Inversion / Fragment
バリーの家の庭は、人の声と匂いで満ちていた。
炭火のはぜる音、焼ける肉の香ばしい匂い、子供たちのはしゃぐ声。
夏の夕暮れ特有の温い風が吹き、庭全体が一枚の賑やかな絵のように感じられた。
だが、その中心に立っているのに、私はどこか遠い場所にいるような感覚だった。
足元の芝生の柔らかさも、漂う煙の匂いも、誰かの笑い声も。
すべてが私には現実ではなく見慣れない風景のよつに迫ってくる。
どう振る舞えばいいか分からない。
笑えばいいのか、座ればいいのか、それともただ立っていればいいのか。
歓迎会。
S.T.A.R.S.に加わって二週間。仲間たちが「遅ればせながら」と準備してくれたものだ。
断ろうとした。
だが押し切られた。
「仲間なんだから」と笑顔で言われれば、どう返せばいいのか分からなかった。
それでも足を運んだのは……キャプテンも来ると聞いたから。
その一言で、心は静かに傾いた。
彼がいるなら、私も行くべきだ。
そう理屈をつけて歩き出した。
けれど、いざここに立ってみると、熱気と喧騒に押し込められるようで、呼吸が浅くなる。
私は誰とも目を合わせないように庭を見渡し、ただ立ち尽くした。
子供たちの笑い声が耳を打つ。
バリーの娘がクリスに駆け寄り、腕にしがみついていた。
クリスは大げさに悲鳴を上げて、わざと倒れるふりをする。
それを見たジルとジョセフが笑い、ブラッドが「おいおい、本当に怪我すんなよ」と呆れたように声を掛ける。
その一つひとつが自然で、あたりまえの光景だった。
私の中にある“自然"とは、あまりにも違った。
笑い声は銃声よりも大きく聞こえる。
子供の泣き声と笑い声の違いさえ、瞬時に見分けられず耳が揺れる。
みんなが何気なく楽しんでいる光景は、私にとっては「知らない戦場」のようだった。
バリーの妻が大皿にサラダを盛りつけてテーブルへ置く。
その光景もまた、不思議に見えた。
家族と食卓を囲むという行為が、私には記憶のどこにも存在しない。
「当たり前」を前にすると、心がぎくしゃくと軋む。
私は皿を手にしても、どうすればいいのか分からなかった。
バリーが豪快に肉を取り分け、クリスが瓶ビールを開け、ジルがグラスを並べる。
誰も戸惑うことなく動き、声を掛け合っている。
私だけが、置物のようにその場に立ち尽くしていた。
不意にジルがこちらへ振り返り、目が合う。
「セラ、何飲む?」
笑顔と共に差し出された声は柔らかく、拒絶の余地を与えない。
私は一瞬、答えられず固まった。
飲む? 何を?
