6章
資金の確保は急務だった。
実地試験は成功し、売る材料は揃った。あとは“金”に換えるだけ。裏のブローカーとの交渉。即金を得るための最短の手段。
冷徹な理屈と計画は揺らぎようはない。
廃材置き場に車を止める。
川面には油膜が鈍く揺れ、鉄錆の匂いが湿気に絡んでいた。
セラはケースを担ぎ、いつも通りの足取りで横に立つ。姿勢も、呼吸も、視線の置き方も、何ひとつ乱れていない。
違和感などない……はずだ。
だが、あの車内で窓の外に虚ろな眼を向けていた姿が、ふいに重なる。
村の崩壊を見つめながら、数字の外側に沈んでいた影。
観察ガラスに触れかけて引いた指。
揺らぎは毎回、痕跡を残さず消える。
だが、消えるからこそ“そこにあった”と分かる。
セラ。
お前は何を考えている……?
自分の内に生まれた問いを、私はすぐに切り捨てる。
今、必要なのは交渉の成立だ。考察をすることではない。
そう言い聞かせるほど、問いが皮膚の下で疼いた。
ブローカーは汚れた机に肘を乗せ、安酒を揺らしながら笑っていた。
取り巻きの男たちは銃を抱え、値踏みするような視線をこちらに投げる。
空気そのものが濁っている。金属と汗と酒。欲望の匂いが、それらを上塗りする。
私は無言で立ち、セラがケースを開くのを横目に見た。冷気が漏れ、サンプルと暗号化モジュールが姿を現す。
淡々とした動作。迷いがない。
……そう、これが彼女だ。
「散布後、百人規模の村が半日で壊滅しました」
必要最低限の説明。
私は端末を操作してデータを提示する。グラフに描かれた均一な下降線。兵器としては十分な証明。
ブローカーは身を乗り出し、にやりと笑った。
「いいな……確かに欲しがる奴は山ほどいる」
数字の応酬が始まる。相場を揺さぶる額。
私は即座に切り捨て、条件を積み上げる。
冷徹に、合理に。計画のために。
背後には、駒の役割を完璧に果たすセラがいる。
それでいい。駒は盤面に従えばいい。
やがて金額は収束する。
取引成立……そうなるはずだった。
「ただし——」
ブローカーが指でグラスをなぞり、湿った空気をさらに濃くする。
「信用は、形で示してもらおうか」
空気が変わる。
取り巻きの視線が一斉にセラへ集まる。舐めるような眼差し。笑い声。
その笑いの温度が、場を粘つかせた。
「……その女を置いていけ」
言葉が落ちた瞬間、欲望の匂いがむき出しになった。
酒と油の臭気に混じり、下品な熱が膨らむ。
セラの手が、テーブルの上で僅かに動く。
細い指が強く握り込まれ、白い骨の稜線が浮かぶ。
感情を隠すための抑制行動。
……いつもなら、こんな痕跡は残さない。
私は見逃さない。
消えるはずの揺らぎが、いまは“形”を持っている。
「今夜はうちで面倒を見させろ。誠意を見せりゃ、金はすぐ動く」
笑いが高まる。視線が増える。
人間の欲望が、値札みたいにぶら下がる。
そこで、セラは静かに答えた。
「……いいでしょう。担保は私で構いません」
セラの声は淡々として、淀みがない。交渉文言を読み上げるように滑らかで、怯えも怒りも含まれていなかった。
ただ、取引を前へ進める事実だけを運んでくる。
それが、妙に引っかかった。
……なぜだ。
理解できない問いが胸に刺さる。
なぜそこまで自らを捨てられる?
誇りも、尊厳も、拒絶の言葉さえも。
すべてを泥に沈めても、まだ立っていられるのか。
そして、なぜそこまでして私に仕える?
