6章




夜はまだ沈んでいなかった。
湿った風が梢を擦り合わせ、密林全体が低くうなる。川沿いの仮設キャンプに設置された赤色灯は霧に飲まれ、数歩離れれば闇に沈んだ。

テントの奥で、セラが資材を点検していた。金属ケースの中には散布用のカプセル。一定時間で溶解する樹脂の殻に、琥珀色の液体が収められている。符号が走り、培養された新株の識別を示していた。

「準備は?」

問いを投げると、彼女は迷いなく答えた。

「滞りなく」

——そうだ。

彼女は命令を受け、実行し、結果だけを差し出す。
取引も、言い訳も、余分な感情も挟まない。そういう“影”だからこそ価値がある。

私はケースを覗き込み、必要数を視線でなぞる。数える必要はない。中身は把握している。

「夜明け前に井戸を封鎖し、投下する」

セラは無言で頷いた。
その動きは正確で、従順だ。だが、指先だけが僅かに硬い。

胸の奥が、ほんのわずかに動いた。

……揺れか?

そう名付けるほど大きなものではない。ただ、いつもの完全な静けさに微細な砂粒が混じった程度だ。
気にする事はない。
必要なのは遂行であり、内心ではない。





深夜二時すぎ。
散布班の傭兵たちが井戸へ向かう。私は最後尾からその背を追った。
村は眠っている。泥壁と藁葺き屋根の家々。焚き火の残りが赤く、犬が一声吠えただけで再び沈黙した。