視線を周囲に走らせると、テーブルの上にはいくつもの瓶や缶が並んでいる。
琥珀色の液体、透明の液体、泡立つもの、赤いもの……。
それぞれがどんな味で、どんな効果をもたらすのか、私には分からなかった。
「……」
言葉が出てこない。
沈黙を不審に思ったのか、ジルが片眉を上げた。
「もしかして、お酒ダメ?」
心臓が跳ねた。
どう答えるべきか。
戦場では、即答が生存を左右する。
だが今の問いは、撃つか撃たないかよりも難しかった。
お酒……。
私には縁のないものだった。
正確に言えば、かつて破片が肉に食い込んだ時、粗悪なアルコールを水で薄めた液体を「痛み止め」として無理やり飲まされたことがある。
喉を焼くような苦さに涙が滲み、それでも意識を繋ぐために呑み込んだ。
それが酒というものなのかどうか、今も分からない。
少なくとも"味わうもの"だとは、考えたことすらなかった。
「……お酒は……あまり……」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
ジルは目を瞬かせ、そして声を上げて笑った。
「なーんだ、そうだったの。全然いいじゃない。無理することないわよ」
その気さくさに、周りの空気が和らぐ。
だが私の頬はじわりと熱を帯びていった。
「じゃあ、これは?」
ジルがクーラーバックから取り出して差し出したのは、炭酸の泡が透き通る瓶。
「ジンジャーエール。お酒じゃないから安心して」
私は小さく頷くと、ジルは手際よく栓を抜き、それを渡してくれた。
冷えた瓶が手に収まり、火照った皮膚に心地よい。
けれど、胸の奥には小さなざわめきが残ったままだった。
「お酒を飲んだことがない」
それはただの事実なのに、どうしてか欠陥を暴かれたように思えた。
やがて、全員の手に飲み物が行き渡った。
バリーが両腕を大きく掲げて声を張る。
「じゃあ改めて、セラの歓迎だ! ようこそS.T.A.R.S.へ!」
わっと声が重なり、グラスや瓶が高く掲げられる。
私は一瞬、どうすればいいのか分からず、手元のジンジャーエールを見つめた。
周りが当たり前のようにカチンと音を鳴らしているのを見て、慌てて真似をする。
目の前に差し出されたジルのミントが入った泡立つグラスに、自分の瓶をそっと触れさせた。
軽い音が指先に伝わった瞬間、なぜか心臓が大きく鳴った。
ただガラス同士を当てただけなのに。
私は小さく息を整え、表情を崩さないように気を張った。
「セラ、もっと肩の力抜きなさいよ」
ジルがにっこり笑い、私の背を軽く叩いた。
返事ができず、曖昧に首を動かす。
テーブルには肉が山盛りに並び、子供たちがはしゃぎながら取り分けている。
「パパ、大きいのがいい!」
「お前はこれで十分だろ」
バリーの豪快な笑い声と、娘の甲高い声が混ざり合う。
クリスはその横で、まるで戦場のような勢いでリブステーキを平らげていた。
「おいおい、噛んでるのか?」とジョセフがからかうと、クリスは口いっぱいに肉を詰め込みながら親指を立てて返す。
笑いが起きる。自然に、楽しげに。
私は皿を前にして、動きを止めていた。
どのタイミングで取ればいいのか。どのくらい取ればいいのか。
子供のように目移りしてはいけない、と思えば思うほど手が動かない。
「セラ、食べないのか?」
不意に声を掛けられ、肩が跳ねた。
顔を上げれば、ブラッドが瓶ビールを片手にこちらを見ていた。
「……いただきます」
そう答えてトングを手に取る。
けれど、その一動作にまでぎこちなさが滲む。
皿に肉を置いた瞬間、油の匂いが強く立ち上り、胸の奥がざわついた。
匂いで食欲が刺激される感覚。
その単純な反応ですら、私には慣れないものだった。
肉を小さく切り分け、もぐもぐと咀嚼していると、不意に声が飛んできた。
「ねえねえ、おねえちゃん!」
顔を上げると、バリーの娘が両手にコーンを抱えたまま、じーっとこちらを見ていた。
「……はい?」
思わず姿勢を正す。
「どうして全然しゃべんないの? 今日のしゅやく、なんでしょ?」
無邪気な一言に、フォークが手の中で止まった。
……しゃべんない?
