6章
森を抜けたとき、背後で爆炎が夜を裂いた。
担いでいた彼女の体温と、追いすがる熱が重なり、肺の奥を焼いた。
隠してあったジープを駆り、街を避けて走り続け、辿り着いたのは廃工場。
事前に用意していた潜伏先の一つだ。
血に汚れた制服は焼却炉に放り込み、炎に呑ませた。
必要のない皮膚は切り捨てればいい。
未練はない。
応急処置を施し、彼女を毛布に横たえた。
彼女はすぐ眠りに落ちた。
切り捨てることは容易だった。
それでも背負ってきた。
爆破の時間が迫る中合理の仮面を被せて済ませた選択が、胸の奥に微かな残響として残っている。
理解不能なその余韻は、私の思考の隙間にしぶとく居座り続けていた。
私は眠らない。
椅子に腰を掛け、地図を広げ、次の導線を頭に描く。
赤い警告灯も爆炎も消えた後、進むのは新しい計画だ。
月光が差す工場の一角で、気配が動いた。
眠りから醒めた彼女が、ゆっくりと身を起こす。
視線だけを向け、短く問う。
「……眠れたか」
返る声は淡々としていた。
従順。だがその奥にある芯は、説明できない異質な光だった。
私は立ち上がり、影を落とす。
「夜明けにはここを発つ。その前に、確認しておくことがある」
冷たい空気を震わせる声と共に、沈黙が深まった。
机に広げた地図から視線を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
椅子の脚が床を擦り、鉄骨に乾いた音を響かせた。
その瞬間から、私はもう座るつもりを捨てていた。
彼女に向ける視線は鋭さを増し、退路を与えない。
この空間を支配するのは私であり、彼女は測られる対象にすぎない。
「……お前に聞きたいことはいくつもある」
声を落とすと、彼女の肩がわずかに揺れた。
だが逃げない。真っ直ぐに視線を返してくる。
まるで自ら進んで秤に乗るかのような眼差しだった。
靴音を響かせ、距離を詰める。
軽い音なのに、踏み出すたびに空気は重さを増していく。
机を離れ、正面に立った。
まずは……エンリコの件についてからだ。
撃った理由を語る彼女の声は震えていた。
だが虚偽だけではない確かさが混じっている。
銃を向けられたから撃った。止めなければ隊が危うかった。
筋は通る。だが筋の裏に潜むものが透けて見える。
彼女の瞳に宿る芯が、あまりに静かすぎるのだ。
ただの恐怖や必死さでは説明できない。
私は吐息を落としながらも、心の奥では苛立ちが募っていた。
説明は整っているのに、納得できない。
彼女は何かを隠している。
そう確信せざるを得なかった。
次に、野犬について。
報告に記された「逃げた」という虚偽。
実際には頭蓋を撃ち抜かれた死骸。前脚は中央に寄せられていた。
偶然ではない、明確な痕跡。
問い詰めると、彼女は「警告だった」と口にした。
確かに理屈は通る。だが出来すぎている。
配属間もない者が選ぶ判断ではない。
痕跡を残し、虚偽を報告し、結果的に私の目に触れるよう仕向けた。
まるで、最初から私に拾わせるつもりだったかのように。
「……理屈は通る。だが出来すぎている」
そう吐き捨てた声の奥に、測りきれない苛立ちが滲んでいた。
さらに詰める。
ハンターとの戦闘。
彼女は恐怖に呑まれず、跳躍の癖を読み、頸部を正確に突いた。
偶然では説明できない。
経験を積んだ者ですら容易ではない動きだ。
だが彼女は「できた」と言い切った。
私は一気に腕を伸ばした。
喉を掴み、壁に叩きつける。
鉄骨が唸り、彼女の肺から息が漏れる。
殺しはしない。だが、逃げ場は奪った。
「……本当は何者だ」
声は低く、怒りを滲ませていた。
理解できない存在を前にした苛立ち。
制御できぬものを押さえ込み、支配下に置こうとする衝動。
だが、彼女は折れなかった。
掠れ声で告げた言葉は、狂気めいていながらも芯を帯びていた。
「……あなたが今、必要とする者です」
視線を逸らさない。
崩れるはずの瞬間に、逆に目を深く据えて返してきた。
怒りは残っていた。
だがその怒りを食い破るように、別の感覚が芽生えていた。
苛立ちでは説明できない。
理解不能なものを前にした、強烈な困惑。
私は指を緩め、喉から手を離す。
彼女は咳を漏らしながらも姿勢を崩さず、視線を保ち続けた。
……次は、私が死の淵から戻った時のことだ。
タイラントに貫かれ、床に沈んだあの瞬間。
普通なら「死」としか呼べない光景だった。
だが彼女は一歩も退かなかった。
「……まるで最初から蘇ると知っていたかのように」
そう問いかけた私に返ってきたのは、想定外の言葉だった。
「……終わるはずがないと、信じてしまった」
信じた……だと?
