5章



それから、どれほどの時間が流れたのだろう。

数字にすれば、いくつかの年。
だが、あのとき震える腕でナイフを握りしめていた幼い私と、いま鏡の前に立つ私とを並べれば、その距離は年月では測れない。
もはや別の生き物と呼んだ方が正確かもしれない。

成長という言葉は使いたくなかった。
それは “人として” 前へ進む過程を示すからだ。
私に起きた変化はずっと冷たく、もっと単純なのだ。

不要な揺らぎがひとつずつ削ぎ落とされ、マスターが求める理想へと研ぎ澄まされていった結果、彼の望む道具として正しく仕上がっていった。

いまの私は、その形だ。

鏡に映るのはもう、痩せこけた子供ではない。

背は伸び、骨ばっていた四肢にはしなやかな筋が浮き、頬の幼さは消え、表情は必要以上の揺らぎを持たなくなった。

それは理想の形へ向け、意図的に磨き上げられた結果の顔だ。
マスターの手で、そう“仕上げられてきた”ということ。

その事実を、私はただ静かに受け入れている。

胸の奥に残ったわずかな温度は、こうして形を整えるたびに自然と深い場所へ沈んでいった。

表に出す必要はもうどこにもない。マスターの求める“手足”として歩くためなら、それで十分だ。


マスターも、変化に気づいているのだろう。

ある日報告を終えた後、不意に視線がわずかに私の全身をなぞり、短く告げたことがある。

「セラフィナ…………お前は、私の理想にのっとり、正しく仕上がってきている」

その声音は、感情を乗せたものではなかった。
ただ、思考の端がふと零れ落ちたような響きをしていた。
それでも、そこには自分の計画が予定通りに進んでいるという静かな満足が、淡く滲んでいるように思えた。


胸の奥で、かすかな波紋が広がった。
ほんの一瞬だけ、内側のどこかが微かに疼く。
しかしそれを認識した瞬間には、そっと傍へ追いやる。

その種の揺らぎは、道具としての機能を阻害する。価値があるのは従うことだけで、胸の内側がどう触れたかなど気にする必要はない。

ひどく苦い沈黙が残る。
けれど、それも正しい処理だと自分に言い聞かせた。

私は、ただ答える。

「マスターのご指導の結果です」

それ以上でも、それ以下でもない。
そう言い聞かせるのにも、もう慣れてしまっていた。

 



マスターとの距離は、静かに変わった。

監視下に置かれ、ただ動向を観察されるだけの存在ではなくなった。
いまの私は、計画の芯に触れる情報を、直接与えられる。

この施設の構造、資金の流れ、試験運用中のウィルス、各地の協力者、計画の断片や、新たな任務の意図。

必要と判断されたものは、逐一共有されるようになった。
確実な戦力として計算に組み込まれているのだ。

 

モニターに浮かぶ立体構造は、黒い螺旋のような有機物だった。
それはまだ完成には至らないものの、すでに“ウロボロス”と呼ばれていた。

横に並ぶ映像では黒い鞭のような触手が宿主の細胞を貪り、最終的に“器”ごと破壊してしまう過程を映していた。

「程なくすれば、これは従来のウィルスとは呼べない領域に到達する。進化を強制し、生存を選別し、世界の枠組みを作り変える」

彼はサングラス越しに、こちらを一瞥した。

「そのとき必要になるのは、私の思想を正しく理解し、実行できる手足だ。
――お前のことだ、セラフィナ。他の誰でもない」

胸の奥が、一瞬だけ軋む。
だが私は、まぶたひとつ動かさずに頷いた。

「光栄です、マスター。その時が来るまでに、さらに精度を高めます」

内側からふっと浮かび上がった熱を、私は“手足としての誇り”という名へ静かに置き換える。
本当はもっと幼い言葉で呼びたくなる衝動が、意識のどこかでかすかに揺れたが、それは聞こえないふりをして、深い水底へ沈めるのだ。

 



