7章



誘いの正体は、あまりに単純な罠だった。

右肩に見えていた僅かな可動域のラグ。それは意図的に見せていた隙だった。私が気づき、あの一点に意識を収束させるように仕向けられていた。
罠だと直感が警鐘を鳴らした瞬間には、重心はすでに前へ乗り切っていた。

踏み込んだ刹那、触手が一斉に収縮する。背から伸びていた三本がバネを巻くようにセラの身体へと引き寄せられ、密着した。

距離がゼロになった瞬間、セラの右腕が私の脇腹へ正確に叩き込まれる。
骨を軋ませる衝撃に体勢が崩れ、そこへ沈み込みに合わせた膝蹴りが腹部を突き上げた。
肺から酸素が強制的に叩き出され、視界に火花が散る。連続した衝撃に態勢が完全に乱れた刹那、収縮していた触手が外側へと爆発的に解放された。
一本が右腕を払い、一本が左足を薙ぐ。最後の一本が、抵抗を奪う重さで肩口へと叩き込まれる。

背中がコンクリートの壁を殴りつけた。粉塵が赤い警報光の中に舞い上がり、膝が重く床に落ちる。

「やはり、あなたは読みやすい」

近づいてくる足音。声は穏やかだった。勝利の高揚でも嘲笑でもない。当然の結論を述べるような、感情の抜け落ちた静けさがある。

「残念ね、アルバート。“殺せない”という制約が、あなたを縛り続けている。それがあなたの、唯一にして最大の欠陥よ」

私は這い上がるように立ち上がった。

動きの癖や合理性を意図的に捨て、軸を不規則に揺らしながら間合いを詰める。
ウロボロスが読もうとするが、想定できない動きに触手が一瞬だけ迷った。その隙を突いて懐へ滑り込み、左腕でセラの肩を押さえながら、右手を細い首筋へと伸ばす。

頸動脈への圧迫。
通じるかはわからないが、意識を強制的に奪うことでウロボロスの制御を遮断できるかもしれない。セラの肉体を損なわず、この化け物を一時的にでも黙らせる、私が辿り着いた一手だった。

あと数センチ。指先が彼女の熱を捉えかけた、その刹那だった。

「……アル、バート」

声がした。

これまで聞かされていた粘りつくような甘さでも、研ぎ澄まされた刃の冷たさでもない。もっと深いところから滲み出てくるような、掠れた声。
まるで眠りの底から引き上げられるような——懐かしい、セラの声だった。

反射で、顔を見た。

「セラ……?」

問いが口をついて出た瞬間、私の動きが一拍だけ止まった。

その一瞬に、セラの右手が私の右手首を掴んだ。
力は弱く、指先は冷えていた。縋るような、震えた手だった。
私を引き剥がすためではなく、ただ私の腕を胸元へと手繰り寄せようとするように。

咄嗟に動きを止めようとしたが、踏み込みかけていた慣性が、それを許さなかった。

首筋へ向かっていたはずの腕が逸れ、そのまま——

逃れようのない勢いのまま、私の指先がセラの薄い肋骨の間に入り込んだ。

骨が軋む感触。肉が割れる感触。
そして、熱いものが掌に絡みついた。

時間が、止まったかのようだった。

視覚が情報を送ってくる。自分の腕が、セラの身体を貫通している。
その事実の意味が頭の中で形を結ぶまでの間、世界から音が消えた。警報も、空調の唸りも、崩れた機材が立てる金属音も、全部どこか遠くへ行ってしまった。


セラと、目が合った。

彼女は何も言わなかった。驚いてもいなかった。
赤金色の瞳が揺れて、ゆっくりと私の顔を映していた。まるで、ずっと前から知っていた結末を、ただ確かめるように。その目の奥にあるものが何なのか、私には読めなかった。絶望でも、安堵でも、恨みでもない。ただ静かで、どこまでも深い何かが、そこにあった。

「……あ、ぐ……はっ」

セラの身体が弓なりにのけぞり、口から鮮血が噴き出した。

真紅の飛沫が弧を描き、私の頬に降りかかる。
熱い液体が皮膚を伝い、顎を濡らし、鎖骨へと滴り落ちていく。その生々しい温度が肌に届いた瞬間、止まっていた時間が一気に戻ってきた。

こんなはずでは——。

思考が、そこでちぎれた。

指先に残る、肉を裂いた柔らかな感触が事実を冷酷に肯定する。頬を伝う血が急速に冷えていく。ウロボロスを抑えるために向けた一手が、セラの胸を貫いた。私の意志とは無関係に、この手がそれをやった。

自分の手で、彼女を壊したのか。

「……ア、ル……バート……」

掠れた声が私の名を呼んだ。

その音が胸の奥を貫いた。掌に刺さった棘のように、抜けない。腕を引き抜こうとするが動き方を忘れたように指が動かない。掌に絡みつく熱が全ての感覚を塗りつぶして、頭が処理することを拒んでいた。貫いているのは自分の腕のはずなのに、まるで自分自身が何かに串刺しにされたように、身体の中心から動けなかった。

その時、セラの手が動いた。
私の前腕を両手でゆっくりと掴む。その手は震えていて、力は弱かった。それでも確かな意志を持った動きで、私の腕を自分の胸からゆっくりと引き抜こうとする。

「……う……」

くぐもった声が唇の隙間から漏れた。

抗おうとする意志だけが残されて、それを支えるものが何もなくなっていくように、指の一本一本が諦めて私の前腕から滑り落ちた。
次に全身から力が抜け、糸の切れた人形のように足が折れる。そのまま重力に従って、まだ胸を貫いたままの私の腕を軸に、深く、深く、彼女が滑り落ちてくる。