中央の井戸は村の命脈。
そこへカプセルが落とされれば、全体を均一に汚染できる。

セラはケースから一つのカプセルを取り出した。
掌に収まる透明の殻。その内側で液体が微かに揺れる。


彼女は迷わず投下した。
黒い水面に沈む波紋は、すぐに闇に飲まれた。

誰も声を出さない。ただ、私の視線だけが最後までその動きを追っていた。

「……これでいい」
私は言った。

東の空が白み始めていた。
やがてこの村は咳と悲鳴に満たされるだろう。私はそれを予見していたし、データはそれを証明する。
計算された作戦の、完璧な一手。

だが、私の眼にはセラの横顔が映っていた。
井戸の縁に触れた指先は、わずかに硬直していた。強靭な駒に似つかわしくない細い揺らぎ。


私は彼女を伴い自らの計画を進めるうちに確信していた。彼女は従順であり、忠実であり、有用な影。 
だからこそ本音をさらしても揺るがぬ存在だと。

彼女はわずかに硬直し、すぐに離れる。
強靭な影に似つかわしくない“躊躇の痕”が、そこで一瞬だけ形を持っていた。


……それがどうだと言うのだ。
結果を残せれば、それでいい。

問いは胸に残るが、夜明けの湿った空気とともに沈殿していった。




夜明けは来ても、森は夜を手放さなかった。
湿気を含んだ天蓋が光を噛み潰し、村は薄い灰色の膜の下で眠ったままに見える。


岩場の高台に機材を据える。望遠鏡、モニター、センサー。
傭兵たちは慣れた手つきで配置を終え、あとは“数字が死へ落ちていく様”を眺めるだけだった。

やがて変化が訪れる。
崩れ方は均一に連鎖し、村の音がざわめきから悲鳴へ変わっていく。

予測通りに沈んでいる。
「発現が早い。投下から数時間で機能は失われる……申し分ない」

倒れる者が増える一方で、即死を免れた数体が理性を剥がし、唸り声で這い回る。
傭兵の銃声が短く鳴り、処理は終わる。

「適合ではない。拒絶と混乱だ。だが、それでいい。攪乱の兵器として十分に機能する」

昼前には村はほぼ“数字”として死んだ。

「致死性は高い。だが価値は絶大だ。半日で小規模の村が壊滅する……欲しがる者は高値を積む」

停滞が解ける手応えに、口の端が僅かに上がる。
人間は脆く、群れは、驚くほど素直に壊れる。

セラは私の半歩後ろに立ち、息を殺している。表情は凪いだまま……だが、視線だけは村の中心から外れない。


村の広場で、一人の少女が立ち上がった。
痙攣に支配された体、裂け目を走る皮膚。だが、その声はまだ人の形を保っていた。

「……たすけて」

一瞬、私の思考が跳ねた。
均質な崩壊に割り込むノイズ。既存の理論にはない現象が起きた。
未知を前にしたときにだけ現れる昂揚が、胸の奥を確かに揺らした。


「価値のあるサンプルだ。捕獲しろ」

セラは迷わず動いた。
麻酔銃を撃ち込み、鎮静剤を刺し、傭兵と共に小さな体を担架へ縛りつける。その手際は淀みなかった。

だが私は見た。
注射器を押す瞬間、彼女の手元が迷いに揺れたのを。

少女の焦点の合わぬ瞳。
その底に映ったものが、彼女の中の何かを掠めたように見えた。

少女を収容した車両の中、私はモニターを覗き込みながら口端を吊り上げた。

「崩壊の波に呑まれかけているのに、完全には沈まない。実に面白い」

合理と愉悦が一つに溶け、計画に久しくなかった脈動が戻ってくる。

車内は冷気に満ちていた。
担架の上で少女が浅い呼吸を繰り返し、機械が短い警告音を鳴らす。

セラは無言で立ち、指を強く組み合わせていた。指先が白くなり、力が入っているようにも見える。

私は横目にその姿を捉える。
普段の彼女なら、ただ数値を確認し、必要な処置を淡々と指示する。

だが今は、肩の力も硬い。
視線は少女に落ちているが、その影がどこか揺れているように見えた。


「……よくやった」

短く告げる。
それは評価に過ぎない。

なのに声に出した瞬間、妙な違和感が残った。

……私はいま、何を確かめようとしている?


セラは顔を上げた。
一拍遅れて、小さく頷く。
表情は変わらない。冷静に見える。
それでも、その眼差しの奥でわずかな影が走ったような気がした。

それが何を意味するのか、私には分からない。
ただ確かに、普段とは違う色があった。


私は視線を前へ戻した。
考える必要はない。

……今は計画を進めるだけだ。




観察室に収容された少女は、電流と投与に耐えながら痙攣を繰り返した。
数値は不安定に跳ね、沈む寸前で踏みとどまっている。
私は顎に手を当て、モニターを凝視する。
「拒絶でも適合でもない。壊れる寸前の均衡……新しい素材となる可能性がある」

愉悦が声に滲むのを自覚していた。
この不安定さは、停滞を突破する契機になり得る。
理論が紙の上で描けるだけでは意味がない。現実が従う瞬間を、私はこの手で掴まねばならない。

「追加投与だ。負荷を重ねろ」

少女が跳ね、涙を流しながら拘束具を軋ませる。
その瞳はまだ潰れておらず、掴もうとする焦点が揺らいでいた。
私はそこに「生き残ろうとする意志」を見た。だがセラの視線は、まるで突き刺されるように硬直していた。

ガラスの向こうで、少女の指が宙を掻くように震えた。
掴もうとする仕草。だが何も掴めず、空を切るだけ。

セラの手が、無意識にガラスへ上がった。
指先が触れた瞬間、彼女ははっとして引いた。
冷たい面に、何も残さなかったかのように。

私はその一連の動きを見ていた。
普段の彼女ならあり得ない、わずかな揺らぎ。

口に出すつもりのなかった言葉が零れた。
「……休むか」

なぜそんなことを言った?
これは必要のない問いだ。
駒は消耗しようが、役割を果たせるならそれでいい。
それがいつもの判断だ。

なのに、今は違った。
彼女のわずかな揺れが、なぜか視線に刺さって離れなかった。

セラはすぐに応じる。
「必要ありません」

声音は変わらない。冷静で揺らぎがないように聞こえる。
それでも、先ほどの様子が脳裏に残り、答えが薄く歪んで聞こえた。

「……そうか」

それ以上は言わなかった。
信頼ゆえか、駒としての最適な運用としての提案か、自分でも判じかねる。

ただ一つ確かなのは
彼女の瞳の奥に、普段とは異なる色が見えた気がして、視線が離せなかったということだった。




「セラ。直接刺激を与えろ」

私は彼女を選んだ。
有用な駒だから、という理由に嘘はない。だが同時に、彼女の反応を見たいという衝動があった。
普段揺らがぬ影が、今は微かに軋んでいる。その正体を知りたい。

彼女は無言で防護服を着込み、観察室に入った。
椅子に拘束された少女の瞳が揺れ、セラを追おうとしている。
彼女はためらわず肩へ手を置き、反応を引き出した。モニターが跳ね、警告音が鳴る。

「いい反応だ」
私は満足げに呟いた。

だが背後のガラス越しに見えたセラの横顔は、まるで痛みに耐えているようだった。
彼女は忠実であり、有用であり、命じられたことを必ず遂行する。
それでも――なぜ、あの表情をする?