その日、任務は静かに告げられた。

作戦室の照明は、いつもと変わらない白さだったのに、マスターの声はいつもよりいくぶん低く聞こえた。

「改良したプラーガサンプルを、あるルートへ流していた」

壁一面のモニターに、運搬船の倉庫の映像データが浮かぶ。

「本来なら、予定通り試験結果が戻ってくるだけのはずだったが……取引先が、愚かにも封鎖手順を無視した」

映像が切り替わる。

薄暗い倉庫。
ひしゃげた金属扉。
床に散らばる血と、破壊されたコンテナ。

マスターは別の映像を開いた。

そこには寄生された個体が、まだ寄生されていない男性の頭を無理やり押さえつけ……口をこじ開け、粘液まみれの成体を喉奥へ押し込んでいた。

映像は荒く、音声はない。
それなのに、喉を裂くような悲鳴が空気に残っている気さえした。

「……寄生行動が連鎖していますね」

私が淡々と述べると、マスターも短く頷いた。

「ああ。本来ならプラーガは卵の状態で封じられ運ばれるはずだった。だが取引相手は運搬中のサンプルを……開封した」

映像が切り替わる。

そこには、卵のバイアルが無造作に転がり、
割れたケースから粘液が流れ出した様子が映っていた。

その粘液の中でいくつかの小型のプラーガ幼体が蠢いている。 



「取引相手はこの現場を放棄し、証拠も処理せず逃走した。その結果が……これだ」


マスターの指先の動きに合わせて、惨状の映像が切り替わる。
そこには取引相手の男の顔写真が浮かぶ。

薄い笑み。
状況の重大さを理解しない凡俗の象徴。


「今のところ残状は船内に限定されている。だが制御を失った船が港へ辿りつけば、外部への漏洩は時間の問題だ」


声が温度を一段下げる。  

「……最近はBSAAが生物兵器の取引について、しつこく捜索しているようだ」


その名を口にするとき、
マスターの声音はひどく静かだった。
怒りでも焦りでもなく、誤算を許容しない者の冷たさ。


「下手な騒ぎを起こせば、やつらに足跡を踏ませることになる。ウロボロスの開発の最中に嗅ぎ回られ、この場所に気付かれるような愚かな事態は避けたい」


マスターはモニターからゆっくりと視線を外し、椅子を回転させて私へまっすぐ向き直った。

「処理するべき対象は二つ」

「二つ、ですか」

「一つは、現場そのものだ。漏れ出したサンプルと、そして記録されたあらゆるデータを痕跡ごと焼却しろ」
 
「承知しました」

「もう一つは、その男だ。自分の愚行の後始末すらできない人間に、生きる価値はない」

マスターは椅子から立ち上がり、こちらへ歩み寄る。
足音はいつも通り規則正しく、迷いがない。


「……お前ひとりで十分だ、セラフィナ」

私ひとりで、十分。

それは決して無茶な命令ではないと、私も理解していた。
これまでの訓練と任務で培ってきた実績の延長線上にある判断だ。


「了解しました。対象区域の見取り図と、男の最後の位置情報が必要です」

「すでに端末へ送ってある。」
 
「現場での判断は……私に一任でよろしいですか」

「ああ。現場でお前が最適と判断した方法で構わない」

マスターはそこで一拍置いてから、静かに言った。

「……お前は、すでにそういう判断を任せられる段階にいる」

胸の奥に落ちたそれは、もはや火花のように燃え上がることはなかった。

ただ、重みとして静かに沈めていく。
私は深く頭を垂れた。

「ご期待に沿えるよう、遂行します。マスター」

 



