7章
落ちていく。
底など存在しないはずの闇に、無理やり引きずり込まれるように。
重力の方向は失われ、耳の奥で水の音がするのに、濡れた感触はない。息は続いているのに、肺だけが冷たく痛んでいた。
ここはどこだ。
足元もなく、壁もなく、ただ暗闇だけがある。
感覚を取り戻そうとするが、情報が足りない。
敵の気配もなく、方向すらない。
ウロボロスに引きずり込まれ、ここに来た。
一緒にいたはずのセラはどこにいる。
繭の中で、腕の中に彼女がいたはずだ。
同じ空間に引き込まれたはずなのに、彼女の気配がどこにもない。
平衡感覚のない暗闇の中に立ったまま、どちらへ向かえばいいのかわからなかった。
闇雲に動くのは悪手だ。だがそれでも、頭の中で同じ問いが繰り返された。
セラはどこだ。
しばらく何もできず、思考するだけの時間が過ぎていく。
やがて、足元が揺れた。
何かが下から押し上げてくるような感触があって、気づくと足裏に薄い水面のようなものが触れていた。
そっと足をつけてみるが、沈まない。
慎重に重心を移すと、足元に波紋が広がった。
その波紋の光が、闇に小さな舞台を作った。
月の光を薄く溶かしたように淡く揺れる輪郭の中心に、小さな影が座り込んでいる。
痩せた体、骨ばった腕、膝を抱えて縮こまる姿。
私は慎重に近づいた。
「誰だ」
声をかけると、影が一瞬だけ体を強張らせた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
削げた頬、大きすぎる瞳、汚れて伸び放題の髪。裸足の足は傷だらけで、服はぼろぼろだった。見知らぬはずの姿なのに、胸の奥に既視感に似た何かが走る。
少女は私を見る。その瞬間、表情が固まった。驚きとも恐怖とも違う。複数の感情が重なったような顔だった。
しかしそれはほんの一瞬で、すぐに無表情に戻り、視線を足元に落とした。水面に指先で波紋を描き始める。
「他に誰かいないのか」
「……いるよ」
「セラを探している。知っているか」
少女の指が止まる。
再び顔を上げ、今度は先ほどより鋭く私を見た。
「知ってるよ」
「どこにいる」
「向こう」
少女は暗闇の彼方を指差した。
だが、そこはただ暗闇が続いているだけで、どこを指しているのかは読み取れなかった。
「案内しろ」
「……行っても無駄だよ」
「なぜだ」
「セラは今、あっちで眠ってるよ。邪魔しないで欲しいんだって。私も起こそうとしたけど、追い返されたから」
この少女もセラのところへ行こうとして、戻ってきたということか。
「それは、セラが言ったのか」
少女は答えなかった。
また水面に視線を落として、指先で波紋を描き始めた。
私は少女の前に腰を下ろした。
視線の高さを合わせると、少女がわずかに身を引いた。警戒している。だが逃げなかった。
それからお互いしばらく、何も言わなかった。
波紋が広がり、重なり、消えていく。
時折少女がちらりとこちらを見ては、また視線を逸らす。
「……なんで、ずっとそこに座ってるの。ここから出る方法、探さないの」
「セラがどこにいるかわからない状態で、出口だけ探して戻る理由がない」
「……ひとりで帰らないの?」
「ああ」
少女は何も言わなかった。
ただ、指先が水面を撫でる動きが止まった。
再び沈黙が続いた。
少女は膝を抱えたまま、水面を見ていた。私もそのまま、特に何もしなかった。
やがて少女が口を開いた。
「……セラを見つけて、どうするの」
「連れて戻る」
「追い返されるよ。私もそうだったから」
「やってみなければわからない」
少女は少し間を置いてから、ぽつりと言った。
「なんで……そんなに」
「なんだ」
「……そこまでするの」
私はその問いに、すぐには答えられなかった。しばらく間があって、それから言った。
「セラを失う理由がない」
その答えを聞いた少女が、静かにこちらを見た。何かを確かめるような目だった。それからまた視線を落として、低く言った。
