5章



ある日、それは突然に告げられた。

ただ「来い」と言われた一言に従い、私は歩いた。

向かう部屋は、訓練場でも、観察室でもなかった。
白い壁、冷たい金属の光。中央には拘束アームを備えた処置台が鎮座し、点滅する制御パネルが淡い光を落としていた。
薬液を湛えたガラスの管が脈打つように揺れ、機材が低く唸っている。


理解していた。
ついにこの日が来たのだ、と。


心臓が鼓動を刻む。
けれど、震えではなかった。むしろ身体の芯が熱を帯びていく。

彼が、私に求めるものがここにある。

この痛みに耐えることができれば……
きっと、私は彼の理想に届くのだ。


処置台の脇に立つ影が視界に落ちる。
訓練を見ていた冷たい瞳ではない。
自らの理想を刻み込む時を待つ、創造主のような眼差し。


「……来たか、セラフィナ」

その声音に胸が震えた。
恐怖も痛みも、確かにそこにあった。だがそれ以上に、マスターに期待の視線で射抜かれているという事実がすべてを塗り替えていく。

私は頷いた。

マスター歩み寄り、掌でガラス管を示す。
黒にゆらめく液体は、生き物のように管を這い、脈動していた。


「これがお前を完成させる」
低く、確信に満ちた声。

「私の理想を具現化する力だ。……選ばれし者の証を刻む」
 

声色には揺るぎない期待があった。
視線の奥にあるのは、彼の理想の未来。


「横たわれ」


命令に従い、処置台に背を預ける。
拘束具が冷たく腕を包む。
金属の感触が皮膚を締め、動きを封じる。
息が浅くなる。けれど目は逸らさなかった。

マスターが注射器を持ち上げる。
黒い液体が光を呑み込み、鈍い影を床に落とす。


「恐れるな。……お前は私に選ばれた」

その声は静かで、だが底に熱を孕んでいた。 

「その名もそうだ」

マスターは黒い液体を照らす光を指で受け止めるようにしながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「セラフィナ──その名は“天使”を意味する」

声は淡々としているのに、どこか陶酔した熱が滲む。

「私が築く世界で、神意を実行する手足として選ばれた者にだけ与える価値のある名だ。偶然ではない。響きの美しさでもない。……私の思想に最も適合した存在に刻むべき、必然の名だ」

薄い笑みが浮かぶ。
それは他者に向けられたものではなく、己の創造に酔う創造主の笑み だった。

「“セラフィナ”は、ただの呼び名ではない。私が選別し、創り上げ、世界に送り出す証だ。天使が神の意志を運ぶように──お前は私の理想を体現するために在る」

サングラス越しに赤い瞳が煌めき、わずかに細まる。

「この名は、お前が私の理想へ至るための最初の刻印だ。最高の創造物に、他の名が必要だと思うか?」


胸の奥が焼けるように熱を帯びる。
“私”という存在は、彼の目には映っていない。
見られているのは、彼に創り出された存在でしかない。
けれど、それでもよかった。
名前がなければ私は何者でもなかったのだから。

