7章
静寂は、唐突な電子音の乱れによって切り裂かれた。
心拍数の急激な上昇。それに呼応するように、脳波計が深い眠りから一気に覚醒のフェーズへと突き抜けた。
私は椅子を蹴立て、医療ユニットを凝視する。
生命維持装置のモニターには、脳波の急激な活性化を示すスパイクが、激しい閃光のように走り続けていた。
これまでずっと彫刻のように動かなかった彼女の指先が、シーツを強く掴むのが見えた。
「……セラ」
思考よりも先に体が動いていた。
重厚な扉を素早く開け、消毒液の匂いが立ち込める中へと踏み込む。
医療ユニットの中で、彼女の肉体は小さく震えていた。
肺が無理やり空気を求めて喘ぎ、薄い胸が大きく上下する。
「セラ、聞こえるか」
私はベッドの傍らに立ち、セラの細い肩を優しく抱き寄せる。
指先に伝わる体温は以前よりも高く、その内側で爆発的な生命エネルギーが渦巻いているのがわかった。
やがて、痙攣のような呼吸が静まると、瞼が震えながらも、ゆっくりと、重そうに持ち上がる。
長い睫毛の隙間から、鮮やかな色が覗く。
縦に鋭く裂けた瞳孔、そしてそれを囲む燃えるような赤金色の虹彩。
それは種を超越した、捕食者の瞳。
ウロボロスとの完全な適合。その奇跡の証明が、今、私の目の前で瞬いている。
美しかった。
人類の進化という私の理想が、私の傍らに立つべきである彼女の肉体で具現化したその光景に、私は魂が震えるほどの高揚を覚えていた。
「……はっ……」
開かれた唇が戦慄くが、言葉にはならない。
光を避けるように細めていた目が慣れ、視線がゆっくりと室内をなぞる。
天井の照明、壁面のモニター、そして自分の身体から伸びるチューブとコード。
やがて彼女は、自らの右手を顔の前に持ち上げた。
指を一本ずつ、確かめるように折り曲げ、再び開く。
沈黙を強いられていた筋肉に、新しい生命の律動を染み込ませるかのような、静かで、執拗な動作。
それは、長い眠りから覚めた肉体の機能を一つずつ再確認しているようでもあり、あるいは新しく手に入れた強靭な力の感触を試しているようにも見えた。
彼女の視線が、自分の手から、ゆっくりと私の方へスライドする。
焦点が合うまでに、わずかな空白があった。
彼女は首を少しだけ傾げ、私の顔を凝視する。
瞬き一つせず、網膜に私の姿を焼き付けていくような、観察の仕草。
「セラ、わかるか?」
私が問いかけると、彼女は感情の読めない瞳のまま、ゆっくりと頷いた。
「……アル……バー……ト……?」
その声は掠れ、音節を一つずつ確かめるような、たどたどしい響きだった。
「……ようやく戻ったか」
その名で呼ばれたことが、思いのほか胸の奥を叩く。
昏睡明けの混濁が、言葉を狂わせているだけだろう
彼女は力なく微笑み、私の手に自分の手を重ねた。
起き上がろうとする気配を察し、私は即座に背を支え、肩口に腕を回す。
「……無理に動くな」
言いながら視線はモニターへ走る。
脈拍は高い。脳波は覚醒相へ移行している。呼吸はまだ乱れているが、自発呼吸は成立。致命的な破綻はない。少なくとも数値の上では。
上体が起きると、そのまま吸い寄せられるように彼女の頭が私の肩に沈んだ。
鼻腔をくすぐる、かつての彼女の香り。消毒液の匂いの下に微かに残っている。
腕の中にいるセラの体はあまりに熱い。これまで記録していた平熱を大幅に下回るデータとは裏腹に、私に触れる肌は、まるで発熱しているかのように拍動している。
「気分はどうだ」
私が顔を覗き込もうとすると、彼女は問いに答える代わりに、私の首筋に鼻先を寄せ、深く吸い込むような仕草を見せた。
「平気よ……」
熱を帯びた吐息が首をなでる。
「……どれくらい、眠っていた?」
「二ヶ月だ」
「そう……」
短い返答のあと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「深い眠りの底であなたが呼ぶ声が聞こえたわ。眠っている間もずっとそばにいてくれたのね」