「……あなたって、マスターと同じ顔してるね」
マスター。聞き覚えのない呼び方だった。
だがその言葉が指すものの輪郭は、すぐに掴めた。
「それは別の世界の私のことを言っているのか」
少女が顔を上げた。驚いたような目だった。
「……知ってるの?」
「ここに来る前にウロボロスから聞いた。別の世界が存在すること、セラがそこから来たこと。それだけだ」
「それだけ」と少女は繰り返した。
「……じゃあマスターがどんな人かは」
「別の私であること。そのマスターとやらが何をしたのかは、何も知らない」
少女はしばらく黙っていた。
膝を抱える腕に、じわりと力が込められた。
「そっか……知らないんだ」
その小さな声に、安堵とも落胆ともつかない色があった。
どちらなのかを判断する前に、少女がまた口を開いた。
「……じゃあ、セラフィナのことも知らない?」
「セラフィナ?」
聞いたことのない名前だった。
だがその音の響きに、何かが引っかかった。
「誰のことだ」
少女は私を見た。その目に、言葉にならない問いのようなものがあった。
「知らないの?……彼女のこと。セラの、昔の名前」
「セラには別の名前があったのか」
「うん。マスターがつけた名前」
マスターが、別の世界の自分が、セラに名前を与えた。
“あなたは彼女に名前を与えた。執着すべき作品として——“
ウロボロスが私に語った言葉が、不意に蘇った。
「それまでは名前がなかったのか」
「うん」と少女は言った。
「番号があっただけ。名前じゃなくて」
あっさりと、当然のことのように言った。
「番号で呼ばれていたのか」
「そう。いろんな番号」
「……それで、お前はそのセラフィナなのか」
少女は少しの間、答えなかった。
それから、小さく頷いた。
「うん。でも名前をもらう前の、セラフィナ」
私はその事実を、ゆっくりと受け取った。
目の前の痩せこけた少女が、今のセラの起点だ。
この汚れた、傷だらけの、番号で呼ばれていた子供が、私の知るセラになった。
そしてその間に、別の世界の私がいた。
私はセラの過去を何も知らなかった。
彼女がどこで育ち、どんな時間を過ごし、何を秘めていたのか。何一つ知らなかった。
「それで、マスターはお前に何をした」
少女は膝を抱える手に力を込め、少しの間黙っていた。
「それは……見せた方が、早いかもしれない」
「見せる?」
「うん。言葉にするよりも」
それから少女は、初めて私から視線を逸らさずに言った。
「でもあなたは、知りたい?本当に」
本当に、という部分に力が込められていた。
試しているのではなかった。本気で問いかけていた。
「ああ、知りたい」
「なんで?」
「知らないより知っている方がいい」
「それだけ?」
私は少し考えた。
答えはすでに持っているのに、まだ言葉の形にはできなかった。
「それだけではないかもしれない。だが今の私には、それ以上の言葉がない」
少女はその答えを、しばらく黙って受け取っていた。
それから、小さく言った。
「……正直なんだね」
「……」
「マスターは正直じゃなかったから」
それ以上は言わなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がった。裸足が水面を踏んでも沈まない。白い波紋が輪を描き、静かに散っていく。
「でも、全部見ても、何も変わらないかもしれないよ」
「ああ」
「知ったところで、セラのところに行って、追い返されるのは変わらないかもしれない」
「ああ」
少女は小さく息を吐いた。それから、前を向いた。
「ついてきて」
振り返らずに、歩き始めた。
空間に細い亀裂が走った。黒の幕がきしみ、めくれる。裏返るように景色が転じ、闇の中にひとつの舞台が開かれた。
私は黙って、その後を追った。
*
景色が、変わった。
灰色の空。凍てついた泥道。崩れかけた石造りの建物が、黒く焦げた骨格だけを晒して立っている。
風が低く唸り、枯れた草を薙いでいく。
