7章
意識を現実へ引き戻したのは、鋭い痛みだった。
頬を刺す床の冷気。鼓膜を打つ、低く鳴り続ける警告アラーム。鼻腔を焼く薬品と鉄錆の混ざり合った臭気。遠くで何かが爆ぜ、火花が散った。遅れて、天井の蛍光灯がひとつ、不規則な明滅を繰り返した。
まぶたを持ち上げる。
視界はぼやけていた。白いはずの天井には亀裂が走り、剥き出しになった配線が火花を散らしている。壁一面を埋めていたモニター群は半数が大破し、残された画面にはノイズの走る波形と、意味を失った文字列だけが明滅していた。
床には水が広がっていた。培養液なのか、冷却水なのか、割れた装置から漏れ出した何かなのか、わからない。その水面に赤黒いものが薄く滲んでいるのを見て、私はようやく、自分が血を流しているのだと気づいた。
呼吸をすると、脇腹が鋭く痛んだ。あの闇の中で、ウロボロスの触手に貫かれた場所だった。
「……っ」
声にならない息が漏れる。体を起こそうと床に掌を突くが、腕は鉛のように重く、指先はただ細かく震えるだけだった。背中から腰にかけて、冷酷な何かが這い回るような余韻が消えない。
夢の中で触手に絡まれた場所が、現実の体にも痕を残していた。皮膚の下で、何か黒いものがまだ細く脈打っているような気がして、私は思わず自分の腕を抱いた。
私は、自分からあの夢の中に留まろうとしていた。
温かく、優しく、痛みのない揺り籠。マスターがいて、ただその庇護に甘んじていればすべてが済んだ場所。ウロボロスに身を委ねることは、己の魂を明け渡すことと同義だと理解していながら、私はあのまま眠り続けることを望みかけていた。
そんな私を、ここへ引き戻してくれた声。
繰り返し、繰り返し、消え入りそうになりながらも、私を呼び続けた声。あの夢の温もりの外側から届いた、冷徹で、けれど決して途切れなかったあの響き。
だから私は、帰ってきた。
彼が、私をここに呼び戻した。
そう思い至った瞬間、胸の奥が凍りついた。
彼は、どこにいる。
痛みに耐え、重い頭部を無理やり持ち上げる。視線だけで廃墟と化した室内を這った。粉砕された培養槽、倒壊した支柱、床に散乱するガラスの破片、引き裂かれた拘束具、ひしゃげた金属フレーム。
その残骸の向こうに、黒い影が横たわっていた。
心臓の鼓動が跳ねる。
「ウェスカー……!」
呼ぶ声に、反応はない。
「ウェスカー! ウェス……アルバート!」
その名を叫んだ瞬間、彼の指先が、微かに、けれど確かにピクリと動いた。
私は息を呑み、その動きを凝視する。
ゆっくりと、彼の重いまぶたが持ち上がった。濁った光の中で、鋭い赤眸が私を射抜く。しばらく焦点を探るように揺れた後、その視線はまっすぐに私へと向けられた。
「……セラ」
掠れた、ひどく低い声だった。
「……はい」
声が震えた。視界が急速に潤む。なぜ涙が込み上げてくるのか、その理由は自分でも判明しなかった。ただこの人が呼ぶ「セラ」という響きが、胸の奥深くに楔のように突き刺さるのだ。
「戻ってきてたのか」
「……はい」
近づこうと、床に膝を立てる。腕に負荷がかかるたび全身が震え、脇腹の傷が引き裂かれるように痛んだ。それでも、私は立ち止まらなかった。壁に手をつきゆっくりと体を支えながら彼のもとへと這い寄る。
ウェスカーもまた、同じように動いていた。だが、その挙動はいつになく重い。普段の、痛みを感じさせないような動きではなかった。精神世界での消耗が、反撃せずにただ受け続けた傷が、現実の体にも刻まれていた。ここに戻るまでに、どれほどのものを削ったのか。その重い動きが、言葉もなく物語っていた。
やがて私たちは、互いに体を引きずりながら、コンクリートの壁に背を預けて並んで座った。
砕けたモニターの残骸が、非常灯の赤い光を鈍く反射していた。床を這う水面が、天井の火花を映して小さく揺れている。低く唸る非常電源の音だけが、床の下から響いていた。
乾いた、現実の静寂だった。あの精神世界の張り詰めた闇とも、夢の中の柔らかな温もりとも違う。傷の疼き、血の臭気、そして床から伝わる無機質な冷たさを伴う、剥き出しの現実。それが、私たちが生還した何よりの証明だった。
しばらくの間、二人の間に言葉はなかった。
やがて、体内の傷口が急速に塞がっていく感覚が訪れた。セラフィナだった頃には、あまりにも馴染み深かった再生の感覚。けれど、セラとして生き直してからは、一度も知覚したことがなかった。失った過去とともに、この力も消えたのだと思っていた。
