6章
夜はまだ沈んでいなかった。
湿った風が梢を擦り合わせ、密林全体が低くうなる。川沿いの仮設キャンプに設置された赤色灯は霧に飲まれ、数歩離れれば闇に沈んだ。
テントの奥で、セラが資材を点検していた。金属ケースの中には散布用のカプセル。一定時間で溶解する樹脂の殻に、琥珀色の液体が収められている。符号が走り、培養された新株の識別を示していた。
「準備は?」
問いを投げると、彼女は迷いなく答えた。
「滞りなく」
——そうだ。
彼女は命令を受け、実行し、結果だけを差し出す。
取引も、言い訳も、余分な感情も挟まない。そういう“影”だからこそ価値がある。
私はケースを覗き込み、必要数を視線でなぞる。数える必要はない。中身は把握している。
「夜明け前に井戸を封鎖し、投下する」
セラは無言で頷いた。
その動きは正確で、従順だ。だが、指先だけが僅かに硬い。
胸の奥が、ほんのわずかに動いた。
……揺れか?
そう名付けるほど大きなものではない。ただ、いつもの完全な静けさに微細な砂粒が混じった程度だ。
気にする事はない。
必要なのは遂行であり、内心ではない。
*
深夜二時すぎ。
散布班の傭兵たちが井戸へ向かう。私は最後尾からその背を追った。
村は眠っている。泥壁と藁葺き屋根の家々。焚き火の残りが赤く、犬が一声吠えただけで再び沈黙した。
中央の井戸は村の命脈。
そこへカプセルが落とされれば、全体を均一に汚染できる。
セラはケースから一つのカプセルを取り出した。
掌に収まる透明の殻。その内側で液体が微かに揺れる。
彼女は迷わず投下した。
黒い水面に沈む波紋は、すぐに闇に飲まれた。
誰も声を出さない。ただ、私の視線だけが最後までその動きを追っていた。
「……これでいい」
私は言った。
東の空が白み始めていた。
やがてこの村は咳と悲鳴に満たされるだろう。私はそれを予見していたし、データはそれを証明する。
計算された作戦の、完璧な一手。
だが、私の眼にはセラの横顔が映っていた。
井戸の縁に触れた指先は、わずかに硬直していた。強靭な駒に似つかわしくない細い揺らぎ。
私は彼女を伴い自らの計画を進めるうちに確信していた。彼女は従順であり、忠実であり、有用な影。
だからこそ本音をさらしても揺るがぬ存在だと。
彼女はわずかに硬直し、すぐに離れる。
強靭な影に似つかわしくない“躊躇の痕”が、そこで一瞬だけ形を持っていた。
……それがどうだと言うのだ。
結果を残せれば、それでいい。
問いは胸に残るが、夜明けの湿った空気とともに沈殿していった。
*
夜明けは来ても、森は夜を手放さなかった。
湿気を含んだ天蓋が光を噛み潰し、村は薄い灰色の膜の下で眠ったままに見える。
岩場の高台に機材を据える。望遠鏡、モニター、センサー。
傭兵たちは慣れた手つきで配置を終え、あとは“数字が死へ落ちていく様”を眺めるだけだった。
やがて変化が訪れる。
崩れ方は均一に連鎖し、村の音がざわめきから悲鳴へ変わっていく。
予測通りに沈んでいる。
「発現が早い。投下から数時間で機能は失われる……申し分ない」
倒れる者が増える一方で、即死を免れた数体が理性を剥がし、唸り声で這い回る。
傭兵の銃声が短く鳴り、処理は終わる。
「適合ではない。拒絶と混乱だ。だが、それでいい。攪乱の兵器として十分に機能する」
昼前には村はほぼ“数字”として死んだ。
「致死性は高い。だが価値は絶大だ。半日で小規模の村が壊滅する……欲しがる者は高値を積む」
停滞が解ける手応えに、口の端が僅かに上がる。
人間は脆く、群れは、驚くほど素直に壊れる。
セラは私の半歩後ろに立ち、息を殺している。表情は凪いだまま……だが、視線だけは村の中心から外れない。
村の広場で、一人の少女が立ち上がった。
痙攣に支配された体、裂け目を走る皮膚。だが、その声はまだ人の形を保っていた。
「……たすけて」
一瞬、私の思考が跳ねた。
均質な崩壊に割り込むノイズ。既存の理論にはない現象が起きた。
未知を前にしたときにだけ現れる昂揚が、胸の奥を確かに揺らした。
「価値のあるサンプルだ。捕獲しろ」
セラは迷わず動いた。
麻酔銃を撃ち込み、鎮静剤を刺し、傭兵と共に小さな体を担架へ縛りつける。その手際は淀みなかった。
だが私は見た。
注射器を押す瞬間、彼女の手元が迷いに揺れたのを。
少女の焦点の合わぬ瞳。
その底に映ったものが、彼女の中の何かを掠めたように見えた。
少女を収容した車両の中、私はモニターを覗き込みながら口端を吊り上げた。
「崩壊の波に呑まれかけているのに、完全には沈まない。実に面白い」
合理と愉悦が一つに溶け、計画に久しくなかった脈動が戻ってくる。
車内は冷気に満ちていた。
担架の上で少女が浅い呼吸を繰り返し、機械が短い警告音を鳴らす。
セラは無言で立ち、指を強く組み合わせていた。指先が白くなり、力が入っているようにも見える。
私は横目にその姿を捉える。
普段の彼女なら、ただ数値を確認し、必要な処置を淡々と指示する。
だが今は、肩の力も硬い。
視線は少女に落ちているが、その影がどこか揺れているように見えた。
「……よくやった」
短く告げる。
それは評価に過ぎない。
なのに声に出した瞬間、妙な違和感が残った。
……私はいま、何を確かめようとしている?
