6章
目を開けた瞬間、冷えたシーツが肌に貼りついた。
昨夜、確かにそこにあったはずの温もりは、跡形もない。
腕を伸ばす。触れたのは、わずかな皺と残り香だけだ。
まるで最初から居なかったみたいに、痕跡さえ薄い。
私は彼女を手に入れたはずだ。
その肌を暴き、声を奪い、支配の証を刻みつけるように、確かにセラそのものをこの腕に抱いたはずだ。
なのに、その確信が、朝の光の中で霧のように消えていく。
「……逃げたつもりか」
低く呟いた声は、空虚な寝室に吸い込まれて消えた。
彼女は、抱かれている最中でさえ“ここ“にいなかった、とでもいうのか。
私の腕の中で震えながら、その瞳は絶えず私を見ているようで見ていない。
まるで誰かの許しを乞うように、私に触れるその指先が、時折、私を確認するのではなく、私を透かしてその奥にある“何か“を確かめるように躊躇うのを、私はうっすらと感じていた。
なぜ、私を見ない。
お前が視線の先に据えているのは、一体なんだ?
私が、一人の駒ににこれほどまで翻弄されるとは。
滑稽だ。考えるほど手に入れたいという支配的な情動が突き上げてくる。
望むのは、忠実な影ではない。
私が欲しいのは、お前の絶望も、希望も、その呼吸のひとつひとつまでもが、今ここにいる私だけに向けられるという事実。
セラ。
お前がどれほど心を砕き、感情を殺して影になろうとも、私はそれを許さない。
お前がこちらを映すまで、何度でも引きずり戻してやる。
そしてお前が見ているものを、私がこの手で暴き、私という現実で塗り潰してやる。
「……セラ。お前の行き着く場所は、私の腕の中以外にはない」
身を起こし、冷え切ったシーツを掴み上げる。
拳の中で軋む布の感触は、今も私の支配から逃げ続けている、あの女の心そのもののようだった。
*
数時間後、拠点の廊下で再び彼女を見かけた。
靴の音は一定で、姿勢は揺るぎない。
一点の乱れもなく影として任務に徹するその姿に、昨夜、熱に浮かされ涙を流した女の面影は微塵も残っていなかった。
「……セラ」
名を呼ぶと、彼女は足を止め、淀みのない所作で振り返る。
「次の任務の準備を整えています」
抑揚のない声。感情の混入を最初から拒むような冷たさ。
まるで、昨夜のすべてを不要なノイズとして初期化したかのような、完璧な駒の姿がそこにあった。
「そうか」
短く返すしかなかった。
だが胸の奥では理性が軋んでいた。
私は知っている。彼女は確かに揺らいだのだ。
ただの影でも、冷え切った駒でもない。たった一人の女、“セラ”として、私の熱に縋った瞬間があった。
その剥き出しの真実を、私はこの目で確かに見た。
それを再び、仮面で覆い隠そうというのか。
あれを見た私を前にして、よくもその無機質な顔を差し出せたものだ。
何事もなかったかのように歩き出し、私との間に再び冷淡な境界線を引く……その傲慢さが私を苛立たせる。
手の届く場所に引き寄せたはずのものが、瞬時にして最果てへと戻される感覚。
私が望んでいるのは、そのような精巧なだけの駒ではない。
昨夜見せた、あの色だ。
私が欲しいのは、そのような精巧な駒ではない。
昨夜見せた、あの色だ。
そして彼女が隠そうとするその秘密を、暴かずにいられるはずがない。
「次はトライセルと接触する」
そう告げると、彼女は淡々と頷いた。
「了解しました」
ただの返答。
仮面は固く、こちらを寄せつけない。
私は歩き出す。
だが背後が離れる気配だけで、苛立ちが増していく。
――確かに手に入れたはずった。
だが、私が手に入れたのは彼女の体に過ぎなかったのか。
なぜこうも容易く、肝心な魂が指の間をすり抜けていく。
納得できない。
仮面を砕き、本当の姿を引きずり出し、二度と逃さない。
*
重厚な会議室の空気は、静謐でありながら濁っていた。