それが今、懐かしさすら伴って体内を巡っている。けれど、そこに安堵はなかった。この体を癒しているものが何なのか、その正体から、もう目を逸らすことはできない。血管の底で脈打つ異形の気配を、私は静かに受け入れるしかなかった。
沈黙を破ったのは、彼だった。
「お前が何を求めて、これほど無謀な真似をしたのかは理解した」
ウェスカーの声が、壊れた部屋の静寂の中に静かに落ちてきた。
身体が、わずかに固まった。
見られたのは、私の過去だけではない。この肉体の深淵に今なおくすぶる、果てしない飢餓感そのものを、この人は覗き込んでしまった。
「これまで何に縛られていたのかもな」
喉の奥が詰まった。
あなたに必要とされたい、と訴え続けてきた。まるでそれが純粋な忠誠であり、無私の献身であるかのように。けれどその実、私が求めていた「あなた」は、あなたではなかった。私が執着していたのは、彼と同じ顔をした、もう二度と会えない人の影だった。その幻影を追い続けるために、目の前にいる彼を、失った人の代わりとして利用していた。
自身の内にある空虚を埋めるために、他者を利用した。
それも、本当なら誰よりも、ありのままの自分を見てほしかった相手を。
「……軽蔑、しましたか」
訊ねるつもりなどなかった。しかし、言葉は制御を離れて滑り落ちた。
ウェスカーは即座には応じない。ただ、冷徹な赤眸で私を見つめ返していた。
「なぜそうなる」
「私は……あの人を、愛していたのだと思います」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
隣にいるこの人に向かって、別の誰かへの感情を吐露している。その矛盾が胸に刺さった。あなたの側にいたいと言いながら、心の奥にはずっとマスターがいた。
『お前は私を見ているようで、見ていない』
かつて、彼にそう告げられたことがあった。
それは寸分の狂いもない事実だった。私の内側に澱のように沈んでいたものの正体を、彼は見破ろうとしていたのだ。
「道具として扱われ、都合よく利用されても、それでも見てほしかった。必要とされたかった。……そんな必死すぎる子供のような私を、あなたに知られたくなかったんです」
ウェスカーはただ、沈黙を守っていた。
「私は、あなたを利用していたんです」
一度決壊した言葉は、もう止められなかった。
「最初、あなたを見た時、マスターだと思ったんです。同じ顔をしていたから。失った人が、もう一度目の前にいると思った。だから、あなたに近づいた。あなたを救えば、今度こそ見てもらえると思った。今度は、ただの被験体ではなく、セラという一人の女性として近づいた。素性を隠せば、知られることはない。そうすれば、道具じゃなく、今度こそは私自身を見てもらえると思ったから」
熱いものが頬を伝う。
「すべては、私の身勝手なエゴだった。あなたをマスターの代用品に仕立て上げようとした。見てもらうための、手段にしようとした」
私は深く俯いた。
「なのに、あなたは……本当に私だけを見てくれた。私があなたの本質から目を逸らしていたというのに」
そこが、何よりも私を苛む痛恨だった。
「マスターは、私を見ているようで、常に私の向こう側にある何かを見ていた。私は単なる鏡だった。でも、あなたは違った。最初から、目の前に立っている私を見ていた。本質を隠した偽りの私を、本物として扱ってくれた。……でも。あなたが私を認識するたびに、突きつけられた。この人はマスターではない。同じ容姿をしていながら、決定的に異なる存在なのだと」
声が、嗚咽に変わりそうになった。
「私は、あなたの真っ直ぐな眼差しを利用していた。あなたは何も偽らずに私を見てくれていたのに、私は最初から、あなたを私欲の手段にしていた。それがどうしようもなく、汚く思えて。……だから、知られたくなかった。こんな醜い私を」
張り詰めた沈黙が流れる。天井の配線から、一際大きな火花が散った。
「それが、何か問題なのか」
想定外の冷淡な響きに、弾かれたように顔を上げる。そこには責める色も、慰める気配もなかった。ただ、極めて客観的な事実を問い直すような声。
「それを言うならば、私もお前を利用した」
