Inversion / Fragment
出発前の部屋は、いつもより乾いていた。
空調が余計に効いているのか、喉の奥がざらつく。呼吸を深くすると、そのざらつきが肺まで滑り落ちて、身体の芯を冷やす。
私は机の上の装備を一つずつ並べる。
マガジンの装填数。止血剤の残量。フィルターの予備。中身が空の耐衝撃ケース。
……今日は“回収”が最優先になる。念の為、ロックの作動を確認しておく。
そして、今日の標的施設が示されたリスト端末。
これは単にルートや施設の状況をナビゲートするだけではない。
私たちのバイタルサイン、そして感染の兆候をリアルタイムで確認できる。
腕に端末を装着すると、冷たい金属の感触が肌を締め付け、これからの作戦の重さを告げた。
「今日、珍しく四人なんだね」
背後から、少しだけ明るい声が落ちてくる。
「施設相手なら、単独の方が非合理だからだろう」
私は淡々と言う。
「へえ。セラが“非合理”とか言うと偉そうに聞こえる。……“あの人“みたいに」
「口を動かすより、装備を確認」
私は視線も向けずに言う。
「はーい」
声をかけてきた人物……リカは、作戦の際に私と組まれることが多い。
理由は単純で、彼女は私を補助をするのが上手い。
自分が主役だと勘違いしない。指示があれば反射で動く。馴れ馴れしいのは性格で、仕事の邪魔にはしない。
部屋の反対側で、マッズが端末を操作している。
彼は最初から余計な会話に参加しない。
余計な事を喋らずに黙々と仕事をこなす。
彼は解錠と偽装が主な役割で、扉やセキュリティだけじゃなく、人間の手順も読む。
警備の交代時間。ログの空白。監視カメラの死角。
数字と規則の隙間に刃を差し込むのが上手い。
「マッズ、回線は」
私は確認する。
「問題なし。施設の外周に入ったら、こっちで一度ダミーを流し、ログに“誰も来ていない”痕跡を作る」
「ふーん……つまり、バレないように“嘘”つくんだ」
リカが言う。
「嘘は本当はお前の得意分野のはずだがな」
後方にいたカイルが口を挟む。
「は?」
リカの眉が跳ねる。
「……“嘘”じゃない。カバーでしょ。潜入の基本」
「言い方を変えただけじゃねえか」
私は遮る。
「準備に専念。余計な会話は今はいらない」
「へいへい。お嬢さん」
彼はわざとらしく手を上げてみせた。
私は端末の図面に指を滑らせ、外周の警備ルートと、廊下の交差点を表示する。
施設相手の仕事は、鍵を開けるだけじゃ終わらない。
扉を開けた瞬間から、数十秒単位で見られる確率が積み上がる。
「カイル」
「ん?」
彼はまだ笑っている。
「外周の目をまず潰す。監視カメラ、巡回、警報。万一、音が鳴ったら真っ先に叩く。侵入中は、マッズの作業時間を稼ぐのが優先だ」
カイルが肩をすくめた。
「要するに、オレが派手に暴れていいってこと?」
「派手にはせず、短く、静かに」
私は言い直す。
「暴れるのではなく“空白”を作ってほしい」
カイルの笑いが、ほんの少しだけ消える。
理解した顔になる。彼は軽いが、理解が遅いわけじゃない。
「……了解。静かに派手に、な」
「矛盾してる」
リカがぼそっと言う。
「矛盾してるから、ちょうどいいんだよ」
カイルが返す。
それは正しい。
カイルは口が悪いが、こういう場面の勘は鋭い。
短い乱れを作って、視線をそらし、その隙に抜ける。
彼の仕事は撃つことじゃない。時間を盗むことだ。
マッズが端末を閉じる音を立てた。
「外周の監視ログ、十秒だけ空白にできる。カイル、その間に巡回を一つずらせ」
「十秒か。短いな」
カイルが舌で歯を鳴らす。
「……まあいい。短い方が、失敗しても傷が浅い」
リカが私の横に寄って、小声で言う。
「カイルってさ……ムカつくけど、仕事は速いよね」
「そうだな。だから使う」
私は答える。
リカがむくれる。
「……そこ、“だから信頼する”じゃないんだ」
「……必要なのは結果だ」
私は淡々と言って、ケースのロックを指先で確かめた。
「ふーん。相変わらずセラは私に厳しね」
「……“信頼“しているから、と言っておけば正解か」
自分の声が、思ったより静かに落ちた。
言ったあとで気づく。冗談のつもりで余計なことを言ったと。
リカが瞬きを二回して、驚いた顔のまま固まる。
やがて口元がふっと緩む。嬉しさを隠しきれない、子どもみたいな表情。
「……今の、聞き間違いじゃないよね?」
「……」
沈黙のあいだに、リカがこちらを覗き込む。
私の顔色を確かめるみたいに。
私は手元を見つめ視線を合わせない。
それでもリカは、勝ったみたいに小さく鼻を鳴らした。
「セラ、なんだか今日はいつもと違うね」
リカがもう一度、明るい声を作る。
「で、今日も私の役割、いつも通り?」
「大枠は同じ」
私は端末の図面を示す。
「マッズが侵入と解錠、ログ偽装」
「カイルが外周の目と足を切る。撤収時は追跡を切る」
「私は回収と撤収判断、ケース保持」
「リカは私の死角を埋めろ。……私が動けなくなったらケースを持て」
リカが一瞬だけ黙る。
そして、わざと軽く笑った。
