1章



六月が迫るころ。
この舞台が動き出す“予兆”が、はっきりと形を取った。

夜勤のオフィスは、昼の熱を置き忘れている。
青みを帯びた蛍光灯が書類を平らに照らし、電話はときどき鳴っては途切れる。プリンターの唸りは長く続かない。時計は零時を回っていた。

端末にログを打ち込み、並べたファイルの端を揃える。
紙の刃が指の腹をかすめ、ささくれに引っかかる。そんな鈍い感触にも少しずつ慣れはじめていた。

無線が短く鳴った。
『通報。アークレイ山地ハイキングコースより女性一名帰宅せず。最終目撃は日没前。友人からの通報。』

すぐに詰所の内線が震える。夜勤のクリスが出て、短いやり取り。こちらを見て顎で合図した。

「セラ。現場、行くぞ。夜間は二人で十分だ」

この時間のフロアに人影は少ない。

「初現場がこれとは、ついてねぇな、ルーキー」

クリスは笑う。私は頷いて椅子を離れた。脈拍が一段だけ上がる。

通報の時点でキャプテンは署にいなかった。
それでも無線はすぐ彼に届いたらしい。

『レッドフィールド、モーガン。行方不明者の件に対応しろ』

乾いた声。命令というより確認の調子。
クリスが「了解」と返し、私も続ける。装備を手早く確かめる。

ガレージでエンジンが低く目を覚ました。



夜の街を抜けると、パトカーは黒い山肌へ溶け込んでいく。
街灯は途切れ、星の粒が濃くなる。エンジンの唸りとラジオの低音が車内に溜まり、沈黙を薄く押し広げた。

「ライトのバッテリー、見たか?」

「はい」

「ならいい。初現場が遭難捜索ってのは、運がいいのか悪いのか……普通は倉庫荒らしの確認とか、不審火の聞き取りから入るんだが」

気安い声。大きな手がハンドルで軽くリズムを刻む。

「怖いか?」

「……いえ」

「強がるな。怖い方がいい。怖いと目が広くなる」

「覚えておきます」

会話は短く切り上がる。クリスはそれ以上追わず、前だけを見た。

「現場で大事なのは、人がどう動いたかを掴むことだ。足跡、折れた枝、泥の跳ね……血痕ならなおさら」

「……何も残っていない場所も、ですよね」

「そう。不自然な空白は一番怪しい。気をつけろ」

クリスはホルスターから小型ライトを抜き、掌で回して見せる。

「それと、腹、鳴っても我慢な。熊が来るかもしれん」

「……本気ですか」

「さあな」

わざとらしく肩をすくめる。その軽さが薄い緊張の膜を少しだけ緩めた。私は窓の外の闇に視線を戻す。



ハイキングコースの入口は、夜の湿気に沈んでいた。
木製の案内板、鎖で閉ざされた駐車スペース。パトカーが一台、回転灯で幹を赤と青に染め、すぐ暗闇へ返す。

通報者の友人だという若い女性が毛布に包まれて座っている。
目は真っ赤で、紙コップを握る手が震えていた。制服警官が寄り添い、最終目撃とコースの特徴を確認している。

私とクリスは装備を詰め直す。
ここから先は通信が途切れる可能性がある。各自ライトと予備バッテリー、蛍光テープ、簡易救急。最低限だが動けるだけの量。

「二手に分かれる。セラは東の尾根、俺は谷側。三十分ごとに無線。危険を感じたら即戻れ」

「了解」

ライトを点けると白い円錐が濡れた土と露に光る草を浮かび上がらせた。
夜の森は昼と輪郭が違う。音が少なく、遠い水音と葉の擦れる音だけが続いている。

踏み跡を辿って進む。湿気が濃く、土の匂いが喉にまとわりつく。落ち葉と小枝が靴底の下で軋む。風が枝葉を鳴らす以外は、静かすぎた。

十分ほどで、足跡は散り始め、巡回隊の踏み跡が混じる。タイヤ痕は入口で終わっている。ここから先は人の足だけ。

さらに奥へ。
小さな沢を越えた先で、違和感が目に入った。低木の葉が大きく擦れ、枝に細い繊維が絡んでいる。化繊だ。バックパックか上着の切れ端。指でつまんでポケットにしまう。

数歩先の地面の色が違う。
湿った黒に薄い赤。ライトを中心から外して照らすと、反射が細い線になった――血だ。

しゃがむ。鉄の匂いが鼻に上がる。新しい。
土に吸われ、葉裏に小さな飛沫。軌跡は低い茂みを抜け、斜面へ続いている。引きずりではない。点在。ところどころ大きな滴。

ライトを走らせる。足跡。
犬のような爪痕。四本の指。爪の押し跡は深い。大きさは大型犬。
だが歩幅が不規則で、前後の重なりが一定でない。地面のえぐれ方が均一ではない。

喉の奥が冷える。覚えのある形。ここでは言葉にしない。

無線が鳴った。クリスだ。
『どうだ?』

「こちらモーガン。血痕を発見。東尾根に向けて点状に続いています。足跡は犬型。ただし大小混在の可能性。歩幅は不安定」

『了解。こっちは谷側、痕跡薄い。そっち優先。無理はするな』

「はい」

痕跡を追う。斜面の手前で一度、血は途切れた。
すぐ下の枯れ葉が大きく抉れている。何かが転げ落ちたのだろう。段差は二メートルほど。

ライトを下へ。暗い塊が不自然に折れ曲がって横たわっている。

呼吸が短くなる。足場を確かめ、慎重に降りる。土が崩れ、靴底に湿った泥が絡みつく。
近づくほど匂いが濃くなった。鉄と獣と、生の甘さ。ライトの円が“それ”で止まる。

若い女性だった。

登山用ジャケットは裂け、腹部は大きく開いている。臓器の一部が露出していた。
刃物ではない。引き裂かれ、噛み割られ、もぎ取られている。繊維は歯で千切られたようにほつれ、引きずった跡はない。首元、肩、腹部に噛み痕。弧を描く刃の並びは犬歯を思わせるが、歯列の幅が広すぎる。一頭ではないか、あるいは……。