やがて、ウェスカーは淡々と言い放った。息が止まる。
「お前を傍に置いたのは、私の計画にとって有用だったからだ」
「私自身の目的を遂げるための駒として。それ以上の理由は、初めはなかった。お前がマスターの代わりに私を見ていたように、私もお前を、計画のための道具として見ていた。つまり、お互い様だ」
顔を上げると、ウェスカーがこちらを見ていた。その目に、責める色はなかった。
「そして、そのマスターの存在も、私の一つの可能性だ」
正面の壊れた機器へ視線を向けたまま、静かに言った。
「その存在を、完全には否定できない。使えるお前を見出し、名を与え、使い、縛った。それは、私自身の可能性として、理解できない行動ではない」
その横顔に、何かがあった。怒りでも嫌悪でもない、もっと複雑なこの人が自分自身と向き合っているような静けさが。この人も、人を使ってきた。マスターがしたことの中に、自分と地続きの何かを見ている。だからこそ、単純に責めることができない。
「過去に何を向けていたかで、今のお前の選択が無効になるわけではない」
重い声だった。氷のように冷たく、逃げ場を与えないほど確かな声だった。
「あれは純粋な忠誠などという一言で片付けられるものではなかったはずだ。愛情、執着、恐怖、そして孤独。お前はそれらすべてを、忠誠という無難な言葉に押し込めて誤魔化していた。……そして、いつからか、私たちの関係も変わった。お前がいつ私を私自身として見るようになったのかは、わからない。私が、いつお前を駒ではなく、お前自身として見るようになったのかも、わからない。だが、気づいた時には、もう以前の関係ではなくなっていた」
彼は静かに、核心を告げる。
「始まりが何であれ、今ここにあるものが偽物になるわけではない。それを罪だと思っているのは、お前だけだ」
涙が、止まらなくなった。
二人とも、利用から始めた関係が、いつの間にか本物に変わっていた。どちらが先に変わったのでもない。お互いを手段として近づいたのに、気づけば、お互いを必要とする本物になっていた。
それが、この人の言う、お互い様の意味だった。
私は、しばらく何も言えなかった。
言葉を返すには、胸がいっぱいすぎた。ただ、溢れたものが引いていくのを待つように俯いて、呼吸を整えた。ウェスカーも、それ以上は何も言わなかった。急かすでも、慰めるでもなく、ただ隣に座っていた。
低く唸る非常電源の音。時折、天井で弾ける火花。床を這う水面の、かすかな揺らぎ。壊れた部屋の音だけが、二人の沈黙を埋めていた。
やがて、涙が乾いていくのがわかった。頬が張って、目の奥が熱を失っていく。それと入れ替わるように、さっきまで感情に押しやられていたものが、静かに頭をもたげてきた。
私たちはこれから、どうなるのだろう。
二人とも生きてここにいる。けれど、この現実には続きがある。傷が塞がっても、消えないものがある。
ウロボロスが最期に遺した、あの呪詛のような叫びが、今も耳の奥で反響していた。
私は、膝の上で手を握りしめた。ずっと胸の底に沈めていたものが、静けさの中で、輪郭を持ち始めていた。
言うべきか、迷った。せっかく訪れた、この穏やかな時間を壊してしまう気がして。
でも、言わなければ。この人の隣にいると決めたなら、隠すことのほうが、もう間違っている気がした。
「ウロボロスが……言っていました。私たちがここから出ても、未来は変わらないと。この力を解き放つ計画を進めれば、本来の世界線と同じ結末へ収束すると」
本来の未来。火山での死闘。ウロボロスとの融合。そして敗北と消滅。その断片的なイメージが脳裏をよぎり、指先が強張る。
「もし、それが本当なら、あなたは……あの結末へ、向かってしまう」
ウェスカーが、ゆっくりとこちらを向いた。その唇の端が、不気味なほどに静かに吊り上がる。あの、絶対的な自信に満ちた冷笑。
「言ったはずだ。ウイルス風情に、私の未来を決定する権限などない、と」
「それでも、恐ろしいのです」
私は、ずっと隠していたことを打ち明けた。この世界でやり直せると知ってから、私はずっと結末を変えようとしてきたこと。トライセルに頼らず、目立たない規模でウロボロスを完成させようとしたこと。本来あなたが辿った道を、少しでも避けようとしたこと。