「はいはい。それじゃあいつも通り、セラの背中係ね」
「係じゃない。役割だ」
「はい、その言い方はいつものセラ。
……でも、セラの背中見るの、嫌いじゃないよ」
「……」
「じゃあ今日も、その手順に従いまーす」
リカの軽い声が室内に霧散するのと同時に、自動ドアが滑らかに開いた。
ウェスカーが入ってくる。
彼は私たちを一瞥した。
挨拶ではない。数を数えるみたいな目。
姿勢、装備、呼吸の速さ――そのどれもが、彼にとっては“成果の確率”に換算される。
視線が、順番に流れる。
マッズの端末に向かう指先。カイルのホルスター……腰の位置。リカの肩の硬さ。
そして最後に、私の前で一度だけ止まる。
他のメンバーよりほんの少しだけ留まると、やがて手元の空のケースに流れる。
「目標は事前に共有したこの研究施設」
端末が投影される。地図。外周。建物の断面図。
施設名は、ありふれた文字で記された受託試験センター。
表向きはワクチンや生体試料の安定性評価を請け負う、白い箱だ。
「受託研究CROの試験棟。外から見れば合法なクリーンな場所だ」
ウェスカーの声は温度がない。
図面の中には、細い線で区画がいくつも重なっている。
エアロック、クリーンルーム、陰圧区画。何重もの二重扉。
それは安全のためではなく、外の世界への絶絶を目的とした構造であることが見て取れた。
「回収対象はこのワクチンだ」
ウェスカーが端末を切り替える。
投影されたのは試験棟の最深部。陰圧区画のさらに奥、二重扉の保管庫がピンが打たれている。
「ここだ」
拡大された映像の中心、耐衝撃ケースの中に青いバイアルが一本だけ固定されていた。
「この棟は開発拠点ではない。危険株の実証と保管を請け負うただの場所だ。陰圧区画、封鎖、除染。事故が起きても外に出さないための構造になっている」
ウェスカーは、淡々と、しかしどこか悦びに似た響きを帯びて言った。
「そして皮肉にも数週間前、この施設でアウトブレイクが起きた。封じ込めこそ成功したが、内部の人間が……いわゆる実験材料に成り下がった。だが、そのおかげでワクチンの開発は飛躍的な進歩を遂げたようだ」
端末の冷たい光の中に、不気味な赤色を湛えたバイアルが映し出される。
「このウイルスは……確か、まだ試験段階の……」
私は言いかけて、言葉を止める。
私の知る知識、ウイルスの分類、そして目の前の画面に表示されたワクチン。そのパズルが噛み合わない。
「そうだ。このウイルスそのものがまだ未完成だ。当然、ワクチンを精製できる段階にはない。理論上、対抗手段などこの世に存在し得ないはずだった」
ウェスカーは、端末上のバイアルを指先でゆっくりとなぞった。
まるで、手に入れた莫大な富の感触を確かめるかのように。
「これは、計画的に確立されたワクチンではない。制御不能の地獄が生み出した、偶然の産物だ。……アウトブレイクによって、ウイルスは生身の人体という最高の培養槽で、数年分に相当する変異を数時間で遂げた。そして、死にゆく研究者たちが残した生体データが、完成への“最後の鍵”を吐き出したのだ」
研究者が最も忌み嫌い、そして喉から手が出るほど欲しがる、禁忌のショートカット。
アウトブレイクの全記録が凝縮された“血塗られた資産“と言い換えた方が正確だろう。
「ゆえに」
ウェスカーの声が、逃れようのない結論へと滑る。
「精製されたロットは、まだこの一本しかない。量産プラントを稼働させるためのオリジナルデータも、このバイアルの中にしか存在しない。これを失えば、二度と再現は不可能だ」
彼は静かに、だが確信を持って告げた。
「回収チームの役割は一つ。そのバイアルを、傷一つなく私の手元へ運ぶことだ。失敗は許されない。……代わりになるデータは、もうどこにも存在しないのだからな」
「了解」
声がぶれないように、喉の筋肉を締めて返す。
ウェスカーは頷きもしない。ただ、そのまま視線を外す。
それが彼の承認だと、私は知っている。
「質問は」
誰も口を開かない。
マッズの指が止まったまま、カイルの軽さが消え、リカが息を浅くする。
ウェスカーは静かに私を見る。
答えを求めるのは私だというように。
ウェスカーが立ち上がり、出口へと歩き出す。
すれ違いざま、彼が耳元で低く囁くように告げた。
「 セラ……お前が“必要な存在“だと言うのなら、証明してみせろ」
扉が閉まる硬い音が、部屋に残響する。
――証明。
それは、いつも通り任務を遂行するだけのはずなのに。
なぜか今日は、胸の奥に棘のように引っかかった。
*
施設の外壁は黒かった。
夜の闇に溶ける黒ではなく、光を吸って鈍く返す黒。
コンクリートと金属の匂い。消毒液の匂い。
鼻腔の奥がツンと刺される。まるで最初からここは人間の場所ではない、と言っているかのよう。
「二分で開ける」
マッズが小さく囁き、手慣れた動作で端末を操作する。
私は、銃を構えたまま背後の通路を警戒した。
静寂。
遠くで空調が唸る音だけが、耳の奥でやけに大きく響く。
扉が、電子音と共に微かな音を立てて解錠する。
私たちは音を殺し、影のまま内部へと滑り込んだ。
