1章



ハイカーの失踪、野犬の群れの目撃、損壊死体の発見。
数週間にわたり相次いだ報告は、市警単独の対応を超えた。
アークレイ山地での騒動は拡大し、市民の不安が高まるなか、ついにS.T.A.R.S.の本格介入が決定された。

その通達を告げるため、キャプテンがオフィスに姿を現す。

「通達する。S.T.A.R.S.はアークレイ山地の事件調査に正式に介入する。」

低く均整の取れた声が、空気を一瞬で硬くする。
誰もが手を止め、机上の書類や地図を見つめたまま動きを失った。
外の雨音すら遠のき、言葉だけがくっきりと響く。

「先行してブラヴォーを現地調査にあたらせる。アルファは待機。ただし即時出動に備えろ。」

短い沈黙ののち、椅子がいくつか軋み、返事が続く。
準備の音が連鎖し、無線チェックと装備点検が始まった。

私は地図を見下ろす。
赤いピンで飽和したアークレイ山地。
その奥の一点へ、いままさにブラヴォーが踏み込もうとしている。

胸の内側で、見えない手がじわりと締まった。
彼もまた、この事件に足を踏み入れるのだ。





1998年7月23日

「ブラヴォー、十五分で出る。装備確認を完了しろ。」

キャプテンの淡々とした声の端に、ほんの僅かな硬さが混じる。私は呼吸をひとつ浅くした。

この事件に彼は踏み込む。
おそらく、遅れてアルファも出ることになる。

出発時刻。ローターの振動がビルの骨組みを伝い、窓枠がかすかに震えた。
扉が閉まり、風が廊下を走る。
残された空間から音が引き、静けさが真空のように戻ってくる。

雨雲はまだ遠いが、窓の外に薄く陣取っている。
その感覚だけが確かだった。




7月24日 夕刻

オフィスの空気は、朝とは比べものにならないほど重く張り詰めていた。

ブラヴォーの無線が、一時間前から沈黙している。
最初は雑音、やがて断続、いまは砂のようなノイズだけ。
“応答なし”という報告が、待機中のアルファ全員の胸に緊張を刻んでいた。

キャプテンは自室と隊員フロアを往復し、必要な情報だけを引き抜いては、短く冷徹な指示で結んでいく。
アルファにも出動の可能性を示し、装備と武器の再確認を促した。

……わざわざ言わせるまでもないことを、あえて口にした。

つまりそれは、これから武器が必要になる場面が訪れるいうこと示しているのだろう。

ブラインドの向こうで、彼の影が歩いては止まり、また動く。
普段なら微動だにせず構えているはずの彼が、わずかに間合いを乱していた。
何をしているのかは見えない。だが、その小さな揺らぎが空気をざらつかせ、いつもとは違う落ち着きのなさを漂わせていた。

外には出さない“別の何か”を、ひそかに進めている。
そう感じ取れるのは、おそらく彼をよく知る私だけだ。

日が落ちる。
窓の外のラクーンの灯りが輪郭を失い、雨雲の下でぼんやり滲み始めた。
無線卓の受話器に触れたときの冷たさが、掌にしつこく残る。

オフィスの扉が開き、慌ただしい足音とともに報告が届く。
「ブラヴォーのヘリ、山中で不時着の可能性あり。現地で煙を視認。詳細不明。」

静寂が一拍遅れて訪れ、即座に命令で破られた。
キャプテンの声。冷徹で、切り分けに迷いがない。

「アルファ、出動だ。」

椅子が一斉に引かれ、金属と布の擦れる音が連鎖する。短い返答、ロッカーが開く音。
私も立ち上がり、装備ロッカーからベストを引き抜く。
サムライエッジの重量が腰で確かな引力をつくる。
窓ガラスに映る自分の顔は“ルーキー”の仮面。顎を落とし、光を浅くした目。
内側では、別の歯車が音もなく噛み合い始めていた。

キャプテンが前を通る。無駄のない歩き。
サングラス越しの視線が隊列を横切り、最後に私の前で一瞬だけ止まった。
声はない。だが、その視線の圧は昨日と同じ……いや、さらに深く私を測っている。

私はうなずく代わりにホルスターの位置を直す。
格納庫へ向かう通路は、鉄と油の匂いが濃い。
床の油膜が靴底に薄く貼りつき、点々とした照明が長い軌跡を作る。

扉の向こうでローター音が立ち上がり、空気が低く震え始めた。

ヘリに乗り込む前、窓辺に一瞬だけ寄る。
ラクーンの夜景は、雨を孕んだ雲の下で鈍く揺れていた。

耳の奥で、昨夜の声が再び掠める。

――芽は撒かれた。導け――救うために。

胸の奥がざわめく。
これは“始まり”だ。私のやり直しの、そして彼の分岐の始まり。そう思えた。

目を閉じ、呼吸をひとつ深く。
そして、ヘリの腹へ身を滑り込ませる。

隊員たちの間に座ると、ヘッドセット越しにローターの唸りが骨へ染みてくる。
誰も余計なことは言わない。各々のチェック音だけが乾いた規則性で流れる。
キャプテンは前列で、地図と座標を最小限の語で確認していた。
私は視線を落とし、指先でマガジンの底を一度だけ軽く叩く。
支給弾の重みとともに、昨夜、森に置いてきた“サイン”を思い出す。

彼はそれを読み取った。
ならば、これからの混線の中で送る次の合図も、きっと届く。

ヘリが浮く。重力の向きが変わり、胃の底が微かに持ち上がる。
窓外、アークレイの稜線の向こうで光が厚い雲の裏を鈍く脈打ち、空は今にも雨を落としそうにざわめいている。

私は前方を見る。
横顔の輪郭だけが見える距離に、彼がいる。

“キャプテン”として向かう彼と、“彼”を救うために向かう私。
矛盾は同じ機体に乗り、同じ闇へ向かっていた。

――導く。
そのために、私はここにいる。

音が増す。風が機体を叩く。
夜が口を開けて待っている。
ヘリはその口の中へ、迷いなく滑り込んでいった。
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