6章
車内には、音だけでは埋まらない沈黙が沈んでいた。
フロントガラスを叩く雨粒が一定の間隔で弾け続ける。ワイパーが視界を拭い、また滲む。
まるで、片づけようとする思考が戻ってくるみたいに。
金は消えた。交渉は壊れた。
本来ならあの場を壊す必要はなかった。
そのことは私が誰より理解している。
それでも。
ブローカーの指が、セラの輪郭に触れようとした瞬間、頭の中で積み上げていたものが、綺麗に消えた。
数字も、手順も、目的も。
残ったのはひとつだけだ。
……触るな。
言葉にすらならない否定が、動きになって噴き出した。
止めるべきではない。分かっていた。
交渉はまとまりかけていたし、金も必要だった。
だが、あの男の手がセラへ伸びた、その瞬間だけは堪えられなかった。
触れさせたくない。
その一念が、考えを追い越した。
セラに触れられることが、何かを壊されるみたいで許せなかった。
今すぐ、その汚い手を払わなければならない。
そう感じた時にはもう、身体が先に動いていた。
腕を伸ばし、相手の手首をねじ上げていたのだ
助手席の気配が、言葉より鋭く刺さる。
何か言わなければならなかった。
この沈黙は、説明を待っているかのようだ。
……いや、違う。
私の綻びを拾おうとしている。
私は、場を縫い合わせるように言った。
「食いつきと相場が分かれば十分だ」
隣でセラがわずかに顔を上げる。
窓の外の雨が、彼女の瞳の奥で揺れている。
答えを探す目だ。
「……指標が取れたから、交渉自体はいらなかったと?」
「そうだ」
短く返す。
言い終えた瞬間、自分でも分かった。
……これは説明ではない。自分の行動に形を与えるための言葉だ。
私は自分の衝動を、理屈の箱に押し込めようとしている。
「金は他から引き出す」
セラは深く追わない。
追えないのか、追わないのか……ただ視線を落とし、雨の音の方へ沈む。
沈黙が重くなる。
再びワイパーと雨の規則だけが車内を支配し、その規則がかえって私の乱れを際立たせた。
「次の取引先は、どうするつもりですか」
その問いは段取りの確認の形をしていたが、私には別の刃に聞こえた。
”金が要るのに、なぜあそこで壊した?”
答えたくなかった。
次の取引の名を口にすれば、こちらが“必要だった”ことがはっきりしてしまう。
だが黙れば黙るほど、問いは車内に居座る。
仕方なく私は、吐き捨てるように言った。
「……トライセルを利用する」
その名を口にした瞬間、車内の温度がわずかに落ちた気がした。
雨音ももワイパーの往復も同じはずなのに、どこか遠のく。
セラの瞳から、光が引く。
さきほどまでたしかに一瞬だけ、何かが点って揺れていた。
救いに似た色。
生きている証のような、ごく薄い熱。
それが今、言葉ひとつで消えた。
……交渉の場で見えた、あの眼差しは何だった。
私が勝手に見た幻か。
それとも、私の動きが彼女の底を一瞬だけ引き上げたのか。
だが今の彼女は、何事もなかったように、底なしの暗さへ戻っている。
視線は前を向いているのに、そこに“セラ”はいない。
隣にいるのは、まるで役割だけで立っている影だ。
……わからない。
なぜ、その名で消える?
なぜ、私はそれを見逃せない?
たった“目の色”ひとつで胸の奥がざわつくのだ。
駒である存在に、ここまで引っ張られる必要はないはずだ。
問いが増えるほど、苛立ちが濃くなる。
答えが出ない苛立ちではない。
“知りたい”という欲そのものが、私の中の規律を削っていくことへの苛立ちだ。
*
そして拠点へ戻ったあと、私は見てしまった。
セラが焦燥に駆られるような足取りで、訓練場へ向かうところを。
動きがいつもに増して速い。
だが、任務のために急いでいるようではない。
おそらく彼女は今、考えないために動いている。
思考を潰すように、次の動作へ次の動作へと自分を追い立てている。
髪は濡れたまま首筋に張りつき、手首にはまだ薄く水滴が残っていた。
そして何より、手袋がない。
準備を正確に整える彼女が、素手のまま訓練場へ向かうなど——。
目が合うより先に、彼女は私の横をすり抜けた。
……彼女がこんなに取り乱す姿など、見たことがない。
そう思ったところで声が出ていた。
「今日は動くな。次の作戦まで休め」
盤面を整えるためだ。
駒の狂いを矯正し、消耗を抑え、元の位置へ戻した上で次に正しく使う。
……そう言い聞かせた。
だが本当は、別のものが混じっていた。
あの目を、これ以上見たくない。
あの暗さが深くなる前に、止めたい。
それを認めるのが不快で、私は命令の言葉に押し込めたのだ。
セラは小さく頷き、自室へ戻っていく。
従う仕草はいつも通りなのに、背中だけが妙に遠い。
雨の匂いのように、掴もうとすればするほど指の間をすり抜けていった。
*
数日後。
拠点には再び雨が降り注いでいた。
密林に紛れる低い居住棟。
天蓋が受け止めきれない雨が、窓を絶え間なく叩く。
その水音は廊下まで沁み込み、空気に冷えを宿らせた。湿気は肌にまとわりつくのに、冷たさだけが骨の内側へ入り込んでくるような雨だ。
あれから、セラを見かけない。
姿がないだけなのに、その事実がかえって頭の中に居座った。
