7章




目を覚ますと、柔らかな光がカーテン越しに差し込んでいた。

水面のきらめきのように揺れて、部屋の中に淡い影を映す。 
時計の針は、もうとっくに朝を過ぎていた。
けれど胸の奥に走る焦りは、不思議と湧いてこなかった。
ただ、心地よいぬくもりに溶けていた。

「……おはよう」

低く落ち着いた声がすぐ隣から聞こえる。

心臓が大きく跳ねた。

振り向けば、琥珀色の瞳が私を見つめていた。
温かく、柔らかく、視線だけで全てを許してくれる色。

「……マスター……」

寝ぼけたままそう呼んでしまい、頬がかっと熱くなる。

彼はわずかに眉を上げ、口元に柔らかな笑みを浮かべた。

「まだ、その呼び方をするのか」

唇を開こうとしても、言葉が出ない。

次の瞬間、彼は身を寄せてきて、額に軽く唇を触れさせた。

「アルバートでいい。呼び名に縛られる必要はない」

おはようのキスは柔らかくて、胸の奥をじんわり溶かしていく。

そのまま頬に手が添えられ、指先が熱を残した。

「……でも……」
か細く返す。

「マスターって呼ぶのも好きなんです。アルバートも、好きで……」

彼は一瞬だけ黙り、瞳を細めて笑った。

「なら、好きなように呼べ。どちらでもいい。お前の好きにすればいい」

心臓が強く鳴った。
どちらでもいい、という言葉が、こんなに嬉しいなんて。
ただ見てくれるだけで、こんなにも温かいなんて。

「……はい……」

頬が熱い。照れくさく返す声が、妙に小さく響いた。
彼はシーツを直しながら、私の髪を指で梳きあげた。

「もう少し寝ていろ。朝食を作っておく」

「……え?」

驚いて寝返りを打った拍子に、肩から細い紐が滑り落ちる。

キャミソール一枚のままだと気づき、慌てて胸元を押さえた。

すると彼の手が伸び、落ちた紐をそっと直してくれる。
その仕草さえも、愛おしむように。

「お前が起きる頃にはできている」

彼はベッドから離れ、背にシャツを羽織りながら扉へ向かう。

残された私は布団に沈み、彼の足音を聞いていた。

……いいの?
私、寝坊したのに。
だらしなく布団に沈んでいるのに。

そう思いながら、布団を胸まで引き寄せ、小さく微笑んだ。

シーツに頬を擦り寄せれば、昨夜触れられた彼の掌の感触まで蘇ってしまい、胸がじんと熱くなる。
幸せって、こんなに静かで、こんなに甘いものなんだ。

やがて、食器の触れ合う軽やかな音がキッチンから届く。
その音に誘われるように、私はベッドから身を起こした。

ひやりとしたフローリングに指先が触れる感覚がどこか心地よい。
羽織るものを探そうかと一瞬迷ったけれど、やめた。
どうせ、彼の前では隠す必要なんてないのだから。
胸元をそっと押さえながら、リビングへ歩いていく。


漂うのはバターの香り。シロップの甘い匂いまで混ざり、自然と足取りが弾む。
扉を開けてキッチンに向かうと、彼がふと振り返った。
フライパンを持ったまま、柔らかく目を細めて笑う。