子供たちが列をなしていた。痩せた腕に銃を抱えて、一様に無表情で立っている。
泣いている子も、笑っている子も、一人もいない。
その中に、幼いセラがいた。
「……気づいた時には、番号で呼ばれてた」
傍らに立つ少女の声が、静かに重なってきた。
「名前があったのかもしれない。でも、覚えてない。R-04って呼ばれるたびに、体が動いた」
私はその光景を見渡した。
ここは一見すると紛争地帯だ。
だがそれだけではない。
子供たちの様子、監視する大人の動き。そして設備の様子や配置は見慣れた構図だった。
内戦に紛れる形でウイルスやバイオ兵器の実験場を設ける。アンブレラでも、その外縁組織でも、似たような運用は珍しくなかった。
子供たちが番号で呼ばれているのは、名前が不要だからではない。
身体能力、生命力、適応力——、何らかの基準で各地からかき集められた個体群なのだろう。
少年兵として運用しているというのは表向きの話に過ぎない。最初から被験体番号として管理されている。
銃声が響いた。仲間の肩が崩れ落ち、叫びもなく地に沈む。次の瞬間、幼いセラが前に押し出された。
「……撃てって言われた。仲間の子に銃口を向けろって」
引き金にかけた指が、震えていた。撃てば生き残れる。撃たなければ罰が待つ。
だが、幼いセラは、撃てなかった。
「命令に従わなかったのか」
「うん。だから何度も殴られた。でも、泣かなかったよ」
泣き方を知らなかったという方が正しいのだろう。感情を持つことを許されなかったのではない。おそらく感情が育つことを想定されず、その場所に置かれたのだ。
「罰と痛みは日常だった。でも……あの日、全部が壊れた」
光景が変わる。
配給の列だ。
乾いたパンが手から手へと渡されていく。子供たちが黙って受け取り、黙って口に運ぶ。誰も話さない。笑わない。ただ、食べている。
その中に異質な匂いが漂い始めたのは、ほんの少し後のことだった。鼻の奥にまとわりつくような匂い。
最初に倒れたのは、セラの近くに立っていた子供だった。
喉を掻きむしり、膝から崩れ落ちる。周囲でも同じことが起き始めた。皮膚が黒ずみ、肉が裂け、叫び声が唸り声へと変わっていく。
ウイルスだ、と即座にわかった。
これは事故ではなく、意図的なものだ。
スクリーニングされた個体群にウイルスを投与し、適合者を炙り出す。
どの個体が変異し、どの個体が適合するか。データとして回収できる情報が、この場所には揃っていた。少年兵として育てられた時間も、銃を持たされた日々も、全て此処に至るための前段階に過ぎなかった。
傍らの少女は何も言わなかった。ただ、黙ってその光景を見ていた。
周囲で次々と子供たちが倒れていく中、幼いセラだけが呼吸を保ち続けていた。
「……みんな、死んでいったの」
少女の声が、静かに落ちてきた。
「私だけ残った。それは幸運なんかじゃない。呪いだった」
呪い、という言葉は正確だと思った。
やがて武装した人間たちが現れた。まだ動いている子供たちを順番に捕まえ、薬液を打ち込んでいく。変異するか、死ぬか。その繰り返しの中で、幼いセラだけが安定した反応を示し続けた。
「安定。継続観察」
誰かがそう言った。
幼いセラは搬送用の車の中に入れられた。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「……その時から私は、C-221になったの」
少女がそれだけ言った。
私は何も言わなかった。言葉を探したが、かける言葉は見つからなかった。ただ、扉が閉まった後の静寂だけがあった。その静寂の中で、一つのことを考えていた。
この惨状を命じたのは誰なのか。この実験を設計したのは何の組織なのか。
考えないようにしていたが、答えはすでに見当がついていた。
*
場面が変わると、鉄の匂いが鼻を刺した。
コンクリートの壁。無機質な蛍光灯。
その光の中心に膝を抱えて座る小さな影がある。
「検査だ、C-221。歩け」
声が飛ぶたびに、幼いセラの体が動いた。
