6章
冷たさに沈んでいた。
凍りついた深海の底へ落ちていくような感覚。
光も、匂いも、時間の勾配さえ感じない。
肉体と精神の境目が溶け、私という輪郭だけが薄皮のように残っている。
その薄皮さえ、やがて剝がれ落ちるかのようにすら感じられてくる。
これが死か。
恐怖はない。
自ら選んだ道だ。必要な犠牲だ。
人間という檻を破り、その先へ至るための。
理性では、そう理解していた。
だが、理性など死の前では無力だ。
深い闇がすべてを覆ったとき、骨の奥から這い上がるような冷えが、私を容赦なく蝕んだ。
“再生しなければこのまま終わる”
その単純で残酷な事実だけが、氷の杭のように意識へ突き刺さっていく。
それでも、沈んでいく。
闇は深さを増し、思考が溶け、そこにウィルスが混じるように、抑え込まれていた憎悪が滲み出してくる。
その底で……声がした。
「……アルバート、戻ってきて」
暗い底へ沈みゆく中、柔らかい波紋のような声がした。脳が失われる直前に見せる幻影か。
だが、声と同時に。
額に温かさが触れた。
一点だけに溶けるような熱。
触れられる感覚を失っていたはずの身体に、その熱だけが鮮烈に刻まれ、沈みきった意識の表層を叩いた。
その正体は分からない。だが確かに熱は一瞬だけ胸の奥まで広がった。
そして凍りついた心臓が不意に強く脈打つ。
闇がひび割れ、私はその温かさに引き上げられるようにして浮上した。
瞼を開く。
視界は滲み、やがてひとつの影が輪郭を結ぶ。
セラ・モーガン。
なぜここにいる。
なぜ逃げずに残った。
クリスやレベッカと共に脱出する機会はいくらでもあったはずだ。
それを選ばず、まるで私の蘇生を待っていたかのように。
理解できない。
床に落ちていた銃を拾い、ためらいなく彼女へ向ける。
私にとって、彼女を撃つことに障害はない。
だが、彼女は怯えず、両手を挙げることもなく、真っ直ぐに視線を返してきた。
その瞳は静かで、まるで「不要なら撃てばいい」と告げているかのようだった。
理解不能だ。
生存本能を欠いているのか、それとも別の理由で私に縛られているのか。
いずれにせよ、今は考える時間はない。
端末にアクセスし、データを奪い、この屋敷を爆破して退避する。
それが最優先だ。
彼女を排除するのは容易い。
だが、敵意を見せず、ここに残った者を無理に置き去りにする理由もない。
利用価値がなくなれば、その時に殺せばいい。
銃口を下げ、端末に指を伸ばす。
だが画面に並んだのは冷たい文字列。
ACCESS DENIED。
権限剥奪。認証失敗。
苛立ちが走り、端末を叩き割る。
硬質な破片が床に散り、赤色灯が回転を始めた。
耳を刺す警告音が空気を震わせる。
〈警告。爆破シークエンス起動。全研究員は直ちに退避を開始してください〉
蒸気が噴き出し、薬剤の匂いが混じる。
私は振り返り、短く告げた。
「時間がない。話は後だ。行くぞ」
セラは頷き、半歩先に出て射線を作る。
足音が重なり、呼吸が揃った。
背後で機械の唸りが死の鐘を打ち鳴らす中、私たちは肩を並べて走り出す。
崩壊する研究所を駆け抜ける間、彼女は怯えも焦燥も見せなかった。
私が配管を撃ち抜けば、すぐにそこから漏れる蒸気を利用して死角を切り開く。
変異体が飛び出せば、無駄なく狙撃して処理する。
動きは極めて冷静でいて、まるで生存のために染み付いた動作のようだった。
不意に前方から変異した影が飛び出した。
……この力を試す必要がある。
片腕で迫る個体を掴み上げそのまま壁へ叩きつける。
軽い。
骨が砕け、肉が潰れる感触。
これほどの力か……素晴らしい。
満足が、わずかに喉を焼いた。
もう一体が背後から迫る。
私は視線も向けず、踵を振り抜く。
衝撃は一点に集中し、個体は壁に縫い付けられたように沈黙した。
ついにこの身体は人間の枷を解かれた。
その事実は、理性を裏切らない喜びをもたらした。
私は正しかった。
死を賭して選んだ進化は、裏切らなかったのだ。
私は、選ばれた。
その確信が、冷たい誇りとなって胸に座る。
ふと、視界の端でセラが動く。
彼女は私の進路を読み、私が踏み込むより先に射線を開き、死角を即座に組み替えていく。
言葉は不要だった。
合図も、指示もいらない。
なぜこんなにも動きが噛み合う?
