7章
銃口は、寸分の狂いもなく彼女の眉間を捉えていた。
指先に伝わるトリガーの冷たさが、私の神経をより一層研ぎ澄ませる。
「もう一度言う。……セラを返せ」
私の低く抑えた声に、それはセラを模すように喉の奥を震わせて笑った。
「返す? ふふ……。返すだなんて、まるで彼女があなたの所有物であるかのような言い草ね、アルバート」
「彼女は今や計画の重要資産だ」
私が断じると、彼女の背後で黒い触手がゆるりと持ち上がり、鎌首をもたげる蛇のように空気を撫でた。壊れた医療ユニットの無機質な光を吸い込み、粘つく光沢を放っている。
「資産、ね……。ふふ、あなたらしい」
彼女はそういうと、そのうちのひとつを愛おしむように指先で撫ではじめた。
「まあ、でも……あなたが思っているより、彼女はずっと以前から“あなたのもの”だったのよ。あなたが全く関知しない、歪んだ形でね」
「……何だと?」
私は銃身に力を込め、威圧を強める。
目の前にいる女は、セラの皮を被った怪物だ。
だからこそ油断はできない。
「あなたは疑問に感じていたでしょう? 彼女がなぜ、あんなにも不自然なほどあなたに忠実だったのか」
ゆらめく触手の先端が、じりじりとこちらへ寄る。
銃口の数センチ先で舐めるように旋回し、金属の冷たさに絡みつく気配だけを残して止まる。挑発だと分かっていても、神経が逆撫でされる。
「ある日どこからともなく現れた新人の部下が、あの屋敷での惨劇を目の当たりにしてもなお、何も疑わずに付き従う。命じられてもいない汚れ仕事を引き受け、あなたの影に徹する……。それが“普通”ではないと、あなたの頭脳なら、疾うに理解していたはずよ」
「……」
「それはね。彼女の忠誠は、今目の前にいる“あなた”に向けられたものじゃないからよ」
言葉の意味が一瞬、理解が追いつかずに眉を寄せた。
「彼女が見ていたのは、あなたであって、あなたではない。自らの理想が完成する目前、その理想とともに無様に滅びた、別の世界のあなたよ」
「別の世界? 私が死ぬだと? ……何をいっている」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れる。
ウィルスの自我。
仮に始祖が“意図”を持ち、宿主の認知を歪めることはあり得る。
強い生態系が他の生態系を支配し、書き換える。生存戦略の極致であり、そこに神秘はない。
事実、私の肉体も始祖によって書き換えられ、人間を超越した。
肉体だけではない。神経回路も、ホルモンの応答も、感覚の処理も改変は可能だ。
意識さえ形を変えることもあり得るだろう。
ならば、ウィルスが宿主の意識そのものに形を与え、“自我”として振る舞うこと……そこまでは未知の領域だとしても、仮説として否定するまでではない。
だとしても、“別の世界”については別だ。
そんなものは存在するはずがない。
世界が複数ある? 時間が巻き戻る? 次元が分岐する?
それこそ科学ではなく虚構の領域だ。あらゆる科学や物理でそれを証明する術はない。ましてや、その妄想のような世界でこの私が死んだなどと……。
「……笑えない冗談だ。セラの記憶を材料に、随分と手の込んだ作り話を構築したようだな」
だが、心の奥底で重く、鈍い音が響く。
パズルの最後の一片が、望まぬ場所に填まっていくような感触。
彼女と出会ってからのすべての違和感が、嫌と言うほどに説得力を持って形を成し始める。
数年前、どこからともなく新人として現れたセラ。そこから数ヶ月でアークレイ研究所での一連の出来事。屋敷中のB.O.Wを軽やかに仕留め、瀕死の私を前にした時は、まるで次に起こる事をあらかじめ知っているかのように、迷いなく最短の行動を選んでいたあの不可解な手際。
そして今日まで、彼女が向ける、私の背後に立つ“別の誰か”を見ているような瞳。
あの絶望的なまでに深い慈愛の正体が、本当に“私ではない私”へ向けられたものだと言うなら。そして、その見つめる先の“私”が死んだのだと言うなら。
「自分が死ぬなんて信じられない、という顔ね。無理もないわ」
彼女は笑いながらも、私の瞳から一瞬も視線を外さなかった。
その視線は銃口を捉えるのではなく、私の内側で今、組み替わりつつある思考の配列を読み取り、こちらの抵抗まで織り込んでいるかのように。
「けれど、彼女は知っていた。あなたがどう死ぬかを。目の前でその最期を看取ったからこそ、彼女は急いだのよ。同じ過ちが繰り返されないように」
指先が彼女自身の胸元を愛撫するように辿り、しかし最後だけ、ウロボロスが根付く一点に執拗に触れた。背後で触手がゆるく波打ち、金属に触れてかすかな軋みを立てる。
「だから彼女は、あなたの計画を止めるのではなく早めた。失敗続きだったウロボロスに、自分という贄を差し出すことで進捗を整えた。自分の知る結末を変え、あなたが生き残れるように。……たとえ、自分の精神が壊れ、二度と目を覚まさないとしてもね。健気だと思わない?」