目的地は、沿岸から数キロ離れた貨物海域だった。

夜の海は、油と塩の匂いが混ざり合い、陸よりもはるかに冷たく、湿った空気を肺へ沈めてくる。

高度を落としていくヘリのローター音が、潮風にかき消されていく。
やがて視界に、問題の運搬船が黒い塊として浮かび上がった。

甲板の照明は落ちている。
本来稼働しているはずのクレーン音もなく、
“死んだ船”のような沈黙だけが漂っていた。

私は機体後部の扉に立ち、風の流れを読む。

「着地可能範囲に到達。……侵入する」


直後、私は夜気へと身を投げた。
そして靴底が金属甲板をかすめるように着地する。

ヘリはすぐさま高度を上げ、海上の闇へ溶けていく。

私は膝をわずかに曲げ、甲板周囲の死角を無音で移動した。

端末には、マスターから送られたこの船の内部構造のデータ。
赤いゾーンは、ちょうど船腹倉庫区画――寄生が始まった場所だ。

「対象区域、接近」

自分の呼吸だけが、耳の奥で静かに響いた。

船腹へ続く鉄扉は、乱暴に叩き閉められた痕跡が生々しく残っていた。
蝶番が歪み枠ごとねじれている。


私は手袋越しに金属へ触れ、わずかに力の流れを確かめた。

全身の軸をひとつにまとめ、肩で静かに押し込む。

金属が悲鳴をあげるような鈍い音を立て、歪んだ扉は押し曲げられる形で開いていった。

抵抗はあったが、私の身体にとっては障害ではない。
ただ静かに、確実に突破できる程度の重さ。

扉がわずかに開き、隙間を広げて暗い船腹へと身を滑り込ませた。


中の空気は鉄と血と薬品の刺激臭が混ざり合い、粘つくように肺へまとわりつく。

暗視機能を起動させると、そこには、人の形の名残をわずかにとどめた影がいくつもあった。


眼球は濁り、関節だけがぎこちなく動き、まるで人間の真似をしようとするように蠢いている。

さらに奥には、頭部が完全に破壊され、裂けた首の断面から甲殻質の構造が外側へ展開しつつある個体もいた。

彼らはもはや寄生体の意思に支配された器に過ぎない。
 

狙う場所は決まっている。
脳幹の奥、寄生が根を張る一点。
ただそこを正確に撃ち抜けばいい。


「対象を複数確認。処理を開始します」

私は銃口を上げた。

甲高い悲鳴を上げる前に、弾丸はすでに寄生核を破壊していた。

一体、また一体。
倒れた肉体は痙攣し、やがてすべての活動が途切れた。

私は動きを止めた影の数を確認し、余計な感情を一切挟まないまま銃を下ろす。

そこにはもう、生命の動きはなかった。
残ったのは、硝煙と肉の焦げた匂いと薬品が混じった、冷たい匂いだけ。


私はサンプルに必要な一部を念の為採取し、残りに燃焼処理用の薬剤をまいた。

火をつければ数分で船倉は空洞になるだろう。

作業を終えた私は、静かに屋上デッキへ戻った。

遠くで回転翼の音が聞こえる。

ヘリが降下するとロープを掴み、私は船を離れる。

数十メートル離れた空中で、私は点火装置を起動する。

そして船体の内部から、炎が噴き上がった。

赤黒い火柱が金属の隙間を舐めるように立ち上がり、燃焼薬剤が反応して一気に火勢が広がる。

私は揺れるヘリの中で、その光景をただ見つめた。

哀れみも達成感もない。
あるのは、任務の確認だけ。

「……痕跡全て抹消済」

口にした言葉は、呼吸と同じように自然だった。

私の仕事は、マスターの計画に不要な誤差を消し、次の段階へ進むための環境を整えること。

炎が船を飲み込む様子を、私は確認するように目に焼き付けてから視線を逸らした。

  
ヘリの扉が閉まり、船が闇へ消える。
静かな振動だけが、胸の奥で淡く続いていた。





運搬船をヘリで離れた後、私はすぐに逃走中の男を追った。

衛星と監視網から割り出された位置情報は、街外れの小さなホテルを指していた。


逃げ場として最も選びがちな場所だ。
合理性の欠片もない。


私は廊下を音もなく進み、目的の部屋の前で立ち止まった。

ホルスターに指先を触れ、私は静かに銃を取り出す。

黒いサプレッサー付きのスライドは、使い込んだ金属の光をわずかに返す。

この銃は、マスターが私のためだけにカスタムしてくれたものだ。
今は反動の重み、トリガーの引き幅、冷たささえも、私の筋肉とひとつの動きで繋がっている。

その使い込まれた様子はまるで“手足”として完成した証のようだ。

私は銃口を下げ、部屋の中に意識を向ける。


内部から漏れる音は、荒い呼吸と何かを袋に乱暴に詰め込む音だった。

ドアノブを握った。
当然、鍵はかかっていた。

私は小型ツールを取り出し、鍵穴へ静かに差し込む。
僅かな赤い線が鍵穴内部を走り、ピンの高さを正確に読み取っていく。
1秒も経たないうちに、内部構造の答えが機械へ伝わった。