廊下の照明は白く、冷たい。
壁面に反射した光が、装備の金属に鈍い輝きを焼き付けた。
「……ここが受託棟の心臓部か。死体一つないとは、不気味なほどだな」
カイルが小声で毒づく。
確かに、アウトブレイクがあったとは思えないほど、廊下は清浄に保たれていた。
血痕も、争った跡もない。
だが、その白さがかえって、この先に待つものの異様さを際立たせている。
「静かにしろ。……次、リカ。角をクリアに」
私の指示に、リカが音もなく先行する。
警備員は少なかった。
いや、少なすぎる。
その違和感が、緊張を膨らませる。
だが、違和感だけで止まる理由にはならない。任務は進む。
隔壁を抜け、研究区画へ。
「ここだ」
リカが小声で言う。
扉の向こう側、保管庫。
その厚重な扉は、外部からの侵入を拒むためではなく、内部の“何か”を外に出さないための威圧感を放っていた。
「マッズ、頼む」
私の合図で、マッズがインターフェースに端末を直結させる。
「了解……。システムをオーバーライドする。ロック解除まで、三十秒」
静寂が、再び私たちを包み込む。
廊下の白い光が、マッズの額に滲んだ汗を無機質に照らしていた。
カイルが背後を、リカが通路の先を、呼吸さえ殺して警戒している。
あまりにスムーズな潜入。少なすぎる警備。
そのパズルのピースが埋まらないまま、扉が重い駆動音を立てた。
「……開いたぞ」
プシュ、という空気の抜ける音が、気密の終わりを告げた。
扉が左右にスライドし、暗闇の中に青白いバックライトに照らされた保管庫が姿を現す。
「……これか」
カイルが、息を呑むように呟く。
部屋の中央、耐衝撃強化ガラスの向こう。
重厚なクランプに固定された一本のバイアルが、青白いLEDに照らされて鎮座していた。
この小さなガラス瓶の中に、数百人の無残な死と、数年分の科学の進歩が凝縮されている。
ウェスカーが画面越しに愛撫するように撫でた、あの“血塗られた資産”。
代わりはない。
地獄から産み落とされた、たった一本の救い。あるいは、破滅。
私は手袋越しにケースを掴み、慎重にクランプを解除する。
ひやりとした金属の冷たさが、グローブを透過して掌に伝わってきた。
「……よし、回収完了だ。ずらかろうぜ。ここは居心地が悪すぎる」
カイルがようやく肩の力を抜き、出口へ向かって歩き出す。
「撤収。……三分でここを抜ける」
私は短く言った。
リカが半歩後ろに付く。私の背後と側面を、無言のまま埋める。
先頭を行くマッズの、端末を握る指先は落ち着いている。
最後尾のカイルは、いつもの軽口を封じ、意識を背後の闇に集中させている。
全員が、完璧な形を保っていた。
保管庫の扉が、ゆっくりと閉じる。
気密が戻る乾いた音が背中に貼りつき、私たちは再び、あの無機質な白い廊下へと滑り出た。
照明の白さが、さっきよりも冷たく、刺すように感じる。
反射した光が装備の金属を鈍く焼き、影を殺した壁の白さが、平衡感覚を失わせるほどに視界を平坦にする。
「……なあ」
カイルが、押し殺した声で言った。
「さっきから警備が薄すぎる。これ、絶対に何か――」
「無駄口は不要だ。今は最速で出口を抜けることだけを考えろ」
私はその疑念を遮る。
私自身が抱いている、心臓を撫でるような不安を押し殺すために。
リカが短く頷き、マッズは既に次の隔壁にある端末の位置を目で追っている。
四人分の、浅く鋭い呼吸が重なり合う。
帰りのルートは、来た時よりも短く、容易に突破できるはずだった。
――角を曲がった、その瞬間だった。
カン。
低い衝撃音が、背後で鳴った。
金属が金属を噛む、骨の軋みに似た乾いた音。
私が振り向くよりも早く、背後の隔壁が落ちた。
さっきまで通ってきた道が、冷徹な鉄の一枚板によって完全に切り離される。
「……っ!」
前方でも、同じ音が呼応した。
カン。カン。
二つ、三つ。
私たちの歩幅に合わせるように、前方のゲートが次々と落ちていく。
「封鎖だ! はめられたか!?」
カイルが怒号に近い声を上げた。
逃げ道を塞ぐゲートが噛み合う、重い終焉の音。
私たちが踏みしめている廊下は、もはや通路ではない。密閉された、巨大な棺に変わっていた。
その沈黙を切り裂くように、死の宣告が響く。
『隔離プロトコル開始。感染源を確認』
無機質な合成音声が、真っ白な棺の中に響き渡った。
「は? 感染源って……誰のことよ?」
リカの震える声。
「……隔離プロトコルだと? クソッ、扉が開かない! マッズ、コードはどうした!」
カイルがゲートを力任せに殴りつけ、怒鳴る。
マッズは端末を睨み、吐き捨てるように言った。
「おかしい。感染源がないのにプロトコルが起動している。システムがエラーを起こしてるのか?」
「全員マスクのフィルター装着確認。リストのモニタリング起動。バイタルを共有しろ。今すぐ」
私は素早く命令を飛ばす。
「了解」
マッズが端末を片手で叩き、全員のステータスを共有画面に呼び出す。
リカが震える手でフィルターをねじ込み、カイルが舌打ちしながら装着を完了させた。
