7章





繭が、開いた。
温かい水が一気に流れ出し、体が落ちた。冷たい水面に手をついて息が詰まり、しばらくそのまま動けなかった。

顔を上げると、そこに広がるのは闇だった。
果てのない暗い闇の中を水面がどこまでも広がっていて、これまでいたような夢の部屋ではなかった。
花の香りも、バターの匂いも、温かい光も、何もなくただ冷たい空間が広がっていた。
体が重く、意識がまだあの夢と現実の境界をさまよっているよう。

私を抱き止めたマスターを振り払った。私を呼び止める、マスターの声が一瞬、必死で震えていたように感じた。
これで、本当に良かったのだろうか。


水面に手をついたまま、息を整えた。立ち上がろうとして、膝が震えた。


繭に手をつくようにして立ち上がり、よろめく体を支えながら周囲を見回す。

すると、闇の中に何かが見えた。

人影だった。
水面に横たわり、輪郭が滲んでいた。まるで存在が少しずつ闇に溶けていくように、その形が揺らいでいた。

警戒しながら近づくと――

「——っ」

息を飲んだ。
そこに倒れていたのはウェスカーだった。

「ウェスカー」

呼びかけるが、反応がない。
目を閉じ、体の輪郭が揺らいでいて、ここにいるのにここにいないような——存在が、薄れかけていた。


「ウェスカー!」

もう一度呼びかけると瞼が、かすかに動いた。

ゆっくりと目が開いて、赤い瞳がこちらを見た。焦点が合うまで少し時間がかかって、それからウェスカーは私を見た。

「……セラ」
掠れた声だった。

「……はい」

声が震えた。泣きそうだった。なぜ泣きそうなのか、自分でもわからなかった。ただ——この人が呼ぶ「セラ」という名前が、胸の奥に刺さった。

ウェスカーが身を起こそうとして体がふらついたから、思わず手を伸ばして支える。
その手をウェスカーはじっと見た。それから私の顔を見た。

何も言わなかった。私も何も言わなかった。ただ——確認するように、互いを見ていた。

2人ともここにいる。それだけで、十分だった。

やがてウェスカーが立ち上がった。

「歩けるか」

「……はい。でも、あなたこそ……」

「行くぞ」

それだけ言って、ウェスカーは歩き出した。私は慌ててその背中を追いかけた。
後ろから見ると、その状態がわかった。
肩に貫かれたような痕があった。服が乱れて、いくつもの傷が滲んでいた。歩く姿に迷いはないが、その存在もどこか薄く、闇に溶けかけているように見えた。

ここに来るまでの道のりが、容易ではなかったことをその背中が静かに語っていた。


「ウェスカー……ごめんなさい」

ウェスカーは振り返らなかった。

闇の中を、彼に続く形で歩いた。足元の水面が波紋を広げ、また静かに消えていく。

しばらく続いた沈黙を破るように、ウェスカーが静かに言った。

「お前の本当の名前も知った。……誰が、そう呼んだのかも」

その言葉が、胸の奥に落ちてきた。
知られたくなかった。ずっと、そう思っていた。
でも本当に怖かったのは、過去を知られることではなかったのかもしれない。
過去を知られれば、私が何者かがわかる。何のためにここにいるかがわかる。そうなれば——今ここにいる私は消える気がしていた。この人も、私をただそれだけのものとして見るようになる気がしていた。
本当は、それが怖かったのだ。
知られることではなく、知られた後に見てもらえなくなることが。
だから黙っていた。知らないままでいてくれれば、今度は“私“を――私自身を見てもらえると思っていた。

私は、そんなどうしようもない女なのだ。

恥ずかしかった。みっともなかった。今さら、どんな顔をすればいいかわからなかった。

でも同時にどこか、ふっと軽くなった気がした。
もう隠さなくていい。隠しようがない。それが妙に、楽だった。

ずっと一人で抱えていたものを、やっと誰かに知ってもらえた。そんな、不思議な感覚だった。

もう隠しようもない。
それでも、この背中はここにいる。

「……それでも、来てくれたんですね」

ウェスカーは答えなかった。ただ、前を向いて歩いていた。

その横顔を見た。
マスターと同じ顔。でも、違った。

この人の目は、確かに私を見ていた。
なのに私はそれが耐えられなかった。見られるたびに何かが揺らいで、距離を置こうとした。なぜそうなるのか、あの時の私にはわからなかった。

記憶の中のマスターの目を思い出す。
マスターもいつも私を見ていた。でもいつもどこか、私の向こうを見ているような目だった。私の中にある何かを探すような、私という存在を通して別の何かを確かめるような。
まるで私は鏡で、マスターが本当に見たかったものは、私の奥に映っていた。

