Inversion / Fragment
夜の雨はまだ止まず、舗装の剥げた道路を濡らしていた。
標的は輸送車に乗せられ、二人の護衛に囲まれて郊外の拠点へ移送されている。
マスターから言い渡された任務は、その途中で奪取しろ、というものだった。
標的が何者かも、なぜデータを持っているのかも知らない。
私にとっては必要のない情報。
重要なのは、命令を実行し、確実に記録媒体を持ち帰ることだけ。
車のライトが闇を切り裂いた瞬間、私は路肩から飛び出した。
銃声が短く響く。狙いは前輪。
乾いた破裂音の直後、タイヤが裂け、護送車がバランスを崩してスリップする。
鉄の匂いと火花を撒き散らしながら、車体が横転した。
護衛が転がるように外へ出てくる。驚愕と混乱の表情。
私はすでに動いていた。
最初の一人の首を、銃口が振り向くより先に刃で裂く。
血飛沫が雨に紛れて地面に溶けた。
二人目は声を上げたが、引き金に指がかかる前に私の銃弾が眉間を撃ち抜いた。
音は短く、抵抗もなく、彼は倒れた。
横転した車のドアを引きはがす。
中で震えていた標的が「待て、取引を——」と叫んだ。
その声は私には意味を持たない。
腕を伸ばし、こめかみに銃口を押し付ける。
引き金を引く音が夜の雨に吸い込まれる。
静寂。
私は冷めた目で死体のポケットを探り、小さな媒体を取り出した。
それを確認し、鞄へと収める。
呼吸は乱れず、心拍も上がらない。
人を殺すことも、欺くことも、奪うことも、私にとっては日常だ。
何も残らない。
ただ実行したという事実だけが積み重なる。
雨に濡れた舗道を歩く私の靴底には、血と泥がこびりついていた。
だがそれも、数歩進めばすぐに汚れは雨水に洗い流される。
背後に横転した車両と死体がいくつも転がっている。
これ以上の処理は不要だ。
証拠を残そうと残すまいと、マスターにとっては関係がない。
彼が求めているのは結果、ただそれだけだ。
私は鞄を確かめた。媒体はそこにある。
任務は完了した。呼吸は乱れていない。
胸の内に生まれるのは、達成感ではない。
……これを渡す時の彼の視線、声。
報告をすれば、彼は名を呼んでくれるだろうか。
「よくやった、セラフィナ」と。
あの声で呼ばれる瞬間、私は確かに“存在”を与えられる。
彼にとっては数秒の何気ない言葉にすぎない。
けれど私には、それが唯一のご褒美だった。
冷徹な任務の後でさえ、心のどこかに小さな温もりが芽生える。
だがそれは誰にも知られてはいけない。
*
研究棟へと続く廊下は、夜でも白々と明るい。
無機質な蛍光灯が等間隔に並び、光は冷たく床を舐める。
その上を私の足音が乾いた調子で響いた。
報告を終えた後に待っているものを思うと、歩調は自然と速まる。
だが、胸の奥で制御する声が囁いた。
「期待を顔に出すな。悟られるな」
速足になれば、それは期待を証明してしまう。
私はわざと歩調を落とし、冷徹な無表情を貼り付けた。
「私はただの道具。報酬などない」
そう繰り返すことで、胸の内の熱を押し込める。
それこそが彼のセラフィナなのだから。
棟の奥へ進んだとき、不意に音が耳を打った。
小さな衣擦れ。
続いて、湿った音。
その直後に、男の低い声。
私は即座に足を止めた。
危険の気配と判断し、ホルスターに手をかける。
反射のような動作だった。
壁に背を預け、呼吸を潜め、視線をわずかな隙間へと差し込む。
そこにいたのは、マスターだった。
黒のボタンダウンシャツにスラックスという、研究棟ではあまり見ない服装。
彼の正面には、艶のある黒髪を高く結い上げた女が立っている。
細い腰に沿う服。露わになった肩と首筋。耳元には真珠のような飾りが光っていた。
顔は彼の肩越しに半ば影に隠れ、はっきりとは見えない。
女の指が彼の胸元を掴み、何かを迫るようにねだっている。
互いに低く湿った声をやり取りし、意味は分からなくともただならぬ空気が漂っていた。
次の瞬間、二人の顔が近づいた。
そして、唇が触れ合った。
……何をしているんだ?
