6章
実験室は朝という概念を拒むように、均質な白で満たされていた。
冷却装置の低い唸り。循環する空調の乾いた息。モニターの明滅。
私はいつもの位置に立つ。
昨夜の出来事など存在しないという顔で。
しかし、現れたセラの瞳を一目見た瞬間、私の喉の奥が凍りついた。
そこに宿っていたはずの、私を射抜くような鋭い光は濁り、底の見えない虚無が広がっている。
昨夜、一度は確かにその熱を掌に閉じ込めたはずの存在が、今や絶望的なほど遠ざかり、手の届かない深淵へ沈んでしまった。
いかなる言葉も、熱も、もはや届かない。
そんな言葉にならない胸騒ぎが、冷ややかな重みとなって私の胸に沈殿した。
研究員たちが機械的に動き、新たな被験体への投与が開始される。
直後に訪れる激しい痙攣、皮膚を這い回る黒いうねり。そして、唐突な静寂。
コンソールの赤いラインは、私の計算を嘲笑うかのように、一筋の平坦な絶望となって伸びたままだ。
「……また、失敗か」
吐き出した声は、自分でも驚くほど冷たかった。
計算に狂いはない。理論上、ウロボロスの開発はもっとスムーズに進むはずだった。
だが、失敗は常に滑らかに進行し、事後処理へと移行する。
実験、焼却、廃棄、次なる個体の選定。
それはもはや研究ではなく、単なる無意味な反復になりかけている。
「理論は正しい。ならば……」
足りないのは、適合を完成させるための決定的な鍵となる未知の変数だけだ。
頭ではそう理解している。だが、胸の奥で燻るこの苛立ちは何だ。
使い捨てられる肉体の残骸を眺めながら、私は拭い去れぬ停滞感に、ただ奥歯を噛み締めていた。
だが、この計画が停滞している理由はそれだけではない。
ガラスの向こうの白光が揺れるのを見つめるセラの横顔に、私は短く息を落とす。
……目の前の、この女だ。
いつからか、私の思考の領域の隅は、常に彼女という存在に占拠されている。
資料に目を通している時も、膨大なデータを精査している時でさえ、視界の端に映る彼女の静謐すぎる視線が、ノイズのように私の意識を掻き乱す。
彼女が私の背後に控えている時、私は背中に焼けるような熱を感じる。
彼女が部屋を去れば、今度はその空白が耐えがたい欠落となって脳内を侵食する。
そして、今でさえ。
研究員が失敗個体の片付けを済ませるのを待つ間、セラが音もなく器具台へ歩み寄った。
滅菌布の上に整然と並ぶ、銀色の影。
彼女の細い指先が、迷いなく一本の注射器を掴む。
彼女はいつも、私の思考を先回りし、不備のないよう気の利いた仕事を終わらせる。
今回もまた、無惨に散った廃棄物の代わりに運ばれる新しい被験体を用意するための、段取りなのだろう。
だが、彼女は私に確認を求めることも、次の被験体を呼び入れる合図を待つこともしなかった。
彼女の瞳が、ふと私を射抜く。
その瞬間、脳裏をかすめたのは、あり得ないはずの不吉な予感。
「……セラ」
乾いた声が自分の喉から落ちた。
だが、彼女は振り返らない。
そして静かに袖を押し上げ、浮き上がった青い血管をなぞる。
「それを置け」
だが彼女は聞こえないふりをする。
聞こえているのに従うつもりがないのだろう。
私の中で何かが不快に軋んだ。
彼女が私の命令に従わなかったことがあっただろうか。
理屈に合わない。忠実すぎるはずだ。影のはずだ。
彼女が息を一つ吐き、針先を肌に向けた。
思考が空転する。
予感が確信に変わっていく
理解が追いつく前に、胸の奥の何かが冷えた。
「やめろ――!」
自分でも驚くほど、それはかすかな懇願のように響いた。
思考する余裕などなかった。
「――何をしている!!」
間合いを詰め、手首を弾く。注射器が宙を舞い、金属音が床を裂いた。
だが、その一瞬の遅れが、私の世界を無残に確定させた。
駆け寄ったときには、ピストンはすでに底を打っていた。
世界が不自然に引き伸ばされたように感じる。逆流する血の音が、鼓膜に痛いほど響く。
彼女の皮膚の下へ、冷たく鍵を持たない“黒い液体“が流れ込んでいく。
「セラ……!」
刹那、彼女の腕の静脈が、墨を流したように黒く変色した。
セラの肩が震え、膝が折れる。
白い光の下で、彼女の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちるのを見た瞬間、私の理性の防壁は粉々に砕け散った。
私は、咄嗟に彼女を抱きとめていた。
――失いたくない。
あまりにも単純で、原始的な恐怖が理性を圧殺した。
黒い網目が彼女の首筋を這い上がり、美しかった横顔を侵食しようとしている。
私は彼女の頬を乱暴に掴み、無理やりその意識をこちらへと繋ぎ止めた。
「セラ! なぜこんなことをした!!」
自分の声が、自分のものではない別の生き物の咆哮のように聞こえる。
冷徹な仮面の隙間から、制御不能な焦りが溢れ出す。
呼吸が痙攣し、視界が揺れていく彼女の頬を乱暴に掴み、無理やり視線を向けさせた。
「見ろ!」
サングラスはいつの間にか外れていた。
剥き出しの赤い瞳が、今にも光を失おうとしている彼女の瞳孔を射抜く。
彼女の中でウィルスが暴れている。
細胞が悲鳴を上げ、肉体が形を失おうとしている感触が、腕を通して伝わってくる。
「セラ……!見失うな!制御しろ……!」
ウロボロスは慈悲を持たない。適合せぬ肉体は、瞬く間に細胞レベルで分解され、黒い有機的な繊維――あの触手の塊へと変質し、宿主を喰らい尽くす……。
彼女の頭が、私の胸板に触れる。
狂ったように速い鼓動が伝わってくる。
これが彼女のものか、私のものかさえ判別がつかない。
「……これで、いいんです」
彼女が、満足げに笑ったように唇を動かした。
その言葉が、私の理性を完全に叩き割った。
黒い触手が皮膚を突き破ろうと蠢いている。それを私は自らの掌で力任せに抑え込んだ。
「何を言っている……!」
「これで……あなたは進める」
進める? お前は何を知っている?
