1章



ハイカー事件のあと、アークレイ山地の地図は数日のあいだに赤いピンで散弾のように埋まった。
ハイカーの失踪に始まり、野犬の目撃、森で見つかった損壊死体。

S.T.A.R.S.の正式出動はまだ下りていないが、ここまでの事態となれば巡回は強化される。

交代制で行われる。もちろん、ルーキーだからといって例外はない。

今夜は私の番だった。

隊の面々は私に一定の距離を残す。誰かが悪意でそうしているわけではない。

ルーキーという肩書きに加え、私自身が選んで保っている間合いによるものだ。

誰にも触れさせない層を一枚、意識の内側に置く。
そうすれば、必要なときにだけ必要なものを動かせる。

私は机にS.T.A.R.S.制式のハンドガン――ベレッタM92FS“サムライエッジ”を置いた。
黒鉄の塊は、部隊に属する証そのもの。

分解し、薄い布で油膜を均してから組み直す。
スライドを引いたときの金属音が、掌に心地よい反発を残した。

マガジンを外し、中の弾丸を一本ずつ指先で確かめる。
重み、硬さ、規格どおりの形。

私は静かに息を吐き、弾を収め直し、銃を握り直す。

今夜はただ歩くだけじゃない。
この森に何が潜んでいるのか、どこまで踏み込めるのかを確かめる。

足を進めれば、答えは必ず動き出す。

出発の連絡を入れると、無線越しに返ってきたキャプテンの声は短く、均整の取れた響きだった。

「……了解した。」

受信機を腰に戻し、階段を降りる。
夜気は冷たく、肩に落ちる雨粒が思考を研ぎ澄ます。

背後で街灯のオレンジがにじみ、滴に砕かれて消えていった。

雨が降っている。
雨が降る夜は、何かが動き出す気配がする。

言葉にできない感覚。
それは私にとって昔から、そうだった。

アークレイへ向かう林道は濡れて光を帯び、フロントガラスを打つ水がワイパーで裂かれては路肩へ流れ落ちる。

松脂の甘さと湿った土の匂いが混ざり、呼吸に重さを残した。

森が車を飲み込む。エンジンを切ると、音が一斉に遠のく。

濡れた枝から雫が落ちる音、遠くで枯葉を踏む気配、風が木々を揺らすざわめき。

懐中電灯の光はぼやけながら小さな円を描き、私はその淡い灯を頼りに、呼吸のリズムと重ねるようにして森の奥へ踏み入れていった。





三十分ほど歩いただろうか。
気づけば山の奥地に踏み込んでいた頃、痕跡を見つけた。

私は足元にしゃがみ、泥を指先で撫でた。
そこには浅く沈んだ爪痕。角度と間隔から見れば、飼い犬のそれではない。

力は前に偏り、内側に絞られている。

痕跡は新しい。水気を帯びた泥がまだ締まりきっていない。
方向は西。

獣道をなぞるように歩を進め、私は懐中電灯をわずかに左右へ振った。

光は警戒心を煽る。
まるで出てこい、と呼びかけるように。

沈黙。葉の擦れる音が返事のように揺れる。

私は一歩一歩と踏み出し、足音を意図的に落葉に沈め、わずかに音を立てる。
獲物の逃げ場を狭めるように、進路を塞ぐ位置を選んでいた。

その時、闇が応えた。
重苦しい静寂の奥で、呼吸の乱れ。

枝葉が擦れ、待ち伏せていたものが堪えきれずに動いた気配。

空気が変わる。皮膚にざらりと張り付く冷気。
湿った闇の奥で、影が位置を変える。

やつはすぐそこにいる。

私はライトの光を少し絞り、半歩軸をずらした。
肩を落とすと、銃口が自然に目の高さに収まる。

鼻腔を掠めたのは、濡れた毛の腐臭。