「さあ、セラフィナ……本当に選ばれるべき存在なのか、その価値を証明しろ」


注射器が首筋に触れる。

次の瞬間、黒い炎の様な熱が血管を駆け抜けた。

まるで皮膚を内側から焼き破り、神経一本一本を炭にしながら逆流していく黒い火柱のようだ。

「……っ……!」

声が喉で凍りつく。
叫びは形になる前に、痛みの波に押し潰されて飲み込まれた。

皮膚の下を、何かが暴れた。

肋骨を内側から叩き割り、肉をかき分け、骨格そのものを別の形へ作り替えようとするように、暴力的な脈動が骨の奥から噴き上がる。

腕が焼かれる。
脚が裂かれる。
胸骨が軋み、黒い線が皮膚にうねるように現れる。

神経が一本ずつ引き抜かれるような痛み。


やめて!痛い!
そう思った瞬間、胸の奥底では別の声が冷たくささやいた。

耐えろ……壊れるな。


身体が痙攣し、金属の拘束具が腕に食い込む。
指先を強く握りしめると、爪が自分の掌に食い込んだ。
 

「……っ……ぁ……っ……!」

声にならない。
喉が焼き切れるようで、息だけがひゅっと漏れる。


そして、ぶちり、と嫌な音がして、肩の下から黒い触手が一本、勢いよく飛び出す。皮膚が裂けたのだ。

処置台の金属に叩きつけられ、空気を切り裂いてしなる。

続いて、肋骨の隙間からも、腕の内側からも、
何本もの黒い触手が暴発するように噴き出した。

金属を渡って高い音を弾き、室内の空気を狂わせるように暴れ始める。

拘束具が悲鳴のように軋む。
暴れ狂う触手のせいで、処置台が揺れ、器具が外れかける。

「っ……!」

私は身体を起こそうとするが、筋肉が勝手に痙攣し、自分の腕なのに言うことを聞かない。

飲み込まれる。
この黒が私を内側から食い破り、別の何かに変えてしまう──

脊椎に沿って、影が走る。
視界の端でものの形が歪み、世界が黒く塗りつぶされていく。

触手が天井へ向かって弾け、照明を粉砕する寸前で軌道を変え、
床へ叩きつけられ、金属板をえぐった。

観察室のガラス越しに、スタッフが一斉に後ずさるのが見えた。

「……制御不能か──」
「隔離の準備を―─!」


部屋の空気が変わる。
冷たい緊張ではなく、“失敗”の予兆としての恐怖が滲み出す。


触手が私の首に絡みつき、締め上げようとする。
皮膚が裂け、血がにじむ。

私は……
このまま黒いものに呑まれ、消えてしまうのだろうか。

せっかく、名前をもらったのに。
せっかく、選ばれたはずなのに。

“セラフィナ”の響きが、遠ざかっていく。

違う。
違う、違う。

壊れたくない。
ここで見捨てられたら、私は誰でもないもののまま。
それは……死よりも怖い。

さらに黒い触手が胸を突き破りそうになり、視界が白く弾ける。

その時、揺らぐ視界の端でひとつの光が刺さった。

マスターの燃えるような赤い瞳。

サングラスの下に隠されていたはずのそれが、むき出しの炎のように揺らめき、崩れ落ちていく私を正面から見ていた。

その光景が、胸の奥を刺す。

それは恐怖ではなかった。

胸のどこか──
深い深い層に沈めていた “幼い願い” に直接火をつけてしまうような熱。

触手が肋骨を裂く激痛よりも鋭く、私の中で何かが爆ぜる。

……見てほしい。
……まだ終わりたくない。
……未完成のまま“失敗作”として消えたくない……!

その瞬間、触手の暴走がさらに加速し、まるで私を飲み込もうと体の内外が黒い渦に変わった。

観察者のざわめきが悲鳴に近づく。

「限界だ!」

誰かの声が遠くで響いた。


……違う!

私は、壊れない。
壊れてしまえば、あの瞳にもう二度と触れられない!

