7章





夢を見た。
そこは薄暗かった。
どこかの廊下で、自分の手を見ていた。

赤かった。ナイフを握っていた。
その刃も、柄も、手も——全部、赤かった。
なぜそうなっているのか、わからなかった。
何があったのか、わからなかった。ただ、赤かった。
足元にも赤い染みが広がっていて、靴の底がぬるりと滑った。

背後に気配があったが、振り返れなかった。
でも振り返らずともわかった。そこにはマスターが立っていて、こちらを見ている。

その視線が、背中に刺さっていた。



怖くて飛び起きた。
息が乱れ、シーツが汗で湿っていた。

慌てて手を広げて見た。
でもさっきまでのように赤くはなかった。白くて、きれいで、何もついていなかった。


「……セラフィナ」

低く落ち着いた声がすぐ隣から聞こえる。
振り向けば琥珀色の瞳が私を見つめていた。温かく、柔らかく、心配そうに細められていた。

「……怖い夢を見ました」

掠れた声で言うと、彼はすぐに身を起こし、私の背に手を回した。

「そうか。だが夢だ。もう終わった」

「……でも……私の手が……」

「大丈夫だ。何もない」
彼の手が私の手を包んでくれる。温かかった。

「見てみろ。何もついていない」

言われた通りに見ると、その手は白く、きれいだった。

「……うん……」

小さく頷いて、彼の胸に額をつけた。鼓動が、ゆっくりと耳に響く。

「思い出さなくていい」

背を撫でる手が、静かに繰り返す。

「お前はここにいる。それだけでいい」

その言葉が、じわじわと胸の中に染みていく。怖かった夢の輪郭が、少しずつ遠のいていく。

「……はい……」

目を閉じると彼の温もりだけが残り、再び眠りに落ちていった。





朝が来た。
カーテン越しの光が、昨日と同じように揺れていた。テーブルには昨日買った花瓶が置かれていて、花びらは一枚も落ちていなかった。
艶めいた色のまま、まるで昨日から時間が止まっているように。

昨日と、全く同じ朝だった。

「今日はどうする」

向かいに座った彼が、カップを傾けながら言った。

「……今日は、お家にいたいです」

温かいコーヒーを両手で包みながら答えると、彼は小さく頷いた。

「庭の手入れでもするか」

「……はい。お気に入りの花があって」

「見ていてやる」

それだけ言って、また静かにカップを口に運んだ。その横顔を見ながら、胸の奥が静かに温かくなった。

庭に出ると、朝の空気が頬に触れた。草の匂いがして、土が柔らかく足の下に沈む。花壇の端に、お気に入りの株がある。小さくて、地味で、でも毎朝ちゃんと咲いている。

ガーデンナイフを手に取り、枯れかけた茎を切り始めた。
ざく、ざく、と小さな音が静かな庭に響く。

ふと、昨日のことを思い出した。
二度、三度と、ドアを叩く音。

あれは何だったのだろう?
アルバートは気にするな、と言った。
だからもう忘れたつもりだったのに……なぜか今も、頭の隅に残っている。音の奥に混じっていた、あのかすかな何か。
声に似た、何か。

ぼんやり考えながらナイフを動かしていると——

「っ」

鋭い痛みが走った。
刃が、人差し指の腹を浅く切っていた。
思ったよりも、血が出た。じわりと赤が滲んで、指先を伝って落ちそうになる。


その赤を見た瞬間——

暗い廊下。ぬるりと滑る靴の底。赤い手。

「——っ」

息を飲んだ。

鋭い痛みに思わず手を引いた拍子に、体が後退りした。足が何かに引っかかり、そのまま尻もちをついた。手をついた場所にバケツがあって、ひっくり返った。
水が土に広がり、足元に水溜りができた。
痛みの残る手を庇いながら、水溜りを覗き込んだ。そこに自分の顔が映っていた。
その瞬間、切った指先から血が一滴、水面に落ちた。赤がゆっくりと広がって、水溜りに映った自分の顔に流れていく。
見たくなかったのに、目が離せなかった。
血をかぶった自分の顔の中で、瞳だけが赤く光っていた。縦に細く裂けた瞳孔が、暗い赤で光を吸い込み、冷たく揺れていた。

