7章




少女の声が、後ろで少しずつ遠ざかっていった。
振り返っても、もうその姿は見えなかった。ただ、あの幼い声の余韻だけが、闇の中に薄く溶け残っている気がした。

私はひたすら、闇の中を歩いた。

足元の水面は、歩くたびに小さな波紋を広げ、円を重ねながら遠くへ逃げていく。
だが、それもすぐに何事もなかったように静まり返り、また黒い鏡のような平面へ戻った。
目指している場所がどこにあるのかは、わからなかった。
方角も、距離も、この空間には意味を持たないように思えた。

それでも足だけは止まらなかった。
少女が教えてくれた、セラがいる場所へ。
今は、それだけが私を動かしていた。

どれほど歩いたのかわからない。
この空間には時間の感覚がなかった。
ただ闇が続き、水面が続き、足音の代わりに微かな水音だけが繰り返される。
進んでいるのか、同じ場所を回っているのかさえ曖昧だった。
それでも、止まればそこで何かが終わる気がして、私は歩き続けていた。

歩きながらも、頭の中には消えないものがあった。

少女と並んで見てきた光景が、まだまぶたの裏に焼きついている。
灰色の空。凍てついた泥道。湿った土の匂い。
番号で呼ばれるたび、反射のように体を動かしていた小さな子供。
名前を与えられた瞬間、息を詰め、泣くことさえ知らないように泣いていた顔。
処置台の上で黒に包まれながら、それでも「見てもらえた」と感じてしまった、あの痛々しい表情。
そして火山の中、手の届かない場所へ落ちていくマスターに向かって、何もかもを忘れたように走っていた顔。

マスターを救いたかった。
それは、きっと本物だった。

だが、その願いの底には、もっと別のものが沈んでいた。
マスターがいなくなれば、自分は何者でもなくなる。
もう二度と、誰にも必要とされず、どこにも存在を置けなくなる。
そんな恐怖が、愛着と見分けのつかないまま溶け合って、あの足を動かしていた。

セラはずっと、存在を許してくれる場所を探していたのだ。
自分が何者かであることを証明してくれる、たった一人の誰かを。

――だから彼女は、“あなたの必要でありたい”と言っていたのか。

必要とされることが、セラにとって存在の証明だった。
誰かに必要とされるということは、自分がここにいていい理由そのものだった。

だから傷ついても傍を離れなかった。
命令に従い、危険な場所へも平気な顔でついていった。
必要とされている限り、自分は消えずにいられると、そう信じていたからだ。

私はそれを、この場所で初めて正確に知った。

やがて、光が見えた。

闇の奥に、滲むように。
果ての見えない暗さの中で、その光だけが柔らかく揺れていた。
近づくにつれて、輪郭がゆっくりと浮かび上がってくる。

黒い繭だった。

薄い膜に包まれ、その内側には温かい水が満ちている。
外の闇から完全に切り取られた、閉じた場所。
子宮のように完璧に、外側を遮断していた。

この暗闇の中で、その場所だけが温かかった。
その場所だけが、光を持っていた。
まるで、ここだけが別の世界であるかのように。
外がどれほど暗くても、どれほど冷たくても、ここだけは関係ない。
ここだけは何からも触れられず、壊されず、守られているように見えた。

その中に、セラが眠っていた。

丸まるように膝を抱え、体を小さく縮めて。
髪が水の中にゆるく広がり、輪郭が柔らかく滲んでいる。
今まで私の隣に立っていた時の、どこか遠くを見ているような張り詰めた顔とはまるで違っていた。
眉間の緊張はなく、唇もほんのわずかに弛んでいる。

私はしばらく、その顔を見ていた。

今まで一度も見たことのない顔だった。
私の隣で、この顔をしたことはなかった。
隣にいた時間の中で、一度たりとも。

それがどういう意味を持つのか、今の私にはわかった。
私の隣では、セラは一度も子供でいられなかったのだ。
戦い、従い、傷つきながら、それでも立ち続けていた。
飢えたまま。満たされないまま。
眠ることすら許されないまま。

繭に近づくと、水面に揺れるものがあった。

夢だ、とわかった。

セラが今見ているものが、水面に映るように揺れていた。

それはどこかの部屋だった。
質素だが温かい。
窓から光が差し込み、テーブルの上には湯気の立つ食事が並んでいる。
カーテンがやわらかく風に揺れ、どこかで鳥の声がした。

