現パロ

 「夜は少し遅くなる。俺の夕飯は気にしなくていいからな」
街の匂いに、濡れたコンクリートの匂いが混じることが増えてきた時期のある日。そう言いながら、彼は靴べらを靴の踵に差し込んだ。ぴかぴかに磨かれた革靴。靴紐は綺麗に整えられ、身に纏ったスラックスとシャツにはぱりっとアイロンがかけられている。
「楽しんできてくださいね」
「ああ。帰る時間は連絡する」
彼から預けられていた、同じく綺麗にアイロンがかけられたジャケットを手渡して、ネクタイと襟を少し整えてあげる。
「先に寝ていていいぞ」
「明日もお休みですし、起きてますから大丈夫ですよ」
わたしを気遣ってくれる彼に対し子どもみたいな意地を張ると、少し微笑んでくれた。彼は姿見で最後の身だしなみチェックをして、わたしの頭を撫でてから出かけていった。

 今日はお友だちの結婚式なんだそうだ。学生時代からの付き合いらしく、数ヶ月前に「この日は出かけることになった」と伝えてきた時は、いつになくうれしそうだった。親しいひとの幸せを祝いに行くのだから当然だ。わたしも彼から何度か話を聞いたことがあるひとだった。随分と気合いも入っているようで、昨晩は珍しくファッションチェックを頼まれた。男性の、ましてや結婚式に参列するスーツなんてどう見たらいいかわからなかったが、ネクタイを締めた彼が新鮮でかっこよかったので多分大丈夫だと思う。彼に限って非常識なことをするとも考えられないし。一応インターネットで調べた参列時のマナーなどを見ながら、要所要所のチェックはした。思ったことをそっくりそのまま伝えると、力が抜けたように笑みを零したのち、満足そうにハンガーラックにスーツを掛けていた。
 結婚式はお昼すぎからなので、彼は朝ごはんを食べて少ししてから出かけていった。今日はいいお天気だ。わたしもどこか出かけようかと思ったが、なんとなく気が乗らなくて家で過ごすことにした。買ったきり一度もページを開いていない本が何冊かあるし、それを読んだりしてのんびりしよう。食器を片付けて、昼食と夕食のために炊飯器をセットしてからソファに腰掛けた。
 結婚かあ、とぼんやり考える。以前、付録目当てで買った結婚情報誌を思い出す。せっかく買ったのだから勿体ないように思えて、内容も見てみたのだ。そこには、自分には縁遠い気がする話ばかりが載っていた。わたし自身、結婚願望は薄い方だと思う。理由は上手く言えないが、学生時代からずっと、結婚というものに対する意識がなんだかふわふわしている。彼とのことに関しても、あのひととずっと、ずっと一緒にいたいとは思う。彼のことが、宇宙でいちばんだいすきだから。ただ、その程度の気持ちで、彼との未来を望んでいいのかわからなかった。ウエディングドレスへの漠然とした憧れだけがあるままだった。毎号ついているらしいピンク色の婚姻届は、なんとなく仕舞い込んだ引き出しの奥で眠っていた。
「まあ、晴信さんがどう思ってるかもわかんないし」
そう独り言ち、アイスココアを飲もうと立ち上がった。
 とはいえ。彼は、いつまでわたしを傍に置いてくれるのだろうか、と。思わないではなかった。わたしは彼より一回りも歳が下だ。それは今更だし、年齢を気にするのは今に始まったことではない。だが、わたしがいつまでも彼の傍にいることは、彼の足枷になっているのではないか。不安になることも、ある。彼のことはだいすきだ。ずっといっしょにいたいし、彼といっしょでなければ幸せになりたくない。わたしの隣にいるのは彼がいい。彼の隣にいたい。ただ、彼は素敵なひとだ。背が高くてスタイルも良いし、頭が良いし、何よりすごくかっこいい。多分相当モテるんだと思う。というかそのはずだ。いまもきっと、彼に惹かれるひとは多いだろう。わたしには不相応なくらい、とても素敵なひとだ。そんなひとが、わたしのそばにいる。半年後、一年後、三年後。とにかく将来のことを考えると、わたしを傍に置いた彼は幸せなのだろうかと、いつも思った。社会人になり、いわゆる「大人」になってから、より強く感じるようになった。彼はどうするつもりなのだろう。わたしは、人生の伴侶として、彼に選んでもらえるのだろうか。
 いけない、ネガティブ思考になってきた。わたしの悪い癖だ。本を読もう。活字にのめり込めばかなり気が紛れる。ご飯を忘れないようにだけして、不安のことは忘れよう。注いだ牛乳と混ぜないままダマになってしまったココアを無理やり溶かして、ローテーブルに本を並べた。
 案の定昼食を食べ損ね、中途半端な時間に塩にぎりを食べた。それから無為に時を過ごして、また中途半端な時間にチャーハンを作って食べた。本日の食事は以上で終了である。ひとりの時はいつも食事が適当になる。彼がいたら、おいしいものを作ろうと思えるのにな。そんなことを考えながらシャワーを浴びて、彼の帰りを待った。動画でも見ようと思い、スマートフォンの電源をつける。と同時に、画面上部に通知が表示された。彼からの連絡だ。
「三十分か一時間ほどで帰る」
要点だけのメッセージ。いつもの彼だ。ゆるいうさぎのスタンプで返して、
「待ってます」
と付け足した。すぐに既読がついた。時計は二十三時を少し過ぎたところだった。
 しばらくして、玄関ドアの錠に鍵が差し込まれる音がした。閉じかけていた瞼をこじ開ける。ソファに沈めていた身体を慌てて起き上がらせて、玄関へ急ぐ。彼が帰ってきた。