抵抗はしない。呼ばれれば動く。従う事が訓練されている。
「ここでも名前で呼ばれることはなかった」
名前がないということは、そこに人間がいないということだ。記号が動き、記録が蓄積される。
私自身も対象はそのように扱ってきた。
それは正しい手順だ。そこに憐れみや同情の余地はない。
場面が変わった。
実験場だった。前方の檻が開いた。
吐き出されたのは、かつては子供だったものだ。四肢の比率が狂い、背骨が皮膚を押し上げ、頭部が前方に異常に張り出している。低く唸りながら床を這う様は、もはや人の動きではなかった。
怪物が突進する。
幼いセラが咄嗟に身をひねる。爪が肩を裂き、血が飛んだ。
だが倒れなかった。
足元のグレーチングに視線を移すと、ボルトごと力任せに引き剥がす。
手のひらが裂け、血が溢れたが、それでも構わず引き剥がした鉄片を、振り返りざまに怪物に叩きつけた。
二度。三度。頭部が潰れるまで、止まらなかった。
私は思わず目を細めた。
ウイルスを受け入れ、人の形を保ち、知性を保持したまま、あの速度で傷が塞がる。
これほど綺麗な適合は稀有な存在だ。
そしてそれが、この痩せこけた子供だったということだ。
研究員たちは興奮の混じった声で数値を読み、記録を取っていた。
これを見た人間が次に何を考えるか。私にはわかった。
この個体は特別だ。消耗品として使うには惜しい。
「……私はそこで思った。私は数字と結果でしか意味を持たないんだって」
怒りでも嘆きでもなく、ただの確認として語られていた。
私はその言葉を聞きながら、血まみれになった手を見つめ立っているセラを見ていた。
裂かれた傷が塞がっていく。
幼いセラはそれを、何も言わずにただ眺めていた。
その目は、いつも私の傍に立っていたセラの、見えない何かを求め飢えている目とは、どこか違っていた。
今の彼女の目はまだ、何も知らない虚ろな目だった。
記憶の波が反転した。射撃場、格闘訓練。
骨が折れても痣が残っても、すぐに塞がり、記録は「安定」で埋め尽くされていく。
その孤独な繰り返しの中に、ある日もう一つの影が現れた。
均整の取れた立ち姿。全身に黒を纏い、サングラスの奥に冷たい光を宿す視線。
私自身だった。見間違いようがなかった。姿も、声も、立ち方も、私だ。
「マスターだ」
今まで静かだった少女が、少し興奮気味にそう言った。
机の向こうのマスターは書類を伏せ、ゆっくりと顔を上げた。その視線が幼いセラを見た。
品定めするような、値踏みするような、冷たく正確な目だった。
実験場での反応、再生速度、適合率。その全てを頭の中で照合しながら、目の前の個体を見ている。
「おまえは他と違う」
低く、抑揚のない声だった。
対して傍らの少女からは、何かが伝わってきた。声ではなかった。言葉でもなかった。ただ、その一言を受け取った瞬間の、胸の内側の動きだけが。
不意に、傍らの少女が興奮気味に身を乗り出し、私の袖を摘んだ。
「この日、番号じゃなく……名前をもらったの」
私はその様子を見た後、再びマスターへと視線を戻した。
だが、その目はセラを見ていなかった。
見ているのは、これほどの適合体をどう育て上げるかだ。どんな形に仕上げるか、この個体がどれほど使えるか。そういう目だった。
「番号では不便だ。……今日からおまえをセラフィナと呼ぶ」
名が響いた瞬間、空気が変わった。
少女の内側から灯るその熱が、隣に立っているだけで伝わってきた。
セラフィナ。セラフィナ。その音を、内側で何度も繰り返している。番号ではなく、音の継ぎ目を持った、呼び声。
「声に出せ」とマスターが言う。
少女は喉を震わせ、かすかな声を押し出した。
「……セラフィナ……」
マスターの眉がわずかに動いた。
「そうだ。それがお前の名だ」
これは従順さを刻み込む儀式に過ぎない。親が子に名を与えるようなものとは、程遠い。
だが、傍にいた幼いセラに視線を移すと、その目には薄く涙が滲んでいた。
