7章



「来い」
低く吐き捨てた言葉が、警報の赤光に溶けていく。
ウロボロスは答える代わりに、背から伸びる三本の触手を一斉に展開した。
鞭のようにしなり、周囲の医療機器を無造作に薙ぎ払う。点滴スタンドが吹き飛び、モニターが砕け、ガラスの破片が赤い光の中で宝石のように散った。
私は最小限の動きでそれを回避しながら、間合いを測る。

触手の速度と軌道はすでに把握した。
伸びきる前に懐へ潜り込むか、あるいは根元を叩けば無力化は容易い。
だが、そのどちらの最適解も、セラの肉体が射線に重なった瞬間に悪手へと変わる。
ウロボロスはそれを熟知していた。
急所は常にセラ自身の身体で遮蔽し、触手だけを自由奔放に暴れさせる。

……攻めきれない。
セラを壊せないという弱点を、この化け物は最大限に利用している。

突如、廊下の奥から複数の足音が雪崩れ込んできた。
警報に反応したセキュリティチームだろう。訓練された動きで扉に取りつく気配が、壁越しに伝わる。扉が蹴り破られ、完全武装の兵たちが室内へ突入した。


「目標を確認、射撃開始——」

号令は、最後まで続かなかった。
音もなく振るわれた触手が、一瞬にして三人の兵士をなぎ倒した。
一人が壁に叩きつけられて絶命し、一人が天井まで吊り上げられて弄ばれ、最後の一人は悲鳴を上げる暇もなく床に沈む。

「……まずい撤退だ」
廊下で誰かが叫ぶ声が響き、生き残った者たちの足音が遠ざかっていく。


「役に立たない駒ね」
セラの唇が、嘲笑を刻む。

私はこの隙を見逃さず、一歩、深く踏み込んだ。
しかしウロボロスは即座に反応する。
私の軌道を読み、塞ぐように先回りして動く。右へ踏み込めば右を、腕を上げれば上を。

忌々しいことに、ウロボロスは私がどう動き、どこを狙い、どのタイミングで重心を移すかを完璧に理解していた。
セラが隣で積み上げてきた、私に対する観察のすべて……その献身の結晶が今、最悪の形で利用され、私に向けられている。
自分を知り尽くした相手と戦うことが、これほど不快なものだとは思わなかった。

一度距離を取り、態勢を立て直す。
普段通りの動きをしていても、ただの消耗戦になるだけだ。
ならば私自身の癖を、私自身で裏切るしかない。

私は踏み込む軸足を変えた。
利き手とは逆の軌道で腕を振り、不自然なタイミングで体重移動をずらす。

……読み通り、触手の反応が遅れる。
その空白へと踏み込む。
接近戦に持ち込めば、長大な触手の取り回しは悪くなる。この距離なら、セラの身体能力と私のそれが直接ぶつかり合うことになる。

腕が交錯する。セラの肘が私の顎を狙い、私はそれを首を僅かに傾けて流しながら、逆の手で彼女の肩口を掴もうとする。だが、彼女の重心はすでに次へ移動しており、私の指先は空を切った。

速い。そして、その動きはあまりに私を知っている。

「苦労しているのね、アルバート」

紡がれる言葉の質感が、私の神経を逆撫でする。音程も抑揚も間違いなくセラのものだが、決定的に何かが欠けている。

「残念だ。セラは、そんなふうに話さない」

「そうね。彼女は随分と口数が少なかったもの」

笑みが深まる。
セラの顔が、セラのものではない醜悪な愉悦を形作る。その表情を見るたびに、私は“これはセラではない“と脳内で処理しなければならなかった。そしてその一瞬の確認作業が、私の集中を僅かに削っていることに気づく。

顔を見るたびに迷いが生じる……ウロボロスはそれすらも計算に入れている。


再び地を這うように低く踏み込んだ。触手が頭上から振り下ろされる。
それを紙一重で躱しながら、触手の根元を掴もうとした瞬間、セラの膝が私の脇腹を抉った。鋭く、一切の迷いがない一撃。

後退しながら壁に手をつき、衝撃を逃がす。
肋骨に響く痛みを冷静に処理しながら、私は戦略を再構築した。接近戦ですら読まれている。ならば、接近した後にさらに予測を外すしかない。

もう一度、間合いを潰した。今度は右ではなく左から回り込み、触手の死角へと滑り込む。
セラの手首を掴もうと腕を伸ばした瞬間、至近距離で、彼女の顔と目が合った。


……笑っていない。
一瞬だけ、その顔から貼り付けたような愉悦が剥がれ落ちていた。

「セラ……お前は、そこにいるのか」

触手の動きが、一瞬だけ停止した。
本当に、呼吸を止めるほど僅かな間。
だが、確かに止まった。ウロボロスの意志ではなく、もっと深く、暗い場所にある“何か“が、私の言葉に反応したのだ。


私の中で、一つの確信が膨らんでいく。
この怪物の支配の奥底に、まだ彼女は損なわれずに存在している。

「邪魔をするな」

ウロボロスの声が、硬質な刃となって割り込んできた。
先ほどまでの粘つくような挑発ではない。
焦りを含んだ、純粋に排除するための声だ。

私は一歩退き、間合いを測り直しながら、その事実を胸の奥に刻みつけた。
ウロボロスに読み切れない軌道を探りながら、接近と離脱を繰り返す。
触手をいなしながら私はある一点を凝視し続けていた。

触手の根元ではない。セラの右肩だ。
右肩の可動域に、ウロボロスが完全には同期できていない僅かなラグがある。
背中の触手を制御することにリソースを割いているせいで、セラ本来の肉体の精密な制御が僅かに粗くなっているのだ。
あそこを潰せば、致命傷を与えず、かつ確実にその身を封じることができる。

踏み込む角度を計りながら、私は戦い方を絞り込んでいった。

流れを変えられる。
そう確信した瞬間、ウロボロスの動きが、わずかに変わった。
誘われている、と気づいたの時にはすでに遅かった。



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