マスターは、私の中にいったい何を見ていたのだろう。

答えを探しかけた、その時——

ゆっくりと闇が、動いた。
水面が波立ち、遠くから低い振動が伝わってきた。

何か、来る。

二人は同時に足を止めた。
闇の奥から黒いものが広がってきた。
巨大で、冷たくて、この空間全体を侵食するようにゆっくりと広がってくる。

ウロボロスだった。

理解すると同時に、触手が闇を裂いて飛んでくる。
ウェスカーが私を引いて躱した。水面を蹴って距離を取る。

「セラ、動けるか」

「……はい」

ウェスカーが前に出て触手を躱しながらウロボロスの動きを読んでいた。
その動きは無駄がなかった。ここでの戦い方を心得ていた。最小限の動きで、最大限の効果を出す。 

私は横に回り込んでウロボロスの注意を分散させる。
触手が二手に分かれた隙にウェスカーが中心に向かって踏み込み、一撃を喰らわす。
ウロボロスが怯んで後退した。 

だがすぐに、また広がってくる。
まるで手応えがない。

何度やっても同じだった。終わらない。相手をまるで削れていない。
ウロボロスはここにいる限り、この闇そのものから再生してくるようだった。

じわじわと、わかってきた。
消耗しているのは、私たちだけだ。このまま続ければ、先に尽きるのはこちらになる。
息が乱れてきた頃、ウェスカーが静かに言った。

「倒すことは考えるな」

「……では、どうするんですか」

「ここから出る方法を探す」

その言葉と同時に、黒の動きが変わった。
さっきまでは二人を等しく狙っていた触手が、じわじわと向きを変えていった。
ウェスカーへの攻撃が薄れ、その分が私に集中してくる。
出口を探そうとした瞬間に、それを塞ぐように。行かせまいとするように。

それだけではなかった。攻撃の軌道が、やたらと的確だった。右に躱せば次が左を狙ってくる。踏み込もうとした瞬間に足元を狙われる。間合いを取れば、その間合いごと潰してくる。

読まれているそう感じた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

この感覚を、この読まれ方を、体が知っていた。

この間合いの詰め方、この角度からの攻撃——何度も打ち込まれた記憶。
この動きを叩き込んだ相手が、今こちらを攻めている。

身体に刻まれた記憶の奥で、何かが動いた。

「……これは」

呟くと、ウェスカーが静かに言った。

「気づいたか」

「はい……」

この黒い存在はウロボロスだけじゃない。
その冷たい意志の奥に別の何かが混じっていた。もっと切実な、執着にも似た何かが私に向いている。

「マスター……」

「ああ」

短い答えだったが、その一言に全部が込められていた。

「おそらく、この中にはあいつのお前への執着が混じっている。……だからお前を手放さない。」

わかっていた。ずっと、心のどこかで。

ウロボロスが私を手放さないのは、ウロボロスだけの意志ではない。その奥深くに、あの人がいたからだ。
マスターがここにいる。あの日から今も消えることなく、私を引き寄せ続けていたのだ。


「……マスター、夢じゃなくて……あなたはまだそこにいるんですね」

隣に立つウェスカーは答えなかった。
だが、その沈黙は肯定よりも重く、私の胸を圧した。


闇が、うねりを上げた。
黒い飛沫が密度を増し、巨大な塊が骨格を編むように収縮していく。やがてその中心から、あまりに馴染み深い、凍てつくような輪郭が現れた。
光を撥ねつける黒いコート。感情を排したサングラスの奥で、暗い熱を孕んだ瞳が、こちらを射抜く。


「……マスター」

震える声がこぼれた瞬間に、空間の温度が一段階下がった気がした。
長い、耐えがたいほどの沈黙。
やがて、その固く結ばれていた唇が、静かに開いた。

「……セラフィナ」

その響きだけで、私の世界はあの日々に引き戻される。


「私から逃げたつもりだったか」

責めるような響きはなかった。
ただ、逃れられぬ運命を告げるような、静かな断定。

刹那、黒い触手が鞭のように空間を裂いた。ウェスカーが即座に私の腕を引き、死線を紙一重で躱す。

だが、マスターの目はずっと私だけを見ていた。
マスターの狙いは最初から、私一人に絞られていた。

攻撃が、重い。そして、鋭い。
右から来る一撃を辛うじて躱した直後、死角から別の触手が滑り込んできた。反応が遅れ、私は冷たい水面に膝をつく。


「右に重心が流れているぞ」

「……っ」

頭上から、低く、冷徹な声が降ってきた。
思考よりも先に、体が撥ねるように反応して重心を修正する。
私の戦い方を整え、そのすべてを叩き込んだ張本人が、そこにいた。

「未だにその癖が抜けていないな」

呆れたような、けれどどこか懐かしむような響きに、視界が急激に滲んだ。

笑いたくなるほどに、あの日々と同じだった。どれだけ稽古を重ねても直らなかった、私の出来損ないの証。
でも……この癖を直してしまえば、あなたに見てもらう理由が一つ消える気がしていた。
だから、本当は、直したくなかった。あなたの眼差しが私を捕まえてくれる、その瞬間だけは私は道具ではなく、あなたのただの教え子でいられたから。


ウェスカーが私の肩を強く掴み、耳元で低く突き放す。

「セラ、集中しろ。あれはもう過去のお前の知るマスターではない」

わかっている。
でも体が、あの頃の私に戻っていた。


「……昔と、同じですね」

気づけば、独り言のように声が漏れていた。マスターは答えない。ただ、その唇が、わずかに噤まれた。


「何度言われても、私は結局その癖を直せませんでした。……悔しくて、でも、本当は嬉しかった。あなたが私の崩れた足元を見てくれている。私という存在を、眼差しで繋ぎ止めてくれている。そう思えたから」