廊下の角、訓練場の空気、研究の進捗報告の間……どこを見ても”いない”という事が目に付く。
何が彼女を蝕んでいる。
何を、私は見落とした。
答えを確かめる必要がある。
そうでなければ次に使えない。
盤面の異物は、放置すべきではない。
そう理屈を立てた。
そして気づけば私は、彼女の部屋の前に立っていた。
扉の向こう側から、気配が漏れている。
ノックを一度だけ。短く、乾いた音。
返事を待つべきだと頭は言う。
だが、沈黙が長引くほど胸の奥がざわついた。
「……セラ」
返答がない。あるいは、聞こえないふりをされたのかもしれない。
そのどちらでも、今は同じだった。
「状況確認だ」
私はそう言うと、腕の端末でマスターキーを呼び起こし、電子錠を解除した。
そして扉を開けた。
室内は薄暗い。
セラは雨を映す偽窓のそばに立ち、流れ落ちる雨の筋を黙って見つめていた。
その横顔は、これまで幾度も任務で見てきた鋼の影ではなかった。
崩れそうな脆さを抱え、意識だけがどこか遠い場所に置き去りにされている。
まるで帰る場所を失った者の顔だ。
今の彼女は踏みとどまっているのではない。
落ちるのを止められず、ただ速度だけを殺している。
このまま沈めば、暗さに飲まれて戻らない。
……そんな予感が、胸の奥に冷たく張りついた。
そう思った瞬間、胸の奥が締め上がった。
苛立ちでも興味でもない。
もっと原始的なもの。
失われることへの拒絶に近い。
これは何だ。
私は知りたい。
なぜ彼女は、必要とされるためだけに立ち続けられる。
その源に触れたい。
駒でも影でもない……セラそのものに。
雨音が轟きを増し、窓を伝う水筋が彼女の頬を濡らすように反射する。
涙に見えた。
その瞬間に考える事を据え置いて済ませてきた感情が、喉元までせり上がる。
私は歩を進めていた。
窓辺の彼女へ。
「……そんな顔をするな」
口にした瞬間、自覚する。
これは……
抑えきれぬ熱が滲んだ、ただの衝動だ。
セラの肩がわずかに震える。
振り返るのを拒むように、視線は窓に縫いつけられたままだ。
横顔は光の反射をまとい、頬のあたりに淡く揺れている。
「……セラ」
名を呼ぶ声が掠れる。
冷たさを装えない。抑え込んできたはずのものが、隠せない速度でせり上がる。
彼女がゆっくり振り返る。
視線がぶつかった、その瞬間——
瞳の縁に溜まっていた水が一筋こぼれ、頬を伝って落ちる。
……役割の膜が剥がれたように見えた。
そこにいるのは“駒”でも“影”でもない。
ただ、名で呼ばれたときにだけ揺れる、セラの目だった。
頭が追いつかない。
その涙は錯覚ではなかった。
追いつく前に、身体が先に動く。
頬を伝う滴に指を伸ばし、拭う。
触れた感触はひどく冷たいのに、指先だけが妙に熱を帯びた。
その温度のほうが、こちらのほうの綻びを暴いていく。
「……なぜ、涙を流す」
問いは低く落ちた。
答えを求める形を取りながら、実際には……こぼれたものを、これ以上増やしたくなかった。
セラは唇を震わせ、かすかに言った。
「私は……あなたの影でしかないのに」
その一言が胸の奥をきしませた。
影……彼女をそう扱い、そう振る舞わせてきたのは私だ。
便利で、都合がいい。情を差し挟まずに済む。命じれば動き、何も求めず、結果だけを置いていく。優秀で有用な駒。
そうして“影”に収まっている限り、私は乱されずに済むはずだった。
なのに今、その言葉は私のための整理ではなく、彼女自身の刃になっている。
「影でいい」と言いながら、そのまま消えても構わない、と告げているように聞こえた。
違う。
お前は、そんなふうに自分を片づけていい存在じゃない。
雨音の向こうで、彼女の呼吸が浅く揺れる。
頬に残った一筋の冷たさが、まだそこにある。
それを見た瞬間、胸のどこかが勝手に拒んだ。理屈ではなく、先に。
目をそらせない。
あの視線が気になるのは、命令が届くか確かめたいからじゃない。
涙に動揺するのも、計画が狂うからではない。
ただ、このまま彼女が沈んでいくのを見たくないと思ってしまった。
言葉で思考を整える暇はなかった。
私は手を伸ばし、頬に触れる。涙の跡をなぞるように。
そして、そのまま唇を重ねた。
冷たい空気の中で、その温度だけが鮮烈に刻まれる。
堪えきれなかった衝動。
セラは抗わない。
目を閉じ、受け入れる。
拒めばいい。逃げればいい。
そうすれば私は、ここで引き返せたはずだ。
だが彼女は、まるで最初から、判断をこちらに預けるように、静かに身を任せてくる。
その従順さが、優しさでも媚びでもないのが分かるぶん、なおさら抑えられない。
受け入れられるほど、引き返せなくなる。
いま自分が何を越えようとしているのかを、否応なく理解させられる。
私は彼女の輪郭を確かめたい。
駒では足りない。
影では満たせない。
胸の奥爆ぜる熱が窓辺の冷気を焼き払い、世界の輪郭を塗り潰していく。
足元から力の抜けた彼女を抱き寄せ、導く。
窓辺を離れ、雨音を背にして。
これから先、彼女のすべてを……
脆さも、涙も、その影という自己否定も。
そして、セラという正体を、暴き、知るために。