恐ろしかった。
自分の顔が、恐ろしかった。


水溜りから目を逸らして空を見上げると、さっきまで明るかった空が、いつの間にか薄暗くなっていた。雲が厚く重なって、光を飲み込んでいた。
庭が、急に知らない場所のように感じた。
さっきまでここにいたのに。花の匂いも、土の感触も、全部知っているのに。
なのに、自分だけが、ここにいてはいけないような気がした。

息が乱れる。

「セラフィナ」

声がして振り向くと、彼が庭の入口に立っていた。

「……転んだのか」

近づいてきて私の手を取る。
指の傷を確かめ、ハンカチでそっと押さえてくれた。その仕草は、いつも通りやさしかった。

「……ごめんなさい、ぼーっとしてて……」

「怪我は浅い。大丈夫だ」

でもその触れられた手よりも、水溜りで見たものが頭から離れなかった。

「……あの、水溜りに……私の目が……赤くて……」

「今朝の悪夢のせいだ」

彼は私を見つめた後、確信を持って言った。

「まだ引きずっている。気にするな」

「……でも……」

「中に入れ」

彼は私の肩に手を置いた。

「お前の好きな紅茶を入れてやる。温かいものを飲んで、落ち着け」

その声が、やさしくて、強くてまた、ざわめきを押し留めた。

「はい……」

小さく頷いて、彼の後について歩いた。
庭を出る時、振り返りたくなかった。水溜りがまだそこにある。あの赤い目がまだそこにある。そんな気がして、ただ前だけを見て歩いた。

玄関を入ると、彼が「手を見せろ」と言った。差し出すと、指の傷を確かめて洗面所へ連れていかれた。水で流して、引き出しから絆創膏を出して、無言で貼ってくれた。その手つきは安心するほど丁寧だった。

「着替えてこい。膝が汚れている」 

言われて初めて、膝に土がついているのに気づいた。スカートの裾も、湿っていた。

「……はい」 

寝室に戻って着替えた。
だけど鏡の前は、通らなかった。わざと遠回りして、鏡に背を向けたまま服を替えた。さっき水溜りで見たものが、また映りそうで怖かった。

着替えを終えて、ダイニングへ戻った。
 
テーブルに座ると、キッチンから湯を沸かす音が聞こえた。花瓶の花は、まだ瑞々しかった。昨日のまま、一枚も散っていない。

やがて彼が戻ってきて、温かいカップを差し出した。持ち上げると、甘い香りが鼻をくすぐった。

「蜂蜜を入れた」 

「……ありがとうございます」

一口飲むと、甘さが喉をゆっくりと落ちていった。胸の奥が、少しずつほぐれていく。

「……おいしい」

思わず呟くと、彼の口元がかすかに緩んだ。

「そうか」

しばらく二人で、黙ってカップを持っていた。花の香りと、紅茶の湯気が混じり合って漂っていた。

「……あの花、とっても生き生きしていますね」

「昨日買ったばかりだからな」

「……昨日、もらった時すごく嬉しかったです」

「知っている。顔に書いてあったからな」

「……また言う」

「事実だろう」

「……もう」

くすくすと笑いながら、もう一口紅茶を飲んだ。甘さが、また胸の奥に広がる。

花は瑞々しくて、紅茶は温かくて、彼はここにいる。 

……大丈夫だ。
そう思おうとした。
でもなぜか、そう思おうとすればするほど、胸の奥の何かが静かにならなかった。


やがて彼が立ち上がり、キッチンへ向かいながら言った。

「そろそろ夕食の支度をするか」

「……手伝います」

「いい。お前は座っていろ」

「でも、今日は――」

立ち上がった、そのとき。
コン、コン。

ドアを叩く音が、した。

「……また……」

思わず声が出た。
昨日も同じ時間に。同じ音が。

彼は手を止めた。「出なくていい」と、昨日と同じ声、同じ落ち着きで言った。

「……でも、昨日も……」

「気のせいだ」

「昨日も同じことを——」

「セラフィナ」

名前を呼ぶ声が、少しだけ低くなった。
彼はキッチンから出てきて、私の前に立った。琥珀色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。

「出なくていい。ここにいろ」

その目は温かかった。やさしかった。
なのにまた胸の奥で、何かが小さく引っかかった。

コン、コン、コン!