胸の底から、獣のような焦燥が吹き上がる。

私は自分の内側で暴れる黒い力そのものへ手を伸ばした。

戻れ………!
喉を焼きながら、声にならない命令が漏れる。

触手が一斉に軋むように振動した。

背中が反る。
喉が裂ける。
骨が軋む。

私はさらに力を込めた。

黒い暴走の中心へ、自分の意識そのものを叩きつけるようにして押し返した。

まだ見てほしい。
まだ終わらない。
私は“最高の創造物”になる──

だから……
だから、どうか……

“私”を見て。


胸の奥に凍てついた祈りが走った瞬間、喉から掠れた声が千切れるように零れた。

「……っ……マ……スター……っ……!」

掠れ、震え、もはや声になっていない、ほとんど息のような声だった。
立派な呼び方ではなく、泣き出す寸前の子供が縋るような音だった。

だが、その一声で暴走する触手が、止まった。

まるで呼応するように、黒い線が皮膚の下へ吸い込まれ、暴れ狂っていた触手たちが一斉に弛緩し、力なく処置台の上に叩き落ちる。

焦点の合わなかった視界が、ゆっくりと輪郭を取り戻す。
焼けるような心臓の鼓動だけが、胸の奥で生きていた。


呼吸が戻る。
身体が軋みながらも形を保つ。

そして視界の向こうでは、まだマスターの赤い瞳が私を見ていた。

炎のように揺れながら。
創造主の確信を宿しながら。
崩壊の淵から戻ってきた 私をまるでそれを迎え入れるかのように。



やがて沈黙を破ったのは、彼の声だった。

誰に向けるのではなく、独り言のように溢れていた。

「……やはり、私の理想を裏切らない」
静かな熱に震える低音。

「ウロボロスは価値あるものだけを選ぶ」

セラフィナへと視線が固定される。

「そして……お前は選ばれた」

その言葉は理性ではなく、狂気に溺れる創造主の歓喜だった。

彼は処置台の縁に指先を置き、手袋越しにわずかに震えている私の顎を持ち上げる。

触れ方は冷たいのに、その目だけは熱に濡れていた。

「……美しい。想像していた以上だ、セラフィナ」

赤い瞳が、炎のように細くなる。

「最高の作品だ。私の手で選び、完成した存在」

マスターの瞳まるで……本当に、創り上げた芸術作品を見るかのように、私を映していた。

その事実だけで、この苦痛は意味を持つ。
血と肉を裂いた痛みさえ、価値へと変わる。


私は疲れ切って目を閉じた。
暗闇の奥で、黒い炎がまだ静かに息づいているのを感じた。

そして、その眠りを見守る影は、ただ一人。マスターだけだった。





数日間、私は深い水底に沈められたように眠っていた。

やがて、暗く濁った沼の底から意識がゆっくりと引き上げられ、肺の奥で泡が弾けるような咳が漏れた。
喉は錆びた鉄で裂かれたみたいに痛い。

重たい瞼を押し上げると、天井の光が滲み、輪郭の曖昧な世界が揺れている。

身体は石のように沈んだまま。
指先ひとつ、自分のものではない。

眠っている間に何度測定され、どれほど触れられ、観察されたか。
皮膚の下に残る僅かな痛みが、その答えを雄弁に語っていた。

意識の底を漂っていると、静寂を裂いて深く響く声が耳朶に届いた。

「……目覚めたか」

その声が私を捕らえていた闇を押し退け、意識を水面へと引き上げる。

瞼が重い。熱いような、冷たいような感覚に耐えながら、私は懸命に声の主を求める。

「……マ……スター……」

掠れた吐息のような声が唇から零れた瞬間、私の身体は、確かに彼の存在が放つ、冷たい熱に包まれていた。

マスターは端末に視線を向けており、その光が彼の頬を淡く照らしていた。

私は身じろぎ一つせず、沈黙のうちに、自分の身体の内側へと意識を向けた。
体はまだ鉛のように重いが、身体の感覚は戻ってきている。
皮膚の下、筋肉の奥、骨の髄へと探るように研ぎ澄ますと、そこには確かにあった。
胸の奥に異質な力が確かに潜んでいる。
血管の底で脈打つ、あの黒い力。

マスターの声が落ちる。

「セラフィナ。自分の内部に宿ったものを感じるか?」

その声音には、冷たさの底に探るような興奮の色があった。

私は喉の痛みに耐えながら、息を細く吸った。

「……はい。何かが……深いところで、脈打っています……」

痛みでも鼓動でもない。
ただ静かに、中心で渦を巻く黒い熱。

「その力を扱えるか」

問いかけは淡々としているのに、その奥に期待の火が見え隠れしていた。

私は息を細く吸い、胸の奥の黒い熱へ手を伸ばした。

……掴めない。
近づくほど、霧のように遠ざかる。

そこに確かに存在している。
けれど、私の意思には応じない。

「まだ……できません。触れようとすると……逃げてしまうようで……」

応え方がわからないという事実が、そのまま“未完成”という烙印に思えた。

マスターにとって未完成は、存在価値の薄い素材に等しい。

「……そうか」

マスターの期待の熱が、音を立てずに静かに落ちていく。

視界の端で、端末を操作する指が止まった。
動きがわずかに停滞し、視線がサングラス越しにこちらへ向く。

「……沈黙したままか」

その声には落胆も怒りもない。


胸の奥が軋む。
痛みではない。名前のない、深い沈み。

「……はい。呼び起こそうとしても……応えません」

マスターはゆっくりと姿勢を正し、短く言った。

「肉体はウロボロスと共生している。だが、核心はまだ眠っている……ということか」

事実を述べるだけの声。


「……ならば方法を探る。セラフィナ。お前の内部にある沈黙を破る手段をだ」

その一言が落ちた瞬間、胸の奥が微かに震えた。

まだ切り捨てられていない。
まだ必要とされている。

その事実だけが、石のように沈んだ身体を支えた。

「力の所在を自覚できるまで観察を続ける」

私は息を呑み、心の奥で焦りを押し殺した。

焦るな。
私はただ、彼の理想を完成させる器にならなければならない。

「……はい、マスター」

掠れた声でも返答は成立する。
それだけで十分だった。

マスターが部屋を出ていく。背中が扉の向こうに消えていく。
その一瞬で、胸が締め付けられるほどの空白が生まれた。

私はまだ見てもらえている。
それだけが、今の私の価値のすべてだった。




翌日から、観察は始まった。

入ってきたのは、白衣のスタッフが二人。
マスターではない。

それでも私は視線を動かさず、ただ彼らの手の動きを追った。

裸に近い体に冷たい電極が順番に貼られていく。
背中、腕、胸、首筋──
押し当てられるたびに、皮膚がひどく粟立つ。

左腕に太い針が突き立つ。
冷たい薬液が血管を這い、胸の奥へ沈んでいく。
身体反応、またはウィルスを活性化させる性促進剤かなにかだろう。
すぐに身体が反応するのが分かる。