「え……私は、その……食べて……ます」
しどろもどろの返答に、娘はきょとんと目を丸くし、それからにっこり笑った。
「じゃあもっと食べてね!」
元気に駆け出していく後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
質問の意味も、返した自分の答えも、よく分からなかった。
その隙を逃さず、今度はクリスの声が響く。
「ルーキー!」
思わず背筋が伸びる。
「遠慮してないで、もっと食べろよ!」
彼の皿は肉で山盛り、戦場さながらの勢いで片付けている最中だった。
「い、いえ、私は……」
言いかけた瞬間、バリーの大きな影が迫る。
「そうだ、そうだ。細い体じゃ現場で倒れるぞ! 食え、食え!」
豪快な笑い声と共に、私の皿にどん、と分厚い肉が追加される。
どん。
皿が小さく揺れ、フォークを持つ手も震えた。
目の前で繰り広げられる“肉の圧迫攻撃”。
私は「ありがとうございます」と口にしたものの、声は妙に上ずっていた。
気づけば笑い声の輪に混じれず、ただ自分の皿を見つめている。
……多すぎる。
……けれど残すわけにもいかない。
フォークを持つ指にじんわり汗が滲む。
どう考えても食べきれない量。
だが残すなど……それは許されない気がして、私は必死に口へと運び始めた。
噛むたびに油が滲み、匂いが強く喉に残る。
周囲は笑い声で満ちているのに、私の世界だけ音が遠く感じられた。
ひたすら咀嚼、咀嚼、咀嚼。
……もぐ、もぐ。
……飲み込めない。
けれど顔には出せない。
思わず視線を泳がせたとき、ふとキャプテンの姿が目に入った。
ウェスカーはテーブルの端に腰をかけ、グラスを片手に静かに様子を見ていた。
その鋭い目が、一瞬だけこちらをかすめる。
見られていた。
心臓が跳ねる。
皿の肉よりも、あの視線の方が飲み込みにくかった。
慌てて俯き、フォークを動かす。
笑い声の中に自分のぎこちない動作音だけがやけに響いている気がした。
それでも、視線の感触は背中に残り続けていた。
*
場がますます盛り上がり、陽が傾きかけた頃。
「おーい見ろよこれ!」
ジョセフがいきなり立ち上がり、テーブルの端に置かれていた瓶を掲げた。
「キャプテンが持ってきたワインだってよ! 絶対高級品に違いない! ほらみんな、飲もうぜ飲もうぜ!」
「おいジョセフ!」
クリスが吹き出すように笑い、肘で小突く。
「お前さっきまでビールで出来上がってたろ。キャプテンのワインにまで手を出す気かよ」
「だってもったいないだろ? こんなの見るだけじゃ失礼ってもんだ!」
ジョセフは大真面目な顔で言い返し、ますます笑い声が広がった。
「仕方ないな……よし、開けようじゃないか」
クリスが折れるように言うと、場の熱はさらに上がった。
「ははっ、なあお前たち、キッチンからグラスを持ってきてくれないか?」
バリーが大声で言い、娘たちが「はーい!」と元気に台所へ走っていく。
「せっかくだから、みんなで味わおう。キャプテンも構わんだろ?」
自然に視線がウェスカーへと集まる。
彼は椅子に腰かけたまま、ほんのわずかに頷いた。
それだけで、わっと歓声が上がった。
私は小さく瞬きをした。
キャプテンの持ってきたワイン。
その響きだけで、胸が強く引き寄せられる。
けれど、ワインがどんな味なのかも、どうやって口にすべきなのかも、私には分からなかった。
子供たちが小さな足音を立てて戻ってくる。
両手に抱えたグラスがテーブルに並べられていく。
ジョセフが得意げにコルクを抜き瓶を傾けた。
「ほら見ろ、色からして上品! 俺もう味分かっちゃうもんね」
「分かってねえだろ」
クリスが笑い飛ばし、バリーまで「ハハッ」と豪快に笑った。