その瞬間だった。
『警告:気密エリア内でウイルス漏出を検知。中和剤を噴霧します』
天井の細いスリットが開く。ノズルが、獲物を見定めるようにこちらへ向きを揃えた。次いでシュー、と音もなく白い霧が噴き出した。粒子が細かい。光を透かして、綿のように美しく舞う。
「ガスだ!」
「慌てるな。除染プロトコルなら無害のガスだろう。念のためマスクを装着していれば問題ない。終われば封鎖も解かれるはずだ」
私が言い聞かせるように告げた直後、アナウンスがノイズ混じりに断絶した。
『エラー:除染プロトコル……システム異常。中和……開始できません。除染を終了します』
不気味な沈黙。
ノズルが吸い込まれるように閉じる。
「なんだ? もう終わりか? バグってるのか?」
カイルが毒づくが、私の胸騒ぎは収まらない。
「マッズ、扉がまだ開かない。時間のロスだ。開けられるか?」
「もうやってる! だが、システムが妙に重い。誰かが裏で割り込んでるみたいだ」
「なんか、さっきっから変じゃない
……?」
リカが不安げに天井を見上げる。漂う白い霧が、まだそこにある。
マッズが端末に指を走らせた。
「クソ……受け付けな……」
それに応じるように、マッズのリスト端末が狂ったような警告ログを吐き出した。
ピィ、という耳を刺す高音。液晶画面が、毒々しいまでの赤色で明滅する。
『BIOHAZARD DETECTED』
「は……?」
マッズの手が止まる。
「何かが、おかしい……」
液晶には、マッズの体温の急上昇と心拍数の異常、そして感染を告げる文字が点滅し続けていた。
「マッズ、慌てるな。我々はウイルスに暴露していない。何か誤作動が起きているだけだ。まずは扉を開けて外に出るのが優先だ。解析を続けてくれ」
私は平静を装い、彼の肩を叩こうとした。
「あ、ああ……わかってる」
静まり返る空間に、マッズの端末が刻む警告音だけが、死のカウントダウンのように響く。
「あと10秒だ……。……よし、開くぞ! システムが不安定だからさっさとここから――うっ!」
「どうした?」
「う……ぅ……い、ま……」
「マッズ?」
「はぁ……苦しい……っ」
マッズが突然、顔を歪めてマスクを引き剥がし、喉を掻きむしる。
「マッズ! 外すな! ガスがまだ残っている」
「う゛……うああ……っ、う゛あああッ!!」
駆け寄ろうとした足が、止まる。
生物的な本能が、激しい警鐘を鳴らした。
――近づくな。距離を取れ。撃て。逃げろ。
マッズがゆっくりと顔を上げる。
「え……嘘でしょ」
リカの声が、絶望に凍りつく。
カイルが、無意識に一歩、後ずさった。
その手は、既にホルスターの銃にかかっている。
マッズが喉の奥で、湿った獣じみた唸り声を上げた。
「やめろ、マッズ! 戻れ!」
カイルの叫びも虚しく、マッズは咆吼と共に地を蹴った。
マッズの瞳は既に焦点を失い、白目の赤い筋が蜘蛛の巣のように眼球を覆い尽くしている。
返事など期待できるはずもない。
彼はもう、言葉の届く場所にはいないのだ。
「っ――!」
速い。
人間のリミッターを外した動き。
重いはずの装備を纏った身体が、関節の制限を無視して跳ねる。
靴底が硬い床を叩く音が、密閉された棺の中で何重にも反響した。
「クソ……ッ!」
カイルが怒鳴り、銃を抜く。
鼓膜を震わせる発砲音が、狭い空間で跳ね返った。
弾丸がマッズの肩を抉り、肉片が舞う。
だが、止まらない。
痛みの信号が、もはや脳に届いていないのだ。
マッズがさらに加速した。
まるでその銃声が、獲物へ飛びかかる合図だったかのように。
次の瞬間、マッズの巨躯がカイルに叩きつけられた。
金属と肉が激突する鈍い音。
壁に打ち付けられたカイルの背中から、肺の空気が強制的に絞り出される。
「ぐっ……!」
カイルが苦悶に歪む顔で銃を振り上げようとする。
だが、変貌したマッズの指が、その手首を万力のような力で掴んだ。タクティカルスーツの下から越しに骨が軋む音が聞こえる。
「やめろッ……!」
カイルが叫ぶ。声は掠れ、吐き出す息に湿った咳が混じり始めた。
私はマッズの肩に銃床を叩き込んだ。
急所はカイルと重なり狙うことができない。
マッズは怯むこともなく喉を鳴らし、今や食い千切る対象となったカイルの喉元へ顔を近づける。
「セラ!!」
リカの悲鳴。
「リカ、そこにいろ!」
銃をホルスターに叩き込み、私はナイフを抜いた。
二人の入り乱れる間合いへ、影のように踏み込む。
カイルは必死に抗っていた。
肘を、膝を使い、生存本能のままにマッズを押し返す。
揉み合いの最中、マッズの振り回した腕がカイルのマスクに引っかかった。
ストラップが装備の突起に絡み、無残に弾け飛ぶ。
マスクが半分めくれ、カイルの無防備な素肌が露出した。
「ひっ……!」
それと同時、私はマッズの肩口へナイフを深く突き刺した。
マッズが耳を劈く咆吼を上げてよろけ、わずかに二人の身体が離れる。
その一瞬の隙間。
私は至近距離からマッズの眉間へ銃口を固定した。
乾いた銃声が一度。
マッズの身体が大きく跳ね、壁に叩きつけられた。
