5章



 

その日々は、唐突に終わりを告げた。

マスターはついに、自らの理想を現実へと変えようとしていた。
ウロボロスを解き放ち、弱きものを淘汰し、強きものだけが残る世界を築く。
彼の語る“選別”の未来は、残酷でありながらもどこか神話のような響きを帯びていた。

その計画を初めて知った時、私は理解した。
これまで課されていた訓練も、観察も、痛みも、血も、耐えた日々も――
すべてはこの一点へ収束するための準備だったのだ と。

彼に選ばれた私は、その未来の片隅に立つ“手足”になるはずだった。


だけど、阻む者たちが現れた。


マスターがその2人と対峙したその瞬間、空気が震えた。
これまで何度も見てきた冷徹な観察者の姿ではない。
怒りに燃え、牙を剥き出しにしたマスターの姿。

初めて見た。あんな感情的な顔。
サングラスの奥で燃えるような真っ赤な瞳。声は鋭く、かすかに掠れていた。

「貴様らに、この私の計画を阻めると思うか!」

その叫びは、命令でも観察でもなかった。
ただ純粋な怒り。
私は胸を締め付けられた。理想を崩されることが、これほどまでに彼を追い詰めるのだ。

戦いが始まった。
銃弾が飛び、炎が散る。
私は彼の背を守るように動いた。弾丸が肩を裂き、熱が皮膚を焼く。
それでも刃を振るい、迫る銃口を逸らし、拳を受け止めた。

マスターの動きに迷いはなかった。
だがその2人に注射器を突き立てられると、マスターはふらついていた。
視線が揺れ、足取りがわずかに乱れる。
こんな姿を、私は見たことがない。
絶対に倒れないはずの人が、揺らいでいた。

「……下がれ、セラフィナ!」
低い声が怒りで震えていた。
私は首を振り、血に濡れた手で再び刃を握り直す。

「私は……あなたを守ります」

言葉はかすれていた。
だが、その一言で体はまた動いた。
銃弾が胸を掠めても、膝が崩れても、私は立ち上がった。

私はナイフを構え、彼の前に立った。

守らないと。
彼は世界を変えようとしている。

連日の観察で弱っていたはずの体は、まともに力を入れれば軋んだ。
神経の奥には、まだ電流の痺れが残っている。
それでも、迷いなく動いた。
幾度も撃たれ、殴られ、体はもう限界に近かった。
だが、マスターがいる。
それだけで、私は立てた。

やがて、マスターの声が低く震えた。

「……私の作品に、傷をつけるとは……!」

次の瞬間、彼の腕に抱えられた。
鋼のような力で、乱暴に、だが確実に。
そのまま爆撃機へと飛び乗る。

「行くぞ!」

轟音が響き、機体は夜を裂いた。

だが長くは続かなかった。
追撃に遭い、揺れる機体。
赤黒い光が視界を覆い、重力が反転する。

「――っ!」

衝撃。
体が宙を舞い、金属と火花の雨に叩きつけられる。
意識が弾ける。
遠ざかる声。マスターの影。

そして、火山の咆哮が全てを飲み込んだ。



 

熱い。


呼吸をするたび、肺が焼けて崩れるような熱が流れ込む。皮膚は剥がれ、髪は焦げ、鼓動のたびに血の匂いと鉄の味が喉を満たす。目を開けていられない。視界は赤に覆われ、光と影が溶け合い、世界が崩れていく。


私は瓦礫の中で横たわっていた。体のあちこちが痛みに縫い止められている。
指先を震わせ、腕を持ち上げる。まだ生きている。そう確かめた瞬間、影が視界に入った。


火口の縁。
マスターが立っていた。
黒い触手を纏い、全身から怒りを噴き上げるように。
赤い瞳はさらに深く、炎そのもののように燃えていた。

「……マスター……」

声が漏れた。
それは恐怖ではなかった。
あれが彼の理想の姿。そう思った。
だが同時に、胸の奥に鋭い痛みが走った。

もし、私がもっと早く力を発現できていれば。
眠ったままのこの力を、自分の意志で使えていたなら。
きっと、こんな状況にはならなかった。
彼を追い詰めることなど、誰にもできなかったはずだ。

私は這うようにして立ち上がる。
溶岩の光で赤黒く染まる岩場は、崩れ、揺れ、噴き上がる熱気でまともに呼吸もできない。
それでも足を踏み出す。
彼の隣に行かなければ。

熱風が頬を裂き、汗が目に沁みる。
崩れる足場に何度も膝をつく。
指先が割れ、爪が剥がれ、それでも岩を掴んで進む。

その先で彼は戦っていた。
銃弾が飛び、爆発が響き、ウロボロスの触手が敵を薙ぎ払う。
怒りに燃える声が轟き、影が暴れ狂う。

守らないと。
彼は世界を変えようとしている。
支えなければ。

それは命令ではない。
私に名前をくれた人への純粋な願いだった。

私は必死にそこへ向かった。
たどり着いたときには、マスターは既に追い詰められていた。
足場が崩れ、体勢を崩し、岩肌に叩きつけられている。

「マスター!」

声を上げた瞬間、足場が裂けた。
彼の体が崩れ落ちる。
赤黒い光を反射しながら、熔岩へと沈んでいく。

嘘だ。
やめて。
やめて、お願い、マスター……!

