2章
ローターの振動が背骨を伝い、一定の拍で背筋を揺らし続けた。
機体はラクーン郊外の森林上空で速度を落とし、梢を掠める高度を維持して進む。
目的はブラヴォーチームのヘリの捜索だ。
天候は崩れていないが、湿り気を含んだ雲が夜空に厚く漂い、光を吸い込むように垂れ込めている。
闇の濃さに曇天が重なり、下の森は墨の海のように沈んで見える。
ときおり小さな乱流が入り、機体が浅く横滑りする。
ブラッドが操縦桿を細かく切り、地形に合わせて機首をわずかに振った。
「……熱源反応なし。視認優先で続行する」
キャプテンの声がヘッドセットに落ちてきた。
抑揚を排した平板な声色は、感情を隠すよりも判断の迷いがないことを伝えてくる。
黒い森の切れ目に異物の輪郭が浮かんだ。
ジルが身を乗り出し、短く声を上げた。
「クリス、見て!」
私は窓に顔を寄せ、視線を樹間へ滑らせた。
ひしゃげた尾翼、剥き出しのローターマスト、腹から叩きつけられた痕。
灌木をなぎ倒して停止した機体の塗装はラクーン市警のカラーだ。
ブラヴォーのヘリに間違いがない。
ブラッドが降下操作へ移り、ローターの風が地面を叩いた。
スキッドが枝葉を掠め、機体が沈む瞬間に膝を柔らかく使って衝撃を殺した。
着地の揺れが収まると同時にハーネスを外し、金具が鳴った次の呼吸でクリスが降り、私も地面へ飛び降りた。
鼻を刺したのは熱と油、そして焦げた繊維の匂いだった。
火勢はすでに収まり、爆発の危険は低いと判断できる。
墜落から時間が経過しているはずなのに、森は異様なほど静かだった。
夜のはずなのに虫も鳥も音を落としている。
「機体内部と周辺を確認しろ」
キャプテンの短い命令が落ち、隊列が散った。
バリーは後方を押さえ、ジルは左翼、クリスは正面。私は右側面から回り込む。
銃口は下げて安全方向を保ち、視線だけで情報を拾った。
割れたキャノピー、歪んだ計器盤、床に散った機材。
操縦席で動かない身体が目に入る。血痕は乾き始めていて、切断面は鋸の滑らかさを欠いていた。
引きちぎられた痕だ。咬合圧で裂断された可能性が高い。
「……ケビンだ」
ジルが低く名を呼び、続く言葉を誰も重ねなかった。
沈んだ緊張が一列に走る。
機体周辺には装備と破れたマップケースが散乱し、撃ち合いの痕跡は見当たらない。
機体後方から森へ乱れた踏み荒らしが伸びていた。
引きずりではなく、複数の個体が入り乱れて通過した痕だ。
ジョセフが足跡を拾い、先頭へ出た。
私たちは距離を保って追尾する。
夜の森は不自然なほど静かで、風も弱く、葉擦れが止まっている。
音のない暗闇は集中を強制し、呼吸の深さにまで意識が向いた。
低い唸りが正面の闇からこぼれ、全員の銃口が反射でそちらへ向いた。
音が、次の瞬間に霧のように消えた。
ジョセフの肩から力がわずかに抜け、銃口がわずかに下がった。
その隙を狙うように影が地面から跳ね上がった。
牙が肩口へ食い込み、ジョセフの身体が後方へ引き倒された。
呻きが漏れるより早く、もう一匹が背中へ、さらにもう一匹が腹へ回り込む。
群れの連携は訓練された兵より速い。
「ジョセフ!」
クリスの怒声が森に突き刺さった。
私は左へ半歩流し、飛び込んできた個体の顎の軌道を外した。
前脚が伸び切った瞬間に首の付け根へ肘を打ち込み、崩れた頭蓋へ二発通した。
骨が割れる手応えが掌に残り、銃声が森の壁に跳ね返った。
振り返ると、ジョセフはすでに複数に押し潰されていた。
肩に食い込む牙、背と腹を裂く爪。
