ガキか」
「あ、そんなこというなら酒屋さんがくれたとっておきのお酒分けてあげませんからね!」
「……今日は紺炉のやついねェぞ」
「え?」
「いつも二人で楽しくやってるだろうが……」
「じゃあ一緒に飲みましょう!今日夕方頃には戻るので!」
「遅くなるんじゃねェのか?」
靴紐を結びながら若の顔を伺うと、なんとも言えない表情を浮かべている。
「若と飲める機会は逃せないですからね。ご飯はどうします?」
「なんでもいいが、あまり遅くなるんじゃねェぞ。お前はすぐ厄介事引き連れてきやがる」
「引き連れてるんじゃなくて、巻き込まれてるだけです。それに大丈夫ですよ!私には若がいますからね」
「言うに事欠いてまたそれか」
「あはは、そんなに言ってますかねぇ。まぁ何度も言わないと若には伝わらないでしょう」
苦々しい顔つきの若ににこりと笑ってやる。さて、おしゃべりもここまでだ。そろそろ向かわないと間に合わない。扉に指をかけると、また呼び止められる。どこか迷いがあるような、絞り出したような声色に疑問が生じた。いつもはっきり物を言う若にしては珍しい。今もどこか言葉を探している様子が見て取れる。
「若……?そろそろ行かないと」
「お前、今日はどこに行くつもりだ」
「とりあえずご飯屋さんへ行きますよ。そのあとは誘ってくれた人が美味しい甘味屋さんを知ってるって言っていたのでそこですね!その後は河原の辺りをお散歩しながら沢山お話してきます!」
「……飯に甘味に散歩か」
「あ!心配しなくてもお土産ならちゃんと買ってきますからね」
「いらねェよ……」
「じゃあ、いってきます!若!」
手を上げて見送ってくれた若は、どこか喉に引っかかったような顔つきのままだった。
***
おかしい。
「あの、若」
「あぁ?なんだ」
おかしい。
「背中にはりついて催促しなくとも、もうすぐご飯はできますよ?」
「うるせェ……ほっとけ」
「えぇ……。では、早く食べられるようにお箸とお茶の準備をお願いします」
「ん」
「え、もう出来てるんですか?」
若が指さしたのは食器棚。私と若の分だけその場になく、既に運ばれているのがわかった。その後も、若を背中から引き剥がそうと何度も細々したことを頼んでみたが、先回りされているらしく全て終えているか後は私の仕事だったりで全く引き剥がせない。
私は若に気づかれないように、小さくため息をついた。実は帰ってきてからずっとこうなのだ。無言で私の後をついて回るし、私がそれを黙認して料理し始めるとべたりとはりついてきた。
一度ガツンと言ってやるべきか……とも思うが、ご飯の用意ができてしまった。とりあえずこれで解放される。
「若。出来たので隣に持っていきますよ。こっちはいいので先に部屋行っててください」
「俺が持つ。そのまま酒飲むなら部屋から持ってきとけ」
「二人ですしそれもいいですねぇ。おつまみも合わせてどうですか?」
「任せる」
「はい!」
背中から離れた熱の塊は、私からお盆を奪い去っていく。危なげない足取りの彼の背中に、すぐ戻りますと一声かけてから自室へ向かう。何故か、そう声をかけておかないとついてくるような気がしたからだ。
✱✱
「お酒絶対いいやつですね、これ。美味しいだろうな……」
「貰いもんか?」
「えぇそうです。酒屋の息子さんが二日酔いでぶっ倒れてたのを介抱してお店まで付き添ったら、そこのご主人にえらく感謝されまして。ご好意に甘えてこれをいただきました」
「……今日会ってたのはそいつか?」
どうぞどうぞとお酌していると、若に問われる。私は、どういうことだ?と不思議に思いながら否定する。素直に答えたのに、納得のいかない表情の若はお猪口に注がれた酒をじっと見ていた。
「どうしてそう思ったんです?」
「酒浸りになる奴なんざ優しくされたらうっかりその気になっちまうもんだろ」
「……まさか!若、既にお酒入ってます?恋愛話なんてらしくない。いや、見たところまだ愉快王じゃないので違いますねぇ。まぁ、細かいことはいいじゃないですか。ほらほら、乾杯!」
くっと飲み干して、すぐに若の方を向く。若と一緒に飲む楽しみは一杯目のすぐ後だ。来るぞ来るぞと期待して観察していると、若が口を開く。
「何ジロジロ見てる」
「……ふっ……っ!!いつ見ても素晴らしい微笑みですね若……くっ、」