また、音がした。
今度は少し、強かった。

「……何も無いなら、確かめるだけでも——」

立ち上がろうとすると、彼の手が私の腕を掴んだ。

「っ」

驚いた。
昨日までとは力が違った。やさしく引き留めるのではなく、掴んでいた。指が食い込む感触に、思わず息を飲んだ。

「……痛い……」

思わず声が出て、振り返ると、彼の目が変わっていた。

いつもの優しい琥珀色ではなかった。
暗く、赤く、光っていた。縦に細く裂けた瞳孔が、こちらを見ていた。

さっき水溜りで見た、自分の目と同じ色だった。

「……アルバート……その目……」

声が震えた。

彼は一瞬だけ静止したが、それから瞼を伏せて、ゆっくりと息を吐いた。

「……ああ。すまない」

目が開いた時には、もう琥珀色に戻っていた。

「気にするな、疲れているだけだ」

彼はいつもの穏やかな声で。いつも通りの声で言った。

でも私の腕を掴む手は、まだ離れなかった。

そのとき。
ドアの奥から、音が聞こえた気がした。
声に似たような水の中を伝うような、くぐもった音で――でも確かに、声のような気がした。

「……セ……ラ」

「……え?」

思わず、ドアを振り返った。
胸の奥で、何かが揺れた。

セラ……?
いったい、なんのこと?

「……今、セラって……聞こえた……」 

呟くと、彼の手がわずかに強くなった。

「聞こえない」

静かな声だった。でも、その静けさが少し、違った。

「……でも、確かに——」

「聞こえない」

もう一度、同じ言葉が落ちてきた。今度は低く、怖かった。
腕を掴む力がさらに強くなる。

「セラフィナ。お前はここにいればいい」

——セラ。

また、聞こえた。
今度は、さっきよりもはっきりと。

知っている声だった。どこかで聞いたことがある。遠くて、近くて水の向こうから呼んでいるような、その声。

「……誰か、いる」

確信した。
ドアに向かって、一歩踏み出した。


ドアノブに手を伸ばした瞬間——


バシッ、と音がした。
黒い蔓が、ドアに絡みついた。
ドアノブを覆い、隙間を塞いで、みるみる広がっていく。触手のような黒が、ドアという出口を完全に塞いでいった。


息が止まった。
腕を掴む手を振り払おうと、振り返った。
だけどそこに立っていたのはアルバートではなかった。
全身黒い服を纏い、暗く赤く光る目が、こちらを見下ろしていた。  

「……マ、スター……」 

気づいたら、その名前が口から出ていた。
体が硬直して動かなかった。 

マスターは—ゆっくりと、私に手を伸ばした。


逃げられなかった。
引き寄せられて、抱きしめられた。

そして耳元に、低い声が落ちてきた。

「お前は私のものだ」

その声が、胸の奥に染み込んでくる。

「永遠に。どこへも行かせない」

背に回った腕が、強く、強く、締め付けてくる。
やがてマスターの背後から、黒いものが立ち込めた。ゆっくりと広がり、私たちを包むように絡みついてくる。
触手が腕に、足に、体に巻きついていく。

「お前が欲しいものを、全部与えた」

声が、耳の奥まで届いてくる。
「温かさも。やさしさも。隣にいる時間も。これが幸せだろう?これが—お前がずっと欲しかったものだろう」

違わなかった。
安らかな朝の光も、甘いパンケーキも、綺麗な花束も、髪を乾かしてくれる優しい手も——全部、ずっと欲しかったものだった。

「なぜ自ら起きようとする」

答えられなかった。

「お前はここにいればいい。ここから出る必要はない。もし気に入らないのなら、もう一度、初めから新しい夢を見せてやる。何度でも」

触手が、さらに締め付けてくる。
息が苦しくなってきた。意識がじわじわと薄れていく。

でも、温かかった。
このまま眠ればきっとまた朝が来る。
また柔らかな光がカーテンを揺らして、花は瑞々しく、また甘い蜂蜜の紅茶が待っている。そして、また笑える。幸せでいられる。