黒い塊が、ぴたりと静止した。

ウェスカーが再び私の腕を引く。その手が、焦りを含んで震えているのが伝わった。

「セラ、余計な感傷は捨てろ」

私はその手を優しく触れながらも、振り払った。

「わかっています。でも、今言わなければ、私は一生、私を許せない」

触手が空を裂く。
私は死地へ踏み込むように、マスターへと歩き出した。一歩、踏み出すたびに、水面が波紋を広げ、静寂を破る。

「最初は……あなたに言われるたびに、必死に直そうとしました。次こそは言わせないと思って。でも、心のどこかでは本当は直したくなかったのかもしれない」

声が、震えた。 

「私の動きを見ていてくれているから。だからこそ言われるんだと思っていたから。それは、あなたが私を見ていてくれる証拠だと思っていたから。だから……」

黒が、静止していた。

ウェスカーが再び腕を引こうとするのを制し、私は至近距離まで踏み込む。絡みつく殺意の中に、その瞳を探した。

「余計なことを話すな。ここで時間を割く必要はない」

「分かっています。でも、最後にどうしても……」

今だけは、本当の事を言わなければならない気がした。

「マスター、ひとつだけ……ひとつだけ、聞かせてください」

視線を逸らさない。絡みつく黒い殺意の中に、その瞳を探す。

「私は……あなたの“セラフィナ“に、なれましたか」

攻撃の隙間を縫うように、マスターに近づく。

「名前をくれたあなたが、私を必要だと言ってくれた。それが私の世界のすべてだった。地獄の道でも、返り血で汚れる日々でも、あなたが見ていてくれるなら、それだけで進めた。
私は……私は、ただ、あなたのセラフィナになりたかった。あなたの求める理想……その、完璧な一部になりたかった」


「セラ、止まれ」

ウェスカーの警告が聞こえる。でも、足が止まらなかった。
触手が私の手足に絡みつき、皮膚を締め上げ
る。痛みが、現実感を研ぎ澄ませた。


「そうすれば見てもらえると思っていたから。ずっと、そう思っていたから」

一歩、また一歩、マスターに向かって歩いた。
触手が私の手足に絡みつき、皮膚を締め上げる。
それでも、私は止まらない。

「自分を殺してでも、セラフィナであろうとした。
どれだけ傍にいても、あなたの瞳に映る私が本物なのか、それだけが最後までわからなかった。私はただ、あなたが求める理想を映すための鏡に過ぎなかったのでしょうか」

「セラ、戻れ!」

遠くでウェスカーが叫ぶ。

「きっと……私は最後まで、なれなかったんですよね。あなたの理想には、届かなかった」

黒い圧迫が、肋骨を、肺を、容赦なく押し潰す。
息が、苦しい。

「……ごめん、なさい」
声が、嗚咽に変わった。

道具に涙はいらない。
感情は機能不全の証だと、そう教わってきた。

けれど今、長い間蓋をしてきた感情が、言葉と共に溢れ出して止まらない。

「あなたのセラフィナになれなかった私を——どうか、許してください」

触手に皮膚を裂かれながら、私はついに、その輪郭に手を伸ばした。

「でも、私は……あなたのことが、好きでした」

こんなこと、初めて口にした。

道具でいることが存在の条件だと思っていた。この言葉を言えば、何かが壊れると思っていた。あなたの道具として完璧であれば、ずっと傍にいられると思っていた。
あなたのセラフィナとして、ただそれだけで、傍にいたかった。

そのまま、私はマスターの胸に抱きついた。
空間が、絶句した

締め付けていた触手が、嘘のように弛緩する。
私の腕の中で、マスターの体が、鉄のように硬直した。
払いのけることも、殺すこともできたはずだ。
けれど、彼はただ、黒い揺らぎの中で立ち尽くしていた。サングラスの奥の瞳が、大きく見開かれた気がした。