「何がおかしい」
「いいえなんでも?はいどうぞ」
言葉とともに、下がる目尻と上がる口角。これがあるから若との酒盛りは止められない。いつもは紺炉さんや第七の人達がいるから、ワイワイガヤガヤと煩いくらいだが、今日は二人だけだ。夜の静けさが部屋にも染み渡るようだった。空いたお猪口になみなみとお酒を注いで緊張感を散らすように茶化す。
「で」
「はい?」
今日は何してたと低い声がする。今日の若は珍しく質問が多い。まぁ興味を持ってもらえているのは悪い気がしないし、私も酒で気分が上がり始めたので、すごく楽しかったんですよと口火を切って次から次へと話し出した。
しかし、話し続けていくと笑顔の若から滲み出てくる威圧感がどんどん増していくのを感じる。どうして、若は怒っているんだろう。
「若?」
「てめェはなんとも思ってねェ奴と、二人で飯食って店回って河原散歩するってのか」
「んん?若……?まぁ大事な友人ですけど」
「……どこのどいつだ」
「団子屋さんの看板娘、ちぃちゃんです!ずっと二人恋の話で持ち切りでした。ちぃちゃん相手がいるそうなので、今日は一日そのお話を……っていた……っ!若急に何するんですか!」
「うるせェ……」
並んでお酒を飲んでいた所、横から伸びてきた指で額を弾かれた。その瞬間、怒りも少し霧散していったようで安心しつつ、額の痛みに呻く。
相当手加減してくれていても痛いものは痛い。おつまみを噛み締めてぐっとそれに耐える。
しばらく互いに何も話さず、お酒を煽るだけの時間が流れた。若と飲むと、静かなのが良いといつも思っていたが今日はどうしてかそれが緊張してしまう。きっとちぃちゃんに余計なことを言われたせいだ。脳内でサムズアップしているちぃちゃんの幻影を首を振って消しさろうとしていると、若に何してんだと笑われる。
「ちいちゃんとやらの相手は誰だ?」
「あぁ、この前介抱した酒屋さんの息子です。呆れるほど酒飲みではありますが、ちぃちゃんに一途なので浮気の心配はないです」
「そこができてんのか……」
「世間は狭いですねぇ」
「全くだ」
「まぁ、酒飲んではぶっ倒れてしまうと今日も愚痴を零してはいましたが、好きな相手だと酔って甘えてくるのも可愛く見えてしまうみたいですよ?散々惚気られました」
「へっ、災難だな。」
「いいえ、恋のお話は誰しも好んでしまうものです」
「お前もしたのか」
「へっ?」
「素っ頓狂な声上げてんじゃねェ……名前もしたのかって聞いてんだよ……」
「恋の話ですか?……えぇそりゃあまぁ……人並みには……?」
一体どうしたのいうのだろう。この若。やはり今日の若はどこか体調でもおかしいのかもしれない。詰所から出ようとする私にやけに話してくるし、帰ってきてみれば金魚の糞のようについてくる。いや、若を糞呼ばわりするのはあまりに失礼だ。訂正。懐きすぎた猫のようについてくる。それに、たった今。顔が愉快なのはいつも通りだが、それ以外に違和を感じる。私はそれに焦りを覚える。そのついでに今日ちぃちゃんに言われた言葉が蘇ってきた。
***
それはある程度ちぃちゃんの愚痴と惚気話をひと通り聞いて、甘味屋でパフェをつついていた時だった。
『名前ちゃんは若とどうなの?同じ屋根の下何もないわけないよね?』
『いや……何もないよ……それに私と若はそういうんじゃないよ。第一若にはそんな気はこれっぽっちもないから』
『若の気持ちは若にしかわからないでしょうよ!それに気づいてる?若にはないって言うってことは
名前ちゃんにはそういう気あるんだ??』
『へ』
『まさか気づいてなかったの……?鈍いにも程があるわよ』
ちぃちゃんは長めの匙を私の方へ突きつけわなわなと震えている。クリームに突き刺したままの私の匙がみるみる底へ沈んでいく。ぽかんと口を開けたままの私の顔はきっと間抜けに見えたに違いない。呆れたと言わんばかりのちぃちゃんは、名前ちゃんはいつも皆の若って言うよねと呟く。
確かに言う。実際今でもそう思っている。浅草は若の縄張り。誰にも奪えないものだ。それを取り仕切る若は、皆の憧れで大切な人なのだから。
『じゃあ若が誰か一人のものになるのを考えたことはある?いつまでもそんな調子じゃ、横からかっさらわれるのがオチよ』
「おい」
皆の若。私は、若にとって大勢の中の一人だ。でも私にとって若は?