その騒がしさの輪の中、私はただ黙って見ていた。
深い色を透かす光が、妙に鮮烈に映る。
赤い光沢は、グリルの炎を受けてゆらゆらと揺れ、まるで生き物のように息づいていた。
私は空になったジンジャーエールの瓶を握りしめる。
冷たかった瓶はすでにぬるく体温に馴染んでいた。
喉がひくりと鳴った。
……飲んでみたい。
胸の奥でそう呟いた瞬間、熱がこみ上げてきた。
けれど同時に体は固まる。
ワインを飲んだことなどない。
味も知らなければ、飲み方だって分からない。
だからこそ、「飲ませてほしい」と口にする勇気は、どうしても出てこなかった。
結果、私の視線は自然とテーブルの上のグラスに固定された。
……いや、睨みつけていた。
まるで相手が観念して「飲め」と言ってくれるのを待つかのように。
「……おいおい、見ろよセラの顔」
不意に隣からジョセフの声。
「さっきからグラス睨みつけてるぞ! 絶対飲みたいんだろ〜?」
「え……」
慌てて目をそらすも遅かった。
クリスも振り向き、バリーまで「本当だな」と笑う。
「セラ、そんなに気になるなら飲んでみろ。キャプテンのだぞ?」
「……っ、いえ、私は」
否定しようとした声は小さく、頼りなかった。
ジョセフはすかさず身を乗り出す。
「ほらーやっぱそうだ! キャプテンのワインに興味津々! な? みんな!」
わっと笑いが広がり、顔が一気に熱を帯びる。
違う。私は別に……。
内心で必死に否定しても、ジュースの瓶を強く握りしめる指先が自分を裏切っていた。
しかし、ふと視線を上げると、
テーブルの向こうのキャプテンが静かにこちらを見ていた。
無表情で、ただ観察するように。
その眼差しに気づいた瞬間、心臓がひときわ大きく鳴った。
「ほらセラ」
ジルが私にそっとグラスを渡す。
「あんた主役なんだからね。はい、ちゃんと持って」
差し出された透明な器に、思わずぎこちなく手を伸ばす。
手の中でガラスが冷たく光った。
そこにジョセフがワインを持ってきた。
赤い液体が私のグラスに注がれる。
見たこともない色合いに、胸の奥がひそかにざわついた。
「よし、それじゃあ説明してやろう!」
ジョセフがグラスを掲げ、いかにも通ぶった声で言った。
「セラ、これはな……えっと、赤ワインだ。見りゃ分かるな。で、確か……ぶどうをめちゃくちゃ長い時間、木の樽で寝かせて、だから香りが深くなるんだよ。んで、色もこうやって濃くなって……」
私は真面目に耳を傾けた。
「……なるほど」
言葉は理解できなくても、彼が言っていることはきっと重要なのだろうと思った。
ジョセフの身振り手振りを追いかけるように視線を動かす。
彼は鼻を鳴らして笑い、自信満々に続けた。
「あと確か……これはフランス産で、千年くらい前から王様が飲んでたってやつだ!」
「……千年?」
私は思わず首を傾げた。
本当にそんなに古いものが残っているのだろうか。
そのとき。
「ジョセフ」
低い声が割って入った。
場の空気が一瞬だけ引き締まる。
視線を向けると、キャプテンがグラスを持ったままこちらを見ていた。
「それはカリフォルニア産のカベルネ・ソーヴィニヨンだ。熟成は八年。王政どころか、千年どころではない」
「……え」
ジョセフが固まった。
「えーと……あれ? いや、でも樽で寝かせるのは本当だろ?」
「ステンレスタンクを使っている」
容赦なく切り捨てられ、ジョセフの肩ががっくり落ちる。
「ははっ!」
クリスが腹を抱えて笑った。
「おいジョセフ、格好つけ損じゃないか!」
ジルも「セラをからかわないの」と笑みを隠さず、ブラッドまでも「キャプテン相手に講釈は無理があるな」と肩を揺らした。
私はグラスを握りしめたまま、小さく目を瞬かせた。