私がどう動くかをまるで把握しているかのようだ。
私は意図的に自分の速度を一段上げる。
床を蹴る音が空気を裂き、景色が一瞬遅れる。
追えるか?
試すような動きだった。
だが彼女は遅れない。
私の加速に合わせ、彼女もまた先を読むように動いている。
……面白い。
不覚にも、そう思った。
強化されたこの身体の動きに合わせて即座に適応する人間。
データとして極めて興味深い。
階段を抜けた先で、区画表示が切り替わる。
行く手を塞ぐのは、重い鉄扉だった。
ロックは完全に噛み合い、ハンドルも微動だにしない。
脇でセラが一瞬だけ首を振るのが視界に入る。
回り道は不要だ。
私は一歩前へ出た。
腰を沈め、踵で扉を叩く。
衝撃は澄んでいた。
反発が遅れて返る前に、金属が内側から膨らみ、
錆びついた悲鳴を上げながら弓なりに撓む。
次の瞬間、扉はねじ切られたように口を開いた。
廊下の死角から影が飛び出す。
私は横へ滑るように踏み込み、倒れた個体の肩口を踏み台にして跳んだ。
床を蹴る衝撃が空気を裂き、視界の端で黒い影が一気に伸びる。
速い。
だが、速さそのものよりも、遅れがないことが心地いい。
意志を浮かべた瞬間に、身体がすでに応えている。
思考と動作の間に、もはや隙間が存在しない。
脚力は限界を訴えない。
呼吸も乱れない。
空間そのものが縮み、世界の方がこちらに歩調を合わせてくる感覚。
……これだ。
人間の身体では、決して踏み込めなかった領域。
私は加速を保ったまま、内側で結論を下していた。
ウィルスは成功している。
進化は、狙い通りに起きた。
この力は私に従い、私はそれを疑う必要がない。
素晴らしい。
身体は完全に応えている。
この力は、今後の計画に不可欠だ。
そして同時に――
この変化を、至近距離で“見ている存在”がいるのた。
彼女は驚かず、畏怖も、動揺もない。
ただ、この変化を理解する目でこちらを見ていた。
まるで、この結果に至る過程を、最初から知っていたかのように。
通路の先で空間が落ち込み、視界が一気に開けた。
高い天井。
吊り下げられたシャンデリア。
湿った石床が赤い警告灯を鈍く返す。
エントランスホール。
その出口の前に、影が立っていた。
リサ・トレヴァー。
かつての研究が生み、放置され、なお動き続ける残骸。
「ここを通さないつもりか……」
答えは鎖の唸りだけだった。
「戯事の時間はない。別ルートだ」
私は即座に判断を切り替え、二階回廊を示す。
だが、セラは迷わず動いた。
私が指示を出すよりも早く、進路を理解している。
……読みが早い。
鎖が迫る。
彼女は柱を使い、重心を削る射撃を刻む。
だが、不死身の影は怯む事なく追ってくる。
私は息をひとつ吐いた。
「執念深いな……」
逃げではない。
配置を組み替え、正面へ戻る。
「……いいだろう。終わらせる」
鎖が唸る。
彼女の弾丸が軌道を弾き、わずかな隙が生まれた。
そこに私は踏み込み、鎖を掴む。
力をぶつけず、流れで捻る。
金属が悲鳴を上げ、重みが床に落ちた。
すぐさま視線の端で、セラが天井を仰ぐ。
次に何をするか、もう分かっている。
銃声。
支点が削られ、シャンデリアが落下する。
重量がすべてを押し潰した。
鎖の唸りが途切れ、広間に静寂が落ちる。
「……もう蘇るな」