そう言いながら機器に繋がれた右手が、ぎこちなく持ち上がる。
点滴のラインがわずかに張り、固定具が擦れる音がした。
「やっと、あなたに触れられる」
彼女は、私の背を支えている腕に指先を添え、感覚を確かめるように、二度、三度と往復する。触れた場所を忘れまいとするみたいに。
そして滑るように私の胸元へ落ち、鎖骨の稜線をなぞっていく。
指先が触れた瞬間、私はわずかに眉を寄せた。
セラは今まで自ら、こんな触れ方をしたことがなかった。触れるとしてもためらいか、かすかな震えが滲んだはずだ。
だが、今はそれがない。
手つきは迷いなく、静かに執拗だった。
胸元に触れる指が心臓の上で一度止まり、微かな鼓動を拾い上げるように圧を変える。そこから首筋へ流れていく動きは、愛撫のようで、同時に、筋肉の輪郭や血管の拍動を、順に確かめて吟味するようにも思える。
「……幸せ。やっと、あなたを独り占めできる」
彼女は顔を寄せ、私の首筋に鼻先を近づける。そしてその指は首筋を這い上がり、頬骨に触れる。
彼女の呼吸がふっと深くなると、微笑む気配がした。
「……とっても、いい匂いがする」
「……セラ?」
もう一度、名を呼ぶ。
あの夜の後ですら、セラはこうして触れることはなかった。
むしろ彼女はあの触れ合いを誤りだったと言わんばかりに、その後から視線を交わすことすら拒んでいた。
沈黙が落ちる。
機器の規則的な電子音だけが、妙に大きく耳に残る。
しばらくして、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その指が、今度はサングラスへ滑る。
「見せて……」
指先がつるに掛かり、ためらいもなく、ゆっくりと引き抜く。
剥き出しになった私の瞳が、彼女を真っ向から捉える。
至近距離で私を見つめる彼女の金の虹彩は、照明に照らされ、静かに蠢いているように見えた。
金の輪郭の内側で、縦に裂けた瞳孔がゆっくりと収縮し、光量に合わせて細く、鋭く形を変えていく。
その動きが、先ほどからの彼女の触れ方を不穏へと押し上げる。
近すぎる距離で彼女は瞬きひとつせず、逃げ道を塞ぐように私を見据えていた。
「離さないで、アルバート……」
声の甘さに反して、私の胸の奥には熱が入らない。代わりに、冷たいものが静かに沈んでいく。
「……あなたは、私のものなのだから」
得体の知れない違和感が募る。
セラは、私を独占したいなどと願う女だったか? 彼女は常に私の一歩後ろに立ち、己の感情を殺し、その存在意義を証明してきたはずだ。
彼女はさらに顔を近づける。
唇が触れそうな距離で、その目を三日月のように細めて笑った。
「セラ、今は安静が必要だ。横になっていろ。すぐに採血と神経反射の確認を――」
「検査は必要ないわ。私の体の中で何が起きているか、あなたが一番よく知っているはずでしょう?」
私の言葉を止めるように、彼女の指が私の唇に押し当てられる。
「ウロボロスとの完全な適合。それがあなたが欲しかったもの。私が眠っている間に、十分なデータやサンプルは取れたかしら?」
私は彼女の指をどかし、冷静に応じた。
「二ヶ月だ。その間にお前の身体は十分すぎる答えを出した」
「それはよかったわ!」
彼女は無邪気に歓喜してみせる。その軽薄な反応が、私の警戒心をさらに煽る。
「……お前は、初めから答えを知っていて、こうしたのか?」
私は頬に置かれた彼女の手を振り払うように手首を掴み、そっと押し返した。だが、彼女は掴まれたまま、さらに身を乗り出してくる。
「さあ、どうかしら。でも結果として、一気に計画を進められるわ。あなたの求める新しい秩序の世界へ。早く進みましょう」
「……」
質問を煙に巻くような返しに、違和感が胸の奥でさらに膨らんでいく。
これまでのセラは、答えられない問いに沈黙で応えた。
言葉で弄ぶこともない。こちらの反応を量るように、わざと曖昧さを残すこともない。まして、愉しむように挑発するなど……。
だが今はどうだ?
