1章
ロッカー室の喧騒は扉一枚で遠ざかり、胸郭の内側で自分の呼吸だけが薄く上下していくのを感じた。
タオルで首筋を拭くと、汗が冷えて細い鳥肌が腕を走った。耳の奥には銃声の残響と、マットが軋んだ手応えがまだ残っている。私は深く息を吐いて心拍を落ち着かせた。
廊下は蛍光灯の白が均一で、窓の向こうの夕焼けを押し返していた。
靴底が床を叩く乾いた音がまっすぐ伸び、オフィスの扉を押すと、キーボードの打鍵、電話のベル、プリンターの唸りが層になって流れ込んできた。
「今日の昼あの店混んでたな」「ジル、例の件どうなった?」
そんな声が行き交い、ぶつかってはほどけていく。温かいはずのざわめきが、私には少し遠く聞こえた。
席に戻って椅子へ腰を下ろす。
斜めになっていた名札を無意識にまっすぐに直し、レターケースから未処理の束を引き寄せた。弾薬の棚卸し、備品移動の記録、パトロール経路のメモ、射撃場使用のログ。数字と固有名詞が列になって並び、インクの匂いが薄い膜になって鼻腔に留まった。
ホチキスを外し、必要箇所に赤を入れ、まとめ直す。単純作業を繰り返し、感情の出番を退けた。
「ルーキー!」
顔を上げると、ジョセフが書類の束を抱えて立っていた。
「これ、ついでに処理してくれない? お前、几帳面そうだしさ。俺がやると字が踊るんだよ」
「……分かりました」
「助かる!」
軽い手振りとともに背中が遠ざかる。忙しない足取りを見送りながら、胸の奥に小さな棘が残った。見られているのは私ではなく、表面に貼られたラベル。私は視線を落とし、ペン先を紙へ戻した。
数分後、ジルがコーヒーを持ってデスクの端に腰を掛ける。
「セラ、肩こりがひどくなる。休憩は罪じゃない」
「……もう少しで区切りです」
「はいはい、真面目さん。ブラックでしょ?」
差し出されたカップを口に含むと、意外な甘さが舌に広がった。
「顔に出てる。たまには砂糖も悪くないでしょ」
返す言葉を見つけられず、私は小さく頷いた。ジルは片目をつぶって笑い、隣の島へ移った。笑い声の粒が机の上に落ちて、静かに消えた。
昼を過ぎたころ、ソファからバリーが声をかける。
「セラ。趣味はあるか?」
「……特には」
「ない? 本も映画も? 釣りはどうだ。山奥は静かでいい」
彼は相手を怖がらせない音量で笑った。
「今度いいスポットを……いや、押し付けはやめとくか。気が向いたら言え」
「ありがとうございます」
会話はそこでふわりと切れて、他の声に紛れた。
机の上は規則正しく整えてある。左端に未処理、中央に処理中、右端に完了。
角を揃えるたび、小さな満足が胸に落ちた。整えることが、私の輪郭を保ってくれる。
「ルーキー」
昼の匂いを連れてクリスが戻り、私の書類の山を覗き込む。
「仕事が早い。影武者いないか?」
「……規則どおりにやっているだけです」
「規則どおりに“やり切れる”のは才能だ。……でもな」
彼は親指で空気を弾き、肩で笑った。
「仲間の声も拾っとけ。お前の射撃は完璧だが、耳は的だけに向けるにはもったいない」
訓練場で言われたのと同じ言葉が、今度は深く刺さる。私は短く頷き、紙の端を揃え直した。
壁の時計が一つ打つ。
束が区切りよく片付き、射撃場の使用記録と今日の訓練の要旨をまとめたファイル、備品の更新申請をまとめたファイルの二組を作った。
立ち上がると椅子が短く鳴り、数歩先でジルが目だけこちらに向ける。
「どこ行くの?」
「……提出です。キャプテンに」
「はいはい、鉄仮面の部屋ね。変に緊張させられたら、帰りに甘いもの奢るから言いなさい」
冗談めかす声に、私はほんの少しだけ口角を動かした。扉の前で一度呼吸を整え、ノックを二度打った。
「入れ」
低い声が鋼の水面みたいに揺れずに響いた。
ブラインドは半分下がり、午後の光が斜めの帯になって床に落ちている。机上は端から端まで秩序が行き届き、クリップの向きまでそろっていた。モニターには表を写したウィンドウが三つ開き、数値が規則正しく並んでいる。
サングラス越しの視線に温度はない。
「失礼します。報告書を」
「そこに」
示された位置へファイルを置く。彼はすぐに手を伸ばさず、私が一歩退いたのを見てから紙の角をぴたりと合わせ、ページを開いた。
紙を繰る音が、静寂の中心で淡々と続いた。
やがて、視線を紙から外さないまま口を開く。
