6章



月日は静かに過ぎた。
潜伏と移動を繰り返す日々の中で、セラは一度も揺るがなかった。

任務を課せば淡々と遂行し、汚れ役も厭わず引き受ける。
時には血に塗れ、時には人間らしい休息すら削りながら、それでも見返りを求めたことは一度もない。
欲望も、甘えも、見せなかった。
ただ、私が必要とする限りにおいて動き続ける。

その徹底した忠実さは、単なる服従ではなかった。
そこには取引もなければ打算もない。
「必要とされること」だけを拠り所にして、燃え尽きるまで動き続ける。異質で危うい在り方だった。

他者ならば必ずどこかで軋み、裏切りや逃走を選ぶ。
だが彼女は違った。
疑念を突きつけても、問いを浴びせても、決して揺らがない。
その真っ直ぐな眼差しに、私は幾度となく言葉を失った。

……そして、いつしか私は彼女を“セラ”と呼ぶようになっていた。

本来なら、任務において個を名で呼ぶことなど不要だ。
識別のための符号で十分であり、名は余計な情を孕む。
だが彼女は、ただ一度だけ小さな願いを口にしたのだり

「……あなたに呼んでほしい。セラと」

見返りも欲望も口にしない女が、唯一告げた願いの言葉だった。
その声音は控えめで、それでも確かに熱を帯びていた。

私は答えなかった。だが気づけば、その名を呼んでいた。
必要以上の意味を込めず、ただ口にする。
それだけのはずだった。

けれどその名を口にするたび、胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。
それは切り捨てられるはずの対象に、形を与えてしまった証だった。





アークレイ研究所での計画が幕を下ろした後、アンブレラは私にとって不要となった。
利用するための殻でしかなく、中身を奪い尽くした以上、残骸に意味はない。

奪い取ったサンプルと、かき集めた知識を礎にして私は動き出した。
古い研究施設を転用し、周囲を密林で覆い隠す。腐敗した幹部の監視も、形式だけの倫理規定も、ここには存在しない。
あるのは、私が選び、決め、裁定する法則だけだった。

だが、肝心の成果だけが姿を見せなかった。

実験は繰り返すたび、同じ失敗へと行き着いた。
数値は揃い、培養条件も遺伝子の一致も完璧に整っている。紙の上ではすべてが正しく、破綻など一つもない。
それなのに、現実だけが従わない。

机上の理想と、目の前で崩れ落ちる現象。
その乖離が積み重なり、胸の奥に澱のような苛立ちを沈殿させていく。
未来は描けても、現実に姿を現さなければただの空想に過ぎない。

だからこそ、この日の実験は突破口になるはずだった。

冷却装置の唸りが空気を震わせる。
観察ガラスの向こうで、椅子に縛られた被験体の静脈へ琥珀色の液が流れ込む。

「開始」
私の声に、技師がレバーを倒した。

筋肉が痙攣し、皮膚が波打ち、呻きが潰れる。
だが立ち上がりは鈍く、心拍は乱れ、波形は失速していく。

閾値に届かない。まただ。

掌で観察ガラスを叩く。鈍い音が響いた。
感情に任せた暴力ではない。だが、制御の縁が欠けたことを否応なく示す音。
指先に残った微かな震えが、自分の中の焦燥を暴き立てていた。

処分プロトコル。白濁した霧が被験体を飲み込み、椅子ごと消し去る。
残るのは匂いと沈黙だけ。

盤面の駒は揃っているはずなのに、動かすたび必ず逸れる。
その小さな逸れが積もり、未来を曇らせていく。

数日後も同じだった。
器具を払う音が観察ガラス越しに響き、甲高い金属音が胸の奥に苛立ちを刻みつける。


その折、セラがファイルを差し出した。

広げられた紙面には、闇市場の経路、仲介人の名、輸送網の切り分けとリスクの算段。
数年にわたり私の影として動いてきた痕跡が、無駄のない線として刻まれていた。

「……よく練られている」
声が零れた。確かに使える。

だが、紙を繰る指先と共に別の図が脳裏に浮かび上がる。
資金を「得てから」実験する必要はあるのか?
順序を逆にすればいい。

資金を待つのではなく、実験そのものを資金に変えればいい。

輸送ルートは投下ルートに。仲介人は買い手に。
彼女が描いた線が、私の思考の中で反転し、一つの構図に収束していく。

実地試験。

投下したウィルスがどのように変異を生み、淘汰を導くかを観察する。
同時に、その成果を商品として売り捌く。

資金調達と研究の推進が、ひとつの行為で両立する。
停滞していた水面が、ようやく破られた。

胸に熱が満ちる。苛立ちではない。昂揚。
唇の端が自然と持ち上がる。

「……だが、さらに面白い方法がある」

セラの瞳がわずかに揺れる。
しかし、言葉は挟まず、ただ待っている。

私はその沈黙を愉悦に変えて告げた。

「資源を消費して結果を待つのではなく、試験そのものを資金に変える」

「ウィルスを投下し、変異を観察する。成果を回収し、売り捌く」

言葉を重ねるごとに輪郭は鮮明となり、声には熱が乗っていく。

「実験を進めながら資金を得る。これ以上に効率的な方法はない」

赤い双眸に宿る光が、自分でもわかるほど強まっていた。
閃きを掴んだ者の眼だ。私は確信をもって言い切った。

「……実に効率的だと思わないか?」

セラは黙したまま。
だが刹那、瞳の奥に影が揺れたように見えた。
すぐに消え、無色の従順さに戻る。

恐怖も拒絶もなく、ただ従う眼差し。

だが確かに、一瞬だけ違う何かが顔を覗かせた。
それが何かを確かめる前に、私はすでに次の計画へと思考を移していた。

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