「……もう起きてきたのか」

その声だけで、胸の奥が甘く溶けた。

「……いい匂いがして」

そう答えながら近づくと、彼の背中越しに湯気が立ち上っている。
バターがじゅうと音を立て、甘い香りが部屋いっぱいに広がっていた。

「パンケーキ?」

思わず問いかけると、彼は肩越しにちらりと私を見やった。

「そうだ。……お前の好物だからな」

胸が熱くなる。
たったそれだけの言葉なのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。

「座っていろ。すぐに焼き上がる」

フライパンを返す動作は流れるようで、見惚れてしまう。
……こんな時間が、本当にあるんだ。

促されるまま椅子に腰掛けると、テーブルの上にはすでにバターとシロップが並んでいた。
瓶の中の黄金色が朝の光を受けて輝き、私の心まで甘く照らす。

やがて彼が皿を差し出し、ふわりとしたパンケーキを重ねてくれる。
湯気の向こうから「どうぞ」と告げられ、胸がいっぱいになった。

「……ありがとう」

声が震える。けれど、彼は気づいたようにただ微笑むだけだった。

シロップをたっぷりとかけると、甘い香りがさらに広がる。
フォークを入れると、やわらかな生地がふわりと弾み、蜜がとろりと溢れた。

口に運んだ瞬間——
「……おいしい……」

頬が熱くなり、自然と笑みが零れた。

「そうか」

彼は向かいに腰を下ろし、ナイフを置いたまま私の顔を見ていた。

「顔にも書いてあるぞ」

「……し、仕方ないです」

思わず口を尖らせる。

「こんなにおいしいの、久しぶりなんですから」

そう言いながら、またシロップをとろりとかけ足した。
黄金の筋がパンケーキの上を流れて重なり、皿の端へと滴っていく。

「……ふふっ」

甘すぎるのに、止められなかった。

彼は何も言わず、ただ私の横顔を見ている。
恥ずかしくてフォークを口に運ぶと、甘さが舌に広がり、胸の奥まで満たされていった。

「幸せそうだな」
その一言に、顔がまた熱くなる。

「……はい」
シロップで少し汚れたフォークを持ったまま、小さく頷いた。
彼はそれ以上言葉を重ねず、ただ温かな視線で包んでくれていた。

そのとき、彼の手がふいに伸びてきた。
私の口元に残っていた一筋の蜜を、指先でそっと拭い取る。

「……っ」
拭う仕草は驚くほど自然で、逃げる隙すら与えてくれなかった。
触れられた場所が熱を帯び、心臓が跳ねる。
そのまま彼は指先を口元から離し、軽く舌で舐めとった。

「……甘いな」
低く囁く声。

言葉の意味以上に、その視線と仕草が胸の奥を蕩けさせる。

「……あの……」
頬が真っ赤になる。視線を逸らしたいのに、逸らせなかった。

彼はほんの少しだけ唇を歪め、からかうような、けれどどこか優しい笑みを浮かべていた。

「まるで子供だな」
その言葉に、火がついたように顔が熱くなり、ただうつむいたままフォークを強く握りしめる。

彼は私をからかった後、立ち上がりキッチンへ向かった。
棚からカップを二つ取り出し、豆を計り、丁寧に挽き、湯を落とす。
その動作ひとつひとつが落ち着いていて、見ているだけで胸が安らいでいく。
やがて漂い始めた香ばしい匂いに、思わず目を細めた。
朝の光と混じり合ったその香りは、不思議なほど心を落ち着ける。
差し出されたカップを両手で受け取ると、指先まで温かさが染みていく。
唇を寄せると、ほろ苦さの中に柔らかな甘さが広がった。