そこに鉄を思わせる予兆が混じる。

次の瞬間、低い影が疾走してきた。
咽喉に裂け目を抱え、泡混じりの涎を垂らしながら。

爛れて削げ落ちた肉体、露出した骨と筋肉。
光を失った眼が、こちらを射抜くように向けられていた。

感染している。
やはり、ただの野犬ではない。

私は息を止めた。泥が沈む。前足が伸びる。
飛びかかろうとする軌道が、闇の中ではっきりと見えた。

この動きは単調すぎる。かつて私が相手にしてきた連中に比べれば遅い。

狙いは頭蓋の接合部。
時間を合わせ、角度を揃えーー

引き金を引く。

銃声が夜を裂き、森全体が一瞬硬直した。
反動を肘で受け流し、跳ねた薬莢を左手で受け止めてポーチに収める。

獣は、あっけなく崩れ落ちた。痙攣すらなく、糸の切れた人形のように横たわる。

頭部には一発だけ、正確に穿たれた穴。
私はしばらくその死体を見下ろし、呼吸を整えた。

やはり、この山には感染した獣が徘徊している。
つまり、どこかから漏れ出したのだ。

自然の生き物ではない。近くに研究施設があるのかもしれない。

私は死体に視線を向けたまま、胸の奥の疑念に思考を巡らす。

“キャプテン”
あの人は本当にただの警官なのか?
それとも、私が知っていた“マスター”の過去そのものなのか?

私は彼の過去を知らない。
だからこそ、この出来事を通じて確かめなければならない。

目の前の骸は、返り血も痕跡もほとんど残さず、ただ一発だけで撃ち抜かれていた。

余計な弾痕はどこにもない。
狙いは迷いなく、頭蓋の一点を正確に射抜いている。

それを見れば、わかる者にはわかるはずだ。
これは偶然の産物ではない。

仕留め方を知る者が、慣れた手つきで、正確に、確実に、そして無駄なく処理した結果。

私は靴先で死体の前足を二歩だけ道の中央へ押しやった。
見つけさせるために。見抜くべき者に。

これは挑発ではない。隠されたサイン。

もし彼が本当にただの警官なら、見過ごされるだろう。
だが、もし彼が“あの人”なら、必ず察する。

私はライトを落とし、背を向けた。

さあ、受け取って、キャプテン。
……いや、マスター。





「こちらアルファ、モーガン。キャプテン、野犬に遭遇しました。暗がりで詳しくは見えませんでしたが、威嚇射撃をしたところ逃げていきました。応援は不要です。これより帰署します。」

短い沈黙。無線の向こうで何かが切り替わる音がした気がして、ノイズの合間に声が落ちた。

「……了解した。」

それだけで通信は途絶えた。

私は無線を腰に戻し、森を抜けて車へ戻った。

闇の中、ひとり置き去りにされていた車の屋根には、静かな雨粒の跡がまだ点々と残っている。

フロントガラスは曇りを帯び、冷えた空気に息を吐くたび白く揺れた。

エンジンをかけると、湿った夜気がガラスに広がり、溶けるように外の闇と混じっていく。

舗装に映る街灯の明かりは雨に揺らぎ、街へ近づくにつれて人工の灯りが重く滲んだ。

署に入ると、廊下はほとんど静まり返っていた。
蛍光灯の白が無機質に床を照らし、靴音だけが響く。

オフィスに入り自分のデスクに戻ろうとしたとき——

キャプテンの部屋の扉が音もなく開いた。

ウェスカーが半身を出し、こちらを見ていた。

「……モーガン。」

名を呼ぶ声は抑揚がなく、だが間合いは確かにこちらを指していた。

そのまま扉の内側へと身を引き、私に続くよう促した。

私が帰るのを待っていた?