……全部間違っていたのか。
けれど、必死に聞き取ろうとした私の耳には、不思議とその訂正の声が鮮やかに残っていた。
冷静で、よどみなく、ただ事実だけを伝える響き。
「じゃあキャプテン、正解は?」
クリスが笑いながら水を向けると、自然に場の視線が私のほうへ流れてきた。
「セラに教えてやったらどうです?」
私は反射的に背筋を伸ばした。
キャプテンの視線が、まっすぐこちらに落ちてくる。
その視線を直視すると、胸の奥がじわりと熱くなる。
「……カベルネ・ソーヴィニヨン。果皮が厚く、渋みが強いぶどう品種だ。熟成によって角が取れ、香りと味わいに厚みが出る」
彼はあくまで淡々と、簡潔に言葉を紡いでいく。
私は頷きながら必死に聞き取ろうとした。
もちろん意味はほとんど分からない。
けれど、声の響きだけがやけに鮮明に耳に残る。
ジョセフが冗談めかして笑い、場にまた笑い声が弾けた。
「いやあ、さすがキャプテン。俺の解説より百倍役に立ったな」
「最初から勝負になってないでしょ」
ジルが笑みをこぼす。
ブラッドも「セラにはちょっと難しかったかな?」と肩をすくめる。
私はグラスを両手で包み込み、小さく瞬いた。
難しかった。
けれど、なぜだろう。
……もっと聞いていたい。
胸の奥が妙にざわついて、グラスを持つ手に熱がこもっていた。
「で、セラ。せっかくだから色々考えずに飲んでみなよ」
ジルがにやりと笑い、私のグラスを軽く押した。
「お、そうだそうだ!」
ジョセフがすかさず乗ってくる。
「まずはな、グラスをこうやって回すんだよ。ワインってのは空気に触れさせると旨みが出るんだ。で、匂いを嗅いで……ほら、ベリーの果実の香りとか、樽がステンレスなら、その冷たさとか伝わってくるだろ?」
「適当を言うな、ジョセフ」
低い声がすぐ隣から割り込んだ。
キャプテンの一言に、場の空気が一瞬だけ張り詰める。
「ワインはまず目で見る。色調を確認し、澄んでいるかを確かめる。次に香りだ。表層だけでなく、グラスを軽く回して立ち上る香気を感じろ。そして口に含む。舌の上で転がすようにすれば、甘味、酸味、渋みの流れがわかる」
その声音は、講義のように冷静で正確だった。
みんなが「さすがキャプテンだ」と笑いながら頷く中、私はますます硬直していく。
……回す?
……転がす?
そんな器用なこと、今すぐに?
「ほら、みんな注目だ」
クリスが茶化すように声をあげ、場が一斉に明るくなる。
視線が集まった瞬間、私は体の奥が固まるのを感じた。
……なぜ、全員が見ている。
冷たいグラスが掌に重みをもって沈む。
注がれた赤い液体が、光に透かされて深い色を放っている。
私は一瞬だけ、横に座るキャプテンへと視線を向けた。
彼は表情ひとつ動かさず、ただこちらを見ている。
逃げ場はない。
喉が渇き、唇がわずかに震えた。
「……いただきます」
声は妙に小さく、掠れていた。
グラスを持ち直し、震えそうになる手を抑えながら、慎重に傾ける。
香りが鼻に広がり、思っていた以上に重たい。
舌先に触れた液体は、甘いのか苦いのかすら分からない複雑さだった。
熱。
喉を伝うたび、体の奥がじんわりと熱を帯びていく。
「……」
言葉が出てこなかった。
ただ、不思議な味と香りに圧倒されて、呼吸すら忘れそうになっていた。
「ど、どうだ?」
ジョセフが身を乗り出す。
ジルも興味津々に覗き込み、バリーはにやにや笑っている。
私は唇を震わせ、どうにか声を絞り出した。
「あ……えと、特別、特別な味がします」
一瞬の沈黙のあと、どっと笑い声が弾けた。
「特別!」
「そりゃそうだ、キャプテンのワインだからな!」
「いや、分かってない顔してるぞセラ!」
頬がじんわりと熱くなる。