普通の、何でもない、日常の光景だった。

その中に、セラがいた。
そして――影がいた。

その姿は私によく似ていた。
だが、マスターとも違う。
サングラスはなく、瞳は鋭い赤ではない。
ぬるく光る琥珀色で、そこに怒りも冷たさも一切なかった。

微笑む口元はやわらかく、声は綿のようにやさしかった。
まるで最初から、誰かを傷つけることも、裏切ることも知らずに生まれてきた人間のようだった。

その影が、セラの隣にいた。

ただ隣にいる。
それだけで、特別なことは何もしていない。

食事をして、言葉を交わして、同じ時間の中にいる。
セラが何かを言えば影が笑い、影が何かを言えばセラが笑う。
それだけの、ただそれだけの光景なのに、あまりにも完全だった。

セラは、こんな顔をするのかと、また思った。

こんなにも無防備に。
こんなにも力を抜いて。
誰かの隣で、ただ幸せそうに笑うことができるのかと。

彼女が不意に遠い目をして、血に濡れた指先を見つめる。
すると影は、その手を両手で静かに包んだ。
震えが起これば、さらに抱き寄せて囁く。

「大丈夫だ」
「もう戦わなくていい。ただここで眠ればいい」
「痛まなくていい。血を流さなくていい。ここにいれば、心配することは何もない」

その声は甘く、やわらかく、抗うことを忘れさせる響きをしていた。
疲れきった心が、何も考えずに沈み込めるような温度だった。

セラは涙をこぼしながら、微かに笑っていた。
安堵が顔の筋肉をほどき、唇の端にわずかな弛みが宿る。
胸に顔を埋め、か細い声で言った。

「マスター……ありがとう。ここに居てほしい。幸せでいられる……」

私はその光景を、しばらく黙って見ていた。

セラは、これが欲しかっただけなのか。

マスターを救うという強い意志も、世界をやり直すという選択も、すべてを捨てて。
ただ、これが欲しかっただけなのか。

否定はできなかった。
ここまでのすべてを見てきた後では。
あの飢えの深さを知った後では。

温かい場所。
隣にいてくれる人間。
戦わなくていい時間。
血を流さなくてもいい日々。

それだけが最初から、ずっと欲しかっただけなのかもしれない。

だが、その影の目の中にも、セラは映っていなかった。

ただ、セラが欲しかったものを完璧に形にして、与えているだけだ。
温かさも、やさしさも、守られることも、全部与えている。
だがその目はやはりセラを見ていない。
“セラ自身”を、見ていない。

ここにいる限り、永遠にそうだ。

欲しかったものに包まれたまま。
誰にも見られないまま。
この暗い水の中で眠り続ける。
飢えた子供のまま。
ここから出ることも、本当の意味で満たされることも、永遠にない。

私はそれが耐えられなかった。

なぜ耐えられないのかは、自分でもわからなかった。
ただ、この女が何者かを知ってしまった。
知った上で、黙って立ち去ることができなかった。

私は繭に手を触れた。

弾かれた。

見えない力が、静かに、しかし確実に押し返してくる。
力任せに押し込もうとしたが、びくともしなかった。
柔らかそうに見える膜なのに、その内側には外を拒む確かな意志があった。

私は膜の前に立ったまま、中に向かって声をかけた。

「セラ」

水面が、微かに揺れた。
夢の中の影がセラをさらに深く抱き寄せ、囁きが続く。

届かなかった。

もう一度、名前を呼ぶ。

「セラ」

その瞬間、繭の外の闇に黒いものが立ち込めた。
ゆっくりと密度を増し、やがて形を結ぶ。

私自身だった。

だが、琥珀色の影ではない。
サングラスをかけた、冷たい顔をした私だった。
マスターの姿をしていた。
黒が体の輪郭を縁取り、その目だけが暗く光っていた。

「……邪魔をしないでもらおうか」

私自身の声だった。
だが、その声色は私のものではなかった。
温度も、響きも、もっと底冷えのする別物だった。

「ウロボロス」

「さて……本来ならセラの姿で現れるべきところだが――この子の前では、それはいささか無粋というものだろう」

影の視線が、繭の中のセラへ向く。
眠るセラを見るその目が、あの火山で見たマスターの目と同じ質をしていた。
欲し、閉じ込め、手放す気のない目だった。

「この子には私が必要だ」

「セラはお前を必要としていない」

「そうか?」

影の口元が、わずかに歪んだ。

「この子は今、幸福だ。お前の隣にいた時よりも、ずっと」

私は答えなかった。

「お前も同じだろう。同じ顔をして、同じ声をして、この子を傍に置こうとしている。自分の計画のために彼女を利用してきて、いったい何が違う」

すぐには答えられなかった。

「……今の私には、まだ言葉にできない」

「言葉にできないということは、違いなどないということだ」

「違う」

「何が違う」

影は静かに言った。

「お前はこの子に何を与えられる? 温かさか。やさしさか。守ることか。お前にはそのどれもない。同じ顔をしているだけの、別の人間だ。この子にとってお前は、マスターの代わりにすらなれない」