「——っ」

咄嗟に引き抜こうとしたが、彼女の体重が腕にかかり、抜くことも支えることも中途半端なまま動けない。貫いた腕をさらに深く飲み込みながら、セラの身体が私に凭れかかってくる。掌の中で、熱いものがまた溢れた。
私の指先が、彼女の心臓の、最後の震えを直に掴んでいるような錯覚に陥る。
生温かい。今さっき頬にかかった飛沫と同じ温度の、命の熱だった。

「……セラ」

名を呼んだ。答えはなかった。

頭が私の肩に落ちてくる重みだけがあった。
力を失った身体が、最後に寄り添う場所を選んだかのように。

受け止める。それしかできなかった。

腕の中で、セラは動かなかった。呼吸はある。だがそのたびに貫いた胸元から赤いものが溢れ、床へと落ちていく。頬が青ざめ、唇の赤が頬の白さの中に溶けていく。潮が引くように、ゆっくりと色が引いていく。
まるで彼女の輪郭そのものが、この世界から少しずつ薄れていくように。

私が腕を抜かなければ、傷口は塞がらない。わかっていた。だが腕を動かすことが、もう一度彼女を傷つけることのように感じられて、すぐには指に力が入らなかった。

「……セラ」

もう一度名を呼ぶ。睫毛が微かに震えただけだった。
私はセラの肩を掴み、ゆっくりと身体を引き離した。傷口から腕を引き抜いた瞬間、堰を切ったように大量の血が床に落ちた。赤い飛沫が足元に広がり、鉄の匂いが鼻腔を焼く。自分の腕が、ひどく汚れていた。

だが傷口の縁が微かに動いた。黒い細胞が滲み出るように集まり、ゆっくりと肉を閉じ始めていく。このペースならば、失血での致命傷は避けられる。

しばらくして、だらりと垂れ下がっていたセラの手が空を彷徨うようにゆっくりと持ち上がり、私の袖口を掴んだ。震えていたが、確かに意志のある動きだった。

「完全に塞がるまで動くな」

低く言い放ちながら腕の中のセラを支え直すと、薄く開いた瞳が焦点を結ぼうとしながら揺れていた。赤金色の虹彩が私の顔を探り、見つけて、ゆっくりと止まる。

「……ア、ルバート……」

震える手が、私の頬へと伸びてくる。触れてくる指先は冷えていたのに、その温度だけが、なぜか胸の奥まで届いた。

「……大丈夫、だか、ら……」

「喋るな」

セラの頭が、ゆっくりと私の首筋に落ちてきた。掠れた呼吸が耳の後ろにかかる。私はその背を支えながら、傷口の再生を確認した。閉じている。もう少しだ。もう少しだけ、このままでいれば。

頬に触れたままだった指が、静かに動いた。私の首筋を、確かめるようになぞっていく。

この手は本当にセラのものか。今の今まで、何度も問い続けた問いが、再び浮かび上がってくる。だが触れてくる指の力の弱さと、首筋にかかる掠れた呼吸の感触や脆さは、あまりにも彼女そのものだった。

「……ありがとう」

耳元で声がした瞬間、背筋を冷たいものが走った。
甘く、ゆっくりと溶け込んでくるような声。そこに混じる、微かな歪み。それがセラの声ではないと気づいた瞬間、理解が追いつくより先に、背中を何かが貫いた。衝撃が脊椎を揺らし、肺が圧縮される。膝が折れかけるのを歯を食いしばって堪えた。

「やっと、隙ができた」

紛れもなくウロボロスの声だった。

全部、演技だったのか。焦点が合いかけた瞳も。震えながら伸びてきた手も。首筋にかかった掠れた呼吸も。私が動揺している間、ウロボロスはずっと次の一手を準備していた。セラに似た全てを使って、私の中の最も脆い部分を、正確に狙い澄ましていた。

反射で触手を掴み素手で引き裂くが、次の瞬間にはさらに太い触手の束がセラの身体ごと私に押し付けてくる。血に濡れた細い躯が胸に押し付けられ、微かな体温が伝わり、湿った吐息が頬にかかった。黒い繊維が腕ごと絡みつき、互いを強制的に抱き合わせていく。逃れることができない。彼女を離すことも、引き剥がすことも。

「ふふ……ねえ、そんなに抱き合いたかったの?油断したらダメでしょ」

声が、耳の奥に粘りついた。

「でも、ずっとこうしていればいいわ。あなたも抗わずに委ねて、ここで永遠に。計画も、彼女も、あなたも——何も失われずに済むのよ」

「……黙れ」

声は掠れていた。だが腕だけは、セラを手放さなかった。
さらなる触手が渦を巻き、二人を覆い隠すように繭を形づくっていく。幾重にも重なる黒い繊維が外界を隔絶し、圧迫と熱が同時に押し寄せた。赤い警報灯が遠のき、音も光も闇に溶けていく。焼けるような痛みが神経の端から端まで駆け巡っても、腕の中の感触だけは緩めなかった。

「ほら……ここなら、永遠に……」

囁きが鼓膜を打った瞬間、足元の感覚が消えた。重力が反転し、世界が底抜けに崩落していく。意識が水の底へと沈んでいく。冷たく、静かな底へ。沈みながら——ただ一つだけ、鮮明に残っているものがあった。

腕の中のセラの体温だった。

この熱だけは、手放さない。そう誓った時には、もう何も見えなくなっていた。​​​​​​​​​​​​​​​​


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