答えを知るために、私はドアを潜ると、低い声が落ちた。

「……閉めろ。」

言われるままにドアを静かに閉じる。
金属のラッチが小さく鳴り、廊下の気配は完全に遮断された。

すでにブラインドは降りていて、外から覗く余地はない。
最初からこの密室は用意されていた。

振り返ると、ウェスカーはデスクの端に片手を置き、身じろぎもせずに立っていた。

サングラスの奥からまっすぐ注がれる視線は、先ほどの出来事について今にも切り込んできそうな気配を孕んでいる。

彼の眼差しは、私の表層を越えて、その奥を抉るように探っていた。

「野犬は、どんな姿だった?」

私は一拍置き、言葉を慎重に選びながらも、即興めかして答えた。

「雨で暗く、はっきりとは確認できませんでした。ただ……普通の犬よりは体格が大きかったように思います。」

「……それで“野犬”と判断したのか?」

「はい。唸り声を聞いたのですが、犬と同じように聞こえました。」

「……威嚇射撃をした理由は?」

「こちらに向かってきたので。撃たずに距離を保つために、です。銃声を嫌がったのか、そのまま逃げていきました。」

「怪我は?」

「ありません。」

「……ふむ。」

ウェスカーは一瞬だけ視線を落とし、何かを考え込むように沈黙した。
その間すら、重圧のようにのしかかる。

やがて、低く短い声が落ちた。

「ルーキー。……訓練の一環だと思え。今夜の遭遇について、報告書をまとめて提出しろ。思い出したことがあれば何でも書いてよい。」

「……はい、キャプテン。」

「下がれ。」

その言葉とともに、彼の視線が一瞬だけドアへ流れる。退室を促す合図だ。

私は小さくうなずき、静かに背を向ける。

扉を閉める音が背後に落ちた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに解けた。





短い仮眠のはずだった。

だが夢の中で、森の闇が再び広がっていた。

撃ち抜いたはずの野犬の死骸が、泥の上でゆっくりと身を起こす。
裂けた顎から血が滴り、泡立つ涎が地面に線を描いた。

光を失っていたはずの眼が、不自然にこちらを捉える。
その口が、裂け目から声を漏らした。

……サインは拾われた。
お前は見られている。彼を導け…救うために。

声は低く、湿った風のように骨の奥に染み込んでくる。
私の名を知っているかのように、確信だけを突きつけて。

心臓が一度強く跳ねた。
次の瞬間、全身が弾かれるようにベッドの上で起き上がる。

暗闇ではない。窓の外には朝の光が滲み、時計の針は出勤前を告げていた。

夢だ。

息は荒く、シャツは汗で張りついていた。
指先まで震えている。

シャワーの水を浴びると、熱と冷気が一度に押し寄せ、皮膚に残る悪夢のざらつきを流していった。

鏡に映る自分の瞳は赤く縁取られている。

私は短く息を吐き、髪を払い、制服に袖を通す。

足は自然と、S.T.A.R.S.のオフィスへと向かっていた。





署のオフィスは朝のざわめきが戻りつつあった。

デスクに腰を下ろし、机上に白紙の報告用紙を広げる。
昨夜キャプテンに命じられた「遭遇報告」。

ペン先が紙を走る音だけが響く。

野犬と遭遇。
暗闇で詳細は不明。
体格はやや大きめ。
威嚇射撃を加えたところ、逃走。

表向きの事実を並べ、必要最低限の記述に留める。

完成した報告書をファイルに挟むと、胸の奥に鈍い違和感が広がった。

昨夜の夢の声。
あれはただの悪夢だったのか。
それとも、現実をなぞる囁きだったのか。

彼はもう、あの死体の情報を得ているのだろうか。

私は書類を閉じる手に力を込めた。
これを持って行けば、彼の視線が答えを返すだろう。

私は立ち上がり、ファイルを手に取った。
向かうのは、キャプテンの部屋。昨日、私を呼び止めた場所。

ノックの前に一度だけ呼吸を整える。

ノック。

「モーガンです。昨日の件について報告書をお持ちしました。」

「……入れ。」

低い声。ドアを押して中へ入ると、部屋は昨日と同じくブラインドが下ろされ、外の光を遮っていた。