「……おいしい」
自然に声が漏れる。

彼は向かいに腰を下ろし、同じようにカップを口に運んだ。

「シロップたっぷりの後だと、苦味がちょうどいいだろう」
低い声が笑みに滲んでいる。

「……はい」
カップを胸に寄せ、小さく頷いた。

窓の外では風がカーテンを揺らし、光が揺らめきながら差し込んでいた。
水面に射す光のように、柔らかく揺れ、テーブルの上にきらめきを落としていく。

テーブルの上には、パンケーキの甘い残り香と、立ちのぼるコーヒーの湯気。
その温かな香りに包まれて、互いにカップを持ちながら一息つく。
この沈黙すら心地よい。

やがて彼が口を開いた。
「今日はどうする?」

穏やかな声が、柔らかく胸に染み渡る。

「……え?」
思わず瞬きをした。

「買い物にでも行くか。足りないものがあれば一緒に」

カップを傾けながら言うその顔は、日常のひとときを何より自然に享受しているように見えた。

胸の奥がきゅっと温かくなる。
「……はい。アルバートと一緒なら、どこでも」
言葉にしてから、恥ずかしさが一気に押し寄せ、慌ててカップに口をつける。

「決まりだな」
彼は小さく笑い、からかうでもなく、ただ嬉しそうにこちらを見つめていた。
その表情が私の心の奥に甘い安堵を灯していく。

「……じゃあ、準備しないと」
小さく呟いて立ち上がり、椅子を押し戻して食器を片づけようとすると、彼が手を伸ばした。

「それはいい。置いておけ」
カップを持ったままの仕草なのに、その声は不思議と強くて優しい。

「……でも……」

「お前は着替えてこい。外は少し冷える」

そう言いながら、彼の視線が私の胸元へ落ちる。
頬がまた熱くなり、ただ小さく頷くしかなかった。
キャミソールの肩紐がずれていたことに気づき、慌てて直すと、彼の瞳がほんのわずかに細められた気がした。
その視線に心臓が跳ね、思わず背を向けてしまう。

「……すぐ、準備してきます」
声が震えないように言い残し、私は足早に部屋へ戻った。

鏡に映った姿に思わず顔が赤くなる。
キャミソール一枚のまま、髪はまだ寝癖のままで。
こんな姿を見られていたなんて。
胸が甘く痛み、けれど不思議と嫌ではなかった。
お気に入りのワンピースをそっと頭からかぶり、薄手のカーディガンを羽織る。
外は涼しい、と言っていた彼の声が耳に残っていて、思わずスカーフまで巻いてしまう。
扉を開けると、玄関にはすでに彼が待っていた。

「……準備はできたか」

「……はい」

小さく答えると、彼は僅かに口元を和らげ、手にしたコートを私に差し出した。

「行こう」

玄関を出ると、外の空気は少しひんやりしていた。
ガレージに停めてある車のドアを、彼が開けてくれる。

「ありがとう……」

小さな声で呟いて乗り込む。

シートに腰を下ろすと、革の匂いと彼の香りが混じり合って鼻をくすぐった。
すぐに彼が運転席に座り、エンジンの低い音が響いた。

窓の外を流れていく景色。
でも、私は景色よりも隣にいる彼を見てしまう。
横顔が陽の光に照らされ、琥珀色の瞳がきらりと輝いていた。

「……なんだ」

視線に気づいたのか、わずかに口元を緩めてこちらを見る。

「見すぎだ」

からかうような声。けれど瞳は優しくて、胸の奥がまた甘く溶けていった。

「……だって……」小さな声で呟く。

言葉は続かず、ただ俯いた頬が赤くなる。
彼は短く笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。
それが余計に胸を高鳴らせ、シートに沈んで落ち着こうとする。


やがて車は駐車場に入っていく。
エンジンが静かに止まり、彼が先に降りて、今度は私のドアを開けてくれた。
伸ばされた手に触れると、その温かさに全身が包まれるようで、思わず笑みが零れた。
指先を軽く握られたまま、二人で並んでスーパーの入口へと歩いていった。

自動ドアを抜けると、広い店内に柔らかな音楽が流れていた。
棚には整然と並んだ商品、光沢のある床に蛍光灯の明かりが反射している。
どこにも人影はなく、通路はどこまでも静かに広がっていた。誰にも邪魔されないこの時間が、ただ嬉しかった。

カートの前を歩きながら、ふと視線が棚に吸い寄せられる。
氷の上に並べられた魚は銀色に光り、まだ息づいているかのようにみずみずしい。
隣には色鮮やかなパッケージの商品が整然と並び、眺めているだけで胸が踊る。

「……きれい……」

小さく零れた言葉に、彼がちらりと振り返る。
横から彼が自然に手を伸ばし、私の代わりに高い棚から品を取ってくれる。

「……ありがとう」

そう言うと、彼の口元がわずかに緩み、淡い笑みが掠めた。

少し歩けば、山のように積まれた果物が迎えてくれる。
オレンジ、リンゴ、ブドウ……どれも艶めいていて、指先で触れたら果汁がすぐに溢れそうだった。
甘い香りが漂い、思わず胸いっぱいに深呼吸する。
さらに奥には、焼き立てのパンのコーナーがあった。
ガラスケースの中でふわふわと膨らんだ生地が並び、湯気と一緒に香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