「離せ」

低い声。けれど、そこにはいつもの絶対的な命令の響きはなかった。
声が、微かに震えている。

「……嫌です」

私はさらに強く、その冷たい胸に顔を押し当てた。
涙が、マスターの胸を濡らしていった。温かい雫が、冷たい黒いコートに染みていく。その温度差が、ひどく切なかった。

私の腕の中に閉じ込めた彼の体からは、拒絶も、殺意さえも消え失せ、ただ得体の知れない動揺だけが伝わってくる。

長い、耐えがたいほどの沈黙。

私を締め付けていた触手が、力なく水面に落ちて波紋を作る。その小さな音が、静寂に響いた。

マスターの喉が、微かに鳴った。
何かを言いかけ、けれど言葉が見つからず、吐息だけが漏れる。

一秒が永遠のように長く感じられた。
やがて、私の耳元で、抑えきれない困惑を含んだ声が落ちてきた。

「……なぜだ」

絞り出すような声だった。
マスターの手が、私の肩のあたりで行き場を失い、宙でわずかに震えているのがわかった。

「……なぜだ。なぜ、何も与えなかった私に、そんなものを向ける。温かさも、救いも、お前が望むものは何一つ、私の中にはなかったはずだ」

「……それでも、よかったんです」

私はマスターの背中を、縋るように強く掴んだ。

「やさしくなくても、利用されるだけでも。あなたが私を見ていてくれるだけで、私は……私は、救われていたんです」


「あなたが私を見つけてくれなければ……名前をくれなければ……私は何者にすら、なれなかった……っ」

その背中が、私の涙で濡れていく。


「……理解できん。お前を道具として使い潰し、死してなおも呪いのように縛りつける私を……なぜ憎まない」

彼の手が、私の肩のあたりで宙に浮いたまま、行き場を失ってわずかに震えているのがわかった。

「マスター……」

私は泣きながら、言葉を探す彼を感じていた。

「お前は、なぜ……」

「お前が欲しがったのは、あの偽物の夢のような安らぎではなかったのか。私が与えたのは、殺しの技術と、消えない呪いだけだ。それなのに……」

マスターの手が、躊躇うように動いた。払いのけられるのを覚悟して目を閉じたが、訪れたのは、背中に触れる、微かな、ひどく不器用な重みだった。

抱き返したのではない。ただ、触れただけ。
けれどその指先から、言葉にならない何かが伝わってきた。

「私は……」

掠れた声。
「私は……ずっと、お前が欲しかった。……理想の器だからではない。お前という存在そのものが、私を……」

言葉が途切れた。

「この世界は、あまりに醜悪で、空虚だ。誰もが裏切り、誰もが己の欲望のために泥を啜る。……だが、お前だけは、私の傍で、鏡のように澄んでいた」

「……」

「お前は、私の中にあった最後の一片だった。私と同じものを持ちながら、決して濁ることのなかった。……だから、手放したくなかった。たとえ道連れにしてでも」

背に触れた指が、食い込むほどに強くなった。

「二人で、新しい時代を築くはずだった。選ばれた者だけの美しい世界を。そしてお前こそが、私の隣に立つのに相応しい、唯一の存在だったのだ。……私は、私を理解するお前との世界が、欲しかった」

マスターの言葉が、ふっと途切れた。
抱きしめた彼の胸の奥から、喉を震わせるような、絞り出すような呼気が漏れる。

彼の視線は私の肩越しに、ここではないどこか遠く……彼が夢見た世界を見つめているようだった。

完璧だったはずの彼の輪郭が、私の涙に濡れて、無惨に溶け出していく。 

やがて、彼はゆっくりと、祈るように私の肩に額を預けた。  

預けられたその重みが、彼が背負ってきた孤独の重さのように感じられて、胸が締め付けられる。


「だが……それを果たせなかった」

マスターの声が、かすかに震えている。
あの、普段の絶対的だった響きは消えていた。

「だから、せめて……お前だけは。永遠に、私のものとして……」

マスターは私を、壊すほどに強く抱きしめた。
回された腕が、小刻みに震えているのが背中越しに伝わってくる。
その震えは、怒りや殺意ではなく、失うことを恐れるような怯えに見えた。

私は、抱きついたまま、その震えを全身で受け止めていた。

耳元で聞こえる彼の呼吸が、いつもの冷徹なリズムを失って、乱れている。

マスターが、私を欲しかった……
私の力や血ではなく……私自身を……

私を見下ろしていたあの冷たい瞳の奥に、こんなにも熱くて、こんなにも形を失った執着が隠されていたなんて、知らなかった。


道具として選ばれたと思っていた。
理想に応えられなければ、不要になると思っていた。

けれど、違った。
理想を見ていたのではなかったのかもしれない。
私という存在の中に、自分に欠けた何かを、必死に探していたのだ。
それはたぶん――私がこの人に求めていたものと、どこか似ていた。


その理解が胸に届いた瞬間、視界が真っ白になった。 

もう、堪えられなかった。

「…………っ」

漏れ出たのは、言葉にならない掠れた声だった。
一度溢れ出すと、もう止まらない。
私は彼の胸に顔を深く埋めたまま、子供のように、声を上げて泣きじゃくった。

「マスター……!」

わんわんと泣き叫びながら、彼の背中を、その震える体を、壊れるほどに抱きしめ返した。
涙が、熱い滴となって、彼の黒いコートを容赦なく濡らしていく。

きっと、この人は、私がいなければ、本当に独りきりになってしまう。
それが、耐えられなかったんだ。
私と、同じように――

「マスター……あなたも、私と同じ……、だったんですね」

 
マスターの体が、びくりと跳ねた。

「私はずっと、あなたに選ばれたかった。それだけが、私が生きていい唯一の理由だった。……本当は、ずっと見ていてくれたんですね。道具としてじゃなく、セラフィナを……私を」

マスターは何も言わなかった。
ただ、その沈黙のすべてが、私の涙を受け止める静かな答えとして私を包んでいた。

激しい慟哭が少しずつ収まり、残ったのは、重なり合う二人の体温と、絶え間なく溢れる涙の熱さだけだった。
私は彼の胸に額を預けたまま、震える指先で、彼のコートの裾をぎゅっと握りしめた。

涙でぐちゃぐちゃになった顔を、私はゆっくりと上げた。
至近距離で、マスターの表情は読み取れない。けれど、肩に預けられた彼の額から、微かな熱が伝わってくる。

「マスター。名前をくれて、ありがとうございました」

声が詰まった。

「セラフィナ。その名前が、私の魂の、最初の灯火でした。番号ではなく、一人の人間として呼んでくれた。あの瞬間、私は初めて、この世に生まれてきたのだと信じることができたんです。……普通の形ではなかったかもしれないけれど、私たちがあの日々で交わしたものは、間違いなく、本物だったと思っています」