その時──
背後から低い声が落ちた。

「沈黙は、より強い刺激で破られる」

いつの間にかマスターが、部屋の隅に立っていた。

「肉体に直接負荷をかける。内部の力が生存のために応答するよう、強制する」

その言葉と同時に、胸の奥の黒い熱が一瞬だけ跳ねた。


応えなければ。
私はまた“ここにある価値”を示さなければならない。

スタッフたちが電極の調整を終える。

「始めろ」

乾いた命令が落ちた。

次の瞬間、骨の髄まで裂く電流が走る。
背が勝手に反り返り、喉が裂けるように震え、声が零れそうになる。

「セラフィナ……耐えろ」

慰めでも激励でもない。
ただ“動作”としての命令。

電流が走る度に世界が白く砕け散る。

皮膚の下を黒い影が駆け抜け、
やっと力が反応するかのように熱が体の奥底から込み上げる。

「……っ、いま……!」

だがその感覚を掴もうとした瞬間には、力の影は霧のように薄れ、再び深く沈んだ。

「……反応は一過性だ。持続しない」

無機質な記録の声。

「強度を上げろ」

電流がさらに強くなる。
皮膚が裂け、血が滲み、視界がひずむ。

「……っ……マスター……!」

痛みに耐えきれずに呼ぶ。
声ではなく、存在の証明として。

焼け付く電流が奥深くを叩く。
そこに確かに彼の求めるものがあると信じて。

けれどウロボロスはそれに応えない。
沈んだまま呼び起こせない。

触れようとすると遠ざかる。
まるで、私の手の届かない深い場所で、何かをじっと待っているような……そんな気配さえあった。

全身の痙攣の中で、私はただ必死に祈った。

お願い……
早く目覚めて……
マスターの理想に届く形で……
私を完成させて……!

視界の端で、マスターの視線がわずかに動いた。
しかし探しているのは“私”ではない。
眠ったままのこの黒い力だけ。

胸の奥が裂けるように痛んだ。




別の日には、マスターとの戦闘での観察だった。

「構えろ」
ナイフを握る手に力が入る。
しかし、その手が思った以上に震えた。
握力が抜けているわけではないのに、手首がわずかに遅れる。
連日の電流での痺れがまだ指の骨に残っているようだった。


次の瞬間、視界からマスターは消えた。
胸骨の裏で衝撃が弾け、背中が床に叩きつけられる。
肺の奥から空気が逆流し、世界が反転する。
肺の底にたまっていた薄い血の味が揺れて、喉元まで逆流する。

「立て」
短い命令。

膝を震わせ、私はふらつきながら立ち上がった。
筋肉は確かにあるはずなのに、糸が何本か切れてしまったみたいに動きが噛み合わない。

刃を胸の高さに戻す。

だが影は再び消える。
肩に衝撃、視界が暗転。
床に落ち、血が口に広がる。

「まだだ」

低い声が容赦なく落ちる。
慰めも怒りもない。
ただ「動け」と命じるだけ。

血に濡れた床に掌をつき、私は起き上がる。
肺は裂けそうに痛い。
それでも刃を構えた。

見られているから。

「もっと速く動け。限界を引き出せ」
「……はい、マスター」

返答はもはや忠誠ではなく、縋りつきだった。

“見られている”という錯覚がなければ、私はすぐに壊れてしまう。




それからの日々、彼は私の“理想の姿”を確認するため、眠る力を呼び起こすために、幾度となく実験は繰り返された。
それは日に日に苛烈さを増していった。


光刺激、薬剤投与──
肉体を壊すほどの観察が続いても、眠る力は目覚めなかった。

触れようと手を伸ばすたび、黒い熱はまるで意図的に遠ざかるように沈んでいく。
自分の意志を測り、何かを選別しているかのように……。


どうして。
なぜ、私では足りないの……?

観察データを一通り確認したあと、マスターは端末の光に僅かに眉を寄せた。

「……刺激への反応が弱すぎる。肉体が適合している以上、この程度の刺激を与えれば、もっと顕著に発現してもいいはずだ」

端末に表示されたグラフをスクロールしながら、彼は一瞬だけ、手を止めて呟くように言った。

「……心理的な抑制……か?」

まるで独り言のような低い声。

だがすぐにその推測を自ら切り捨てるように、淡々とした声に戻る。

「いや……そんなことはあり得ない。感情など些細な変数だ。力の発現に影響を与えるほどの価値はない」

その言葉は、思考を整理するための自己確認のようだった。

それでも私は言う。

「……まだ耐えられます、マスター……」

体が砕けそうでも、意識が溶けても、私は祈った。

どうか、見ていて。
私はここにいます。
私はセラフィナ。
あなたの最高の創造物。

彼が名を呼ぶ限り、私は立ち続ける。

いつか──
いつかほんの一瞬でいい。
彼が “私” を見る日が来るのなら。

その小さな祈りだけが、砕けかれていく私を生かし続けていた。


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