それがワインのせいか、視線のせいか、自分でも分からなかった。
*
笑い声と肉の匂いに包まれた庭は、すっかり熱を帯びていた。
バリーの娘たちが串に刺した野菜を手に走り回り、ジルが「ちょっと! それまだ焼けてないわよ!」と追いかける。
クリスは大皿を抱えたままジョセフと肩をぶつけ合い、どちらが多く肉を食べられるかで本気の言い合いを始めている。
バリーはそんな二人を豪快に笑い飛ばしながら、新しい肉を網に並べていく。
「セラ、もう一杯どうだ?」
声をかけられた瞬間、私はわずかに肩をすくめた。
バリーが豪快にワインの瓶を掲げ、すでにこちらへ歩み寄っている。
「キャプテンの持ってきたワインなんて、めったに飲めるもんじゃないからな!」
隣ではジョセフが「おー、もう一杯いっとけ!」と調子よく叫び、クリスが「お前は黙っとけ!」と笑いながら制していた。
戸惑う私にジルがにっこりと笑う。
「ちょっとずつでいいのよ」
「……はい」
断る言葉は浮かばず、私は頷くしかなかった。
赤い液体がまたグラスに注がれる。
深い色合いが夕暮れの光を受けてきらめき、私の瞳に強く映り込んだ。
口に運んだ瞬間、舌に広がるのはあの複雑な苦みと甘さ。
分からない。分からないけれど、何かが確かに胸に残る。
……不思議な味だ。飲むたびに違う顔を見せる。
飲み干すたびに頬が熱を帯び、視界の輪郭が柔らかく溶けていく。
指先までじんわりと温かい。
胸の奥の鼓動が、少しずつ速さを増していくのを感じた。
「おい、セラ!」
クリスの声に、私は思わず肩を跳ねさせた。
「無理して飲むなよ。お前、まだ慣れてないんだから」
その声は笑っているのに、どこか兄のような気遣いが滲んでいた。
私は慌てて小さく会釈した。
「……ありがとうございます」
言葉が少し遅れて、舌がもつれる。
それを聞いたジョセフが「お、もう顔赤いんじゃないか?」と笑い声を上げ、周囲の笑いに混ざった。
……違う。酔ってなんかいない。
ただ、少し熱いだけ。
自分に言い聞かせても、鼓動は早鐘のように響いて止まらなかった。
熱くなる頬を誤魔化すように、私はまたワインを口に運んだ。
自覚のないまま、杯は少しずつ空いていき、気づけば再び注がれていた。
*
やがて空は群青に沈んでいく。
庭先の灯りに照らされた空気は、夕暮れ時よりも柔らかく、どこか幻のように感じられた。
心地よい浮遊感の中で、私はただその場に留まり続けていた。
グリルの炭火は赤く揺れ、焼け残った肉の匂いがまだ漂っている。
子供たちはお腹いっぱいになったのか、庭の隅で何やら秘密の相談をしていた。
「よし……そろそろ出番かな」
バリーが立ち上がり、倉庫から大きな箱を抱えて戻ってきた。
その中には、細長い紙筒や色とりどりの袋がぎっしり詰まっている。
「……花火?」
ジルが目を丸くした。
「まさか用意してたの?」
「もちろんだ。夏の夜といえばこれだろう!」
バリーは胸を張り、子供たちが「やったー!」と歓声を上げて飛びつく。
ジョセフも「おお、いいじゃないか!」と張り切って手を叩き、ブラッドが「お前に火の扱いは任せるぞ」と苦笑交じりに肩をすくめた。
わいわいと花火の準備が始まる。
やがて小さな火花が庭先に散り始めた。
バリーの娘たちが手持ち花火を振り回し、ジョセフが「おいおい危ないって!」と笑いながら追いかけている。
ジルとクリスも線香花火を手に、誰が長く火を保てるか勝負をしていた。
私は輪の少し外で腰掛けていた。
グラスはもう空になっている。
いつからか、何度も注がれていた。
飲み方も量も分からず、差し出されるたびに受け取っていた結果、今になって頬が火照り、頭が少しふわついていることに気づく。
……これが酔う、ということなのか?