「でも、駄目でした。どれだけ迂回路を作っても、必要なものは同じ場所に集まっていった。気づけば、避けようとしたものに乗ってしまっていた。……私が関与したことで、むしろ未来は本来の形に近づいたのかもしれない。私が変えようとしたものが、結局、あなたを同じ場所へ近づけていたのなら」
喉が締め付けられる。
「私は、一体何のために……」
それ以上は、声にならなかった。
自分のやってきたことのすべてが、結局この人の破滅へ続く道を整えていただけだったのではないか。そう思うと、息ができなかった。
ウェスカーはしばらく黙って私の言葉を聞いていた。私が言葉を失って俯くと、その様子を見た後、低く言った。
「全くもって、浅いな」
その一言に、胸が刺されたように痛んだ。でも、声には責める響きはなかった。むしろ、どこか楽しんでいるようですらあった。
「お前は一つ、見落としている。計画が似た形を取ったことと、結末が同じになることは、同義ではない。お前が知る未来では、私はその計画を最後まで進めた。ならば、同じ行動を続ければ、同じ結末に収束する可能性は高い」
彼はそこで、口元を歪めた。
「実に単純な話だ。本来の未来のように行動すれば、避けられない未来が訪れる。ならば……本来通りの行動を、捨てればいい」
一瞬、意味がわからなかった。
「捨てる……?」
ウェスカーは、面白い実験データを見つけた時のように、口元を怪しく歪めた。
「そうだ。ウロボロスの開発も、新世界の到来も。計画してきた、そのすべてを放棄すればいい」
心臓が激しく脈打つ。
言葉を失った。
その計画が何を意味するのか、私は知っている。この人が何年もかけて築いてきたもの。世界の裏側で積み上げてきた、この人の野望そのものだった。
「そんな……」
私は思わず身を乗り出した。傷が痛んで、体が傾ぐ。ウェスカーの手が、すぐに私の腕を支えた。
「そんな簡単に言わないでください」
声が震えた。
「それは、あなたがずっと成し遂げようとしてきたことだったはずです。あなたにとって、それを捨てることがどれほど大きいことか、私は知っています」
自分のこと以上に、胸が掻き乱されていた。計画の先にある彼の死が恐ろしい。だが同時に、その計画を捨てることは、まるでこの人自身の一部を切り落とすように思えて、耐えられなかった。
「これまで築いてきたそれを……捨てるんですか」
言ってから、息が止まった。私のために。その言葉が、重すぎた。
ウェスカーの目が、わずかに細くなる。
「ああ。……だが、それは簡単に諦められることでも、捨てられるものでもない」
「なら……」
「今までの私ならば、な」
遮るように放たれたその言葉に、私は顔を上げた。
彼は答えなかった。私の体勢が安定したことを確かめると、腕を支えていた手をゆっくりと離した。その指先が、そのまま頬に落ちた髪を掬い取る。血と涙で濡れて張り付いていた髪を、ゆっくりと耳に掛ける。あまりにも静かな仕草だった。そのまま、親指が頬に触れる。汚れた頬を、確かめるように撫でた。
私は息を止めた。すぐ隣で、ウェスカーは私を見ていた。ただ、真っ直ぐに。
「今の私には、他に優先すべきものができた。そのためならば、計画の一つや二つ、切り捨てるに値する」
まるで些細なもののように言う。でも違う。この人にとって、それが些細なはずがない。それでも彼は、断言したのだ。私を見つめながら。
「そんな顔をするな」
すぐ隣から、低い声が落ちた。
私は呆然とするしかなかった。信じ難い現実。この人が、自分の野望よりも優先するものがある。そんな価値のあるものが、あるのか。
そう考えた瞬間、ウェスカーの目が鋭くなった。まるで、私の思考を読んだみたいに。
「あいつが、お前にできなかったことを教えてやる」
「あいつ……?」
「お前のマスターだ」
その呼び方に、胸の奥が小さく痛んだ。けれど、今のウェスカーの声には嫉妬も嘲りもなかった。あるのは、もっと冷たいものだった。自分と同じ顔をした男が、私に名を与え、役割を与え、目的を与えながら、最後まで教えなかったもの。それを知ってしまった者の、静かな怒りだった。
「奴はお前に名を与えた。役割を与えた。目的を与えた。だが、それらすべてを与えながら、お前に肝心なことを教えなかった」
ウェスカーの親指が、頬をゆっくりとなぞる。
