現パロ

 まずい。かなりまずい。いや原因が自分なのは痛いほどわかっているのだが。逃げられない。少し身を捩ってみる。びくともしない。身体ごと捕まえられた腕を脱出させることさえ叶わない。上から声が降ってくる。
「それで、俺をどうしたいんだ」
すみません、わたしが聞きたいです。

 別に、彼をどうこうしたかったわけではない。ただ気になったのだ。仕事の休憩中、SNSを見ていたら「彼氏に突然キスをしてみたら」みたいな趣旨の動画が流れてきた。海外の色々なカップルのシーンを切り取って繋げたものだったが、彼氏たちの反応は十人十色だった。固まるひと、すぐに捕まえるひと、如実に喜ぶひと。いずれにしても、キスをしてきた彼女のことを心底愛しているのであろうことが伝わってきた。正直に言うと、羨ましかった。わたしだって彼に大切にしてもらっているし、それなりに愛情をもって接してくれている。ただその、なんというか。わたしは彼女らのようにストレートに愛情を表現する方法を知らないし、わたしの柄でもない。それに、そもそもそんな勇気も度胸もない。彼もあまりわかりやすくは愛情を表に出さないひとだ。つまりお互いこういうコミュニケーションを取らない。だから、気になってやってみたくなったのだ。わたしがこういうことをしたら、彼はどんな反応をするのだろう、と。
 幸い、すぐにチャンスは巡ってきた。その日は彼の家に泊めてもらう日だった。彼に駅まで迎えに来てもらって、彼の家でご飯を食べた。テーブルを拭いていると、食器を洗い終わった彼がすぐ傍の椅子に腰掛けて話しかけてきた。これなら身長差がなかったことになるし、座っている彼はすぐには動けまい。立っているわたしが有利だ。そんな風に心の中で企んでいるわたしを、彼は穏やかな表情で見上げて見つめてくれる。好きだ。わたしはいつも、ふとした時に「好きだ」と思う。急に溢れてくる。きゅう、と胸の奥が苦しくなった。彼が好きだ。
 感情の昂りに背を押され、当初の目的を果たした。身を屈めて、彼のフェイスラインに手を添えて、その右頬にキスをした。唇は、恥ずかしいから避けた。わたしの中で、こういう勢いのままにキスすべき場所ではなかった。だから頬にした。彼の香水と彼本来の匂いが混ざったものが鼻腔をくすぐる。わたしの好きな匂い、いつもの彼の匂い。唇が触れた頬は少し刺激があった。髭かな。
 触れていたのは一瞬だけで、そのまま顔を遠ざけた。我ながらとんでもないことをしたなと思う。彼は少し目を見開いてわたしを見ていた。彼の反応を見るために始めたことだが、前提が覆ってしまった。恥ずかしくて反応を見られない。
「わたしお風呂沸かしてきますね!!」
そう言い残して逃げた。つもりだった。踵を返した瞬間に彼が立ち上がる音が聞こえた。まずい、捕まる。風呂場にたどり着くより前に腕を掴まれ、そのまま後ろから抱きすくめられてしまった。普通に捕まった。
「随分と可愛らしいことをするんだな」
上から声が降ってくる。ああ、あの悪そうな顔をしているんだろうな。あの顔好きなんですけどね。必死に言い訳を考えるが、何も思いつかない。顔が熱い。
「あの」
「それで、俺をどうしたいんだ」
弁明を始めようとする前に遮られてしまった。どうしたいというか、その。
「どうしたいというか、そういうのじゃなくてですね」
もごもごと煮え切らない返事をするが、見逃してくれる彼ではない。首筋に視線が刺さっているような気がしてくる。わたしが何かに影響されたことまで察しているんだろう。
「いまおまえがしたことの理由を聞こうか。おまえが普段やらないような行動に出た理由をな」
ほらね。
「動画を見まして」
「ほう」
「その、彼女が彼氏に突然キスしてみた!みたいな」
「それで?」
往生際悪く言い訳を小出しにしている自分が馬鹿らしくなってくる。全部言わせる気だ。
「えっと、だからその、晴信さんってわたしがこういうことしたらどんな反応するのかな〜……って……」
深く息を吸う音が聞こえた。何を言われるんだろうか。
 身構えていると、大きな手がわたしの顎を持ち上げて、彼を見上げさせられた。顔を覗き込んでくる。
「どうだった?」
意地悪そうで、それでいて機嫌が良さそうな顔と声。想像通りの表情をしていた。全部お見通しなんじゃないんですか。彼の片腕はまだわたしの身体を捕まえたままだから逃げられない。せめて顔を逸らそうとしたが、彼の手に力が入る。許されなかった。
「はずかひくてそれろころじゃらいれひ……」
頬を掴まれているから、滑舌がたいへんなことになっている。羞恥心で目が回ってきたような気がする。わたしを見下ろす彼はくつくつと笑った。
「そうだろうな。行動を起こしてから冷静になるのはおまえの悪い癖だ」
そう言いながら、顔は拘束から解放してくれた。彼の顔をもっと見ていたくて、今度は自分の意思で、顔を逸らさなかった。親指で頬を軽く撫でられる。犬か猫にでもなった気分だ。これを「うれしい」と思っているのだから、わたしも大概彼のことが好きすぎるな、と力が抜けた。