周辺の土には足跡が重なっていた。方向はばらばらで、爪の食い込みが深い。
体重の乗り方が異常だ。犬ならもう少し“軽い”。これは違う。

私は息を整え、噛み痕の縁にライトを寄せる。細い繊維が押し込まれている。不規則で荒い裂け方。顎で裂いた形だ。
胸の奥がざわついた。


私はこの正体を知っている。


檻の向こうで鉄を噛む音。
夜の研究棟に響いた低い唸り。金属に爪が当たる乾いた音。
断片が、目の前の傷に重なる。

ただの獣では、こうはならない。
獲るためだけの破壊。狩りというより、壊す意志。

深呼吸。言葉にしない。
ここで口にすれば、私が“何を知っているか”を晒すことになる。
言いすぎても、隠しすぎても危うい。線だけ選ぶ。

ライトを周囲へ滑らせる。折れた枝、泥の跳ね、細い毛の付着。断片が場を語る。
位置を頭に刻み、胸元のマイクに触れた。

『レッドフィールドだ。そっちは?』

「……発見。女性一名。死亡を確認」

言葉にした瞬間、空気が一段冷えた気がした。

『位置を送れ。すぐ行く』

数分で、斜面上からクリスの光が降りてくる。着地前にひと呼吸、私のそばへ。目が一瞬だけ泳ぎ、すぐ現場の目に戻る。

「……ひでぇ」

声は荒れない。膝をつき、私の指したポイントを順に確認する。噛み痕の幅で指が止まり、短い沈黙。

「野犬……だけじゃ、ないな」

「少なくとも一頭ではないと思います」

「ああ」

規制線の設置を確認し、現場を離れる。
無線の夜間指揮は短く応答した。

『キャプテンへは連絡済み。戻り次第、直接報告せよ』

クリスが小さく舌打ちを飲み込む。

「野犬は逃げるのに、俺らは鉄仮面に捕まる。割に合わねぇな」

軽口に聞こえるが、奥に薄い緊張。
私は何も返さず、後部座席に身を沈めた。冷えた革が背中に広がり、これから向かう先の重さが静かに沈んでいく。



日付が変わるころ署に戻る。照明の半分は落ちているが、キャプテンの部屋だけ光が漏れていた。

ノック。

「入れ」

ブラインドは半分降り、机上の書類は端まで揃っている。モニターに地図と表。数値が整列する。
ウェスカーはサングラス越しに顎をわずかに上げた。

「報告を」

クリスが一歩出て、位置・時間・証言・痕跡・検視待ちまで手短に述べる。

「……以上。所見は野犬。複数。相当な大型の可能性」

ウェスカーは頷かない。紙の角を指先で揃え、私の名を呼ぶ。

「モーガン」

呼吸が止まりかける。

「君はどう見る」

サングラスの奥から視線が射抜く。温度はないのに熱だけがある。
脳裏に、裂け方と記憶の影が重なる。言いすぎず、隠しすぎず。線を選ぶ。

「……野犬です。ただ、顎圧が強すぎます。噛み痕の幅は大型犬以上。群れの無駄噛みが少なく、獲物を仕留めるために効率よく損壊させているように見えました」

自分で発した「損壊」に胃がわずかに捻じれる。
ウェスカーの指が一瞬だけ止まった。

「効率的に、か。面白い視点だ」

「それと、足跡の力の乗り方が不自然でした。前後の入れ替わりの癖が、通常の走行パターンと合わない。土のえぐれ方も深すぎます」

「なるほど」

低く抑えた声。サングラスの奥の視線は動かない。
彼が正体を知っているかどうか、私には分からない。
だから、わずかに踏み込んで反応を見る。
同時に、彼もルーキーの観察の深さを測っているように感じた。

「目撃は」

「ありません。通報者は最後の分岐まで同行。その後は別行動で——」

「よろしい。情報収集を続けろ。噂は不要だ。事実のみ共有しろ」

「了解」

「第一報は“野犬による事故”とする。現場保存に問題はないな」

「はい」

「よろしい」

退室の直前、私はほんのわずかに振り返る。
サングラスの奥の視線がこちらにあった。見ている、というより測っている。

息を吐き、扉を閉める。

廊下でクリスが肩で笑う。

「お前、肝が据わってるな」

「……据わってません」

「そうか? 初現場で死体見ても順序を崩さないやつ、そう多くないぞ」

「順序は崩したくありませんでした」

「それができるだけで十分だ」

肩を軽く叩く。山でついた泥が袖口で乾いて、粉の匂いがする。

「今日はここまで。疲れは残すな」

「はい」

「……それと」

クリスの目が少しだけ真面目になる。

「野犬なら、もっと派手に荒れる。群れならなおさら。今夜の現場は……妙だった」

私は黙った。

「まあ、考えすぎかもな。寝ろ、ルーキー」

彼は片手を上げて去る。私はしばらく立ち尽くし、呼吸を整えた。
胸の奥で、小さなざわめきが続く。


いよいよ、この“目覚めた舞台”が動き始めたのだと思った。
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