柔らかな声音の裏で、彼女は私の反応を試すように遊んでいる。
その微かな歪みが、目に見えない水面の波紋のように、じわじわと広がっていく。
私は彼女の両手首を掴む力を強め、剥き出しの拒絶とともに、無理やり引き剥がした。
「どうしたの?アルバート」
「……計画は、進めない」
突き放すような私の声に、彼女は掴まれた手首をだらりとさせたまま、小首を傾げた。
「どうして?あなたはこのために、ここまで――」
「どうしても腑に落ちない。お前が何者で、何を知っているのか。まるで私がどこに向かい、その結末を知っているかのように振る舞う。……その疑問を解き明かすまで、急ぐ必要はない」
彼女の笑みが僅かに歪む。
しかし、それは一瞬で、すぐに甘さを被せてくる。
「私の事はあなたが一番知っているじゃない。私は"あなたにとって必要な存在"よ」
彼女は拘束をすり抜けるように手首を振り払うと、再び私の頬をなぞる。私は顔を背け、再びその手首を強く掴み取った。
触れさせない。
「どうして拒むの?私が欲しかったのでしょう?」
彼女は私を試すように笑う。
「眠っている間もずっとそばで、名前を呼んでくれていたじゃない」
微笑みは柔らかいが、奥底には凍りつくような愉悦が潜んでいる。
「……」
「それに……あの夜はあんなに、私を望んでいたのに。私を、必死に欲してくれたじゃない」
彼女は遊戯のように手首を捻ってほどくと、今度は自分の胸元へ指を滑らせた。
「これはもう消えちゃったかしら」
ため息のような囁きとともに、かつて私が刻んだ執着の証を愛おしい玩具でも撫でるように、ゆっくりとなぞる。
まるで見せつけるような仕草。私の反応を愉んでいる。
「あなたが欲した私は、ついにあなたの“理想の作品“となったわ」
逃げ場を塞ぐように、彼女は再び距離を詰める。
「さあ、その作品をどこからでも好きなように、確かめていいわ。……またあの日のようにその手で暴いてもいいのよ。あなたの、望むがままに」
吐息が混じり合う至近距離で、セラは私の耳朶に唇を寄せ、囁いた。
「愛しているわ。アルバート」
その瞬間、私は再び彼女の手首を掴み上げ、身体をベッドへ乱暴に押し戻す。
倒れ込んだ彼女の肩を掴み、逃げ場を塞ぐようにその上に覆い被さるように組み敷く。
鈍い衝撃音が室内に響きわたる。
「どうしたの、そんなに怖い顔をして」
彼女は首を傾げ、可笑しそうに目を細めた。
その金の瞳孔が、興奮に細まり、鋭い光を放つ。
違う。
セラは、こんな風に笑わない。
私を試すような真似はしない。
膨れ上がっていた疑問が確信へとつながっていく。
「お前は……セラではない」
私は低く言い放つ。
「ひどいわ。やっと目覚めたというのに、そんな――」
「セラの真似をするな」
私は彼女の肩に指が食いこむほど力を込める。
抵抗の兆しを封じるための、冷たい拘束だった。
「痛いわ、アルバート」
「セラは、そんな目で私をみない」
「……そうかしら?」
笑みが艶やかに濃くなる。
その一瞬で、理解する。これは彼女の皮を被った別物だ。
「……お前は誰だ」
「あなたの愛しい、セラよ」
「ふざけるな」
私は拘束していた片手を放し、ホルスターに手を伸ばす。
銃を抜くと、組み敷いたままの彼女の額へ銃口を据える。それでも彼女の笑みは消えていない。
「怖いわ。そんなものを向けるなんて」
私は無言で銃口に圧をかける。金属の冷たさが彼女の額に食い込む。
「そう……わかったわ。遊びはおしまいね」
その言葉と同時に、彼女の表情から甘さが剥がれ落ちる。
先ほどまで耳に絡みついていた湿った響きが消え、声は乾いた刃のように研ぎ澄まされた。
瞳孔が、静かに細まり、金の虹彩の奥で何かが蠢いた。まるで膜の裏側から別の生き物が覗き返してくるように。
「もう少し、このまま甘えていたかったのだけど。……随分、気づくのが早いのね。つまらない」
彼女は私の手の中で、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「私は彼女よ。……けれど、彼女じゃない。私は彼女が押し込めてきた声。誰にも見せず、あなたにすら渡さなかった、最も深い影よ」
「戯言は不要だ。お前は誰だ」
瞳孔が細まり、薄笑いの奥に、一瞬だけ痛ましい色が滲んだ。