エクセラ・ギオネ。
トライセルの令嬢という看板を背負いながら、その実は一族の権力闘争の末端で喘いでいる女。彼女の瞳には、隠しきれない焦りと、今の地位を覆そうとする剥き出しの飢えがあった。
「資金も設備も、トライセルは潤沢よ。あなたの研究を推し進めるのに不足はないでしょう?」
女の甘い声には、私を誘惑する響き以上に、自らの価値を誇示しようとする必死さが混じっていた。
「……条件次第だ」
私は冷ややかに、かつ彼女が最も欲しがる場所を突くように言葉を置く。
「私が求めるのは資金と設備。それを完全に掌握できる権限だ。それさえあれば、お前が今抱えている“不満”を、すべて解決するだけの成果を約束してやれる」
エクセラの眉が微かに動いた。
「不満……?」
「一族の飾り人形で終わるつもりか? お前が求めているのは、トライセルという組織そのものを跪かせるための、圧倒的な力だろう」
机の下、指先を組む。
視線を逸らさずに、私は内心で苛立ちを噛み殺していた。
眼前の女を操るための言葉は淀みなく出てくる。
だが、脳裏にちらつくのは、セラの横顔。
窓辺で雨を見つめ、壊れそうに揺らいでいたあの影。
仮面を被り直した今の彼女ではなく、あの夜、涙を流し、名を呼んだ彼女の姿。
「……面白いわ。具体的に、どう私を助けてくれるの?」
エクセラが身を乗り出す。獲物がかかった。
彼女の瞳にあるのは、正当に評価されない者特有の、飢えた色だ。私はその乾きを、毒にも似た甘い言葉で満たしてやる。
「サンプルと知見を一部譲渡しよう。もちろん、お前の功績としてだ。私の知性の一部をその手にするだけで、瞬く間にトライセルでの地位は揺るぎないものになるだろう」
私はあえて声を低くし、密やかな契約を交わすように続けた。
「お前の才を正しく評価しようともしない無能な親族どもに、分からせてやるがいい。真にトライセルを率いるべきは誰なのかを。私という力を背景に持ったお前が、いずれあの組織の頂点に立つ姿が……私には見える」
「私に……トライセルを導けと言うの?」
彼女の瞳に、陶酔と野心の光が宿る。
自分こそが特別な存在であると、この男だけが理解してくれた。その甘い誤認が、彼女の判断力を奪っていく。
「ふふ……いいわ、アルバート。あなたの望むものすべて、私が用意してあげる。その代わり、あなたも私を退屈させないでちょうだい?」
エクセラは私に近づき、私の腕に滑らかな指先を這わせる。
その感触を忌々しく感じながら、私は笑みを返した。
「ああ、約束しよう。……世界が変わる瞬間を、特等席で見せてやる」
エクセラの笑みが深まり、交渉は成立した。
これで資金は確保できる。設備も揃う。
理論上、ウロボロスの進化はもはや必然であり、神の座へと続く階段の礎は、今この瞬間に固まった。
世界を掌の上で転がすための準備はすべて整ったのだ。
だが、ふと腕に這わされたエクセラの指先――その媚びるような接触に、私は悍ましさすら覚えていた。
彼女がどれほど熱を込めて触れてこようと、その場所は氷のように冷めている。これほど甘い声を浴びせられ、望むものをすべて手に入れたというのに、私の喉の渇きは癒えるどころか激しさを増すばかりだ。
私の魂を今もなお苛んでいるのは、この女の温もりではない。
昨夜、私に触れたセラの指先の熱。
そして、私の名を縋るように呼んだあの震える声だ。
エクセラの饒舌な野心など、あの瞬間のセラの沈黙にすら及ばない。
机を叩き壊したいほどの衝動を自制し、私は傲慢な笑みをエクセラに返した。
「成果はすぐに出る。お前の選択が正しかったことを、いずれ分からせてやろう」
統率された理性の裏側で、執着という名の炎が静かに、だが確実に、すべてを焼き尽くそうとしていた。