 わたしが廊下のドアを開けた時には、彼は内側の鍵に手をかけたところだった。帰ってくるまでに暑くなってしまったようで、ジャケットは腕にかかっている。ロックを回しながら、
「ただいま」
と微笑む。わたしは
「おかえりなさい」
と返して、クラッチバッグを受け取ろうと駆け寄った。彼を見上げる。
「本当に起きていたのか……先に寝ていいと言っただろう」
わたしの顔を覗き込んだ彼は、随分と機嫌が良さそうだ。おそらく二次会……三次会にも行ったのだろう、お酒を飲んだらしい。いつもは皺が寄せられている眉間が少し緩んでいた。
「だって、おやすみって言いたくて」
彼がまっすぐこちらを見つめてくる。なんだか恥ずかしくなってきた。いつまでも慣れない。
「疲れたでしょう、お風呂入っちゃいません?わたしタオル用意してきますよ」
誤魔化すように荷物を受け取り、寝室のラックにかけてしまおうと踵を返した。が、彼はそこに立ったままだった。
「晴信さん?」
振り返ると、
「ああ」
とハッとしたように返事をして、靴を脱いで家に上がった。
 廊下の向こうから、微かにシャワーの音が聞こえる。タオルとパジャマを用意しながら少し考え込む。なんとなく彼の様子が変だ。変というか、なんだか心ここに在らずという感じがする。お友だちの結婚式だから、昔馴染みにも会ったのだろう。何かあったのか。と、そこで、はたと気付いた。わたしとのことではないのか。
 今日結婚式を挙げたお友だちは、彼を介してわたしのことも知っているはずだった。何か言われたのではあるまいか。いつまであいつとそうしているつもりだ、とか。そうでなくても、他の知り合いも一緒に今後の話をしたかもしれない。年齢のこともあるし、もしかしたら親御さんとも何か話しているのかもしれない。それで色々考えながら帰ってきたのではないか。
 というのは、お友だちがわたしのことを知っていること以外は全てわたしの妄想だ。ひとりで考え込んでも仕方がない。だが、とにかく彼の様子が気になった。いずれにしても、何か悩んでいるならそばにいたい。もうすぐ日付が変わろうというところだ。疲れているだろうし、今日はふたりでさっさと布団に潜り込んでしまおう。風呂と睡眠は何よりの薬だ。そう決めて、洗面所に必要なものを置いていった。
 風呂上がりの彼はすっかり元の様子に戻っていた。少し酔っていただけかもしれないな、と思いつつ、寝室へと手を引いた。楽しい用事とはいえやはりくたびれてしまったようで、彼はベッドに横になると大きく息を吐いた。わたしが続くと、片腕をこちらに投げ出してくれる。腕枕の合図だ。いそいそと彼の懐に潜り込んで、その胸元に顔を埋めた。あたたかい、いい匂いがする。「待ってます」と大口を叩いたはいいものの、正直もう眠い。幸せと温かさとで余計に瞼が重くなってきた。彼も無事に帰ってきたことだし、このまま寝てしまってもいいかもしれない。ならば、おやすみを言わなければ。
 「はるのぶさん」
なんだか上手く発音できないまま彼の名を呼ぶ。彼はずっとわたしを見ていたようで、顔を見ようと首を持ち上げれば目が合った。
「結」
彼がわたしの名を呼ぶ。結。わたしの名前。好きな響きだ。彼に呼ばれるから、なお好きだ。うっとりとするが、限界だ。眠い。もう瞼は上と下がほぼくっついている。とにかくなにも喋れなくなる前に、おやすみを、言わなくては。
「おやすみなさ」
何とかそこまで音にしたところで、彼に力いっぱい抱き締められた。
「あぇ」
気の抜けた声が漏れる。彼はわたしの頭をゆっくりと撫で、まるで噛み締めるように腕に力を入れた。
「この先ずっと、こんな毎日がいいな」
頭の上の方から声が聞こえる。何のことだろう。尋ねようとするが、既に意識はほとんど夢の中だった。何もできない。
「おやすみ」
その日の最後の記憶は、彼の柔らかい声と、わたしの頭を撫でる温かい手だった。

 気持ちよさそうな寝息を立てている恋人の頭を撫でる。俺が出かける時に家にいると、必ず見送ってくれる恋人。俺が帰った時に家にいると、必ず出迎えてくれる恋人。一日の一番最初に顔を見るのも、一番最後に顔を見るのも、全て恋人だった。俺がそう在るよう望んだ。彼女もそう願った。だから一緒に暮らしている。
 以前、Aラインのドレスに憧れていると話していたことをよく覚えている。彼女の口からそういった話を聞いたことがなかったから、印象に残っていた。いつか恋人も純白のドレスを身に纏うのだろうか。今日はそればかり考えていた。顔にかかるベールを上げるのは、誰か。そんなもの、この世界で一人しかいないだろう。
 決まって眉尻を下げて、人懐こく笑う恋人が好きだった。結のこの笑顔を、ずっと隣で見ていたい。俺の隣にいるのは結がいい。結と生きていきたい。そんなことを想いながら、恋人のつむじにキスをした。
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