たとえマスターが少女を見ていなかったとしても、この少女は「見てもらえた」と感じていた。
「……嬉しかった」と少女が静かに言った。
「ほんとうに、嬉しかった。名前を持てば、私は生きていいんだって……そう思えた」
「だが、あの目は、お前を見ていないようだが」
少女はしばらく黙っていた。
「わかってたよ」と少女は言った。
「道具に名前をつけただけって、わかってた。でも……それでも嬉しかったの。今まで私には何もなかったから」
私はその言葉を、しばらく胸の中に置いた。
道具だとわかっていながら、それでも縋ったのだ。他に何もなかったから。
マスターと私は、同じ顔をし、同じ声をしている。
だがあの目は——私がセラを見るときの目は、あんな目をしているのだろうか。
その問いに、すぐには答えがみつからず、
「……そうか」と私は返すことしか言えなかった。
*
場面が変わった。
白い壁。金属の台座。
横たわっているのはセラフィナだった。
だがその姿は先ほどまで見ていた子供ではなかった。あの痩せこけた幼い体ではなく、整った顔立ち、均整の取れた体躯。マスターの手で育て上げられた時間が、確かにその姿に刻まれていた。
私の知る今のセラとも、どこか違う。
同じ顔をしているのに、纏う空気が違っていた。
細い腕を拘束具が締め上げ、黒い薬液を満たした注射器が持ち上げられる。
その薬液を見た瞬間、私は息を止めた。
ウロボロスだ。
見間違いようがなかった。あの黒、あの気配。
今のセラの内側に巣食っているあれが、ここで、この体に、植え付けられたのだ。
針が首筋に沈み、黒が流れ込む。
セラの身体が弓のように反り返った。
裂ける皮膚、走る黒い紋様、台座を叩く触手。研究員たちがざわめく中、彼女は喉を凍らせ、血を吐きながら、それでも耐え続けている。
「怖かった。でも……耐えれば、見てもらえると思ってたから」
マスターは動かなかった。
記録を取るでもなく、指示を出すでもなく、ただ台座の上のセラだけを見ていた。
だがその目は、先ほどまでとは違っていた。
冷たく正確な評価の目ではなく——もっと昏い場所から来ている目だった。
理性の外側にある何かが、あの目の奥で静かに燃えていた。台座の上の一点だけを、世界から切り取るように、剥がすように見ていた。
やがてマスターが口を開いた。
「……やはり、私の理想を裏切らない」
誰に向けるのでもなく、漏れ出るように溢れていた。
「ウロボロスは価値あるものだけを選ぶ。そして……お前は選ばれた」
処置台の縁に指先を置き、震えているセラの顎を手袋越しに持ち上げる。触れ方は冷たかった。
だがその目だけは興奮の熱に濡れていた。体温のない手がセラの輪郭をなぞりながら、その目だけが——所有するように、焼き付けるように、離れなかった。
セラの首筋を流れる黒い筋を、その目が追っていた。
「……美しい。想像していた以上だ、セラフィナ」
低く震える声だった。歓喜でも賞賛でもなく、もっと暗い感情が声の底に沈んでいた。
渇望に似た何かが、抑制の薄皮一枚の下で息をしている。
「最高の作品だ。私の手で選び、完成した存在」
私はその光景を、黙って見ていた。
あの目が見ているのはセラ自身ではない。
自分の手で選び、自分の手で育て上げ、自分の理想を写し取った作品だ。
だがそれでもあの目は確かに、セラから離れなかった。いや、離さなかった、と言う方が正確かもしれない。
「お前は、この時……見てもらえたと思ったか」
少女はしばらく黙っていた。
「あの目で見てもらえると……嬉しかった。他に何もなかったから」
その言葉を、私は黙って受け取った。
あの目の熱を、この少女は存在の証として受け取っていた。所有される熱を、見てもらえている証として。飢えた子には、歪んだ熱でも、熱は熱だった。
台座の上で意識を失っていくセラを、マスターがただ一人、見つめ続けていた。
黒が体の奥へ沈んでいく。皮膚の下を流れ、細胞に染み込み、骨の髄まで降りていく。