エクセラという道具も、そして何より、私を拒むように静寂を纏うあの女の心も。
この世界を掌握するのと同様に、お前も完全に手に入れる。
お前のすべてを塗り潰すのは、夢に見る幻ではなく、今ここにいる、この私だ。
*
数週間後、拠点を移した。
これまでの隠れ施設とは次元が違う。研究のために設計された巨大な施設だ。
白い光が床に反射し、廊下はどこまでも無機質な直線を刻んでいる。壁の向こうでは空調が一定の鼓動を刻み、機械の循環音が、呼吸のように途切れることなく響く。
最新鋭の機材、潤沢な人員。トライセルという巨大な器の内側へ、私の計画が滑らかに飲み込まれていくのを実感した。
だが、ここを支配するのは設備ではない。
私の指示と、私の思考の速度によって決定される。
エクセラは、その中心に当然のように割り込んできた。
廊下でも研究室でも、彼女は私の隣に立つ。腕に触れ、計算された笑声を零す。それが自分の指定席だと言わんばかりの振る舞いだ。
好きにさせておけばいい。
野心も虚栄も、扱いやすい道具の部品に過ぎない。
だが、彼女の香水が近づくたび、私の理性の端に薄い苛立ちが走る。
理由は明白だ。
隣を名乗る者が近づくほど、別の影が、視界の端で際立ってしまう。
セラ。
廊下の角ですれ違う彼女の横顔は、以前よりも不気味なほど整っていた。
隙がない。乱れがない。
……何かを決定的に押し殺すための、防壁のような静謐さだ。
視線を向けても、彼女は受け止める事すらしない。
あの夜の記憶を不純物として排除しようとするかのように。
*
白く冷たい研究室。
培養槽の液体が低く唸りを上げ、足裏から微かな振動が伝わってくる。
エクセラのヒールの音が、一定の拍で近づき、私の隣で止まった。
「アルバート……あなたのために、トライセルは莫大な資金を投じているのよ」
横目で私を見上げるその角度は、甘えではなく「権利」の主張だ。
彼女が欲しがるのは、もはや研究そのものではない。私の隣に立つという資格。
「あなたが何を求めているのか……正確に知る権利があるはずよ」
私は計器から視線を外さない。
「……知る必要があると思うのか?」
「ええ。だって」
彼女はデスクに指を置き、資料の角をなぞった。
「人類の未来を変えるのでしょう? 見返りは、相応でなければ」
私はゆっくりと向き直り、サングラス越しに彼女の野心を射抜
く。
「私が目指すのは進化ではない。人類全体を……選別にかけることだ」
彼女は言葉の意味を理解するより先に、そこに漂う“力“の響きに陶酔した。
私は静かに、その核心を落とす。
「そのための究極のウィルス――ウロボロスだ」
名が落ちた瞬間、空気が硬くなった。
エクセラの口元に、野心という名の毒々しい光が灯る。
「ウロボロス……自らを喰らい、再生する蛇。終焉と再生の象徴……。あなたにふさわしいわ」
「神話ではない。現実となる」
私は短く言い切った。
「計画が成功すれば、世界はあなたの掌の中。そして、その隣に立つのは、この私」
「……そうだな」
この女には、真実を全て明かす必要はない。そうすることで欲望は飢える。それで鎖に繋げる。
「主導権は私にある。勘違いするな」
「アルバート……あなたって本当に冷たいのね」
エクセラは満足げに、踵を返して去っていった。
残ったのは循環音と、白い光だけ。
――ウロボロス。
その名を口にした際、胸の奥を不快な冷えが通り過ぎた。
成功の形を再確認する私の思考を、背後の気配が乱す。
私は息を落とし、振り返った。
「……セラ」
名を呼ぶと、彼女は音もなく意識をこちらへ戻した。
その挙動は取り繕っているようだが、私の目には、深い水底から無理やり浮上してきたかのような、微かなタイムラグが見て取れた。
「何を考えている」
彼女は一瞬だけ、言葉を探した。