私は叫びながら駆け寄り、腕を伸ばした。


私はまだ完成していない。
私を完成させないまま、置いていかないで……!


「行かないで……! あなたがいないと、私は……何にもなれない!」


喉が裂けるように叫んだ。
指先は空を掴み、ただ熱に焼かれる。


その時、彼と目が合った。
赤い目は火山の光に照らされて炎のようだった。
それが確かに私を映していた。
けれど、それが何を見ていたのか……
最後まで分からなかった。
ただ一つだけ確かなのは、視線は外れなかったということ。

「いや……いやだ……!!」

だが次の瞬間、上空から閃光が放たれた。
世界が白に染まる。
轟音が全てを呑み込み、私は宙へと放り出された。



轟音。
赤黒い光と閃光が交錯し、世界そのものが爆ぜる。

支えていた足場が砕け、岩の裂け目が一気に開いていた。

「――っ!」

息が喉に詰まる。
胃がひっくり返り、全身の血が逆流する。
皮膚が裂けるような風圧。
耳の奥で、甲高い悲鳴のような耳鳴りが鳴り止まない。

上下が消えた。
空も地も、溶岩も炎も、一つに溶けて赤黒い渦となる。
その渦に絡め取られ、私はただ落ちていく。

声を出そうとした。
だが熱か、恐怖か、喉が塞がり音は外に出ない。
ただ落ちる。
どこまでも。終わりも底もない奈落へ。

世界が砕け散り、赤が白に塗り替わっていく。
轟音も、熱も、痛みも――一枚ずつ剥がれるように消えていく。

残ったのは、落ち続ける感覚だけだった。
時間も重力も消え失せ、ただ虚無が広がる。

白。
ただ、白。

私はまだ手を伸ばしていた。
掴めないと分かっていても、必死に。
何かにすがらなければ、壊れてしまうかのように。

「……マスター……」

声は虚空に溶けた。
響きは返らない。
それでも、確かに呼んでいた。

胸の奥で必死に願う。

私はまだ完成していない。
彼がいなければ、私は何者でもない。

いやだ、違う。
こんな終わり、認めない。
私は……私は――



その時、白の奥から何かが落ちてきた。
音ではない。
形でもない。
ただ確かな気配として。

――声。

『……目を開けろ』

低く、深い声が虚空を震わせた。

『お前はまだ終わらせることを許されていない』

白が揺れ、空間がひび割れる。
胸の奥に、黒い熱が再び脈打った。

『お前が願うのなら――彼を救わせてやろう』

その言葉に、私は息を呑んだ。
涙のような何かが、熱に焼かれ蒸発する。
それでも、確かに頬を伝っていた。

名前をくれた人。
私を存在にしてくれた、人。
もう二度と会えないなんて、耐えられない。

「……マスター……」

震えながら祈る。

「あなたは私の……神様……どうか……消えないで……」

涙のような何かが頬を伝い、白に吸われていく。

「……彼を救いたい……あなたの終わりなんて、絶対に……いや……!」


伸ばした手はまだ宙にある。
掴めなくてもいい。
掴もうとし続けることが、今の私に残されたすべてだった。

彼のいない世界なんて、なくてもいい。
未来がどうなろうと構わない。
ただ、彼を失いたくない。

胸の奥が焼けるように脈打つ。

手を伸ばし続ければ、あの絶望の淵に落ちゆく彼へ届く気がした。
ただ触れられれば、消えかけた彼を引き戻せる気がした。

ほんの一瞬だけ、白い空間が揺らいだ。
その白の向こうに、彼の影がいる気がした。

あと少し。
あと少しで――

その瞬間、白い世界が深く沈黙した。



『……お前がその手を掴む日は――来ない』

声が笑った。

それは慈悲を持たない者の笑いだった。
希望を与えてから折ることを、愉悦としている声だった。

『救いなど、最初から存在しない』

胸の奥が、音もなく裂けた。

ああ、そうだ。
この声はずっと私を導いてくれたと、そう思い込んでいた。

必死に立たせてくれたと、信じていた。

だが違う。
救ってなどいなかった。
どこにも導いていなかった。

ただ、壊れる瞬間を待っていたのだ。

『望むのだろう?彼の死を塗り替える“力”を』

世界が黒く沈み、白い光が悲鳴を上げるように消えていく。

『ならば代償としてお前はもう、戻れない』

息が止まる。

その言葉は、救済の反対側にある絶望そのものだった。

光が消え、祈りが裂け、最後に残った希望の欠片までも、黒い闇に吸い込まれた。


私は理解した。
彼を救いたいと願ったあの瞬間から、私はすべてを差し出していたのだと。

その願いは、最も残酷な形で叶えられようとしているのだと。

白い世界は完全に崩壊した。

残ったのは、ただひとつの宣告だけだった。
 


『お前はもう、私のものだ』





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