「射撃……本日のグルーピング、四センチ以内で集弾。移動標的でも揺れは小さい。呼吸の切り替えは良好だ」
「……はい」
「格闘、FTOの評価。“反応速度、組織基準を上回る。危険察知の初動に迷いが少ない”。ただし“粘りは未知数”」
ブラインドの白い線がレンズに二本走る。
「なるほど。自己評価は」
私は舌を湿らせてから答えた。
「……基礎は維持しています。ただ、間合いの出入りで肩が前に出る癖が残っています。修正中です」
「良い。自覚があるなら早い」
感情の起伏を感じさせない称賛が、事実だけを肯定した。
「スパーは何本だ」
「二本です」
「三本目を避けた理由は」
「……集中が落ちると判断しました。怪我につながると考えました」
「判断は妥当だ」
彼は初めて顔を上げ、レンズの黒に私の像が小さく反射した。
「過信するな、ルーキー。数字は裏切らないが、数字は現場に立たない。現場に立つのはお前だ」
「……はい」
「FTOの報告に“対人距離を詰めない傾向”とある。必要な距離は取れ。だが、不要な壁は作るな」
胸の内側で何かが軋み、呼気がわずかに揺れた。線は自分で引け、と言われている。
「了解しました」
「よろしい」
備品管理の報告へ視線が移る。
「弾薬箱の追加申請……理由は」
「……既存箱の蝶番が緩み、訓練中に外れて薬莢が散乱する危険があります。予備を置けば交代がスムーズになります」
「妥当だな」
「訓練場の整備要望については」
「三番マットの端がめくれかけています。転倒に繋がる可能性があるので補修が必要です」
「……確認する。報告は整っている」
ペン先が紙の端を滑り、承認の署名が音もなく置かれた。
短い沈黙が落ち、紙と消毒薬の匂いだけが揺れた。
「他に」
「……いえ」
「そうか、では以上だ」
突き放すでも引き留めるでもない均質な終わり方が、いつもの調子で落ちた。
それでも私は扉へ向かう前に、ほんの刹那だけ足を止めそうになった。喉まで上がった言葉を奥歯で押し戻す。
……マスター。
熱を呑み込み、頭を下げる。
「失礼します、キャプテン」
取っ手の金属が掌に冷たく貼りつき、扉が薄い音で閉まった。
外ではジルが壁にもたれて待っていた。
「顔、真っ白。大丈夫?」
「……大丈夫です」
「鉄仮面、相変わらず。で、なんて言われたの」
「“過信するな”。それと“線を引きすぎるな”」
「まっとうで正しいけど、救いは薄いわね」
ジルは紙コップをくしゃりと潰し、「甘いの要る?」と訊いた。
「……大丈夫です」
「じゃあ自分のケアは自分で。私は私で甘やかすから」
手を振って去る背中を見送り、私はオフィスへ戻った。
席へ戻ると机の影がわずかに伸び、窓の外では街が薄い群青へ沈み始めていた。
残りの小さな束を片づけ、日付を書き込み、ファイルを所定の場所へ立てる。ラベルの文字の大きさを無意識に揃え、深く息を吐いた。
「セラ、そろそろ上がるか?」
背後からバリー。
「……もう少しだけ」
「分かった。今は物騒な事件もほとんどない。休める時に休んでおくんだぞ。ほどほどにな。」
「はい」
片手を上げる背中が遠ざかり、机の灯りが一つ、また一つと落ちた。空気が冷え、オフィスが広く感じられる。
私は椅子に深く座り直し、一本だけペンを残して他は引き出しに仕舞った。机の端に手のひらを置き、木の縁の小さな傷を指先でなぞる。その感触で、今の自分の位置をもう一度確かめた。
*
帰り支度を始め、ペンを一本ポケットに差し、IDとロッカーの鍵を確かめた。
ロッカー室で上着を羽織り、鏡に映る顔を見た。余計な感情を持たないように整えた顔が、こちらを見返していた。
今のキャプテン・ウェスカーは、上官として事務的に記録を読み上げる。
思い出の中の彼は違い、同じ「評価」の言葉に温度があった。数字では測れない何かを見抜き、それを面白がる余裕があった。
その落差が、胸の奥に静かな空洞を作っていく。
外へ出ると、夜風が頬を冷やし、街路樹の葉が波のように揺れた。遠くでサイレンが昇って、すぐに消えた。
書類が机に積み上がり、銃声が訓練場で響く。そんな日々の間に、私は自分の居場所をつなぎ止めている。
気がつくと、六月が手の届くところまで来ていた。
その頃から、この舞台は静かに軋みを上げ、動き始めようとしていた。
最初の“予兆”が、はっきりした姿で前に現れようとしていた。