「……すごい……」

思わず声が弾み、気づけば笑みが零れていた。

「気に入ったか」

背後から聞こえた低い声に振り向くと、彼がトングを手にして立っていた。

「持っていこう」

そう言って袋に詰めるその横顔は穏やかで、胸の奥に甘い熱が広がる。

艶めくブドウ、光沢のある箱に入ったチョコレート……私の視線を追いかけるように、彼がひとつずつ積んでいく。
その仕草は、まるで私の心をすべて分かっているみたいで、カートはあっという間にいっぱいになった。

「……アルバート」

思わず名前を呼ぶと、彼は振り返る。

「どうした」

「……なんでもない……」

熱くなる胸を抑えきれず、私は笑ってしまう。
ただ一緒に歩いているだけで、こんなにも幸せだと知った。
やがて会計の近くに差しかかると、小さな花のコーナーが目に入った。
鮮やかな橙のガーベラ、淡い黄色のラナンキュラス、濡れたように艶めく赤いバラ。
ひとつひとつの花びらが光を受け、透けるように輝いている。

「……きれい……」

思わず立ち止まると、アルバートも歩みを緩め、静かに隣に立った。

「好きなのがあれば、選ぶといい」

低い声に促され、私は夢中で花々を眺める。こんなにゆっくり、一輪ずつ近くで見たことはなかった。

「決めたか?」

しばらくして落ちてきた声に、私は小さく首を振った。

「……まだ……」

その瞬間、隣に来た彼が私の耳にかかる髪をそっと払い、低く名を呼ぶ。

「セラフィナ」

振り向くと、彼の手にはいつの間にか花束があった。

「え……」

驚きに声を失い、ただ差し出されたそれを受け取る。

「お前によく似合っている」

胸が熱くなる。
気づけばカートは空になり、袋が彼の手に収まっていた。
私が花に心を奪われている間も、彼はすべてを整えてくれていたのだ。

「行こう」

差し出された花を胸に抱きしめながら、私はただ頷き、その隣を歩き出した。


駐車場に戻ると、アルバートは買った袋を軽々と抱え、私には花だけを持たせてくれた。
車に荷物を詰め込む間も、私は胸に抱えた花束を手放せずにいた。
香りが鼻先をかすめるたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「大事そうに抱えているな」

助手席に座った私を横目で見て、彼が微かに笑う。

「……だって……こんなふうに、花をもらったの、初めてだから」

彼はそれ以上何も言わず、ただ前を向いてハンドルを握った。
その沈黙さえも、私を優しく包む。
家に着くと、袋をすべて片づけながら、彼は花を手に取った。

「そのままでは花が可哀想だな」

低い声がそう告げると、花瓶を用意してくれた。
透明な水が注がれる音が静かに響き、花束は少しずつ形を整えられていった。

「……わあ……」

思わず声が漏れる。
淡い光を受けて花びらが開くように見えた。

「こうすると長持ちする」

彼は何気なく言いながら、枝を整え、水に浸け直す。
 
「どうだ」

仕上げた花瓶をテーブルの中央に置く。

「……すごくきれい……」

胸に手を当てて呟くと、彼の口元がかすかに緩んだ。

「お前のためにあるようなものだ」

頬が熱くなり、私は思わず目を逸らした。
けれど視界の端に咲き誇る花々と、その隣に立つ彼の姿が、どうしようもなく幸せを形にしていた。


やがて窓の外は夕暮れに染まり、橙から藍へと移ろう光が花の横に影を落としていた。

キッチンからは湯気とともにとろけるようなバターの香り。テーブルの上に並ぶ色とりどりのサラダ、香草の香りをまとったサーモンやふんわり焼き直されたパンが湯気を立て、静かに食欲を誘っている。