その黒の動きと、マスターの視線が重なって見えた。
流れ込んでいく。刻まれていく。
体の中に降りていく黒と、その目に宿る昏い熱が、同じものを目指しているように見えた。
どちらもセラフィナの、最も深いところへ向かっていく。
私はうまく言葉にできないまま、ただその光景を見ていた。
やがてその黒はセラの奥へ消えていった。
マスターの目は、最後までそこから離れなかった。
*
白が裂けた。
最初に来たのは熱だった。
肺を焼くような空気。硫黄の匂い。轟音が鼓膜を叩き、足元から振動が這い上がってくる。
それから赤黒い光が視界を塗り潰し、やがてその奥に景色が現れた。
溶岩。炎。崩れ落ちる岩場。
そしてその中を走る、一つの影。
セラフィナだった。
髪が焦げ、頬に血が伝い、火傷した足が再生しながら灼熱の岩を踏んでいた。
痛みはあるだろうが、気を止めずに必死に走っていた。
膝をついても立ち上がり、爪が割れても岩を掴んで前へ進む。止まるという選択肢が無いように。
私はその姿を、少し離れたところから見ていた。
その足が向かう先にいたのは私自身だった。
黒い触手を纏い、炎に囲まれ、それでも戦い続けていた。だが戦況は追い詰められ、敗北の形をしていた。
私はその姿を、しばらく見ていた。
自分の死に様を外側から見るというのは、奇妙な経験だった。
ウロボロスと融合したあの姿が何を意味するのかは、見ればわかった。限界だなのだ。すでに知っているその結末へ、もう止まれない場所まで来ている。
だがその姿よりも、その姿に向かって走っているセラフィナの方が、私の目を引いた。
「行かないで……!あなたがいないと、私は……何にもなれない!」
喉が裂けるような声だった。
自分の死が、誰かにとってこれほどの意味を持っていたとは……この場所で、外側から見るまで、知らなかった。
ここまでの全てを見てきた後で、その切実な声の意味は正確にわかった。
飢えた子が、唯一の座標を失う瞬間の声だ。
マスターを救いたい。それは本当だろう。
だがその声の底にはマスターがいなくなれば自分は何者でもなくなるという恐怖が、溶け込んでいた。愛着と恐怖が区別できないまま溶け合って、その足を動かしていた。
足場が崩れ、マスターの体が傾き、溶岩へと落ちていく。
セラフィナが腕を伸ばすが、その手は届かなかった。
その時、落ちながらマスターはセラフィナを見ていた。
その視線は強く、途切れなかった。
炎の中でも、溶岩に沈みながらも、最後までその目がセラフィナに固定されていた。
その視線は、セラフィナを焼き付けるように。最期の力で、彼女に――自分の作品に、何かを刻もうとしているような目だった。
その目が映しているものがセラフィナなのか、セラフィナの中にある自分自身の何かなのか、私には判別できなかった。
ただ、その目は己が消えゆく瞬間まで離れなかったことは確かだった。
刹那、閃光が走った。
轟音が全てを呑み込み、世界が白に塗り替わる。
セラフィナが宙に放り出され、落ちていく。
彼女はまだ手を伸ばしていた。掴めないとわかっていても、伸ばし続けていた。
泣きながら、マスターの名を呼びながら——
その時、マスターの視線が途切れた瞬間と重なるように、何かが動いた。
私は息を止めた。
『……目を開けろ』
低く、深い声が虚空を震わせた。
『お前が願うのなら——彼を救わせてやろう』
その声が落ちた瞬間、セラフィナの奥底から黒いものが眠りから醒めるように、ゆっくりと這い上がる。
セラフィナは気づいていなかった。
泣きながら、手を伸ばしながら、マスターの名を呼びながら、その体の内側で黒が静かに満ちていく。
そしてその黒はマスターの色をしていた。
彼がセラフィナに向けていたあの昏い目の色と、同じ温度をしていた。
偶然とは思えなかった。
あの処置台で流し込まれた日から、マスターの目に見つめられ続けた日から、ずっとマスターの色に染まったまま彼女の中で眠っていた。