黒い輪郭が、激しく波打つ。

「あなたはずっと、私の中にいます。ここから私が出ても、死ぬまで消えない。あなたがいたから、今の私がいる。……あなたのセラフィナは、ここにいます」

抱きしめる力が、一瞬だけ、すべてを肯定するように強くなった。

「だから、これからも私の中で、どうか見ていてください。私が歩いていくのを」

長い、長い、永遠のような静寂。

やがて、私の背から手がゆっくりと離れた。
拒絶ではない。慈しむような手つきで私の両肩を掴み、体が引き離される。

至近距離で、マスターが私を見た。
その瞳には、かつての冷徹な眼差しも、私を透かすような眼差しも、なかった。

ただ、真っ直ぐに。
目の前にいる私を、ただのその瞳の奥に焼き付けていた。


「……セラフィナ」

「……はい、マスター」

私は泣きながら、微笑んだ。
その穏やかな表情のまま、彼は真っ直ぐに私を見つめ――そして、静かに、満ち足りたようにその目を閉じた。



その瞬間——

息を呑むより早く、闇の塊が脈打つ。
空間そのものが痙攣したように震え、その中心から触手が弾けた。
黒い鞭のようにしなり、一直線に私へ向かって飛んでくる。

避けられなかった。

脇腹に、鋭い痛みが突き刺さる。
次の瞬間には身体が宙へ弾き飛ばされ、水面へ叩きつけられていた。

肺の中の空気が一気に押し出される。
喉の奥で息が潰れ、視界が白く弾けた。
冷たい水が頬と腕に跳ね、遅れて鈍い痛みが脇腹から全身に広がっていく。

「セラ!」

ウェスカーの声が、遠くから響いた。
起き上がろうとしたが、身体が言うことをきかない。脇腹の奥で何かが焼けるように痛み、指先にさえうまく力が入らなかった。

その時、黒の中心から声がした。

「何をしている」

冷たく、低く、感情のない声だった。
生き物の温度をまるで持たない、乾いた刃のような声音。


マスターの背後から、うねる黒がゆっくりと形を変えていく。
それは人の形を模しただけの、ウロボロスだった。

粘つく闇が寄り集まり、無理やり人の輪郭を真似ていた。
肩と腕の位置だけは辛うじて人に似ている。だが、関節の繋がり方はどこか歪で、皮膚の代わりにぬめる黒が張りついている。
顔のあるべき場所には、顔になりきれない起伏だけがあった。鼻梁めいた線はあるのに、目も口もない。表情を宿すための場所だけが、ごっそりと抜け落ちている。

人の形を取っていながら、そこに宿るものはどこまでも空虚だった。
生き物の温度も、人間らしさもない。ただ人を模した殻だけが、水面の上で不気味に立ち上がる。

「お前もセラフィナが欲しいのだろう」

それは、マスターの背に寄り添い、囁くようにに立ちながら言った。


「ならば共に手に入れればいい。感情に流されるなど、愚かだ」

黒い腕が、ゆっくりと持ち上がる。
指の形だけを真似た細長い突起が、水面を指し示すように揺れた。

「私はお前の当初の計画通りウロボロスを世界に放つ。優れたものが統べる新しい世界をもたらす。お前はセラフィナと共に、その頂点に立てばいい。それが望みだったはずだ」

「……違う」
低い声が、絞り出された。

同じ闇を纏っていても、もう同じものには見えなかった。
前に立つマスターと、その背後から滲み出たウロボロス。
ひとつの黒から分かれたはずなのに、なお完全には離れきれず、互いを引き裂くように揺れていた。


「お前はセラフィナを手に入れたかった。私はその器が欲しかった。目的は同じだろう? だから、私はお前のその暗い執着を食ってやった」

黒い腕が持ち上がり、その先がまっすぐ私を指した。

「渇望も、孤独も、独占欲も……全部、私の糧にしてやったのだ」

マスターの背で、黒がざわめいた。
ひとつづきの闇のはずなのに、そこだけ温度の違うものがぶつかり合っているようだった。

「お前がもうセラフィナを不要と言うなら、壊して器だけ奪えばいい」

その瞬間、黒が弾けた。

背後から伸びた触手が、一直線に私へ向かって走る。
黒い槍のような切っ先が、水面を裂きながら迫ってくる。


避けられない。
そう思った、寸前。

止まった。

あとわずかで届く、その場所で。
切っ先が空中で痙攣するように震え、それ以上、一歩も進めない。


伸びてきたその殺意を、マスターが押さえて食い止めている。
黒がその身体の向こうでひしゃげ、軋み、押し出そうとしては止められ、止められてはまた膨らんだ。

「なぜだ!」

ウロボロスの声が、初めて露骨な苛立ちを帯びた。

「お前は愚かにも、あの女に揺れている!」

背後の黒が、マスターに食らいつくように身を乗り出す。
前へ出ようとする闇を、マスターが押し返すたび、二つの輪郭が水面の上で不自然に重なって揺れた。

「感傷は不要だ。お前はそれを忘れたのか?」

「黙れ」

マスターの声が、低く鋭く落ちた。

その一言で、空気が張り詰める。

目の前に立つマスター。
その背後から這い出たウロボロス。
同じ黒を纏いながら、もう互いを庇う気などひとつもない。
二つの意志は、今やはっきりと、同じ闇の中で噛み合わずにぶつかり合っていた。