低く吐き捨てた声が、石の床に吸われて消えた。
警報だけが脈のように響き、時間が確実に削られていく。
それでも、胸の奥に残るものがあった。
ここに至るまで、消えずに沈殿していた違和感だ。
彼女は分かっていたはずだ。
この距離、この刻限、この脚力では、最後まで走り切れないことを。
それでも、終始こちらを見ていた。
焦りも、迷いもなく――ただ理解している目で。
まるで、この結末を最初から織り込んでいたかのように。
自分が間に合わないことを計算に入れたまま、
それでも淡々と動き、役割を果たし続けていた。
切り捨てられる可能性も含めて。
そしてそれを、受け入れた上で。
生に縋るようには見えなかった。
だが、何も望んでいないようでもない。
その在り方は、あまりにも静かで、危うく、私の計算をわずかに狂わせた。
正面扉に辿り着いたとき、彼女は足を止めた。
そして、淡々と告げる。
「……私の脚では、走り切れません。
不要なら、ここに置いていけばいい。……でも、あなたが――」
言葉はそこで途切れた。
続くはずだった音は、声にならず、
ただ瞳の奥にだけ、確かな意思として残っていた。
その目は恐怖でも哀願でもない。
死の影に追われるこの状況で、なお揺らがぬ芯を抱いた目だった。
己の運命を受け入れた上で、選択を他者に委ねるという異質な光。
死を前提にしながら、それでも燃え尽きる瞬間まで役に立とうとする、異常なまでの確信。
視線が突き刺さり、胸の奥が冷たく軋む。
ここで切り捨てるのが最適解だろう。、
見捨てることによる計画に支障はなく、余計なリスクも負わずに済む。
それが正しいはずだ。
だが……置いていけなかった。
沈黙の数瞬、赤い警告灯の明滅が壁を染め、私の逡巡を照らし出す。
視線を外そうとしても、彼女の瞳が放つ芯の光が絡みついて離さない。
切り捨てられるはずの駒を、切り捨てられない。
理由は並べられる。
有用だから。まだ観察の余地があるから。これから利用する価値があるから。
だが、いくら並べても拭えぬ何か、が胸に残っていた。
私は扉に手を伸ばし、ノブを強く捻った。
外気が一気に流れ込み、湿った夜の匂いが警報音と絡み合う。
その瞬間、思考より先に身体が動いていた。
距離を詰める。判断に時間は要らない。
腕を伸ばし、彼女の肩を掴み上げる。
軽い。
想定していたよりも、はるかに。
彼女の身体が宙に浮き、反射的に重心を自分の内側へ引き寄せる。
夜気が肌を刺し、爆風を予感させる重たい空気が背後から押し寄せる。
「……黙って掴まっていろ」
それは命令の形を取るしかなかった。
そうでなければ、この選択に別の意味を与えてしまう。
私は、理由を語ることを拒んだ。
命令という殻で覆い隠したその奥に、
言葉では定義できない温度が残っていることを、私は認識していた。
抱えて走ること自体に問題はない。
この肉体は、すでに人間の限界を越えている。
問題は、なぜそうしたのか……その一点だけだった。
胸の奥に、理解不能な揺らぎが残っていた。
苛立ちに似ている。理屈で片付けられぬものが、そこにある。
夜気を切り裂きながら走る中、私はその答えを出せず、ただ無言で抱え続けた。
合理の延長線であると、自分に言い聞かせながら。
その誤算が、この先どれほどの影響を及ぼすかなど、まだ知る由もなかった。