セラは顔を上げた。
一拍遅れて、小さく頷く。
表情は変わらない。冷静に見える。
それでも、その眼差しの奥でわずかな影が走ったような気がした。
それが何を意味するのか、私には分からない。
ただ確かに、普段とは違う色があった。
私は視線を前へ戻した。
考える必要はない。
……今は計画を進めるだけだ。
*
観察室に収容された少女は、電流と投与に耐えながら痙攣を繰り返した。
数値は不安定に跳ね、沈む寸前で踏みとどまっている。
私は顎に手を当て、モニターを凝視する。
「拒絶でも適合でもない。壊れる寸前の均衡……新しい素材となる可能性がある」
愉悦が声に滲むのを自覚していた。
この不安定さは、停滞を突破する契機になり得る。
理論が紙の上で描けるだけでは意味がない。現実が従う瞬間を、私はこの手で掴まねばならない。
「追加投与だ。負荷を重ねろ」
少女が跳ね、涙を流しながら拘束具を軋ませる。
その瞳はまだ潰れておらず、掴もうとする焦点が揺らいでいた。
私はそこに「生き残ろうとする意志」を見た。だがセラの視線は、まるで突き刺されるように硬直していた。
ガラスの向こうで、少女の指が宙を掻くように震えた。
掴もうとする仕草。だが何も掴めず、空を切るだけ。
セラの手が、無意識にガラスへ上がった。
指先が触れた瞬間、彼女ははっとして引いた。
冷たい面に、何も残さなかったかのように。
私はその一連の動きを見ていた。
普段の彼女ならあり得ない、わずかな揺らぎ。
口に出すつもりのなかった言葉が零れた。
「……休むか」
なぜそんなことを言った?
これは必要のない問いだ。
駒は消耗しようが、役割を果たせるならそれでいい。
それがいつもの判断だ。
なのに、今は違った。
彼女のわずかな揺れが、なぜか視線に刺さって離れなかった。
セラはすぐに応じる。
「必要ありません」
声音は変わらない。冷静で揺らぎがないように聞こえる。
それでも、先ほどの様子が脳裏に残り、答えが薄く歪んで聞こえた。
「……そうか」
それ以上は言わなかった。
信頼ゆえか、駒としての最適な運用としての提案か、自分でも判じかねる。
ただ一つ確かなのは
彼女の瞳の奥に、普段とは異なる色が見えた気がして、視線が離せなかったということだった。
*
「セラ。直接刺激を与えろ」
私は彼女を選んだ。
有用な駒だから、という理由に嘘はない。だが同時に、彼女の反応を見たいという衝動があった。
普段揺らがぬ影が、今は微かに軋んでいる。その正体を知りたい。
彼女は無言で防護服を着込み、観察室に入った。
椅子に拘束された少女の瞳が揺れ、セラを追おうとしている。
彼女はためらわず肩へ手を置き、反応を引き出した。モニターが跳ね、警告音が鳴る。
「いい反応だ」
私は満足げに呟いた。
だが背後のガラス越しに見えたセラの横顔は、まるで痛みに耐えているようだった。
彼女は忠実であり、有用であり、命じられたことを必ず遂行する。
それでも――なぜ、あの表情をする?
*
実験が終わり、少女は眠らされた。
数値は不安定なまま持続している。
「既存の限界に沈まない個体だ。次の段階に進める価値がある」
私は言葉に確信を込めた。
だが横に立つセラの瞳は、光を失っているようにも見える。
……疲労か?
そう片付ければ簡単だ。
連日の作戦、休みなく続く任務。
有能であろうと、彼女の肉体は人間であり限界もある。
冷静な解釈に委ねれば、答えは単純だ。
だが、私の視線に映ったのは単なる疲弊ではない。
もっと別の、形のない何かが滲んでいるように思えてならなかった。
なぜだ?