その行為は知識では知っている。
だが、実際に目の前で見るのは初めてだった。
理解は追いつかない。
なぜ彼が、そんなことをする必要があるのか?
私には分からなかった。
世界は音を失い、視覚だけが異様に鮮明になる。
理屈で処理するしかない。
これは利用なのか?
支配の一環なのか?
それが示す意味を探して思考が巡り続ける。
だが、その光景は視界に焼きついたまま動かなかった。
理解できないのに、消えもしない。
そのとき、彼が女の耳元に口を寄せた。
「……これで満足か?」
冷たく、乾いた声音。
いつもの彼と変わらないはずだった。
だがその声は、私を呼ぶときの響きとは違って聞こえた。
私は壁から静かに背を離す。
抱えた鞄の重みが、妙に生々しく指先に食い込む。
足音を殺し、廊下を逆に進む。
今は報告の時ではない。
そう心の中で繰り返すことで、自分に言い訳をしていた。
だが本当は、足が勝手に退いていた。
正しい判断だ、と理屈で塗りつぶすしかなかった。
研究棟を出ると、外はまだ雨が降っていた。
冷えた風が頬を打ち、濡れた髪の先が首筋に張りつく。
いつもなら無視できる些細な感覚が、妙に際立っていた。
歩を進めるたびに、さっきの光景が頭の奥でちらつく。
唇が触れ合う、あの一瞬。
理解できない。ただ、それだけなのに。
それでも消えてはくれなかった。
*
闇の中、私はひとり立ち尽くしていた。
足元は濡れた石畳のように冷たいはずなのに、皮膚がひりつき、熱がこもっていく。
呼吸をしても空気が重く、肺に入るたびに圧迫されるような苦しさがあった。
視線の奥に、影が二つ揺れていた。
黒いシャツを纏ったマスターの姿。
その正面に寄り添う女の影。
廊下で見た光景が、まるで幻灯のように繰り返されている。
女が顔を寄せる。
唇が触れ合った瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
次の瞬間には、心臓が暴れるように打ち始める。
一度ごとに血が全身へ叩きつけられ、熱が内側から押し広げる。
息が追いつかない。
吸っても足りず、吐いても収まらない。
私は後ずさろうとしたが、足は床に縫い止められたように動かなかった。
影が歪み、揺らいでいく。
女の顔が掻き消え、そこには私自身が立っていた。
なぜだ?
考える前に、彼の影が手を伸ばす。
頬に触れた感覚が伝わった瞬間、喉の奥が詰まり、体の奥に得体の知れない震えが走った。
それは痛みではない。
けれど、恐怖に似たもっと不快な熱が胸から腹へと流れ落ちる。
腰が抜けそうになる。
足が小刻みに震える。
冷たく濡れた床の感触がかえって強く意識に突き刺さり、敏感すぎる皮膚が自分のものではないように疼いた。
怖い。
傷など負っていないのに、心臓は焼けつくように速く打ち、呼吸は勝手に乱れ、手足は意思を裏切るように震えていた。
体が命令を聞かない。
私は心の中で必死に言葉を探した。
これは恐怖なのか?
だが、死に直面したあの瞬間でさえ、こんな震えはなかった。
恐怖とも違う。痛みでもない。
あらゆる感覚の枠組みで必死に説明しようとした。
だがどこにも当てはまらない。
不可解な現象が、名を与えられぬまま私を支配していた。
熱はさらに深くへと沈み込み、どうしようもなく私をかき乱していく。
指先が痺れ、喉は乾き、汗なのか涙なのかも分からない液体が頬を伝う。
なぜ? なぜこんな風になる?