「おい、名前。聞いてんのか」
『若が誰か一人のものになるのを考えたことはある?』
そんなのいつも思っている。人気者の若が、女の子たちに囲まれているのなんて見た日には胸がぎゅうと苦しくなって、紺炉さんに散々ヤケ酒に付き合わせてしまった。傍にいられたらこれ以上は望まない。そう言い聞かせて、たまのガス抜きという名の酒飲みは紺炉さんと。そうしてお酒と一緒に若への気持ちも飲み干せてしまえばと何度も願った。
「おい!」
「はい!!」
「飲み過ぎだ……」
「ぼーっとしてました。へへ、すみません」
「酒も過ぎると体に悪い。ちょっとは控えやがれ」
「あはは、耳が痛いです」
忠告通り、煽るのを止めてお猪口から舐めるようにゆっくりお酒を飲む。考え事をしている内に何杯飲んでしまったのか。ぐらりと揺らつく頭と茹だる感覚。これは二日酔い確定だなと思っていると、横からじぃっと強い視線を感じる。ちらと見やると、にっこりと笑ったままの若が私を見ていた。
「ふふ、ふは、ふ……っ、やっぱりお酒飲んだら若は笑っちゃうんですねぇ。表情筋はどうなっているんですか……っ」
「笑ってんじゃねェよ……」
聞き飽きたと苦い顔つきの若に手を伸ばす。お猪口は手放さない。ゆっくりとした動きだ。若は止めなかった。無防備で、不用心だと心の中で小さく愚痴を零す。そんなだから私に触れられてしまうんですよ。そう思いながら。
私の右の手のひらは、若の左頬に添えられた。お酒を飲んでいるせいか少し熱い。しばらくそうして、すべすべの肌を堪能する。親指の腹で笑った目尻をなぞっていると、ずっと黙っていた若が唇を震わせる。
「お前は……俺を置き物の人形かなんかだと思ってんのか」
「まさか」
「なら、何でだ」
「若はこうして私が触っていてもなんともないでしょ?」
答えた瞬間、若の笑みが崩れて瞳が垣間見えた。煌めく赤に目をとられた瞬間、とんっと指先一つで肩を押されてぐるりと視界が回る。そのまま押し倒されてお猪口や徳利がひっくり返る音がした。畳と後頭部の間には若の右手のひらが差し込まれていて、全く痛みは感じない。
しかし、若の頬にあった右手は他でもない眼前の男に封じられている。なんだろうこの状況。目の前が、若でいっぱいだ。
「何でもねェのは、お前の方じゃねェか」
疑問形のようで、そうでない言葉に目を見開く。いや、あのと口をぱくぱくと動かして、弁解しようとするが上手くいかない。ろくに抵抗もできない私を見て、何を思ったのだろう。若はそっと頭の下から手のひらを出してきて、私の左手首を掴む。そのまま、若の胸に触れさせた。ちょうど心臓の上だ。
手のひらに、至極早く刻む鼓動が伝わる。お酒のせいだと言い逃れるには少々無理があった。驚いて手を離そうとすると、逃げるなと言わんばかりに強く押さえつけられる。
「名前」
「若、まさか……もしかしなくても、そういうことなんですか」
「いくら鈍いお前でもこれで伝わるか?」
「いや、待って!一寸待ってくださ」
「待たねぇよ」
胸を押し返した距離を壊すように近づいてきて、息を飲む。お酒と混じって、若の香りがする。いつもなら落ち着けるはずなのにこの状況のせいだ。全く落ち着けない。
取り乱す私を見てなんだか満足そうな若は、何でもねェ訳じゃねェようだなと言ってくつりと笑う。そうだ。何でもないわけがない。触れる時は心臓が爆発しそうだし、それでも触っていたいのだから恋というのは本当に厄介だ。
若がじゃれてくるのに違和を感じていたのは、線を踏み越えてこようとしていたのを、本能で察知していたからだ。まぁ、避ける間もなく捕らわれてしまった。今更どうこう画策しても、若には通用しないとわかっていても、悪あがきしてしまいたくなる。
「若、あのですね」
「名前」
お酒が回りすぎて少々大胆になってますよと茶化そうと思ったのに、名前を一つ耳元で囁かれただけで、次の言葉が唇の先で縺れた。ひゅっと息だけが漏れてどうしようもなくなる。
「お前には俺がいるって何度も言ってたな」
額をこつりと触れ合わせながら言われて、目だけで肯定する。それが伝わったのか若はゆるりと口角を上げる。楽しくて仕方がないといった風に。まるで大切なものを手に入れる瞬間のようだ。
それに気づいて、あ、わかと舌足らずに呼ぶ。若はそんな私をちらりと見てから、さらに言葉を紡いでいく。
「そうだ。忘れるんじゃねェ。お前には俺がずっとついててやる。ずっとな」
お前の隣は誰にも譲らねェよという囁きは、少し暗い部屋の空気と混じって、溶けた。
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