その空白さえ、私にとっては饒舌な答えだ。彼女の思考は今、この部屋にはない。
「あなたが進む先がどうなるのかを……少し想像していただけです」
私はその“ずれ“を見逃さない。
「……そうか」
未来を想像していると言うわりに、その瞳に宿っているのは、すでに結末を知っているような、酷く冷めた光だった。
短く返し、間を置いた。
沈黙を使い、彼女の逃げ道を一つずつ潰していく。
そして、試すように言葉を継いだ。
「お前はどう思う? さきほどの話だ。選別と淘汰――お前の見解を聞こう」
視線が絡む。
逃げ道は与えない。
理解できないものは、輪郭を捉えるまで触れ続ける。
セラは静かに答えた。
「……私は、逆だと思います」
「逆?」
「本当に強いものが残るのか、私には分かりません。ただ……死や選別を越えてなお立っている者が“残った者”だとするなら、生き延びた者は結果として強者になる。……あなたのように」
その言い方が、妙に胸に引っかかった。
賞賛でもなければ、追従でもない。
まるで既知の事実を、再確認しているかのような口ぶり。
私は目を細めた。
「……ほう」
セラは続けた。
「まだ選ばれてもいない者が、強者を語ることはできません」
エクセラとは違う。
あの女は自分が選ばれる側だと信じて疑わず、その未来を貪欲に求めている。
だが、セラは自分をこの枠組みの、さらに外側に置いているかのようだ。
この狂気じみた計画の渦中にいながら、あたかも物語の登場人物ではないかのように、冷ややかに世界を眺めているのだ。
私はその違和感を、言葉に変える。
「不思議な女だ。恐怖も欲も薄い。求めるものをこちらが言う前に拾い、疑問を口にしない。見返りも要求しない」
セラが何か言いかける。
だが、私はそれを許さず、言葉を被せる。
「まるで、己の意志をどこかに置いてきたようだ。そして時に――先に起こることを知っているように振る舞う」
沈黙。
彼女の瞳がほんのわずか揺れた。
否定でも肯定でもない揺れ。
……揺れの理由が、私にはまだ読めない。
「理解不能で……不気味だ」
そう言うと、サングラスに指をかけ、ゆっくり外す。
黒いレンズ越しに隠していたものが、空気に晒される感覚がある。彼女を逃げられないように視線で縫い止める。
「だが――理解不能なものほど、興味を惹く」
私は一歩近づき、さらに一歩。
白い照明の中で、影が重なる。
彼女の瞳の中に、私の赤い光が映り込む。
逃げも隠れもさせない。
この至近距離で、彼女が私を通して何を見ているのか。それを引き摺り出すためだけに、私は自らの素顔を彼女の前に晒していた。
指先が彼女の頬に触れる。
手袋越しの冷たさが、触れた場所から逆に熱を呼ぶ。
確かめるための触れ方だ。壊すためではない。
親指が唇の上で止まり、薄くなぞる。
彼女の呼吸が乱れる。
だが、それでも彼女は私を見ているようで――どこか一点、焦点がずれる。
私は低く言う。
「……逃げるな」
顎を持ち上げ、視線を逸らすことを許さない。
「お前は私を求めるように見る。だが近づくと拒む」
赤い瞳の奥で、何かが燃える。
苛立ちだ。だが、それだけでは片づかない。
「私を見ているようで、見ていない」
私は言葉を落とした。
「まるで、私を通して何かを見ているようだ」
セラの肩がわずかに揺れた。
その反応が答えだ。
当たっている。
……だが、何が見えている?
私は距離を詰め、息が触れ合うところまで近づく。
「お前は……何を見ている」
ほんの一拍、指の力を緩めた。
その瞬間、彼女は反射で顔を逸らす。
拒絶の動き。だが、逃げ切るための動きではない。
私はそれを見て、短く息を吐く。
「……まあいい」
逸らした髪を指で掬い、耳の後ろへかける。
逃げ道を塞ぐための、穏やかな接触だ。
「お前が何者なのか……いずれ分かる。手放すつもりはない」