「……さあ、座れ」

促されるまま腰を下ろすと、彼は深紅のボトルを取り上げた。

「ピノ・ノワールだ」

低く響く声とともに、軽やかにコルクが抜ける。
注がれた赤は、花瓶の隣でまるで呼吸しているかのように揺れ、夕暮れの光を透かして柔らかに瞬いた。

「まずは香りを確かめてみろ」

差し出されたグラスを両手で受け取る。彼は私のひとつひとつの動作を温かく見守っていた。
言われたとおりにグラスを揺らすと、果実の甘さと大地の深みが溶け合い、ふわりと鼻をくすぐる。

「……いい匂い……」

思わず零れる声に、彼は小さく笑んだ。
一口含むと、柔らかな酸味と芳醇な余韻が舌に広がり、胸の奥までほどけていく。

「……おいしい……」

ふわりと甘い香りが広がり、そのまま言葉が零れた。彼の瞳が細められ、柔らかな微笑みが浮かんだ。

彼は自分のグラスを花瓶の横にそっと置き、私を見つめた。

「花と同じだ。急がず、大切にすれば……長く楽しめる。楽しみ方に決まりはない。ただ、感じたままで十分だ」

その声が胸の奥にしみ入り、甘さが広がっていく。

私はただ頷くことしかできず、視線を落としたグラスの赤が、心臓の鼓動に合わせて揺れているように見えた。



そのとき——

 コン、コン。

不意にドアを叩く音が響いた。

「……え?」

思わず顔を上げる。
胸の奥がきゅっと縮み、背筋に小さな冷気が走った。

「こんな時間に……誰……?」

立ち上がりかけた私を、彼の声が止めた。

「出なくていい」

「……でも……」

グラスを置いて、思わずドアの方へ目を向ける。

 コン、コン、コン。

もう一度、音がした。
今度は何かが違う気がした。知っている音、という感覚ではない。
知っている、何か——声に似た音。
外から届く音の奥に、かすかに混じっているものがある気がした。

「セラフィナ」

彼の声が落ちてくる。
私の名を呼ぶその声は穏やかで、引き戻すように温かかった。

「気にするな。こんな時間に訪ねるなど、ろくな者ではない」

唇を開こうとした瞬間、彼の指先が私の手に触れた。

「せっかくのサーモンも冷めてしまうぞ」

その言葉はやさしくて、強くて、ざわめきを静かに押し留める力があった。

「……そう……ですよね」

胸の奥の不安が、少しずつ薄れていく。

彼は静かに微笑んだ。

「大丈夫だ。今は、お前の時間だ。花も、食事も、すべてお前のためにある」

そう告げられると、心に浮かんだ波紋は消えてゆき、私は再び花とワインの香りや温かい食事の中へ戻っていく。
ドアの向こうの音はすでに遠く、どうでもいいもののように感じられた。

食事を終えると、アルバートは立ち上がり、静かに食器を片づけはじめた。 

「……私がやります」

思わず口にすると、彼は振り返り、穏やかな眼差しを向けてきた。

「いい。お前は休むかシャワーを浴びてこい」

「……はい」

その譲らぬ言葉に促されるように浴室に向かう。

やがてシャワーを浴び、火照った頬と濡れた髪のまま部屋へ戻る。
バスルームの湯気を背に、タオルを肩にかけていると、彼が立ち上がった。

「こっちへ来い」

そう言うと、椅子に腰掛ける私の後ろに回り、タオルを取り上げる。
ごしごしと荒くではなく、髪を包み込むようにして、水滴を優しく吸い取っていく。 

「冷えないうちに乾かすぞ」

ドライヤーの音が静かに響く。
温かな風と、彼の指先が髪を梳く感触が同時に伝わり、胸の奥が甘く蕩けていく。
その手つきが、思いのほか優しくて思わず目を閉じた。

マスターの手って、こんなに優しかったんだ。
今まで、知らなかった。

髪を流れる指先のたびに、余計なものが全部溶けていく気がした。

乾かされた髪を最後まで梳かれて整えられる。
その仕草ひとつひとつが愛おしくて、胸の奥で鼓動が跳ねるのを止められなかった。

「私も浴びてくる。その間ここで休んでいろ」
そう言ってアルバートはバスルームへ向かった。

扉が閉まる音と同時に、静かな水の気配が遠くに響く。
ひとり残されたリビング。
まだ香草と赤ワインの香りが残っている。
私はソファに沈み込み、ふとさっきの出来事を思い出す。