 満足そうに息を吐いた彼は続ける。
「ちなみに、リベンジは叶わないか?」
「な、なんのでしょうか……」
何となく返答の予想はついているが、一応しらばっくれてみる。逃げられるかもしれない。
「キスのだ。おまえ、さっき頬にしただろ」
だめだった。
「キスならしましたよ」
「頬にな」
「……だめですか」
「やり直しだ」
抵抗虚しく退路を塞がれる。言われなくてもどうすべきか分かっているだろう。そんな目をしている。勢いのままにすべきではない場所とは言ったが、こんなに覚悟を決めて自分からするのも違う。恥ずかしい。何が正解なのかもわからないけど。
「じゃあその、せめて正面がいいです」
大人しく捕まったまま要求すれば、彼は片方の眉を少し上げて腕の力を緩めた。やっと解放された。
 彼に向き直って、その顔を見上げる。目が合ったところで、少し身を屈めてくれた。わたしと彼の顔が近付く。腰に手が回され、軽く引き寄せられた。わたしは彼の胸に縋りついて、右手はその頬に添えた。
「あの、目閉じてくださいね」
そう伝えると、彼は眉尻を下げて、まるで「やれやれ」とでも言いたげな表情をしてから目を閉じた。ぐう、悔しい。何が悔しいのか自分でも分からないけど。強いて言うならその一連の仕草がかっこよすぎて悔しい。
 身長差があるから、彼が身を屈めてくれてもなおわたしも少し背伸びをしないと、ちゃんと届かない。彼の服を握る手に力を込めて、ぐっと顔を近付ける。彼の顔の造形がよく見える。鼻が高い。彫りも深い。目の下のシワさえ、彼の魅力を引き立てているような気がする。まつ毛も長い。照明に照らされて、頬にはその影が落ちていた。きれいなひと。しみじみ感じる。わたしも目を閉じて、息を止めた。それから、形の良い厚めの唇に、ほんのちょっとだけキスをした。少しだけ乾燥していた。
 すぐに唇を離して反応を窺う。本当だったらいますぐにでも逃げ出してしまいたいが、叶わないのは分かりきっていた。叶わないし、敵わない。わたしが見上げた彼は、変わらず笑っている。動揺とかなんか、そういうのないんだ。
「あの、ど、どうですか……」
何が「どう」なんだ、と自分でも思いながら、彼に感想を聞く。感想を聞いてどうするのかという話は置いておくことにした。彼は息を吐いてから口を開いた。
「嬉しいもんだな、恋人が自らキスをしてくれるというのは」
自ら?自らかなあ。自らか。意味飽和してくるが、実際彼はうれしそうだった。先程まではからかうような感じだったのが、いまはご機嫌のようだった。
 晴信さんって、わたしがキスしたらうれしいんだ。
 これまで考えたこともなかった。なんというか、そういうものだと思っていた。わたしは彼とのキスが好きだ。好きなひととくっついているのが好きだし、愛してくれているのだと実感できるから。だが、彼にとってどうかわからなかった。嫌ではないんだろうとは思っていた。そういう雰囲気の時にはキスしてくれるし、ねだったら普通にしてくれる。嫌ではないはずだ。そうでなければこんなことしてはくれないだろうから。実際は、わたしがキスしたら、嫌ではないどころか、うれしいらしい。柔らかく微笑む彼が、心の底から愛おしかった。
 見惚れていると、彼はまた意地悪そうな表情をした。いつのまにか彼の片手がわたしの後頭部に回されている。
「今後は結からしてくれることも増えるといいんだがな」
わたしの顔を照らしていた照明が遮られる。彼の顔が近付いた。え、と思っている間に、唇が触れ合った。目を閉じる隙さえなかった。実際に触れていた時間はほんのちょっとだけだったかもしれない。もしくは数秒だったかもしれない。わからない。あまりの動揺に、その時間が永遠に感じられた。彼が遠ざかっていく。
「な」
とギリギリ絞り出した声のような何かを発すると、彼は片方の口角を上げた。
「タイミングが分からないなら、俺を好きだと思った時にキスしたらいい。俺はそうしている」
わたしを解放した彼はわたしの頭をわしゃわしゃと撫でたあと、そのままお風呂場へ向かってしまった。少しして、シャワーで浴槽を流す音が聞こえてくる。
 わたしは彼が言ったことを数秒かけて理解して、素っ頓狂な声を上げた。
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