その言葉が、胸の奥に刺さった。
否定できなかった。

「それに……お前はこの子が何者かを知っているのか。どこで生まれ、何を見て、何のためにここにいるのかを」

「知っている」

影が、わずかに動きを止めた。

「この場所で彼女の過去を全部見た。どんな場所で育ち、何に飢えていて、何のために世界をやり直したのかを」

影はゆっくりとこちらを見た。
値踏みするような、測るような目だった。
知った上でここに来た人間を、初めて見るような目だった。

「……それで、知った上で、それでも来たのか」

「ああ」

影は答えなかった。
ただ、繭の中のセラを見ていた。
その目の奥に、何かが揺れたように見えた。だが、すぐに消えた。

「だが、無駄だ。それを知ったところで、お前の言葉は届かない」

私は繭に向かって手を伸ばした。

その瞬間、黒が動いた。

触手が闇を裂いて飛んでくる。
肩に突き刺さり、体が吹き飛ぶ。闇の中に叩きつけられた。
全身に痺れが走る。骨の奥まで冷たい衝撃が入り込んだ。

立ち上がる。
だが、反撃はしなかった。

ここはウロボロスの領域だ。
私の肉体は今ここにない。精神だけでここに来ている。
反撃すれば力を消耗するだろう。
力を消耗すれば、やがてこの空間にいられなくなる。

セラのそばにいられる時間が、削られるということだ。

だから、今は受けるしかない。

またウロボロスの攻撃が来た。
腹を貫かれ、膝をついた。血の味がした。
それでも立ち上がり、繭へ向かった。

「無駄だ。この空間でお前の存在は削れていく一方だ。反撃もできず、ただ消耗するだけだ。やがて何も残らなくなる」

「セラ」

「この子はここにいることを選んだ。お前がどれだけ呼んでも、この子の耳には届かない」

「セラ」

影が無言で黒を広げる。
闇が圧力を持って押しつぶしてくる。
膝がまた折れた。片手を繭の膜に触れたまま、体を支える。血が滲み、呼吸が乱れる。

「セラ」

水面がまた揺れた。

夢の中のセラが顔を上げた。
今度は先ほどより長く。

目が、どこか遠くを探すように動いた。

影が抱き寄せ、「気のせいだ」と囁く。

だがセラは首を振った。
かすかに。
ほんの少しだが、確かに首を振った。

影がセラの顎を持ち上げ、目を合わせようとする。
「ここには何もない。お前が聞きたいものなど、外には何もない」と。

だがセラの目は、ドアの方を向いていた。
夢の中の、どこにでもある普通の木のドア。
影が気のせいだと繰り返し、誰もいないと囁いても、セラの視線はそこから動かなかった。

セラの手が、ゆっくりと持ち上がり、ドアの方へ伸びかける。

しかし、その手を影が制するように包み込み、セラをさらに強く抱き込む。

「セラ、お前はここにいればいい」

彼女を包み、耳元で囁き続ける。

「外には何もない。お前が必要なものは全部ここにある」

セラの動きが止まった。
手が下りた。

だがその目だけが、まだドアを見ていた。

私には見えた。

届いている、とわかった。

まだ目は覚めていない。
まだ夢の中にいる。
だがあの黒の奥で何かが、確かに揺らいでいた。

黒がまた押し寄せる。

体の奥から力が抜けていく。
存在が、薄れていく感覚があった。
影の言った通りだ。このままでは消える。

それでも繭から手を離さなかった。
この女が何者かを、知ってしまったから。

私は繭の膜に額をつけた。
体が限界だった。存在が、もうほとんど残っていない気がした。

だがまだ、声だけは残っていた。

最後に一度だけ、声を絞り出す。

「セラ――目を覚ませ……」

夢の中で、セラの目がまた、ドアを向いた。

最後に、彼女と目が合ったような気がした。

そして、闇が閉じた。



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