先ほどから彼女はそんな顔をする?
理解できない問いを、私は喉の奥へ押し戻す。
知らなくても構わないはずだ。
結果を出す限り、問題はない。
……休めば元に戻るはずだ。
そうでなければならない。
「……休むか」
気づくと再び、その言葉が口を衝いた。
自分の理屈に従えば、これは最適な判断にすぎない。
だが、本当は……
その問いかけで彼女を“いつものセラ”へ引き戻そうと確かめたかっただけなのかもしれない。
*
警告音が鳴り、少女の体が痙攣する。拘束が弾け、指先は異様に伸び、咆哮がガラスを叩いた。
「制御不能!」技師の声が震える。
私は冷静に告げる。
「……変異体だ。拒絶か適合か、その境目を踏み越えた結果だ。実に面白い」
「セラ。続きだ。データが必要だ」
私は観察室を指し示す。彼女はためらいながらも駆け出し、銃を構える。
技師が制止を叫ぶが、私は遮った。
「構わん。……やれ」
銃声が響いた。
弾丸は額を貫き、変異しかけた少女の体は痙攣を残したまま崩れ落ちる。
床に広がった血が鉄の匂いを立て、やがて静寂が戻った。
モニターは一本の直線を描き、警告音が消える。
「……期待したが、いたって平凡だな」
私は口端をわずかに吊り上げる。
「だが、資金源としての証明は十分だ。処分しろ」
合理的な結論だった。これ以上に付け足す言葉もない。
だが横に立つセラの姿が視界に入る。
銃口を下ろした彼女の指先が、微かに震えている。
処理の動作は正確で、ためらいもなかった。
それでも、普段あれほど淡々と役割をこなす彼女の横顔が、今は妙に沈んで見えた。
なぜ、撃ったあとにあれほど脆い影を見せる?
疲労であれば休めば戻るはずだった。
だが胸の奥に引っかかりが残る。
その理解不能の問いが、棘のように心に刺さって広がっている。
私はサングラスの奥で視線を逸らす。
これは知らなくても構わないはずだ。
駒が揺らごうと、結果を出す限り問題はない。
「……見事だ、セラ。この作戦は終了だ。村の始末をして引き上げるぞ」
声は平板に落とした。
視界の端には、なお沈んだ影が残っていた。
*
村は炎に呑まれ、跡形もなく消えていった。藁葺きの屋根は一瞬で燃え落ち、泥壁は内側から崩れる。油と火薬の匂いが混じり合い、夜気に赤が広がる様は、冷徹な効率の証そのものだった。
「処分完了」
部下の報告を受け、私は短く頷いた。必要な痕跡はすべて消えた。
*
車内は沈黙に満ちていた。荷台のケースが揺れるたび、金属が小さくぶつかる音だけが響く。私は端末を開き、散布から集落機能停止までのグラフを確認する。線は期待通り、滑らかな下降を描いていた。
「散布後、半日で壊滅。……兵器としては申し分ない」
自分に確認させるように呟き、次の手順へと指を走らせる。
対面に座るセラは、窓の外を無言で見ていた。表情は変わらず、いつもの影のように静かだ。だが、先ほどの揺らぎが脳裏に残っている。
少女に銃を向けた瞬間の指先。観察ガラスに触れた指。沈んだ横顔。
今もその余韻が隠れているのではないか。
私は操作を止め、ほんの一瞬だけ視線を流した。
……やはり、どこかが違う。
硬質な輪郭から僅かに外れ、薄い疲れとも違う陰りが滲んでいる。
「無駄のない動きだった」
言葉が口をついて出る。評価にすぎぬ。
しかし、口にした瞬間、自分でも分かった。
これは労いなどではない。
……沈黙が、重すぎたのだ。
彼女の沈みが、空間を歪めるように感じられた。
……なぜ、この瞬間にそんな言葉を口にする必要があった?
彼女はこれまで通り、確実に役割を果たしている。今回も当然のこと。
今さらあえて、このような言葉をかける必要などない。
それなのになぜ口が勝手に動いた?
「必要なことをしたまでです」
即座に返る声。表情は揺れない。淡々とした返答。
……声色は、いつもの彼女と変わらない。
だが、彼女は依然と窓の外をただ眺めている。
セラは本来、景色を見るなど、そんな無駄な事をしない。
影として常に動き、備え、気配すら研ぎ澄ませている女だ。
だが今は違う。
その虚ろの様な様子がかすかに滲み出ている。
……理解できない。
私は視線を端末へ戻し、意識的に思考を切り捨てた。
答えを求める必要はない。計画を乱すだけだ。
その疑問はただ沈黙の闇に残り続けていた。