だが、今の彼女を動かしているのは、彼女自身ではない。
「ずっと付きっきりで、愛おしそうに眼差しをむけていた割には……とっても冷たい」
彼女は眉間に銃口が食い込んでいることなど、まるで気にすることも無く動き出した。
自分を繋ぎ止めていた数多のチューブを、抑えられていない方の手で無造作に引き抜いた。
固定していたテープごと肌から剥がすと、透明な管が弾け、生命維持液が飛散する。穿たれた針孔から鮮血が滲み、シーツを汚していくが、彼女は痛みなど存在しないと言わんばかりに、表情ひとつ変えない。
「ところでさっきまでの献身的な抱擁は、計画に利用している大事な駒に向ける慈愛?欲を満たすための愛玩動物に向ける類の情?それとも、彼女があなたにとっての“理想の作品“となったから?……まさか“愛している“から、なんて言わないわよね」
「……理想の作品だと?何が言いたい」
「ふふ、何にも知らないのね。創造主を気取って、その実、被造物のことすら理解していないなんて」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、異変は起きた。
彼女の白い肌を突き破るように、肩甲骨のあたりから黒く粘つく触手が這い出してきたのだ。それはまるで、長きにわたる眠りから解き放たれた、鎌首をもたげる蛇のように空を泳ぐ姿だった。
私は掴んでいた彼女の手首を即座に離し、銃口は逸らさないまま上体を起こして距離を取る。
冷徹な殺意を込めて睨みつける。
対する彼女は、その剥き出しの敵意すらも愛おしむように、艶然と目を細める。
「撃たないの? そうよね。あなたの大事なセラだもの。撃てるはずがないわ。……ねぇ、撃てないことが、さっきの質問の答えかしら?」
「黙れ。必要なものはすでに揃った。利用価値がなければ躊躇う必要はない」
私はトリガーに指をかけた。私の指先のわずかな動きさえも見逃さないほどに、彼女の視覚は研ぎ澄まされているはずだ。だが、彼女はその通告すらもなんでもないように受け流した。
「面白い。自分が心血を注いで創造したものを、その手で壊すなんて。すでに十分、創造主気取りね」
「創造物……だと? 」
彼女の背から生えた黒い触手が、意思を持つ生き物のように蠢き、私の周囲の空気を探り始めた。
「そう。彼女が身を捧げ、呼び出した神の化身。あらゆる有機物を従え、進化を強制させる。あなたの理想の世界を実現させる完璧な生命」
彼女は、自らの内に脈打つウロボロスの搏動を誇示するように胸を張った。触手のうねりは激しさを増し、医療ユニットの金属フレームを、飴細工のように容易く捻じ曲げていく。
その光景の傍らで、私の思考は急速に加速する。
神の化身。
つまり――ウロボロス。
そんなものが自我を持つはずがない。
宿主の本能的な欲求を増幅させることはあるかもしれないが、ウイルス自身はそういったものを持たない。意図も悪意もない。あるのは増殖の衝動だけだ。
だが、目の前のこれは衝動ではない。
言葉を選び、私を煽り、距離を詰め、わざと恐怖の形を作って見せる。セラが答えられない問いに沈黙してきたことすら知っているように、曖昧さで私を試す。
もしセラが、最初から自らの適合を予見していたのだとしたら。
もし彼女が、自分の中に眠るこの禍々しい何かを確信し、あの夜、あえてその身を捧げたのだとしたら。
そしていま、彼女の皮膚の下で“それ”が、私の過信を嘲笑っているのだとしたら――。
私は、己の内に芽生えたこの屈辱的な仮説を、冷徹な言葉へと鋳造し直す。
「……茶番はやめろ。お前はウロボロスだと言うつもりか。ウイルスが自我を持ち、宿主であるセラの意識を侵していると」
「侵食? 違うわ。私は彼女の絶望を栄養にして、花を咲かせただけ」
彼女は触手の端で、折れ曲がった金属を愛おしそうになぞる。
「彼女がどれほど、あなたの影の中で“必要な存在“であろうと、もがき血を流してきたか……教えてあげましょうか?あの忠誠の正体を。彼女がずっと、喉の奥で噛み殺してきた祈りを」
私は、目前のセラの形をした怪物を凝視した。
怒りと、そして得体の知れない喪失感が、胸の奥でどろりと渦巻いている。
「お前が何者であろうと構わない。その紛い物の言葉を、彼女の唇で語れぬようにするまでだ」