影の中で声が囁いた。
「……これで満足か?」
その声が響いた瞬間、全身が跳ね上がる。
胸が焼けつくように痛い。
息が荒く、体が震える。
理解できない。
なぜ私はこんなにも乱れているのか。
怖い。ただ怖い。
意味の分からない感覚に呑まれていくことが、恐ろしくて仕方がなかった。
視界を閉じても、影は消えなかった。
熱と震えだけが残り、体は自分のものではないように揺さぶられていた。
私は夢の中で、ただ恐怖に縛られ、逃げられないまま震え続けていた。
目を開けた瞬間、胸が激しく波打ち、喉が焼けるように乾いていることに気づいた。
全身は重く、眠りで休んだはずなのに、戦闘を終えた後のような疲労が残っていた。
シーツは汗でじっとりと湿っており、額や首筋にも冷たい雫が流れている。
だが、それ以上に異様な感覚があった。
太腿の内側に、冷たく張りつく不快な湿り気。
下着越しに伝わるその感触に、思わず全身が硬直する。
何だ? 私は怪我をしていない。痛みもない。
指先で恐る恐る布地に触れた。
湿り気は思った以上に濃く、布越しにもぬるりとした感触が伝わってくる。
私は息を呑んだ。
汗ではこんな粘り気はない。
鉄の匂いもしない。
ただ、ぬめるような異質の感触だけが指先に残った。
さらに確かめようと、布の端をわずかにずらし、直接皮膚に触れる。
指先にまとわりついたのは、引き延ばされるような粘り気を持った液体だった。
冷たさと同時に、微かに温もりも残っている。
ぬるり……と糸を引く感触が、あまりにも自分の体のものとは思えなかった。
私は指を慌てて引き離した。
けれど、その瞬間に残った粘りが糸のように指先から伸び、切れずにまとわりついてきた。
これは何だ?
答えのない問いが胸の奥でぐらつき、理解できない異質さに背筋が凍った。
心臓が再び強く打ち始める。
胸の奥からせり上がってくるのは理解不能の恐怖。
夢の中で押し寄せた熱と震えが、現実にまで染み出してきたかのようだった。
考えれば考えるほど、思考は空回りしていく。
病気なのか? ウィルスの副作用か?
ならば、マスターに報告すべきだ。
異常は記録され、解析され、彼の判断に委ねられるはず……
そう考えた瞬間、夢の中の彼が脳裏に浮かぶ。
途端に呼吸が乱れた。
胸がざわつき、息が詰まる。
報告すれば、この異常までも……あの光景に結びつけられてしまうのではないか。
理解不能な恐怖が全身を駆け巡った。
……いや、これは報告してはならない。
異常ではなく、おそらく失態なのだ。
こんなにも自己を乱し抑制できないなど、知られてはならない。
私は口を閉ざし、徹底して隠すことを選んだ。
すぐに下着を脱ぎ捨て、水に沈める。
指についた粘りを何度も擦り落としたが、感触だけが皮膚の奥に残り、ぬめりは幻のように指先をまとわりつき続けた。
鏡に映る自分の顔は蒼白で、呼吸はまだ浅い。
心臓は速い鼓動を続け、下腹部の奥には説明のつかないざわめきが残っている。
治っていない。これはまだ続いている。
冷たい水で洗ったはずの体を、内側から焼くような恐怖が離れなかった。
私は頭を振り、思考を打ち切った。
「考えるな」
自分に命じるように、ただその言葉を繰り返す。
次に眠るとき、また同じことが起きるのではないか。
その想像だけで、まぶたを閉じることさえ怖くなった。
洗い終えた下着はまだ水に沈んでいる。
新しい衣服に着替えても、皮膚には感覚の残滓が張りついて離れなかった。
それでも疲労は容赦なく体を沈めていく。
私はベッドに身を横たえ、抗うこともできず、闇に呑まれていった。
恐怖を抱いたまま、次の眠りへ。
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