二ヶ月足らずの隊員が、私を。
根拠もなく、ただ「信じた」だと?
胸の奥に、苛立ちとは異質の感覚が広がる。
怒りではない。理解できない静けさだった。
彼女は怯えもせず、言葉を装飾せず、真剣に告げてきた。
私は口を閉ざした。
押し返す言葉が見つからない。
目の奥で火花が散ったような違和感だけが残った。
「……感情で判断したと?」
自ら試すように問いを投げる。
「はい」
彼女は真っ直ぐに頷いた。
一瞬、呼吸が止まった気がした。
怒りで掴んだはずの首筋を離した今、私は別の圧に囚われていた。
答えを探るように私は最後の問いを口にした。
屋敷を出た時点で彼女は自由だった。
なぜ残ったのか。
答えはひどく単純で、正気の沙汰ではなかった。
「……あなたに必要とされるなら、それでいい」
胸の奥で何かが冷たく、そして熱を帯びて走った。
正気ではない。
「……理解不能だ」
吐き捨てた。
だがその裏には、怒りではなく棘のような感覚が残った。
背を向け、机に歩を戻す。
「……いいだろう。利用できるうちは利用する」
それが唯一出すことができた結論だった。
だが胸の奥に消えぬ違和感が沈んでいた。
切り捨てられるはずの存在を、切り捨てられない。
その説明のつかない静けさが、私の中に留まり続けていた。
*
言葉では結論を出した。
利用できるうちは利用する、と。
一見それは単純な判断だ。切り捨ての余地も含めた、私にとって常の決断。
だが、胸の奥には鈍い残滓が沈んでいた。
背後に立つ女の気配がなお強く、皮膚の裏を刺すように残っている。
壁際に追い詰められても、怯えずに返してきた視線。
喉を圧した時も揺らがなかった芯の色。
……あれは何だ。
わずか二ヶ月の隊員に過ぎぬはずだ。
経験も浅い。経歴も平凡。
それなのに、口にする言葉は常軌を逸していた。
「必要とされるなら、それでいい」
その声音には、狂気と呼ぶには静かすぎる真剣さがあった。
喉に残る感触を、私は指先で思い返す。
均等な力で締め上げたのに、崩れ落ちず、なお見返してきた。
虚勢ならとっくに砕けていたはずだ。
だが、そうではなかった。
狂っているのか。
それとも別の何かを隠しているのか。
結論は出ない。
ただ、切り捨ての線を引こうとするたびに、あの眼差しが思考をせき止める。
「……まったく理解不能だ」
低く呟き、机に指を落とす。
吐き捨てのはずが、胸に返ってきた響きは妙に重い。
これほど説明のつかない感覚を、私が抱くこと自体が不快だ。
それでも完全には拒絶できない。
地図の線を追おうとする。
次の潜伏先、必要な物資、移動経路。
だが目は滑り、線が霞んでいく。
意識の端を、背後の気配がどうしても掴んで離さなかった。
短く息を吐く。
苛立ちと、測りきれない興味。
どちらとも断じきれぬ熱が、胸の奥で燻り続ける。
駒を切り捨てられなかった理由を探ること自体が、すでに異常だ。
だが、それは確かに私の中に残った。
風が鉄骨を揺らし、埃が月光に舞う。
背後の女の呼吸の気配を、私は意図的に無視する。
それでも耳の奥では、その律動が確かに鳴っていた。
理解できない。
だが、消せもしない。
この夜に残った沈黙。
それがすべてを物語っていた。