「……馬鹿げている」
「そうね。でも勝手に救済の物語を信じたのは彼女だもの。彼女は、そうやって役に立つことでしか、自分を肯定できなかった。……でも、彼女をそう仕上げたのは、あちらの世界のあなた自身よ、アルバート」
彼女は嬉しそうに言った。私の自尊心を粉々に噛み砕くことが楽しくて仕方がないという風に。
「あなたは彼女に名前を与えた。執着すべき作品としてね。そして彼女はその名に縋った。それまで名前を持たなかった彼女は自分が初めて、誰かにとって“必要な存在“になれたのだと錯覚したの」
――あなたにとって必要な存在でありたい。
かつてセラが口にした、あの言葉が蘇る。
真意を問うたびに、彼女は決まって視線を逸らした。説明できない後悔と、飲み込むしかない真実をその胸に抱えたような痛々しい表情で。
「……話は済んだか。お前が何者であれ、セラを返すつもりがないことだけは理解した。私の所有物に勝手な物語を上書きし、私の判断を揺らすつもりなら無駄だ。信じるに足らない」
私は彼女が先ほど指が執拗に触れていた胸へとゆっくりと銃口を下げる。
眉間を撃ち抜くのは容易いが、この怪物を屠るにはそれでは足りないだろう。狙うべきところは、わかっている。
「ふふ、冷たいのね。でも、もう彼女は私のものよ。私はやっと、自由に使える最高の器を手に入れた。増える、蔓延る、支配する。本能のままに動く事ができる。でも、あなたが計画を進めないなんて許せるわけがないわ。それならこの体で、私の好きにやらせてもらうわ」
彼女はゆっくりとベッドから足を下ろした。素足が音もなく接地する。
ゆらりと歩み寄り、銃口がその胸を突くほどの間となるが、彼女は恐怖すらも愛おしむように、銃身に近づいていく。
「ウイルスが意識や人格を模倣する可能性は驚いたが考慮しよう。計画についても私の主導のもとであれば、本来通り進める。……もちろんセラを返した後の話だが」
「セラは簡単には返せないわ。やっと手に入れた自由な器だもの」
こんなこともできるのよ。そう囁きながら、彼女が指先でわずかに合図する。
背後の触手が滑るように持ち上がり、音もなく私の頬の高さまで伸びてきた。
「ああ……美味しそうな匂い」
彼女が舌先でゆっくりと下唇をなぞると同時に、ぬめりを帯びた触手の先端が獲物を嗅ぎ分ける獣のようにゆらりと揺れた。
「実はね、本来なら、私の宿主はあなたであるはずだったの」
彼女は瞳を細め、小首を傾げる。
「あちらの世界のあなたがウロボロスを放つのに失敗した日、私にとってもチャンスを失ったことを意味していた。だから彼女を使い、やり直させた。次の世界ではあなたが失敗しないよう、彼女に支えさせながらね。……けれど、この世界のあなたは計算違いだった。あなたが彼女に現を抜かしてしまったせいで、私は計画を変えたのよ」
「……何だと?」
「あちらの世界でどこまでも冷徹だった貴方が、まさか他人に執着し、ましてや“愛する“なんて思いもしなかったわ。進化を促す宿主に必要なのは、怒り、憎しみ、絶望……そういった純粋な負の感情。けれど貴方は彼女という毒に当てられ、神としての牙を失いつつあった」
触手は私の顔の高さから離れると、周囲の医療機器をなぎ払い、火花が散る。
「だから私は貴方を宿主にすることはやめた。保険として利用していた彼女を、今回の器として育て直すことにしたのよ。彼女を存分に汚し、絶望させ、精神に根を張った。そしたら最終的に、彼女は自ら私を取り込んだ……あなたの代わりにね」
「……最初から、セラを操っていたと言うのか」
「操る? 違うわ。私は彼女の中に“いた“だけ。ゆっくり、静かに、根を広げていただけ」
「矛盾している。なぜ最初からお前が目に見える形で動かなかった。ウロボロスの力があれば、私の手を借りずとも早々にセラを使って計画を独力で完遂できたはず。それになぜ、セラにお前が入り込むことができた」
「あら。やっと、いい質問ね」
女は、嬉しそうに息を吐いた。
「セラはあちらの世界では“選ばれた“存在だったのよ。あなたは彼女を“最高の作品“といってウロボロスを投与した。その時から、私は彼女の中にいた。でもウイルスそのものをこの世界に持ってくることはできなかったから、彼女の精神の中でだけ、生き延びたの」
「セラは初めから完璧な適合者だったと言うのか?」
肉体という依代を欠いた状態でウイルスが存続するなど、理論上あり得ない。
念のため、彼女の血液サンプルは折を見て何度か採取し、詳細な解析にかけたことがある。
だが、結果は常にいかなるウイルスの痕跡も、変異の兆候も見つからなかった。
「そう、驚いた? セラが自分にウロボロスを投与したのは、単なる捨て身でも賭けでもなかったのよ。そして、この世界でウロボロスが形になっていくにつれて、私はセラにそれを受け入れるように促した。彼女、貴方を救うためと囁けばなんでも率先して身を投じたわ」