私はその光景を、水面に手をついたまま見ていた。脇腹が痛かった。体がまだうまく動かなかった。

「セラ」

ウェスカーが私の腕を掴んで引き起こした。体を支えながら、黒を見ていた。

「傷は」

「……大丈夫です。致命傷じゃない」

ウェスカーは一瞬私の脇腹を見て、それから黒に視線を戻した。

「揉めているようだが、長くは保たない」

静かに言った。

「おそらく、あいつがウロボロスを抑えていられる時間には限りがある」

「……わかっています」

でも、どうする。
おそらくウロボロスは倒すことはできない。
この空間で何度試しても、ウロボロスは消えなかった。もがけばもがくほど、削れるのは私たちだけだった。 


その時――
私が眠っていた場所を思い出す。
あの閉じた場所。外を完全に遮断していた、私がずっと眠っていたあの場所。

「……ウェスカー」

「何だ」

「倒すことができないなら、閉じ込めることはできますか。ウロボロスを……あそこに」

ウェスカーが私を見た。
私は繭を指差す

「私が眠っていた場所です。あの中に、ウロボロスを押し込めて、閉じられれば……出てこられなくなるかもしれない」

「だが、お前が出てきたように、出て来れるようであれば意味はない」

「それは……おそらく、できません」

「……根拠は」

「ありません」


ウェスカーは私が何を考えているのか探るようにしばらく黙っていた。

私は黒を見ていた。マスターとウロボロスがまだぶつかり合っていた。

「でも、信じてみたいんです。マスターが……マスターが押さえてくれる、と」


「……」

「疑っていますね。でも、きっと大丈夫です。マスターも、アルバートなんですから。……自分で選んだものを、誰かに好きにさせる人じゃない」

そう言ってウェスカーに微笑む。
ウェスカーはすぐには答えなかったが、その赤い瞳がわずかに細めたあと、低く息を吐いた。

「……随分と勝手な信頼だな」

「わかっています」

「おそらく機会は一度しかない、失敗すれば——」

「わかっています」

私が遮るように言うと、ウェスカーはほんの僅かに口元を歪めた。
呆れたようにも見えたが、そこに否定の色はなかった。

「……ならば、その信頼に値する結末を引きずり出すまでだ」

それからウェスカーは、また黒を見た。

「セラ、やれるか」

「やります」


それだけ言って、彼は再び黒へ視線を向ける。
私もまた頷き、同じものを見た。

   


「無駄だ」


それまでマスターへ向けられていた意識が、こちらのやり取りを嗅ぎ取ったかのように、黒の中からウロボロスの声が落ちてきた。

マスターの背後で蠢いていた闇が、ゆっくりとこちらへ向きを変え、覗き込むように小さく傾いた。

「ここから出られたとしても、無駄だ。私はお前から消えることはない。」

「……」

「お前の器はあまりに優秀だ。手放す理由がない。何度でも引き戻し、何度でも夢を見せてやる。お前が生きている限り、お前は私の器として使われ続ける。それがお前の一生だ」

その言葉が、冷たく胸に刺さった。

でも——その時。
黒の中からもう一つの声が落ちてきた。マスターの声だった。

「セラフィナ」


その声が、水の底みたいに冷たく胸へ沈んだ。

けれど、その時。

「セラフィナ」

黒の奥から、もうひとつの声が落ちてきた。
マスターの声だった。

「……はい」

自分の声が、ひどく小さかった。

「お前は、名を与えた時からずっと私のセラフィナだった。今もだ。それはこれからも変わらない」

その声は低く、静かだった。
まるで、ずっと言えなかったことを、ようやく遅れて差し出しているような響きだった。

胸の奥で、何かが小さく震えた。
ずっと欲しかったはずの言葉なのに、いざ与えられると、うまく息ができなくなる。
私はただ、マスターを見上げた。
涙で滲んだ視界の向こうで、その輪郭だけが静かに揺れている。

「だが、お前はもう、私に縛られる必要はない」

次にその一言が落ちた瞬間、胸の奥にあった見えない鎖が、音もなく断ち切られた気がした。

私は思わず目を見開いた。
嬉しいはずなのに、少しだけ怖かった。
それは今まで私を縛っていたものだったと同時に、私をマスターへ繋ぎ止めていた、たったひとつの証でもあったからだ。

唇がかすかに震える。
何か言おうとしても、うまく形にならない。
解放されることが、こんなにも優しくて、こんなにも痛いものだとは知らなかった。

「今、お前を必要とするものと行け」

そこで初めて、私は息を呑んだ。

“私を必要とするもの”

その言葉が、胸のいちばん柔らかい場所に真っ直ぐ落ちてくる。

マスターは、わかっていたのだ。
私がどこへ帰ろうとしているのかも、誰のもとへ行くべきなのかも。
それを知った上で、なお自分の手で私を手放そうとしている。

その事実に、たまらなく喉が詰まった。

離したくない、という気持ちがまだ胸のどこかに残っている。
けれど同時に、この言葉こそが、マスターが私にくれた初めての自由なのだとわかってしまった。

指先が震える。
この人に縋りついたままではいけない。
でも、もう少しだけこの声を聞いていたい。
そんな子供みたいな願いが、涙と一緒に胸の内で滲んだ。

「マスター……ありがとうございます」

声はひどく掠れていた。
感謝の言葉なのに、どこか泣き声に近かった。

私は頭を下げることもできず、ただその人を見つめたまま言った。
ありがとう、の中に、ずっと言えなかったすべてを押し込めるように。
名前をくれたこと。見ていてくれたこと。
最後に、手放してくれたこと。
それら全部が、たった一言ではとても足りないほど重かった。

涙がまた頬を伝った。
けれど今度のそれは、さっきまでとは少しだけ違っていた。
痛みの中に、確かに救いが混じっていた。

だが、その静けさを次の瞬間には怒声が引き裂いた。

「笑わせるな! セラがここから出ていったとしても、私は消えることはない。一時的に支配を奪われたとしても、またここへ連れ戻せば同じ話だ!」

ウロボロスの声が荒れ狂う。
それに呼応するように、触手が水面の上で不穏にうねり、苛立ちをそのまま形にしたようにこちらへ伸びてきた。

「それに、未来の収束は変わらない。この力を解き放つ、世界を篩にかけるこの計画を……この力なしで進めれば、本来の通りの未来に収束し、この世界のお前達も、全員死ぬ運命だ!」