なぜ、私の停滞を前へ押し出すために、お前が消えようとする必要はない……!
私は彼女の首筋へ指を滑らせ、脈を探る。
皮膚の下で暴れ狂うウロボロスが蠢き、私の指を跳ね除けようとする。そこにまだ“彼女”がいることを必死に確認しようとしている自分が、たまらなく惨めだ。
「お前は、何を考えている……!」
声が掠れる。
喉から出たのは、怒りよりも切実な“恐れ”に似た音だった。
「お前は……なぜ、そんなふうに自分を捨てる!私から離れようとする!」
自分でも理解できない言葉が、制御を失って口を突いて出る。
――離れるな。私から消えるな。
彼女の瞳がわずかに揺れた。
その微かな揺らぎが、私の完璧な世界に決定的な亀裂を入れる。
「……どちらの“あなた”も……私を見つけてくれた」
意味が分からない。だが、胸の奥がかつてないほどに軋む。
“どちらの”だと? お前は一体、誰を見て――。
続く言葉は形を保てず、息の中へ溶けた。
彼女の体重が、腕の中でさらに軽くなる。意識が落ち、世界の輪郭が沈み、私の腕の中から“セラ”という存在が遠ざかる。
同時に、浸食された箇所が膨張を始め、彼女の衣服を内側から引き裂いていく。
――奪われる。
その感覚だけが、異様に鮮明だった。
私は彼女を強く抱き締める。
無意味だと理解しながらも、まるでその肉体が、魂が、霧散しないように、力で物理的に固定する。
変異した触手が私の腕に絡みつき、肉を締め上げる。
だが、その痛みさえも、彼女を失う恐怖の前では無に等しかった。
「セラ……!」
名を呼ぶ声が、白い室内で空虚に反響する。
もう返事はない。
「……隔離室を明けろ!!」
隔離室の強化ガラスの向こう側で、呆然とする研究員たちに、私は歯を食いしばり怒鳴りつけた。
「医療班を呼べ。今すぐだ! 解析班は血液データを全て私に回せ! 彼女を生かせ……どんな手段を使ってもだ! 一秒でも遅れたら、お前たちの命で埋め合わせをさせるぞ」
脅しによって場を支配しながら、私は彼女の身体を抱えたまま、滅菌された隔離室へと疾走した。
本来はサンプルを閉じ込めるための檻だが、今の私には、彼女をこの世界から守る唯一の聖域に見えた。
背後で警報が鳴り響き、防護隔壁が閉じる音が聞こえる。
私は、彼女を実験用のベッドへ横たえ、自身の指先でその首筋の体温を執着するように確かめ続けていた。
ウロボロスが彼女の体を覆い尽くそうとしても、私はその手を離さなかった。
冷徹であるべきだ。計画が最優先だ。
そう囁き続ける理性の声が、今は遥か遠くで響いている。
今、この世界で最も忌々しく、そして美しいものはウロボロスではない。
私の目の前で変異しようとしている愚かなこの女だ。
理解不能で、忠実で。私の支配の外側にいるくせに、私の世界の中心を、跡形もなく揺らしてくる。
「……ふざけるな」
誰に向けた言葉か分からないまま、私は低く吐き捨てた。
自身の手を彼女の血と黒い体液で汚しながら、医療機器を狂ったように操作する。
腕の中で沈黙するセラ。その肉体を蝕む黒い浸食を、私は自らの執着という名の鎖で繋ぎ止めようとしていた。
腕の中で沈黙するセラを、二度と取り落とさないように、さらに強く抱き締めながら。
ここで朽ちることは許さない。
お前が誰であろうとも、私の腕の中から“いなくなる“ことだけは。