「……」
彼女の献身のすべてが、この化け物の甘い囁きに利用されていたという事実に、吐き気にも似た憤りが込み上げる。
「そうして、ようやく私は実体のない亡霊から器と核を得た。……それに、セラは居心地がいいの。あなたの中だと、その強すぎる意志にコントロールされてしまってなかなか自由がなかったもの」
彼女の両腕が、花弁が開くように広げられた。
皮膚の下を走る黒い模様。
それが脈動とともに首筋を這い上がり、頬を、そして右目の端を侵食し始める。
「さあ、アルバート。あなたに選択をあげる」
女は指を一本立て、私の喉元に触れるかのように空をなぞった。
「一つ。私を受け入れなさい。セラは二度と戻らないけれど、貴方の新世界を創るという計画は加速する。私があなたを、本物の神の座へ導いてあげてもいい。今の私はあなたが望んだ完全な適合そのものだもの」
「神の座だと? ……ウイルス風情が口にするなど……笑わせる」
私が吐き捨てると、彼女は楽しげに目を細め、二本目の指を立てた。
「二つ。彼女を取り戻そうと足掻いてみなさい。けれど、計画の鍵である私が消えれば、シナリオは本来の時間軸――あなたが死ぬ未来へと収束し始める」
そこで言葉を切り、彼女は私に寄るようにして顔を近づけた。耳元で死神が囁くような、冷たく粘りつく声が鼓膜を這う。
「つまり、彼女を失うか。それとも……あなたが死ぬか。どちらかしかないのよ」
私は冷笑を浮かべ、一歩踏み出した。銃口で彼女の胸をさらに強く突き放すように。
「二択だと? 」
その提案は甘美でありつつ合理的ではあった。
私自身が望んだウロボロスの完成が、今、目の前にあるのだ。
だが、その言葉が鼓膜に届いた瞬間、私の中で氷のような冷徹さは、沸騰するほどの不快感へと変貌していく。
救済か、死か。
どちらにせよ、私はウイルスの掌の上で踊ることを強要されている。
私が死ぬ未来へ収束すると脅し、従えば新世界が加速すると囁く。
その構図は、最初から私を選ばせるために巧妙に組まれたものだ。
他人が書き上げた脚本、他人が用意した椅子。
その上で、不確かな選択肢を与えられているに過ぎない。
そもそもウイルスの役割とは、選ばれた宿主に進化という恩恵を授けるための道具に過ぎないはずだ。
その道具が意志を持ち、あまつさえその創造主であり支配者であるこの私と、肩を並べようというのか。
そして目的は同じと言いながら、その言葉の裏でセラはもう戻らないと告げている。
ならば、目的が同じはずがない。
私が求めているのは、完成形のウロボロスそのものではない。セラを奪ったまま差し出される完成など、私に対するただの侮辱に過ぎない。
この瞬間、私の中で計画の優先順位が書き換わる。
計画はあくまで目的を達成するための道具だ。だが、セラを失う結末は、いかなる道具でも補うことはできない。
「貴様は一つ、大きな計算違いをしている。私は元より、他人が用意した椅子に座るつもりはない。ましてや、ウイルスごときが定めた未来などに、私が乗るとでも思っているのか」
銃口を向けたまま、私は断言した。
「選ぶ必要などない。貴様を屈服させ、彼女の中から引きずり出す。セラも、世界も、未来も。……すべてを支配するのは、この私だ」
「――ならば、力ずくで奪ってみなさい。その愛おしい人形を、自らの手で引き裂く覚悟があるのなら!」
彼女の叫びに呼応するように、背後でゆらめいていた数条の触手が爆発的に膨張した。
鞭のようにしなり、周囲をなぎ払う。
背後の強化ガラスが轟音と共に砕け散り、警報の赤光が降り注ぐ破片を朱に染めた。
私はわずかに重心を下げ、一歩、間合いを測るように後退しながら引き金を引き絞る。
放たれた弾丸は、セラの右肩を正確に捉えるはずだった。殺さず、自由を奪うための一撃として。
しかし、着弾の直前、彼女の影から噴出した漆黒の塊が、鋼鉄の弾丸を無造作に叩き落とした。
「黙れ。因果律を支配するのはウイルスではない。この私だ」
私は上着を脱ぎ捨て、地獄のただ中へと足を踏み入れた。
セラの首筋から頬へ、黒い紋様が這い上がっていく。まるで、皮膚の下で別の生き物が目を覚まし、彼女という形をゆっくり奪っていくかのように。
触手が空気を裂く音とともに振り下ろされ、衝撃が私の頬をかすめた。
――早い。
最小限の動きでそれを回避し、猛攻を捌きながら、冷徹に眼前の相手の出方を観察する。
おそらく、この怪物を沈黙させるだけでは、セラは戻らない。
だが沈黙させねば、こいつはセラの肉体を目的のために好き放題に使い潰し、最後には抜け殻として捨てるだろう。
彼女を取り戻すために、まずは物理的にでもねじ伏せるしかない。
「来い」
勝手に沈んでいった愚か者。
お前が消える結末など、私は許さない。