喉の奥の唸りが途絶え、糸の切れた人形のように膝が崩れる。
ただ、死んだマッズの腕にある端末だけが、今なお不吉な警告音を刻み続けている。
私がその液晶を撃ち抜くと、ようやく静寂が訪れた。
カイルが壁に背を預けたまま、激しく咳き込み、歪んだ笑みを浮かべた。
「かはっ……げほっ! ……た、助かった……」
震える手で、銃をホルスターに戻すカイル。
だが、その指先が、何かに怯えるように痙攣しているのを私は見逃さなかった。
「助かったんだ、早くゲートを抜けようぜぇ……」
カイルがぜえぜえと、枯れた肺から空気を絞り出すように笑う。
よろりと立ち上がる足元は、泥酔した男のように覚束ない。
彼は半分外れかけたマスクを直そうと手を伸ばしたが、指先が自分の頬に触れた瞬間、ビクリと凍りついた。
「……? なんだ、これ」
安堵が、じわりと不快な困惑に上書きされていく。
彼はマスクを戻すのをやめ、剥き出しになった頬をゆっくりとなぞった。
「……な、なぁ、セラ。……熱いんだ。ここが。皮の下で、何かが蠢いてるみたいに」
「……ただの生理反応だ、カイル。アドレナリンが切れて、毛細血管が拡張しているだけだ。すぐに収まる」
「ち……違う。これ、マッズと同じだ」
カイルが、自分の首筋を爪が立つほど掻きむしった。
「あいつ、おかしくなる前に喉を掻いてただろ? 今、俺も同じなんだ。喉の奥が、砂を飲んだみたいにザラついて……っ、げほっ! げほっ!!」
激しい咳き込み。一度咳き込むたびに、カイルの瞳から理性が削げ落ち、不透明な恐怖が満ちていく。
彼は自分の手に付着した唾液を、血眼になって凝視した。
「カ……カイル、落ち着いて。深呼吸して」
リカは言葉をかけるものの、駆け寄ることはない。その場に凍りついたまま、汚物を見るような目でカイルを凝視している。
「わかるんだ……! 血管の中に、何かが這い回ってる感覚がする……。きっとさっきのガスのせいだ。マッズを狂わせたウイルスが、俺の中にも入ったんだ……!」
「デタラメを言うな。マッズはガスを吸っていない」
私の制止など、もはや彼には届かない。
「嘘だ! 俺はガスを吸った! ウィルスがダクトから逆流してるんだ!」
リカがなだめるように手を伸ばした、その瞬間だった。
カイルが反射的に腰のナイフを抜き、横薙ぎに振るった。
「触るな!!」
鋭い刃がリカの袖を深々と切り裂く。
破れた生地の隙間から鮮やかな赤が噴き出し、白い床に点々と染みを作った。
「リカ!」
私は銃を構え直すが、カイルは既に狂乱の極みにいた。
「……セラ、お前……持ってるだろ」
カイルの視線が、私の左手に握られたケースに固定される。その目は仲間を見るものではない。死に瀕した獣が、唯一の命綱を奪い取ろうとする飢えた光を宿していた。
「ワクチンをよこせ」
「感染と決まったわけじゃない。ガスの成分が何かも――」
「何かもクソもない! 見ろよ、これが何だって言うんだ!」
カイルが叫び、私にじりじりと詰め寄る。
銃口を私へ向けたまま、その目は獣のようにぎらついていた。
「武器を下げろ、カイル」
「……ワクチンを寄越せ」
カイルが銃を上げた。
私は動いた。
躊躇している時間はない。
銃口が私を捉えるより早く、カイルの腕を弾き、関節を折る方向へ捻り上げる。
鈍い骨の音が響き、カイルが悲鳴を上げた。
床に落ちた銃を蹴り飛ばし、彼の腹に膝を叩き込む。息の抜ける音がした。
「……やめろ……」
呻き声は人間に戻ったように弱々しい。
だが、その弱さは信用できない。
人間は、弱さで人を騙す。
私はカイルの喉元に銃口を押し当てた。
指が引き金に触れる。
「セラ!」
リカの咄嗟の声が背後で割れた。
私は引き金を引く代わりに、カイルの頭を冷たい床に叩きつけた。カイルの目が裏返り、動かなくなる。
「……時間がない。ここに置いていく」
マスクの内側が汗で濡れ、呼吸が重い。
その時だった。
「……ぁ……あ……」
リカが、背後を指して絶句する。
振り向くと、倒れていたマッズの背中が不自然に盛り上がっていた。
皮膚の下で何かが蠢き、骨が内側から押し上げられる。
彼の指が不自然に伸び、爪が裂け、体液が滲み出す。
変異の兆候だ。
私は迷わず撃った。
銃声が密室で跳ね返り、耳が焼ける。
マッズの肉塊が動きを止めた。
「……セラ……」
リカが泣きそうな声を出す。
「リカ」
私はしゃがみ、一定の距離を保ったまま呼んだ。
「動けるか」
リカは頷こうとして、喉が詰まったように首を振った。
やがて彼女は震える指で、自らの腕を指差した。
カイルに切り裂かれた、あの傷。
この疑心暗鬼の地獄において、それは十分すぎる“死刑宣告”だった。
「……私、も、感染……した、のかな?」
リカが、自らの腕に刻まれた赤い傷を凝視しながら囁く。その声の震えが、私の背中を氷のように冷たく撫でた。
「分からない。だが、まずはここを出る。時間がない」
私は立ち上がり、開かれた隔壁に向かって歩き出す。
背後でリカが立ち上がる気配がした。足音が、湿った躊躇いを含んで近づいてくる。