足元は安定しているのに、色とりどりの火の花を映す視界は淡く揺らめいて見える。
胸の奥はじんわり熱を持ち、心地よい浮遊感に包まれていた。
「随分と飲んだようだな」
静かな声。
顔を上げると、キャプテン……ウェスカーがそこにいた。
「きゃ、キャプテン……」
慌てて立ち上がろうとするが、足がふらついて動きが鈍い。
それを見て、彼の瞳がわずかに細められた気がした。
「……普段酒は飲まないのか?」
短い問いかけ。
だが、その声音はいつもの冷徹さよりも幾分やわらかく聞こえた。
「は……はい。ほとんど……」
本当は飲んだことなどない。
しかも酔いのせいか、言葉がたどたどしい。
彼はグラスを軽く持ち上げ、赤い残り香を眺める。
「ワインの味はどうだった」
問われ、私は胸がどきりとする。
味……本当はよく分からなかった。
甘いのか苦いのか、それすらも。
でも……。
「……おいし、かったです」
思わず、口にしていた。
しどろもどろな私の答えに、ウェスカーの横顔がわずかに動く。
笑ったのか、気のせいか。
庭の灯りがサングラスにかすかに揺れ、夜の冷えた空気の中で、それだけが不思議と温かく感じられた。
「ワインは複雑だ。言葉にできなくてもいい。……感じたままで十分だ」
その一言が、胸の奥でひどく響いた。
耳にした瞬間、呼吸が浅くなる。
そんな言葉が彼から出るなんて。
「感じる」などという曖昧な答えは許されない世界で、私は生きてきた。
けれど目の前の彼は、幼稚にも思える私の返答を、否定しなかった。
その事実が、頭では受け入れられないのに、心だけが強く反応してしまう。
この一瞬があまりに現実離れしていて、心の奥で熱が生まれ、息を呑む。
どうして。
どうしてそんな言葉を、私に。
熱のせいか、息が勝手に震える。
「……はい」
視線を逸らしたのに、またすぐに見てしまう。
彼と目が合うたび、胸の奥が不思議にざわついた。
「顔が赤いな」
不意に指摘されて、息が詰まる。
「……えっ」
手を頬に当てると、火照りが掌に伝わる。
「そ、そうでしょうか……」
「飲み過ぎだ」
淡々と告げられたはずなのに、その声は妙に近く、耳に残った。
サングラスの奥の視線は読めない。
けれど、そのまま動きを止めた彼の横顔に、わずかな間が生まれた。
ただ静かにこちらを見ているようで、その沈黙が妙に長く感じられる。
その横顔は色を帯びた火の灯りに照らされ、遠い夢のように感じられた。
胸の鼓動ばかりがせり上がっていく。
私はグラスをぎゅっと握りしめる。
「……ありがとうございます」
なぜかそんな言葉まで出てしまい、自分で混乱する。
彼は何も返さなかった。
ただ静かに、傍に立ち、火花の光を見ていた。
気づけば、花火の光や子供たちの笑い声すら遠くなっていた。
ただ彼の隣に立ち、赤く残るグラスを握っているだけで、夜は特別なものに思えた。
ふたりともそれ以上何も言わず、ただ静かに庭先を見ていた。
沈黙なのに、どこか会話よりも深いものがそこにあった。
私は息をするたびに胸の奥が揺れ、熱に包まれていくのを感じていた。
ワインの余韻と、夏の夜の熱気。
そのすべてが溶け合って、今だけは現実ではなく幻のように思えた。
まるで、この夜がいつまでも続けばいいと、
そんな愚かな願いすら、胸の奥でふっと灯る。
その瞬間だった。
パンッ!!
パンパン!!
空気を裂くような轟音が、庭を震わせた。
低い夜空に、鮮やかな光の束が弾ける。
「……っ!」
思考が真っ白になる。
次の瞬間、二発、三発と続けざまに破裂音が重なり、空が閃光で引き裂かれた。
「うわぁーっ!」
バリーの娘たちが歓声をあげ、ジョセフが「おおーっ! 来た来た!」と騒いでいる。
ブラッドが「おいおいこっちに置くな! 近いって!」と笑いながら後ずさる。
庭は一気に騒然とした熱気に包まれた。
皆が笑い、見上げ、喜んでいる。
歓喜の喧騒が弾ける中で、私は全身を硬直させていた。
耳の奥が痛む。
頭が真っ白になる。
心臓が暴れるように打ち、背筋を冷たい汗がつたう。
これは、花火?