ツールの表面がわずかに脈動し、カチリと空気に溶けるような微音が鳴る。


扉を開け、蝶番がわずかに緩む瞬間にはその隙間へ身体を滑り込ませる。


男の驚愕した顔がこちらを向くが、私はもう銃口を向けていた。
男の額に、黒い円が静かに吸い付く。

「……動かないでください」

私の声は淡々としていた。

男は悲鳴とも言えない濁った息を漏らし、握っていたガラス瓶を床に落として後ずさる。

私は安全装置を外した銃をわずかに傾け、男の動きを封じる圧力だけを視線で叩きつけた。

「な、なんだお前……! ど、どうやってそのドアを――」

大声で騒ごうとする男に対し、私はそっと銃口を唇のすぐ下へ押し当てる。

「声を上げる必要はありません」

耳元で囁くような低さ。
それだけで男の呼吸が止まる。

私は膝を軽く折り、男の視線と同じ高さに沈んだ。
銃口は触れるか触れないかの距離で、的確に急所を外さない。

「質問にだけ答えてください」

男は悲鳴とも言えない濁った息を漏らし続けている。
 
「今回のサンプル。他に情報を渡した者はいますか」

静かに、ただそれだけを問う。

単純な質問。
だが逃げれば即死だと本能で悟ったのだろう。

男の瞳は揺れ、額に汗が滲む。
喉がざらりと鳴り、語尾が崩れ落ちる。

「だ、誰にも……渡してない……本当だ!」

「では何故、運搬中に取引サンプルの開封を?」

男の口がぱくぱくと動く。
酸素を取り込みながら、言い訳を探し、しかし見つからない。

「ち、違うんだ……!開けたのは俺じゃ、俺じゃなくて……仲間が……!俺は止めようと……止めようとしたんだ……!」

「止められなかった、ということですか」

声は変わらない。
淡々と、ただ事実を並べていく。

それが逆に、男の心を深く抉った。


「あのサンプルの危険性を理解していたのに、わざわざ運搬中に開封し、封鎖もせず逃げた。――その判断のどこに、合理性がありますか」

男の表情から血の気が完全に失せる。
自分の行動の愚かさの形が、いま初めて輪郭を持ったのだ。

私はゆっくりと、わずかに首をかしげた。

「もう一度聞きます。他者に情報を漏らしましたか?」

男は叫ぶように首を振る。

「……いない!いない!誰にも話してないんだ、信じてくれ……!」

私は静かに息を吸い、銃口を再び額へ寄せる。

震えは悲鳴より速く、全身へ走った。

「……わかりました」


私はゆっくりと姿勢を正し、男の額へ銃口を向けた。

「では、質問は終わりにします」

その言葉に含まれる意味を理解したのか、男は最後に短い息を飲んだ。

引き金を引く感覚は、もう心を波立たせる重さを持っていなかった。

抑え込まれた乾いた破裂音。
肉体が力を失い、床へ沈む音。

静寂の中に数分前まで生きていた痕跡が部屋中に散らばっている。

だが、それらもすべて処理される。
的確な処理により死体もデータも消え、跡形もなくなる。

私は男の所持品を確認しながら必要なデータを抜き取り端末へ送信した。

「……終了」

冷たくそれだけを告げ、部屋を後にする。
背後で扉が閉まる音は、任務の区切りを示しているようだった。
 




報告は短く、正確に行われる。

「拡散現場のサンプルは必要分のみ回収し、残りは焼却しました。船内の個体は全て処分済み。監視カメラと電子ログも消去済みです」

マスターは端末に視線を向けたまま問う。

「……逃走した男は?」

「排除しました」

私は手元の端末を操作し、男の行動パターンと残留データを立体投影する。

淡い青の軌跡が、男の逃走経路を描いていた。
港から離れ、街外れのホテルへ直行。
外部との接触も通信も一切ない、孤立した一本の線。


「確認できる限り、情報の漏洩はありません。
逃走後の行動は単調で、接触相手なし。暗号化領域の通信履歴にも“外部送信の痕跡”はありません」