あの、突然のノック。
いったい誰だったのだろう。
でも、アルバートは出なくていい、と静かに言った。

……本当に、それでよかったのかな。
胸の奥に小さなざわめきが生まれる。
音の奥に混じっていた、あのかすかな何か。知っている声に似た、あの感覚。

……気のせいだったのかな。
けれど、ワインのせいか体がぽかぽかと温かくて、考えはすぐに霞んでいった。
ソファの背にもたれて目を閉じると、瞼の裏に琥珀色の瞳が残像のように浮かぶ。
それだけで、安心が胸いっぱいに広がっていく。

「……アルバート……」

小さく名前を呟いた瞬間、意識はふっと緩み、温かな闇に引き込まれていった。
遠くから聞こえる水音が、心地よい子守歌のように響いていた。


どれくらい眠っていたのだろう。
ふと頬に触れる温かさを感じて、まぶたがわずかに揺れた。

「……セラフィナ」

低く囁く声。
かすかに目を開けると、視界の端に濡れた金の髪。
アルバートが私の頬に口づけを落としていた。

「……ごめんなさい……寝てしまって……」

囁くように言うと、彼は首を振り、腕を差し入れて私の体を抱き上げた。

「構わん。疲れていたのだろう」

胸に寄り添うように抱かれ、揺れる歩調が心地よくて、瞼がまた重くなる。

気がつけば、ふわりとシーツの匂いに包まれていた。
ベッドの上に横たえられ、肩にかけられる布団の温もり。
そのすぐ隣で、彼がベッドに身を沈める気配があった。

「もう眠れ」

静かな声が耳元に落ちる。
囁きに胸が跳ね、眠気で揺らいでいた意識がふっと明るくなる。

「……アルバート」

名前を呼ぶと、彼の顔が間近にあって、次の瞬間、唇が重なった。
短く触れるだけの口づけ。
けれど離れた瞬間、もっと欲しくなってしまう。

「……もう眠るのではなかったのか?」

低く囁かれても、首を振ってしまう。

「……まだ……もう少し……」

言葉の代わりに、再び口づけを求めて顔を寄せる。
彼はふっと笑い、今度は少し長く、甘く唇を重ねてきた。
吐息が混じり合い、胸の奥がじんわり痺れていく。

「……ん……」

小さな声が漏れてしまい、頬が熱を帯びる。
彼はそれを楽しむように、唇を何度も重ね、額や頬にも軽い口づけを落としていった。

「安心しろ。どこへも行かない」

耳元でそう囁かれ、背を撫でられる。
子どものように胸へ顔を埋めると、彼の鼓動が心地よく耳に響いた。

そのまま、もう一度だけ口づけを交わす。
唇が触れた瞬間、胸の奥が甘く溶けて、ようやく満たされた気がした。

「……おやすみ」

低い声が頭上に落ちる。

瞼が重くなり、意識がゆるやかに遠のいていく。温かい水の底に沈むような感覚。
柔らかく包まれ、安らかに抱かれる心地よさ。

「……あったかい……」

掠れた声でそう呟き、彼の服を指先できゅっと握る。
その温もりを確かめながら、さらに身を寄せた。

髪を梳く指先と、背を撫でる掌。
その優しい仕草に、私はすべてを委ねていった。


——ねえ、マスター。
眠りの淵で、かすかな疑問が浮かんだ。
あなたは、こんなに優しかったっけ。

答えは来なかった。
温かな闇が、そっとその問いを包んで消していった。


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