だが、こちらが求めたのは“駒の適切な回答”だ。
そして彼女はそれを返した。
ならば何も問題はない。
そう理屈では片がつく。
それでも胸の奥に、砂を噛むような不快が残った。言葉の内容ではない。
自分を差し出すことに迷いが一切混じらない、その調子が私の神経を逆撫でした。
ブローカーの笑いが広がり、取り巻きの視線がセラの輪郭を舐めるようになぞる。
酒と油の臭いに、別種の臭気が混ざっていく。
不快だ。
そして次に来た感覚は、不快よりも冷たかった。
私の目の前で、私の駒が“金の条件”として扱われる。
彼女は拒まない。
拒まないどころか、淡々と“自分を置く”ことを選ぶ。
彼女は「自分がどうなるか」を問題にしていない。
問題にしているのは、取引が成立するかどうか。私の計画が前に進むかどうか。
ただ、それだけに見えた。
そしてその見え方が、私には危うく映った。
彼女は強い。
だがこの強さは、正常な強さではない。
折れないのではなく、最初から折れる部分が削られているような硬さだ。
……馬鹿げている。
私は交渉に戻ろうとした。数字に集中すればいい。条件を詰め、金を引き出し、次へ進む。
そうやって私は勝ってきた。
だが、取り巻きが椅子を鳴らして立ち上がり、ブローカーが顎で奥の扉を示した瞬間……思考が一段、乱れた。
「奥へ通せ」
セラが一歩、踏み出す。
その背中が淡々としているほど、腹の底がざわついた。
彼女は逃げない。拒まない。助けも求めない。
まるで“そうなること”が初めから決まっていたかのように、ただ進む。
その瞬間、ふいに脳裏へ過去の声が差し込んだ。
『……あなたに必要とされるなら、それでいい。私がここにいる理由は、それだけです』
屋敷から逃げた夜。
あのときも彼女の目は、“生きたい”でも“守りたい”でもなく、ただ必要とされるためにここにある……そう言い切るほどの熱を帯びていたようにも見えた。
そんな浅い関係に、熱など宿るはずがないのに。
……それなのに。
あれから今まで、彼女は一度もその色を変えない。
利得もない。見返りもない。忠誠ですらない。
ただ「必要とされる」ためだけに、泥を被る。
それは私の理解の枠から外れている。
わからないから苛立つ。
そして最近の彼女は、さらにわからない顔をする。
セラの奥に何がある?
あの虚無の向こうで、いったい何を抱えている?
遠ざかっていく背中。
その姿に、胸が裂けるほどの苛立ちが溢れた。
強靭であるはずの影が、どこか儚く、壊れそうに見える。
その“壊れそう”という輪郭が、私の中の何かを荒く掻き立てる。
理解できないからこそ知りたい。暴きたい。触れて確かめたい。
そして……私以外が触れることは、許せない。
行くな。
なぜ、そんな言葉を口にできた。なぜ、そんな顔で歩ける。
私は耐えられなかった。
理性も計画も、何もかもが一拍遅れる。
……やめろ。
声にする前に、身体が動いた。
ブローカーの手首を捻り上げ、低く叩きつける。骨の軋む音が、こちらの静けさを裏切るほど鮮明に響く。
「……誰が触れていいと、許可した?」
瞬間、空気が凍る。
取り巻きが銃を構える。だが遅い。
銃声が閃き、血が弾ける。怒号。悲鳴。泥に混じる血潮。
取引は壊れた。資金も計画も崩れた。
残ったのはただ、彼女に伸びる手を否定する衝動だけ。
煙の残る空気の中、私はセラを見る。
虚無に沈み続けていたはずの瞳が、今は違う色を宿している。
怯えでも、歓喜でもない。
だが、救いに触れた者の眼に、似ていた。
理由は分からない。
なぜこの瞬間に、そんな色を見せたのか。
だが直感が告げる。
この答えは、彼女という存在の正体へ繋がっている。
胸の奥を震わせるのは、熱に似た衝動。
わからない。だから知りたい。
知りたいから、掴んだ。
そして、掴んだなら決して離さない。
それは確かに芽吹いた。
——執着という名の感情が。