腕を振り回しても重みが勝ち、食い破る音が止まらない。
「ジョセフ!」
バリーのマグナムが火を噴き、轟音が闇を裂いた。
覆いかぶさっていた一匹の頭部が砕けたが、残りは離れない。
肉の裂ける鈍い音が続き、声が途切れた。
助からないと判断した。
「退け!」
キャプテンの短い指示で撤退へ切り替える。粘る意味はない。
列形を崩さず、角度をつけて下がった。
犬は直線で追う。角度を変えれば一瞬の追尾の乱れを作れる。
クリスが振り向きざまに二発撃ち、私はその右斜め後ろで射線を補強した。
ジルが左側を押さえ、バリーが殿で威嚇射撃を混ぜる。
上空でローター音が近づき、風圧が梢を叩いた。
助力の音かと思ったが、推力はすぐに上昇へ切り替わり、機影は森の向こうへ退いた。
「ブラッド! 戻ってこい!」
クリスの呼びかけは空転し、応答は返らない。
足を滑らせたジルの肩をクリスが支え、その背へ一匹が加速した。
私は射線を合わせ、一発で頭を抜いた。
失速した躯がクリスの足元に転がり、血の匂いが一段濃くなった。
「キャプテン!」
指示が必要だと判断し、声を上げた。
「こっちだ!」
キャプテンが前方を指差し、白い外壁と大きな玄関ポーチが闇から立ち上がった。
森に似合わない洋館が黒い壁面を濡らし、口を開ける獣のように待ち受けている。
彼は振り返らないが、最後尾の速度を見捨てない歩幅で先導した。
私たちはその背に速度を合わせた。
濡れた石が靴底を弾き、背後の爪音が間隔を詰める。
キャプテンが取っ手を掴み、体重を預けて引いた。
重厚な扉は意外に素直に動き、開口が生まれた。
「急げ!」
クリスが滑り込み、ジルが続いた。
私は最後尾で背を滑らせ、扉の内側から押し込み、体重で閉じた。
直後に外側から鈍い衝撃が続き、爪が木を抉る音が板を伝ってきた。
分厚い木と石の壁は、今夜に限って確かな盾になった。
玄関ホールは異様な広さで、天井から吊られたシャンデリアの灯りが広さに対して薄い明かりを落としていた。
磨かれた石床の匂いと古い木材の匂いが肺に冷たく刺さった。
ここに辿り着けたのは四人だった。キャプテン、クリス、ジル、私。
バリーは扉が閉まる直前に外へ残った。追いつけなかったのか、意図的に別ルートを取ったのか判断できない。
「みんな大丈夫?」
ジルが息を整えながら顔を見回した。
「バリーは?」
クリスがすぐ扉へ視線を返す。
キャプテンはわずかな間を置いて「彼はおそらく……」とだけ言い、断定を避けた。
ジルが小さく首を振り、声を落とした。
そのとき、建物の奥で発砲音が一度鳴り、反響が薄く広がった。
位置は同じフロアの奥だ。緊張の向きが一斉にそちらへ振れた。
「俺が見に行く」
クリスが銃を掲げ、肘を軽く折った姿勢で踏み出した。
ためらわない性格は行動の速度を上げるが、事態も同じだけ動かす。
キャプテンが短く頷いた。
「私とジルはここを確保する。モーガン、君はクリスとバディを組め」
私はキャプテンを見る。視線は一瞬だけ重なり、すぐに切れた。
判断が速いというより、状況を掌で転がし続ける意思が見えた。
正しい采配だが、この屋敷でメンバーを分ける理由が一つだけだとは思わなかった。
「了解」
私は応じた。
この屋敷には何かがある。
外の犬は自然の産物ではない。偶発ではない。
ここが発生源か、少なくとも関連施設である可能性が高い。
建築の意匠だけでは断定できないが、勘は地下に空間があると告げている。
隠そうと思えば隠せる構造だと骨が言っていた。