分かっている。
分かっているはずなのに、体は理解を拒んでいた。
心地よい浮遊感は、一瞬で吹き飛んだ。
歓声も笑い声も、すべて遠くのざわめきにしか聞こえない。
熱に満たされていた胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
この夜が続いてほしいと願ったのは、ほんの束の間だった。
砕け散る火の粉が空に広がるたび、その愚かな願いは音を立てて崩れていく。
「……っ」
喉を通る声は震えていた。
拳を握りしめても、掌は汗で滑る。
戦場に戻ったわけではない。
ただ花火を見ているだけ。
それなのに、体はどうしても言うことを聞いてくれなかった。
私は視線を落とした。
皆が空を仰ぎ、笑い、叫んでいる。
私だけが、そこに立ちすくんでいる。
耐えられなかった。
私は震える足を抑えながら、ゆっくり離れようとした。
背を向ける直前、どうしても口を閉ざせず、短く言葉がこぼれる。
「……少し、休んできます」
その声は自分でも驚くほど平坦で、抑揚がなかった。
本当は胸の内が騒ぎでいっぱいなのに、それを覆い隠すために削ぎ落とした声。
振り向かなくても分かる。
キャプテンが、こちらを見ている。
気づかれたらまずい。
心臓の乱れを見透かされるわけにはいかない。
振り返らず、玄関へ向かう。
背後では歓声と破裂音が続いていた。
誰も不審には思わないだろう。
……そう祈った。
*
玄関を閉めた途端、外の喧騒は壁の向こうに遠ざかった。
暗い廊下に残るのは、自分の荒い呼吸と、鼓動の音だけ。
壁に背を預け、拳を握りしめる。
足元の床がやけに冷たく感じられた。
胸にあった心地よい熱は、音と光に打ち砕かれた。
ほんのひととき錯覚した「願い」は、あの光と同様に夜の闇に呑まれて消えていく。
私は思い出す。
なぜここにいるのか。
なぜやり直したのか。
彼を救うため。
そのためだけに。
歓声も、笑い声も、温かな光も、私に与えられるものではない。
私は道具だ。
何のためにここにいる。
愚かな願いなど、抱いてはいけない。
胸の奥で、そう繰り返す。
繰り返して、塗りつぶす。
窓の外では、まだ光が散っていた。
鮮烈な破裂音が空を切り裂き、子供たちの歓声が混じる。
だが私の世界には届かない。
それらはすべて、別の誰かのものであって私のものではない。
「……戻らなければ」
呟きは、誰にも聞かれない。
静まり返った室内で、ただ虚しく響いた。
やがて轟音は収まり、残るのは遠くで小さく散る火花の音と、歓声の余韻。
私は深く息を吸い込み、吐き出す。
「セラ、こっちでもう片づけ手伝って!」
ジルの声が廊下の向こうから響き、私は短く「はい」と返した。
心を揺らす時間は、ただの過ちだ。
私には果たすべき使命がある。
そう繰り返しながら、私は再び表の顔を取り戻した。
*
庭に戻ると、花火は終わりを迎えていた。
子供たちは眠そうに父親の腕に抱かれ、ジョセフはすっかり出来上がって芝生に寝転がっている。
クリスが呆れ顔でそれを引き起こし、ジルが片づけを仕切っていた。
さっきまで空を彩っていた光も、もう跡形もない。
残っているのは、湿った夜気と、どこか冷え切った静けさだけ。
ウェスカーは、すでにグラスを置いていた。
その横顔には何の色もなく、最初から温度など存在しなかったかのように、冷静で静かだった。
私はその姿にほんの一瞬だけ目を留め、すぐに視線を逸らす。
胸に灯った温かさは、夜風に吹き消された火花のように消えていた。
残ったのは冷たい現実。
これからも続くのは、その道だけだった。
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