実験が終わり、少女は眠らされた。
数値は不安定なまま持続している。
「既存の限界に沈まない個体だ。次の段階に進める価値がある」
私は言葉に確信を込めた。

だが横に立つセラの瞳は、光を失っているようにも見える。


……疲労か?
そう片付ければ簡単だ。
連日の作戦、休みなく続く任務。

有能であろうと、彼女の肉体は人間であり限界もある。

冷静な解釈に委ねれば、答えは単純だ。

だが、私の視線に映ったのは単なる疲弊ではない。
もっと別の、形のない何かが滲んでいるように思えてならなかった。


なぜだ?
先ほどから彼女はそんな顔をする?
理解できない問いを、私は喉の奥へ押し戻す。
知らなくても構わないはずだ。

結果を出す限り、問題はない。 

……休めば元に戻るはずだ。
そうでなければならない。

「……休むか」
気づくと再び、その言葉が口を衝いた。

自分の理屈に従えば、これは最適な判断にすぎない。

だが、本当は……

その問いかけで彼女を“いつものセラ”へ引き戻そうと確かめたかっただけなのかもしれない。





警告音が鳴り、少女の体が痙攣する。拘束が弾け、指先は異様に伸び、咆哮がガラスを叩いた。

「制御不能!」技師の声が震える。

私は冷静に告げる。
「……変異体だ。拒絶か適合か、その境目を踏み越えた結果だ。実に面白い」


「セラ。続きだ。データが必要だ」
私は観察室を指し示す。彼女はためらいながらも駆け出し、銃を構える。

技師が制止を叫ぶが、私は遮った。
「構わん。……やれ」

銃声が響いた。
弾丸は額を貫き、変異しかけた少女の体は痙攣を残したまま崩れ落ちる。
床に広がった血が鉄の匂いを立て、やがて静寂が戻った。
モニターは一本の直線を描き、警告音が消える。

「……期待したが、いたって平凡だな」
私は口端をわずかに吊り上げる。

「だが、資金源としての証明は十分だ。処分しろ」

合理的な結論だった。これ以上に付け足す言葉もない。

だが横に立つセラの姿が視界に入る。
銃口を下ろした彼女の指先が、微かに震えている。

処理の動作は正確で、ためらいもなかった。
それでも、普段あれほど淡々と役割をこなす彼女の横顔が、今は妙に沈んで見えた。

なぜ、撃ったあとにあれほど脆い影を見せる?
疲労であれば休めば戻るはずだった。

だが胸の奥に引っかかりが残る。


その理解不能の問いが、棘のように心に刺さって広がっている。
私はサングラスの奥で視線を逸らす。

これは知らなくても構わないはずだ。
駒が揺らごうと、結果を出す限り問題はない。


「……見事だ、セラ。この作戦は終了だ。村の始末をして引き上げるぞ」
声は平板に落とした。

視界の端には、なお沈んだ影が残っていた。



村は炎に呑まれ、跡形もなく消えていった。藁葺きの屋根は一瞬で燃え落ち、泥壁は内側から崩れる。油と火薬の匂いが混じり合い、夜気に赤が広がる様は、冷徹な効率の証そのものだった。

「処分完了」
部下の報告を受け、私は短く頷いた。必要な痕跡はすべて消えた。



車内は沈黙に満ちていた。荷台のケースが揺れるたび、金属が小さくぶつかる音だけが響く。私は端末を開き、散布から集落機能停止までのグラフを確認する。線は期待通り、滑らかな下降を描いていた。

「散布後、半日で壊滅。……兵器としては申し分ない」
自分に確認させるように呟き、次の手順へと指を走らせる。

対面に座るセラは、窓の外を無言で見ていた。表情は変わらず、いつもの影のように静かだ。だが、先ほどの揺らぎが脳裏に残っている。

少女に銃を向けた瞬間の指先。観察ガラスに触れた指。沈んだ横顔。
今もその余韻が隠れているのではないか。


私は操作を止め、ほんの一瞬だけ視線を流した。

……やはり、どこかが違う。

硬質な輪郭から僅かに外れ、薄い疲れとも違う陰りが滲んでいる。

「無駄のない動きだった」
言葉が口をついて出る。評価にすぎぬ。

しかし、口にした瞬間、自分でも分かった。
これは労いなどではない。

……沈黙が、重すぎたのだ。

彼女の沈みが、空間を歪めるように感じられた。

……なぜ、この瞬間にそんな言葉を口にする必要があった?

彼女はこれまで通り、確実に役割を果たしている。今回も当然のこと。
今さらあえて、このような言葉をかける必要などない。
それなのになぜ口が勝手に動いた?


「必要なことをしたまでです」
即座に返る声。表情は揺れない。淡々とした返答。

……声色は、いつもの彼女と変わらない。

だが、彼女は依然と窓の外をただ眺めている。 
セラは本来、景色を見るなど、そんな無駄な事をしない。

影として常に動き、備え、気配すら研ぎ澄ませている女だ。

だが今は違う。
その虚ろの様な様子がかすかに滲み出ている。


……理解できない。

私は視線を端末へ戻し、意識的に思考を切り捨てた。

答えを求める必要はない。計画を乱すだけだ。

その疑問はただ沈黙の闇に残り続けていた。


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