言葉が落ち切ったあと、短い沈黙があった。

「……そうか。なるほどな」

ウェスカーの声が、静かに落ちた。

「何を……」

ウロボロスが訝るように黒を揺らす。

ウェスカーは答えなかった。
ただ黒を見ていた。
その赤い瞳の奥で、何かがひとつ、冷たく定まったのがわかった。

やがて彼は、わずかも揺るがずに言う。

「それなら、尚更ここからセラと共に出るのみだ」

「馬鹿な! お前は自ら死ぬ運命を選ぶと言うのか?」

「先ほども言ったはずだ。ウイルスごときに、私の未来を決める権限はない」

ウェスカーの声は、どこまでも静かだった。
熱くなることも、怒鳴ることもない。ただ、揺るがぬ事実を告げるように言い切る。

「お前が示した未来など、覆すまでのことだ」

「――っ!」

その一言に、ウロボロスが激しく揺れた。
黒の輪郭が乱れ、苛立ちを剥き出しにしたように波打つ。

その時、ウェスカーがこちらを振り返った。
赤い瞳が私を捉え、次の瞬間、その視線がほんのわずかに繭へ流れる。

それだけで十分だった。

――そういうことか。

ウェスカーは、わざと煽ったのだ。
怒りに任せて、ウロボロスの意識をこちらへ向けさせるために。

言葉はいらなかった。
ウロボロスの執着がどこへ向くのかも、私がどう動けばいいのかも、もうわかっていた。

私は水面を蹴った。

脇腹に鈍い痛みが走る。
それでも止まらず、一直線に繭へ向かって走る。

背後で黒が怒りのまま膨れ上がる気配がした。
次の瞬間、触手が空間を裂いてこちらへ殺到する。

やはり、矛先は私だった。

私は繭の前で足を止める。
跳ねた水が足首を濡らし、波紋が足元から広がっていった。

ここでいい。
ここに立てば、必ず来る。

息を整え、私は黒をまっすぐ見返した。

「ウロボロス」

声は不思議なほど静かだった。

「あなたが私の中に残ったとしても、もう私はあなたには屈しない」

迫る黒を見据えたまま、続ける。


「私をここへ呼び戻して、また夢の中へ沈めようとしても――もう、前の私じゃない」

「黙れ! ならば再びここへ閉じ込め、二度と出てこられなくしてやろう!」

ウロボロスが弾けるように伸びた。

黒が一気に間合いを詰め、繭へ引き摺り込もうとする力が全身を包み込む。
足首に、腰に、腕に、ぬめる触手が絡みつき、強引に身体を引く。
足が水面から浮いた。
背中が繭の方へ傾ぎ、そのまま中へ呑まれていく感覚が走る。

――今だ。

「マスター――! お願いします!」

その瞬間だった。

私に絡みつく黒の内側で、何かが動いた。

ウロボロスは油断していた。
すべてが思い通りに進んでいると信じ切っていた。
だからこそ、その背後から伸びた力に反応が遅れた。

マスターがその黒を押し分けるように前へ出て、ウロボロスを捻り上げた。

首根っこを掴むように、いや、それ以上に容赦なく。
黒の奥から別の意志が食い込み、暴れる輪郭ごと力ずくで引き剥がしていく。

「何をする気だ! お前はセラフィナを手にすることも、計画すらも失うんだぞ!」

「構わない」

短い声だった。
だが、そこに迷いはひとかけらもなかった。

その一言に、黒が大きく軋む。

「お前たち、どちらも……何を――!」

「さて」

マスターの声が落ちた。

それは先ほど私に向けていた静かな声とは違う。
もっと低く、もっと冷たく、かつて無数の命令を下してきた“支配者”の声だった。

黒の中で捕らえられ、なおも足掻くウロボロスへ向けて、マスターは淡々と言い放つ。

「私の創造物にしては、いささか躾がなっていない」

ウロボロスが激しく身を捩る。
だが、その動きを押さえつける力はさらに強まっていく。

「ここで、じっくり教えてやる」

その言葉と共に、マスターがさらに力を込めた。

その隙に私は繭から抜け出し、水面に着地した。
それをウェスカーが私の腕を掴んで支えた。

黒はまだ諦めずに抵抗していた。再び触手が伸びてくるが、それをマスターが押さえてくれ、私を繭へ向かって遠ざけてくれた。


「セラ、今だ。やれるか」

「はい!」

私は繭の膜へ駆け寄り、両手を押し当てた。
ぬめるような感触の向こうで、黒が蠢いている。
息を詰め、閉じるように力を込める。

だが、繭の内側から強い反発が返ってきた。
閉じかけた膜をこじ開けようと、ウロボロスが黒い触手をうねらせ、必死に引き戻そうとする。

そのたびに、さらに深いところから別の力が食い込んだ。
マスターが、内側から押さえていた。

黒が軋む。
広がろうとする闇を、閉じていく膜が押し返し、その内側からマスターがねじ伏せる。
三つの力が拮抗するたび、繭全体が脈打つように震えた。

それでも、少しずつだった。
確かに、黒は繭の中へ押し戻されていく。

外へ伸びていた触手が、一本、また一本と呑み込まれていく。
最後まで悪あがきのように水面を叩き、空間を裂き、私たちへ届こうと足掻いていたが、そのたびにウェスカーが最小限の動きでそれを躱し、時に弾き、時間を稼いでくれていた。