「お前は、誰かの夢を叶えるために自分を削らなくていい。誰かの理想に届かないからといって、許しを乞う必要もない。……私の計画のためにもだ」
私は目を見開いた。
「ウェスカー……」
「お前は、私の未来を守るために自分を犠牲にする必要はない」
その言葉は静かだった。けれど、逃げ場がなかった。
「私は……」
言いかけて、声が詰まる。私はずっと、そうしてきた。自分を投じることが、愛だと思っていた。忠誠だと思っていた。役に立つことが、存在していい理由だと思っていた。この身を差し出せば、誰かの望む結末に届くかもしれない。私が壊れれば、彼は生きられるかもしれない。そう思うことでしか、自分の存在を許せなかった。
「そのやり方は、この先もう不要だ」
低い声が落ちた。頬に添えられた親指が、涙の跡を拭うようにゆっくりと動いた。けれど彼の視線だけは、逃げることを許さなかった。赤い瞳が、真正面から私を捉える。
「お前自身を犠牲にしなければ成立しない未来なら、そんな未来ごと捨てればいい」
あまりにも傲慢で。あまりにもウェスカーらしくて。そして、あまりにも優しかった。
それは救いの言葉ではなかった。慰めでもなかった。もっと傲慢で、もっと冷徹で、けれど私の中に絡みついていた鎖を、容赦なく断ち切る言葉だった。
「でも、私は……あなたにそんなものを捨てさせたいわけでは……」
「お前が捨てさせるのではない」
ウェスカーは即座に言った。
「私が捨てると決めた。それを勝手に、お前の罪にするな」
胸の奥を、鋭く突かれた。
「お前は何でも自分の責任にしたがる。マスターに縛られたことも、未来を変えられなかったことも、私が選ぶことさえも。だが、これは私の判断だ。使えない筋書きに固執する理由はない。盤面そのものが罠なら、駒を動かす前に、盤を替えるまでだ」
それは彼らしい言い方だった。感情を感情として語らない。救いを救いとして差し出さない。でも、私にはわかった。この人は、ウロボロスに決められた結末ではなく、本来の自分が辿った死でもなく、私と共に戻ってきた今の自分として、別の道を選ぼうとしている。
「それに、私は敗北を認めたわけではない」
彼はわずかに目を細めた。
「ウロボロスを撒かずとも、世界を動かす方法はいくらでもある。未来の収束とやらが存在するなら、その仕組みごと暴いてやる。どの選択で、あの結末から逸れるのかをな」
赤い瞳が、鋭く光った。運命を恐れるのでも、回避を祈るのでもなく、この人は、それさえ解析しようとしている。
私は彼を見つめた。傷だらけで、血に濡れて、消耗して、それでも揺るがないこの人を。
本来の未来なら、この人はウロボロスに飲み込まれ、火山で終わるはずだった。その結末を変えるには、私が犠牲になればいい。ずっと、そう思っていた。誰かが壊れなければ、この歪んだ運命は正せないのだと。
でも今、彼と私は、二人ともここにいる。
そして彼は、どちらかが犠牲になるようなその未来を、捨てると言った。
胸の奥で、ずっと固く結ばれていたものが、少しずつほどけていくのを感じた。
彼は決して、お前のためだ、とは言わなかった。大切だとも、救いたいとも言わなかった。ただ、優先すべきものを選んだ、と言った。本来思い描いていた未来ではなく。私を含んだ、まだ形のない未来を。
言葉にされない分だけ、それは確かなものに思えた。
「……私も」
自然と声が漏れた。
「あなたが計画を放棄しようと、あなたの側に居続けます。新世界をもたらさずとも、世界の頂点に君臨せずとも。あなたが再定義する未来に、私は存在します。命令されたからではなく、必要とされたいからでもない。私が、そう望むからです」
ウェスカーは、ただ静かに私を見ていた。そして、頬に添えていた指を、私の顎へと滑らせた。
反射的に、体が強張った。逃げようとしたわけではない。でも、逃げる癖がまだ体に残っていた。触れられるたびに、望んではいけないと思っていた。返してはいけないと思っていた。私はまだ、別の彼のものだったから。
でも今、私を過去へ繋ぎ止めていた鎖は、もうない。
マスターは、行けと言った。私を手放してくれた。私はもう、誰の亡霊にも縛られていない。
もう片方の手が、私の肩に触れる。傷を避けるように慎重に。それでも、彼の意志だけは明確に伝わる触れ方だった。
その顔が、ゆっくりと近づいてきた。
「拒むなら、今だ」