「分からないって……」
声音が、薄い膜のように震えている。
普段の彼女が持つ軽さがない。
冗談で場を繋ぐ余裕が、完全に消失している。
「ねえ、セラ。あんた……」
呼び方が崩れている。
状況が、そして私たちの関係が崩れている証拠だ。
「言いたいことがあるなら短く言え」
私は振り返らずに突き放した。
リカが一瞬黙る。
そして、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「……あんた、冷たすぎるよ。私たち……感染してるかもしれないのに。命がかかってるのに、まだ任務優先なの?」
リカが乾いた、悲鳴に近い笑いを漏らす。
「優先順位は変わらない」
「変わらない? 感染してたらどうするの! 全員ここで死ぬんだよ! あんたも、私も!」
「ただの可能性だ。判断を変える根拠にはならない」
「……何よ、それ……」
彼女の声が、怒りと恐怖で濁る。
「もう、あんただって感染してるかもしれないんだよ?」
「何度も言わせるな。確証はない。ここから速やかに離脱する」
リカの声が鋭く尖っていく。
「マッズは変異した! カイルもおかしくなった! 私だって、今、血が出てる! 傷口がガスに触れたかもしれない!……ねえ、セラ、あんた、私がどうなってもいいの? 私、あんたみたいになりたくて、必死についてきたのに……!」
言葉が乱れ、呼吸が上がる。
パニックの兆候。
ここで止めなければ、彼女は自分から崩れる。
「リカ」
私は名前を呼び、声を一段だけ低くした。
「今、必要なのは議論じゃない。動け。傷は圧迫しろ。喋るな」
「……命令?私に死ねって命令するの?」
リカの瞳に、絶望的な色が滲む。
「ねえ、セラ……あんた、本当にウェスカーの言うことだけで動くの? あの人を信じてるの? ……あんた、盲目すぎるよ。可哀想になるくらいに!あんな男に、あんたの何が分かるっていうの!?」
盲目。
外部から見た評価として理解してしまうからこそ、その言葉は鋭利な刃物のように不快だった。
「今その話をする必要はない」
「必要あるよ! 捨てられてるんだよ、私たちは! あの男にとって、私たちはただの使い捨ての駒なの!」
私は歩く速度を落とさない。
会話を重ねれば、彼女の感情は膨張し、収拾がつかなくなる。
「捨てられてはいない。任務が優先されているだけだ」
「同じでしょ!あんたはあの人に利用されてるだけなんだよ!」
リカが激しく足を踏み出す。
「これ以上話すつもりはない。置いていくぞ」
「……セラ。あんたがそんなに平気なのは、あんたがウェスカーの“お気に入り”だからでしょ」
その瞬間、胃の底が沈んだ。
お気に入り。
そんな安っぽい言葉で私の存在を説明されることが、耐えがたい。
「私の立場は関係ない。歩け」
「関係あるよ! あんたはあいつにとって“必要”なんでしょ! でも私は? 私はただの数でしょ? 代わりがきく消耗品なんでしょ!?」
悲痛な叫び。
彼女の憧憬は、今や黒い憎しみへと塗り替えられようとしていた。
このままでは危険だ。
説得は時間を食い潰す。そして時間は命を削る。
そのときだった。
私のイヤーピースが、短く震えた。
耳の奥に、氷のような声が落ちる。
『セラ、タイムポイントが大幅に過ぎている。状況を報告しろ』
私は通信を開いた。
「こちらセラ。状況報告」
『話せ』
返答は即座だった。
「チームは壊滅。変異者発生。ワクチンは確保。アクティブはリカのみ。ウイルス暴露の可能性を訴えています。……現在、ワクチン使用の許可を求めています」
沈黙。
『許可しない』
当然のように、無機質な声が落ちた。
『お前の任務は仲間を救うことではない。ワクチンを持ち帰れ。資産はそれだ。余計なことに時間を割くな。生存者が足手まといになるなら処理しろ。判断は任せる』
通信が切れた。
資産。
その言葉が、私の背骨を冷徹に貫く。
隣で、リカの呼吸が大きく跳ねた。
「……今の……“処理しろ”って……」
彼女の声が裏返る。
やがてそれは、純粋な、剥き出しの憎悪へと変わった。
「セラ……あんた、今のを聞いて、何とも思わないの? 私を殺すの? あの男に言われたから、私をゴミみたいに捨てるの!?」
「……」
私は沈黙を守る。
余計な言葉は火に油を注ぐだけだ。
リカの目が、私の胸元のケースに釘付けになる。その瞳には、かつて私に向けられていた色はカケラも残っていない。
「……私は捨て駒にはならない」
「リカ」
「ワクチンをよこせ」
私は首を振る。
「無理だ」
「よこせッ!!」
リカが猛然と踏み込む。
私は半歩下がり、制止の手を上げる。
「争えば、お前はここで死ぬことになる。お前が死ねばワクチンの意味は消える。――それでもやるのか」
「やるよ……! あんたを殺してでも、私は生き残る!」
リカが腰の銃に手を伸ばした。
私は動いた。
銃口のラインから外れ、彼女の肘を叩き落とす。
銃声が一発、天井へ抜けて跳ね返った。
「よこせ! 離せ!!」
殴りかかる手をかわし、素早く手首を掴むと、関節の可動域を越える方向へ捻り上げる。