「お前たちは必ず後悔する! この世界は必ずお前たちを滅ぼす!」

ウロボロスの声が、空間を震わせる。
それは叫びというより、呪いそのものだった。
冷たく、粘つき、耳からではなく直接胸の奥へ流れ込んでくるような響き。

「覚えておけ、セラフィナ――! 私はお前から消えない!」

繭の隙間から覗く黒が、怨嗟のように脈動する。
その声に呼応して、私の血の奥で何かがひやりと動いた気がした。

「お前の血の中に根を張り、お前が生きる限り、私はそこにいる! お前が望もうと望むまいと、この力はお前のものだ! 逃れることなどできない!」

声が、空間全体を揺さぶるように響いた。
繭の膜がびりびりと震え、水面に幾重もの波紋が広がる。

「お前が泣くたびに私は笑い、お前が苦しむたびに私は満たされる!」

繭の奥で、黒い輪郭が何度も膨れ上がり、閉じ込められた檻の中で暴れる獣のようにぶつかってくる。

「お前の痛みも、喜びも、すべて私のものだ!」

膜の向こうから伸びた触手の先が、あとわずかでこちらへ届きそうなところで、また内側から引きずり戻された。
マスターが押さえているのだと、もう説明されずともわかった。

「そしてお前は必ず――必ず、私を必要とする日が来る! その時、私はここで待っている!」

絶叫が、もはや声という形を失いかけていた。
憎悪と執着だけが剥き出しになり、黒そのものが喚いているみたいだった。

「お前が何を選んでも、お前は私のものだ――永遠に――!!」

その呪詛じみた叫びが、繭の中へ飲み込まれていく。
黒が膜の向こうでなおも激しく脈打ち、空間に残響だけが不快に震えていた。

その濁流のような声の狭間を縫うようにして、もう一つの声が落ちてきた。

「セラフィナ」

低く、穏やかな声だった。
ウロボロスの叫びとはまるで違う。
冷たさではなく、静けさを帯びた声だった。

私は思わず息を止めた。

「あの愚か者の言う通り、この力はお前のものだ。だが、それはお前が使う力だ。使われる側ではない。……忘れるな」

短い言葉だった。
けれど、その一つひとつが、繭の膜を通してもなお、まっすぐ胸の奥へ届いてくる。

それだけだった。
それだけなのに、十分だった。

「セラフィナ、私はお前を――」

その先を聞こうとした瞬間、

「お前という存在が続く限り――私も続く! それがお前の呪いだ、セラフィナ――!!」

ウロボロスの罵声が、すべてを押し潰すように轟いた。

続くはずだった言葉は、濁流に呑まれて消えた。
最後まで、聞こえなかった。

けれど、私は見た。

その一瞬、マスターがこちらへ向けた眼差しを。
それは、創造主として被造物を値踏みする冷たい目ではなかった。
私が夢の中で何度も見た、あの温かく、ひどく無防備な眼差しだった。

言葉にはならなかった。
でも、たしかにそこにあった。

やがて、繭が閉じきった。

最後の黒が膜の向こうへ沈み、空間に残っていたざわめきも、少しずつ遠のいていく。
私はふらつく足で立ち上がり、完全に閉じた繭の前まで歩み寄った。

そっと、膜に手を触れる。

中が、温かかった。

あの夢の温かさとは違う。
もっと静かで、もっと深いところにある温かさ。
熱ではなく、存在そのものがまだそこにいるとわかるような、かすかな温度だった。

マスターがいる。
ウロボロスと共に、この中にいる。

「マスター……」

繭に向かって呼ぶ。

答えは来なかった。

それでも手のひらの向こうに、確かに気配があった。
何も言わず、ただそこにいると伝えてくるような、静かな気配だけが。


「……ありがとうございました」

声が、少しだけ震えた。

「ここにいてください。私の中で、ずっと」

涙がまた頬を伝った。
もう、止めようとは思わなかった。

「またすぐに会いに来ます。いつでも。だから……ここにいてください」

その言葉に応えるように、繭がかすかに光った。

それだけだった。
言葉はない。
けれど、わかった。

マスターは、ここにいる。
ウロボロスを押さえ込みながら、それでもなお、私の中に在り続けてくれる。

消えない。
消えてほしくない。

私の、大切なマスターだから。

私はゆっくりと繭から手を離した。

振り返ると、ウェスカーが立っていた。

「……アルバート」

その名を口にした途端、胸の奥がかすかに熱を持った。
ひどく自然に出たのに、どこかくすぐったくて、私は少しだけ目を伏せる。

ウェスカーはわずかに目を細めた。
何も言わない。
けれど、その眼差しはいつもより少しだけ近かった。

「来てくれて、ありがとうございました」

返事はなかった。
それでも、その沈黙は冷たくなかった。

「帰りましょう」

ウェスカーは短く頷いた。

闇が、薄れていく。
足元の水面に広がっていた波紋が、ゆっくりと静まり、代わりに光が滲むように足元から広がり始める。

帰るのだ。

痛みのある場所へ。
血のある場所へ。
終わらない戦いのある場所へ。

でも――彼がいる場所へ。
私を呼んでくれる人がいる場所へ。
私を必要としてくれる人の場所へ。


光が広がる。
私たちは、二人で歩き出した。

そして、闇が静かに閉じた。





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