私は知っている。彼のために動くには、どこかで必ず単独行動が必要になる。
そうしなければ彼へ迫れない。今はまだその時ではない。
まずは指示に従い、戦場を整える。
「行こう」
クリスがホール右手の扉へ向かった。
ジルが目で私たちを止め、「クリス……セラ……気をつけて」と短く添えた。
「ああ」とクリスが返し、私は頷きで応じた。
扉を押すと蝶番が鈍い音で抗い、中は広い食堂が広がった。
長いテーブル、飾り棚、壁の油絵。
埃は薄く、最近まで人が出入りしていたと推測できる。
床には乾いた黒い点が散り、血痕だと判断した。
歩幅は乱れ、引きずりはない。
自力で歩いた者が途中で倒れた可能性が高い。
「発砲音はここじゃない」
クリスが声を落とし、廊下の奥を指先で示した。
食堂の奥の扉の先に細い廊下が続く。
私は足だけ先に出して角を切り、視界を滑らせた。
右は壁で、左へ通路が開いている。
匂いが変わり、血の鉄臭に湿った腐敗が混じった。
視界の先に仰向けの人影が見え、STARSのユニフォームが血に覆われていた。
壁へ飛沫が上がり、床に引きずり跡はない。
その傍らで覆いかぶさる動きがあり、ゆっくりと顔がこちらを向いた。
人の形をしているが、皮膚は灰に乾き、眼球は濁っている。
動きは鈍いが、視線だけが確実にこちらを掴んだ。
「……何だ、こいつ……」
クリスが息を呑み、足が止まった。
「クリス、しっかりしてください」
私は即座に額へ照準を合わせ、呼気の底で引き金を絞った。
狭い廊下に音が跳ね、頭部が揺れて躯が崩れた。
火薬の匂いが立ち上がり、耳の膜が少し痺れた。
クリスが瞬きし、こちらを見た。
私は銃口を下ろさず、周囲の音へ意識を散らした。
「……助かった。だが、こいつは……。この死体は、ケネスか?」
「正体は断定できません。ただ、彼がこれに襲われたのは確かです。警戒を上げて、キャプテンに報告しましょう」
通路の奥に動きはなく、ここで長居する理由はない。情報は十分だ。
次はキャプテンの意図を確かめる。
食堂を戻ってホールに出たが、そこには誰もいなかった。
「ウェスカー! ジル!」
クリスの声がホールに反響し、空虚な音だけが返った。
扉は開いていない。移動は静かに短時間で行われたと推測できる。
別の扉を使ったか、奥の廊下へ進んだのだろう。
キャプテンは最初からメンバーを分散させるつもりだったのかもしれない。
B.O.W.とSTARSを意図的に接触させ、データを取る計画があるのか。
あるいは想定される地下施設へ先行しているのか。
どちらにせよ、彼へ追いつく速度を上げる必要がある。
「別行動で隊長とジルを探しましょう。私はこの廊下から回ります」
「待て、セラ。君はルーキーだ。単独は危険すぎる」
クリスが眉間に皺を寄せた。真っ当な反応だ。
「外の犬のときも、さっきの廊下でも、私の対処を見たはずです。私は大丈夫です。手分けしたほうが早く合流できます」
彼は短く黙り、階段へ視線を投げ、それから私に戻した。
「……わかった。ただし危険だと思ったらすぐ戻れ」
「了解」
ここからが本当の始まりだと自分に言い聞かせた。
生き延びるだけでは役割を果たせない。
必要な場で必要な行動を取り、彼の進むべき道を開ける。
そのためにここへ来たと理解している。
クリスと別れ、右の廊下へ進む。
足音を殺し、呼吸を整え、心拍を一定に保つ。
ライトの円は小さく、視線は常に半歩先の影へ向いた。
屋敷はまだ口を閉ざしているが、その口の中に私たちはすでに入っている。
私は進む。彼を救うために。