骨が小さく鳴った。
彼女は歯を食いしばり、もう片方の手で私の胸元にあるケースを、勢いよく掴みにかかる。
その目に宿る、恐怖、怒り、そして自分を選ばなかった私への憎悪。
私は彼女の膝裏を蹴り上げた。
リカの身体が崩れる。
その背後へ回り込み、首に腕を回した。頸動脈を圧迫する正確な位置。
「やめ……っ、セラ……っ……!」
抵抗が次第に弱くなり、身体の重みが増していく。
やがて彼女の指が私のケースから離れ、力なく垂れ下がった。
私は圧を抜いた。
リカが床に滑り落ちる。
呼吸は浅いが、生きている。
ヘリの離脱時間、ウェスカーの忍耐。
すべてが限界を指している。
だから私は、彼女を“持ち帰る資産”から除外した。
リカの手首のリスト端末を外す。
薄いベルトを切り、装置を掌に落とす。
ナイフの柄を使い、その精密機械の心臓部を正確に叩き潰した。火花が散り、端末の信号が死ぬ。
潰れた端末を拾い上げ、先ほど仕留めたマッズの死体へ歩み寄る。
死後もなお蠢き続ける肉塊のそばに、リカの端末を放り捨てる。
これで、彼女はロストとして処理される。
私は、意識を失ったリカを担ぎ、逆走した。
たどり着いたのは、研究区画から独立した小規模な医務シェルターだ。
気密性は保たれており、予備電源による空気循環も生きている。
私は彼女を診察台の上に、静かに横たえた。
汚れた頬。気絶していてもなお苦痛に歪む眉間。
その表情が、かつて私の背中に投げてきた軽口とまるで噛み合わない。
私は彼女の傷口を一度だけ見据え、手早く、事務的に動いた。
彼女の傍らにいくつかのものを置く。
簡易止血材、抗生物質、そして予備のフィルター。
すべて、任務を遂行する上で私が“余剰“だと判断し、廃棄したもの。
最後に、私はシェルターの扉に手をかけた。
電子ロックは外側から物理的に破壊し、内側からの非常解放ノブだけを有効にする。
「……セラ?」
背後で、リカが微かにうめき声を漏らした。
意識が、混濁の淵から戻ろうとしている。
私は振り返らない。
振り返れば、彼女はまた私に縋る。
縋らせることは、彼女の生存確率を下げる無駄なコストだ。
私はハッチを閉め、外側からノブを叩き壊した。
鋼鉄の重厚な音が、私たちの決別を冷酷に告げた。
『あの人を信じてるの?
……あんた、盲目すぎるよ。可哀想になるくらいに。あんな男に、あんたの何が分かるっていうの!?』
『あんたはあの人に利用されてるだけなんだよ!』
「……」
分からなくていい。
名前を与えられた瞬間から、私はもう自分のものじゃなくなった。
あの熱と落下――手の届かなかった絶望の重さを、私は一度だって忘れていない。
そのためなら、盲目という蔑称さえ心地いい。
利用されることで“必要”であることを証明できるのなら……私は喜んでそうする。
他人の定義する“私”など、私にはもう必要ない。
彼を救うためなら、私は何だってするだろう。
たとえそれが、いつか私を捨てていく道で、救いのない地獄の底まで続いていたとしても。
最期の一歩まで、私は歩みを止めない。
ただ、あなたの影として。
外の廊下へ出ると、警報が鳴っていた。
赤いランプが明滅し、壁が血の色に染まる。
「こちらセラ。目標を確保。これより離脱する」
通信ボタンを押し、私は事務的に告げた。
『予定より4分遅い。急げ。300秒後に当該エリアを完全放棄する』
「了解」
私はワクチンケースを胸に抱え、走り出した。
すでにゲートが自動閉鎖されている区画が多く、脱出ルートは大幅な遠回りを強いられる。
マスクの内側は汗でびしょ濡れになり、肺に送り込まれる空気は鉄の味がした。
防衛システムが作動する重々しい足音が聞こえるたび、私は呼吸を止め、影に溶ける。
不意に、胃の底からせり上がるような吐き気がした。
ガスは無害のはずだ。だが、喉の奥が焼けつくように熱い。
疲労によるものだろう。
思考を断ち切り、私は最後の一歩を蹴り出した。
非常口を抜けて外気に触れた瞬間、冷気が肺の奥の熱を鋭く刺した。
「……っ」
合流地点では、ヘッドライトを消した黒いバンが潜んでいた。
私がスライドドアを開けると同時に、アクセルが踏み込まれる。
「回収完了」
運転席の男は私を見ようともせず、無線を飛ばした。
私は血と泥に汚れたタクティカルスーツを脱ぎ捨て、座席に深く身を沈める。
窓の外、遠ざかっていく研究施設が、闇の中で静かに爆破処置されていくのが見えた。
すべてを置いてきた。
マッズの亡骸も、カイルの狂乱も。
そして、私の背中を呪い続けているであろう、リカの叫びも。
バンは街の灯りを避け、未舗装の裏道を抜けていく。
二時間後、中継地点で別の車両へと乗り換えた。
会話はない。今は沈黙こそが唯一の平穏だった。
拠点へと続く長い夜の舗装路。
窓に映る自分の瞳を見る。
そこに映っているのは、いつもと変わらない私の姿だ。
やがて、夜が白み始める頃。
漆黒のゲートが重々しく口を開けた。
冷たく、完璧な要塞と私は戻ってきた。
私はワクチンケースを握り直す。