だから今、目を覚ました黒はその声で語り、彼が離さなかったものを、離さない。
『望むのなら——代償として、お前はもう戻れない』
血管を伝うように黒が広がっていく。
細胞の隙間に満ちるように。皮膚の裏側を、内側から撫でるように。
『お前はもう……全部、私のものだ』
その言葉が空間に染み渡った瞬間、黒がセラフィナを包みこんだ。
静かに。深く。まるで、ずっとそうしたかったように。
セラフィナの体が、弛緩する。
力が抜けたのではなかった。身を委ねたのだ。
飢えた子が、長い間求めていたものにようやく触れたように。抗わなかった。
「……はい」
その声は震え、泣いていた。
同時に、彼女を包む黒がセラフィナの奥へ再び深く、沈んだ。
これは侵食などという生易しいものではなかった。
セラフィナが自分から開いた場所に、静かに入り込んで、内側から満たしていく。
そしてセラフィナはそれを心地よいとすら感じているかもしれなかった。
飢えが満たされていくように。空白が埋まっていくように。求めていたものに、ようやく触れられたように。
この黒の正体はウロボロスなのか、それともマスターの執着が死後も形を変えて残り続けているのか。
それを区別することに、もう意味がない気がした。
この黒はマスターがセラフィナに植え、その色に染めた。
ウロボロスの意思とマスターの執念が溶け合って、境界を失い、一つになってセラフィナの最も深い飢えに触れながら、静かに、彼女を手に入れたのだ。
白い世界が、完全に崩壊した。
黒が広がり、全てを呑み込んでいく。
セラフィナが黒に包まれながら堕ちていく。
その表情は苦痛ではなく、安らいでいるように見えた。
それが、最もゾクリとした。
やがて白も赤も全て黒に塗り替えられ、セラフィナの輪郭が完全に溶けた。
静寂だけが残った。
「……それで、セラフィナはあなたの知るセラになったんだよ」
少女が静かに言った。
私はしばらく何も言えなかった。
私はこの女のことを、何も知らなかった。
隣に置いていた。ずっと隣にいた。命令すれば動いた。危険な場所にも躊躇なくついてきた。自分を傷つけることも、厭わなかった。
それを私は忠誠だと思っていた。
だがそれは違った。
彼女の忠誠は、私に向いていたわけではなかった。私を通してマスターという座標に向いていた。だから彼女は私の隣に立っていた。私を見ているようで、ずっとその奥にある何かを見ていた。
だから私が近づくたびに、彼女はすり抜けた。
今の私がマスターと違うから。どう異なるかは言葉にし難いが、おそらく彼女はその違いが伝わるたびに、自分の中の座標が狂いそうになる。だから遠ざけるのだ。
そうやって唯一持っている自分の拠り所を守っていた。
そしてその座標の奥深くにはおそらく、あの黒が根を張って覆っている。
少女は言っていた。
セラは今眠っていて、邪魔をしないでと追い返されたと。
ここまでの全てを見た上で、その意味はわかった。おそらく、あの黒がセラを手放さないでいる。そしてその中にはセラが欲しかったものがあるのだろう。だとすればそこに誰がいるのかも、おおよそ見当がついた。
行かなければならない。
セラを所有したいから、というわけではなかった。取り戻したいという言葉も、正確ではなかった。
ただ全てを見た上で、それでも——名前のつかない何かが、私の足を動かそうとしていた。
「……セラのところに案内しろ」
少女がこちらを見た。
「私の声が届くかどうかはわからない。だが、行かなければならない」
少女は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。それから、指差しながら静かに言った。
「セラはすぐそこにいるよ。……マスターじゃないあなたが、彼女を呼ばないといけないから」
私の声が届くかどうかは、わからない。
それでも、足は動いた。
闇の奥へ。セラがいる場所へ。
少女の声が、後ろから静かに届いた。
「セラを……よろしく」