低い声が、唇のすぐ近くで落ちた。命令ではなかった。選べ、と言われていた。この期に及んでもなお、この人は私に選ばせている。奪うのではなく。命じるのでもなく。私が、私の意思で応えることを、待っている。
私はゆっくりと息を吸った。
「拒みません」
彼の瞳が、わずかに細まる。
次の瞬間、唇が触れた。
壊れた部屋の低い唸りが、遠ざかっていく。血の匂いも、薬品の匂いも、床の冷たさも、水の底に沈むように薄れていく。世界から音が消えて、あるのは、顎に触れる指と、肩に置かれた手と、私を奪わずに待ってくれたこの人の、体温だけになった。
いつかの雨の夜のことを、思い出した。
あの夜も、こうだった。窓を打つ雨の音の中で、この人は言葉にできないものを、こういう形にした。でもあの夜、私は受け入れながらも拒絶した。私はまだマスターのものだから。影だから。それ以外になってはいけないと、体が叫んでいたから。
本当は拒みたくなかったのに、拒まなければならないと思い込んでいた。誰かのものだから触れてはいけない。必要とされたいから応えてはいけない。私の望みは、いつも私のものではなかった。
でも今は——引かなかった。
私を縛り付けていた、あらゆるしがらみは、もうなかった。
震える手を伸ばして、彼の服を掴んだ。血で汚れた布地を、指先で握りしめた。そして——初めて、誰の許しも求めずに、私は自分から、心の望むままに唇を返した。
涙が頬を伝った。
悲しかったからではない。罪悪感からでもない。
やっと、返せたからだ。
長い間、体に刻まれていた「拒め」という命令を、私は今、自分の意思で振り払った。誰かのためではなく。役に立つためでもなく。ただ、この人の隣にいたいという、私自身の願いのために。
唇が、ゆっくりと離れた。
彼は、近すぎる距離から私を見ていた。非常灯の赤い光が、その輪郭を淡く縁取っている。
「……今度は、逃げないんだな」
「はい……もう、逃げません」
彼の指が、顎から頬へと移った。涙の跡を拭うその仕草は、優しいというには不器用で、けれど、乱暴ではなかった。この人の指が、これほど慎重に何かに触れるのを、私は初めて見た気がした。
「なら、覚えておけ」
「……何を、ですか」
「今のお前は、命じられて応えたわけではない。お前が、選んだ」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。長い間、固く固く結ばれていたものが、音もなく、ほどけていった。
「お前が膝を折る相手は、もういない」
彼は頬から手を離し、私の前に掌を上向けて差し出した。引き上げるためではなく、自らその手を取ることを待つように。
「亡霊にも、ウイルスにも——私にもだ。私の側にいると言うなら、従うな。命令ではなく、意思で立て。従うだけなら、不要だ」
その言葉は、突き放すようでいて、私を縛る鎖を断ち切る刃だった。
マスターに選ばれたかった私。命令されることで、存在を許された私。役に立つことでしか、そばにいる理由を持てなかった私。その私に、この人は立て、と言う。
同じ顔をした二人の男。
一人は最後に私を手放し、もう一人は、自分の意思で立てと言った。まったく異なる形で、二人は誰かの影だった私を、一人の人間へと解き放った。その真実が、愛おしいほどに胸を満たしていく。
「……はい」
涙を拭って、私は頷いた。
「私は、立ちます。あなたの隣に。あなたのものとしてではなく——私として」
彼は、しばらく私を見ていた。その赤い瞳の奥に、満足とも違う、静かな熱が宿っている気がした。
「随分と、物好きな女だ」
そう言う声に、棘はなかった。むしろ、どこか呆れたような、それでいて隠しきれない何かが滲んでいた。
「知っています」
私は、小さく笑った。笑うと傷が痛んだけれど、それでもよかった。この人の前で、こんなふうに自然に笑えたのは、初めてかもしれなかった。
「自分の野望を捨てると言った同じ口で、それを敗北ではなく、運命を解析してやると言い換える。……そういうところが、あなたらしいです」
「……褒め言葉として受け取っておこう」
彼は、わずかに眉を寄せた。それから、ゆっくりと立ち上がった。まだ体は重そうだった。それでも、その動きには、もう迷いがなかった。
私がその手を取ると、彼は静かに引き上げた。脇腹の傷が疼き、足元がわずかに揺れる。それでも、彼の手を借りながら、私は自分の足で立った。