この「重さ」こそ、私が地獄を歩んでいる唯一の証だ。
車が止まる。
私は深く息を吸い、迷いのない足取りで車を降りた。
冷たい静寂が支配する拠点の廊下。
私のブーツが刻む規則正しい足音だけが、無機質な壁に反響する。
向かう先は、ただ一つ。
彼が待つ部屋の重い扉を開け、一歩、踏み入れた。
逆光の中に立つその背中は、この世のあらゆる混沌から切り離されたかのように峻烈で、美しい。
「ワクチンを回収しました」
私はケースを差し出した。
ウェスカーがゆっくりと振り返る。
黒い手袋越しに受け取られたケースが、カチリと音を立てて開かれた。
バイアルに満ちた青い液体が、冷徹な室内の光を反射して不気味に輝く。
ウェスカーの指先がバイアルを固定する金具をひと撫でし、確かめるように光へかざす。
「チームは」
「……全員、排除しました」
「理由を」
私は一拍だけ息を整える。
「施設内で隔離プロトコルが作動。排気がバイパスされ、正体不明のガスが噴霧されました。除染とアナウンスされましたが、システムは異常を繰り返しました」
ウェスカーは頷かず、指先だけが、バイアルのガラスをゆっくり撫でる。
「その後、マッズの端末が感染警告を出し、急性症状の後に変異。処理しました」
「カイルとリカは」
「マッズの変異を見てパニックに陥り、ワクチンを求めて衝突。カイルは攻撃的になり、リカを負傷させました。私はワクチンのみを資産として確保する判断を取り、二名とも排除しました」
「リカはお前に懐いていたと思ったが……」
ウェスカーの口角が、ごく僅かに持ち上がる。
「惜しい資産を失ったな」
ウェスカーはケースを閉じた。
カチリ、と音がして、室内の空気がさらに冷える。
「……セラ」
低い声。名前を呼ばれるだけで、背筋が正される。
「お前は“感染”したと思ったか」
質問が意外だった。
私は瞬きを一度だけする。
「……可能性は考慮しました。ガスが何か分からない以上、暴露の可能性は否定できません」
「ではなぜ可能性程度で、混乱が起きたと思う」
私は答えを探す必要がない。見たものは明確だ。
「症状です。掻痒、咳、熱感、吐き気。マッズの変化。カイルの呼吸器症状。リカの出血」
「ふむ。では聞こう」
ウェスカーは椅子に寄りかからず、ただ立ったまま私を見下ろす。
視線の圧が、言葉よりも強い。
「マッズは、ガスを吸ったか」
私は喉の奥が一瞬だけ詰まった。
――吸っていない。
少なくとも、変異の兆候が出たとき、彼はまだマスクをしていた。
外したのは“症状”が出たあとだ。
「……吸っていません。少なくとも、発症した時点では」
「なぜ変異した」
簡単な問いのはずなのに、答えが滑らない。
私は自分の記憶の順番を、冷静に並べ直す。
隔離プロトコル、ガス、中和エラー。
リスト端末の警告、そして――マッズの発症。
「端末の警告が出たあと、急に彼は苦しみ始めました――」
その後の言葉を言いかけて、私は口を閉じた。
ウェスカーが、愉悦を孕み、口元だけで笑った。
「順番を間違えると、人間は簡単に壊れる」
ウェスカーの声は講義のように滑らかだった。
「人間は一度“宣告“を受け取ると、肉体はその情報を事実として処理し、反応を開始する。恐怖は神経系を支配し、呼吸を乱し、心拍を上げ、皮膚を熱くする。……そして自分で勝手に確信を作る。カイルとリカのようにな」
私の背中を、見えない指が撫でたような寒気。
私は思わず反射で問う。
「……では、あれは本当は感染ではなかったと?」
ウェスカーは即答しない。
その沈黙が、答えを濁すのではなく、わざと余白を作っているように感じた。
「私は感染していない、とは言っていない」
喉の奥に澱んでいた熱が、不意に冷えていくのを感じた。
あのアナウンス、エラー表示、端末の警告音――
マッズの変異……“恐怖“だけで人の骨は軋まない。皮膚の下で肉は増えない。
そしてカイルの狂乱も、リカの絶望も……ガスという実体ではなく、彼らが信じ込まされた“情報“という毒によって引き起こされた、ただの反応だったのだとしたら。
……そして私は、その狂乱の中で、最も合理的な答えを導き出した。
仲間を切り捨て、独りで戻ってくるという答えを。
『セラ……お前が“必要な存在“だと言うのなら、証明してみせろ 』
――それが、描かれていたシナリオだとしたら。
「……お前は極限の中でも正しい根拠を持ち、正しい判断を下した」
ウェスカーは満足そうに目を細めた。
まるで自分の駒が盤面で正しく進むのを眺めるかのように。
「隔離室へ行け。……お前のその“確信”が本物かどうか、じっくりと検分してやろう」
「……了解、しました」
私は深々と頭を下げた。
視界の端で、ウェスカーの瞳が赤く輝いているように見えた。
まるで、最初から私の答えを知っていた者の顔みたいに。
私は彼の影として、完璧に機能した。
その事実に、私は震えるほどの悦びと、名前のない虚無を同時に抱きしめ、部屋を後にした。
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