キャプテンは椅子に腰かけ、デスク上の書類に目を落としている。

私は言われたわけではないが、静かにドアを閉めた。
ラッチの金属音が響くと同時に、彼の視線が上がる。

机に近づき、報告書を差し出す。
キャプテンはそれを受け取り、無言のままページをめくった。

紙が擦れる音が部屋にひとつだけ響く。

「……口頭では報告しきれなかった遭遇場所について、地図に補足を記載しました。」

沈黙ののち、彼は短く問う。

「他に、思い出したことや記録すべき点は?」

「ありません。」

視線が上がる。
サングラスの奥から射抜くように。

「……ふむ。野犬の容姿についての記述は相変わらずか。……君の目は、随分と曖昧だな。」

喉がひとつ震えた。だが私は顔を崩さない。

「暗く、雨も降っていましたので。」

ウェスカーはわずかに口角を動かした。
皮肉か、それとも別の感情か。

「……逃げた、と記録してあるな。」

報告書を閉じる音が、やけに重く響いた。

次の瞬間、部屋は沈黙に呑まれる。

秒針の音が壁際から響く。規則的な一秒が、まるで永遠のように長い。

呼吸をひとつ整えるたびに、空気がさらに硬くなる。

ウェスカーは身じろぎ一つせず、報告書の上に指先を置いたまま。

やがて、ゆっくりとサングラスを外した。

遮るもののない視線が、真正面から私を貫く。
心臓が強く跳ね、息が胸の奥で詰まった。

灰色に淡く濁った双眸。
私の記憶に焼きついた赤。
縦に裂けるような瞳ではなかった。

硝子のように冷たく、冬の湖面のように揺るがない、透徹した人間の瞳。

だが、その奥に潜むものはただの人間の光ではない。

曇りなき灰の奥から滲むのは、心を射抜き、逃げ場を許さない冷徹な意志。

美しく整いながらも、決して温もりを許さぬその眼差しに、思わず息を呑んだ。

違う。私が知っている彼ではない。
だが、この奥に潜む容赦ない圧力は、確かに“彼”そのものだった。

混乱と確信が同時に胸に押し寄せ、呼吸の仕方を忘れる。

視線を外せない。逃げ場のない圧に全身が縫いつけられ、思わず指先が微かに震えた。

沈黙がさらに重みを増す。
その中で、低く沈んだ声が落ちた。

「……次“も”正確な報告を期待している。」

「……了解しました、キャプテン。」

言葉が終わっても、沈黙はその場に残り続けた。

秒針の音がまたひとつ刻まれ、私の耳に鋭く突き刺さる。

ウェスカーは報告書の上からゆっくりと指を離し、椅子に深く身を沈めた。

解放ではない。むしろ、より確かな支配の気配が漂う。

「……下がれ。」

低い声が命じる。
だが、彼の視線は報告書には戻らなかった。

灰色の光がサングラスなしに、鋭くこちらを射抜いたまま。

部屋を出る瞬間まで、その視線は私を暴こうとしていた。

私は小さくうなずき、ファイルを抱え直して踵を返す。

ドアノブに触れると、冷たい金属が掌に貼りつくように重い。
背後の視線を振り払うようにして扉を開ける。

オフィスの空気が一気に流れ込み、張り詰めていた緊張がわずかに剥がれ落ちた。

蛍光灯の白が妙にまぶしい。
私は一度深く息を吐き、机へと歩みを戻した。

私は深く息を吐き出す。
胸の奥に残るのは、彼の目ーー

赤ではなく灰の光。
だが、その奥に潜む冷徹な圧は、私の知る“マスター”そのものだった。

あの視線が答えだ。
隠した痕跡は、しかるべき相手に届いた。

私は二つの線をもう一度頭の中で重ねる。

S.T.A.R.S.のキャプテンとしての彼の輪郭と、私が知っている“彼”の輪郭。

今、その二つは確かに交差した。

あの声が言った通りだ。
芽は撒かれた。
次は、私が導く番。彼を救うために。

外の空には雲が垂れこめ、雨の気配がまだ残っている。

机上に置かれた控えの報告書に指を触れる。
そこに宿った意味は、すでに彼の中で根を下ろし始めていた。

次の一手を置くために。
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