それで——いいんじゃないか。


瞼が、重くなってきた。


——セラ。目を覚ませ。


さっきと同じ声がした。
遠く水の底から届くような、かすかな声。
でも今度は確かに聞こえた。

その声が、胸の奥の何かを、引っ張った。


セラ。

——誰だっけ。


霞んでいく意識の中で、何かを思い出そうとした。

雨の夜だった。
誰かと口づけをした。
あの時、何かが変わってしまった気がした。

それからあの日、黒に飲まれていく自分を、誰かが抱き止めた。
そして名前を、呼んだ。

セラ、と。

その人は——


「ウェスカー……」

声が口から漏れた。

マスターを抱きしめる腕が、一瞬強張った。

「……あいつのところへ帰っても、同じことだ」

低い声が耳元に落ちてくる。

「あいつもお前を利用するだけだ。計画のために傍に置いていただけだ。お前に与えられるものなど、何もない」

わかっていた。

ウェスカーは夢の中のような温かい言葉をくれない。隣で温かく笑ってくれない。欲しかったものを、なんでも与えてくれない。

でも。
それでもあの人は――

「……ウェスカーが、私のことを、探している……」

行かなきゃ。
あの人が呼んでいる。私を探してくれている。

「行かせない」

マスターの声が耳元で低く落ちた。

「戻っても傷つくだけだ。ここにいればお前は幸せでいられる」

わかっている。その通りだった。
戻ってもきっと痛みがあるだけで、温かい朝も、蜂蜜の紅茶も、花束も何もない。

それでも、行かなきゃ。
私を必要としてくれる、あの人のところへ。

「……ごめんなさい」

体の奥から、何かが湧き上がってきた。
触手を引き剥がした。
マスターの腕を振り払った。

「愚かだ。お前を待っているのは痛みだけだ。あいつのところへ戻っても、何も変わらない」

「わかってる」

戻っても安らぎなんてない。あるのは痛みのある現実だけだ。
それでも。

「ウェスカーが、呼んでいる」

ドアに向かって走った。
蔓が絡みついたドアに両手を伸ばしてノブを掴み、押す。
しかしドアは蔓に縛られたまま、びくともしなかった。

後ろから触手が飛んできて足を掴んだ。
体が引き戻されそうになる。踏ん張ろうとしても足が滑る。ドアを押す力が、足を掴まれるたびに逃げていった。

「お願い……開いて……!」

「セラフィナ」

マスターの声が、背中から落ちてきた。振り返らなかった。

「セラフィナ!」
「——セラ!」

ドアの向こうからも声がした。知っている声だった。

「マスター……!お願いです!私を行かせて……!」

そう叫んだ瞬間、足を掴んでいた触手の力がすっと弱まった。

今だ。
足を振り払うと体が前へ解放され、そのまま勢いをつけてドアに体重をぶつけた。
両手でノブを掴んで全身で押すと、蔓が軋む音がした。
もう一度力を込めると一本千切れて、隙間から細い光が漏れた。
さらに押した。また千切れた。隙間が広がる。

もう一度——
ドアが、開いた。

足を踏み出した瞬間、背中からマスターの声が聞こえた。おそらく私を呼ぶ声だった。
ただ、あの冷たさはなかった。代わりに何かが滲んでいて……でも、それが何なのか私には聞き取れなかった。


思わず振り返りたくなった。
だけど、振り返ったら戻れなくなる気がした。

またあの腕の温かさを思い出したら、あの声にもう一度名前を呼ばれたら足が止まる気がした。

 
胸の奥が痛んだ。
泣きながら、光の中へ踏み出した。

声が遠ざかっていく。
温かさが、遠ざかっていく。
欲しかったものが全部あった場所が、遠ざかっていく。


それでも、足を止めなかった。
ウェスカーが、呼んでいる。
その声だけを、追った。



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