「……アルバート」
その名が、こぼれるように口をついた。
もう誰も重ね合わせる必要のない、この世界に唯一無二の、彼だけの名前。
これからは、そう呼びたいと思った。
マスターの面影でも、ウェスカーという名の向こう側にいる誰かでもなく、目の前にいるこの人自身を呼ぶために。
彼は一瞬、動きを止めた。それから、わずかに目を細めただけで、何も言わなかった。咎めもせず、問いもしなかった。ただその沈黙が、その名を受け取ったことを告げていた。
「さて。感傷はここまでだ。お前の状態を速やかに検査する」
アルバートは歩を進めながら、いつもの、冷徹で事務的なトーンに切り替えた。
「セラ。お前の体に残ったウロボロスの影響を確認する。影響が精神領域だけとは限らない。……何かあれば、些細なことでも言え」
その言葉の中に、これからも傍にいるという意味が込められていた。言葉にしない人だから。でもそういう意味だと、今の私にはわかった。
「はい」
私は頷いた。それから、胸の奥に、繭の温かさがまだ残っているのを感じた。
ウロボロスは、私の中に留まっている。そしてマスターもそこにいる。ウロボロスを押さえながら、見守ってくれている。
だが私の底で黒く渦巻くあの呪いのような執念は消えていない。いつかまた、私を引き込もうとするかもしれない。
怖くないわけではなかった。
けれど、もうその恐怖に身を委ねるつもりはなかった。
『この力はお前が使う力だ。使われる側ではない』
マスターは、そう言った。
いつかこの力を、恐れて封じ込めるだけではなく、自分のものとして使いこなしてみせる。それが、私の選んだ道の先にあるものだった。
崩壊したエアロックの重い扉を、アルバートが力任せに押し開けた。暗い通路の先から、冷却設備の乾いた空気が流れ込んでくる。
私は最後に、部屋を振り返った。
滅茶苦茶になった空間。砕けた装置。血の滲んだ水面。長い時間、私が眠り続けた部屋。マスターと決別し、ウロボロスに囚われ、そして戻ってきた場所。
さようなら、とは思わなかった。ただ、静かに目を伏せた。
かつて、私は誰かの瞳に自分を映してもらうことでしか、存在を確かめられなかった。
見られるために従い、必要とされるために自分を削った。
マスターは私の中に、自分に欠けたものを見ていた。
私はマスターの中に、自分の存在する理由を見ていた。
互いを見つめながら、その実、目の前の相手ではない何かを見ていた。
けれど今は違う。
鏡と、それを覗き込む者ではない。
命じる者と、従う者でもない。
同じ場所に立ち、同じ高さから、目の前にいる相手をその人自身として見ている。
それが、私たちが辿り着いた反転だった。
セラフィナという名前は、私の魂に灯された最初の光だった。
番号しか持たなかった私に、人としての輪郭を与えてくれた名前。
その名があったから、私はここまで来られた。
それを与えてくれた人は、今も私の中にいる。
けれど、これから歩いていくのは、あの人のためだけに生きるセラフィナではない。
セラとして。
過去を捨てるのではなく、過去に縛られるのでもなく、すべてを自分の中に抱えたまま、私は歩いていく。
アルバートが先に扉の向こうへ踏み出した。
数歩進んだところで、彼は足を止めた。
振り返りはしなかった。
ただ、私が並ぶためのわずかな間を残して、そこに立っていた。
私はその意図を悟り、部屋から一歩を踏み出した。
彼の後ろではなく、腕に縋るためでもなく、命令に従うためでもない。
その隣へ。
肩を並べると、暗い通路の先に淡い光が見えた。
本来の筋書きなら、この先に待っていたのは終わりだった。
彼はウロボロスに呑まれ、火山で死ぬ。
私は最後まで誰かのために自分を差し出し、道具のまま消える。
その結末へ向かうために、すべては組み上げられていた。
けれど、その筋書きは覆った。
彼は野望よりも、まだ名のない未来を選び。
私は犠牲ではなく、自分の意思で隣に立つことを選んだ。
だから今も、私たちは生きている。
ならば、この先に何があるかは、もう誰にも決めさせない。
これから先は私たちが選ぶ番だった。
光の方へ。
私たちは、二人で歩き出した。
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