マスターの視線は依然として投影データを滑っていく。
声は促しも拒絶もなく、ただ判断の続きを要求する沈黙。

私は淡々と続ける。

「現場の足跡・体液・DNA反応を照合しましたが、取引メンバー以外の痕跡は存在しません。第三者の介入は測定できないかと」

マスターがスライドを切り替える音がする。

私は続ける。

「尋問の供述は生体反応と一致していました。呼吸の変化、声帯の揺れ、瞳孔の様子など、どれも虚偽を述べているようではありませんでした」

サングラスの奥の視線がこちらへ向いた。

「以上より、情報の漏洩は否定でるかと」


「……お前の判断なら、誤りはないだろう」

短い静寂を挟み、低く、満足の色を含んだ声で告げられた。

「よくやった、セラフィナ」

私は深く頭を垂れた。

「ご期待に沿えて、光栄です、マスター」


マスターは立ち上がり、モニターに映る黒い螺旋――未完成のウロボロスの立体構造へ視線を移した。

指先がモニターをなぞる。
その軌跡はまるで、なにかを仕上げていく工程を確かめるようだった。
素材の強度、器としての条件、投与段階の推移……
かつて幾度となく私にも向けられた、あの無機質で正確な手つき。

そして、ゆっくりとこちらへ振り返る。

「……間もなく、ウロボロスは次の段階へ移行する」

一拍置いて、彼は静かに続けた。

「選別はより厳密になり、適合する者は限られる。だが……私が求める理想は、もはや遠くない」

サングラスの奥で、赤い光がわずかに揺れた。

「そのとき……私には、お前が必要になる」


マスターと過ごした幾年の中で、その意図は説明などなくとも、もう理解していた。

私はただ静かに胸の前で手を組み、その運命を淡々と受け入れる。


「……必要とあらば、いつでも」

私がそう返すと、マスターの口元がわずかに持ち上がった。

満足げに、確信に満ちた微笑。

「いずれ私は世界そのものを再編する。その瞬間、“私が仕上げた最高の作品”が隣に立っていなければならない」

最高の作品。

マスターの思想を体現する、ひとつの象徴となること。
マスターの手により“完成“されるということ。

かつてなら胸が震えただろう予感は、今は静かな受容に変わっていた。

私はただ、淡々と頭を垂れる。

「……命じられるままに。マスター」

それ以外の選択肢を、私はもう持ち合わせてはいなかった。


私は言い聞かせる。

――私は道具で構わない。
――マスターの“作品”で構わない。

そう繰り返すたびに、胸の奥の何かは静かに溶けていく。
まるでそれで本当に満たされるのだと錯覚してしまう。

……だが、その奥に消えずに残る影がある。

いつか“最高の作品”として完成したときだけは、ほんの一瞬でも私を見てもらえるかもしれない。

そんな淡い願いは、本来なら道具である私が抱くべきではない。
叶うはずもない。だから無視するしかない。

それでも――消えはしない。

私はそれを押し沈めながら、ただ前を向く。

完成すれば、いつか。
その一瞬の可能性だけが、未だに私をここに留めていた。

 


その夜、私は横になりながら、作品として“完成される”いつかを思った。


……私はただの道具だ。
そんなことは起きない。分かっているのに、思考の底で淡い期待だけが微かに揺れ続けてしまう。


私は胸の奥で、あの音を転がした。

――セラフィナ
――アルバート

理由もなく捨てられない、小さな箱にしまい込んだ秘密の宝物のように……
気づけば、ずっと胸の底に置いてしまっているのだ。

ふと昔、小石を握っていた少年を思い出す。
飢えていたくせに、食べられない石をお守りだと言っていた少年。

当時の私は理解できなかった。
意味のないものに縋るなんて、と。

でも今は――

……皆、何かを沈まずに抱えていたいだけなのだ。
それが石であれ、ただの音であれ。

その響きが救いの形をしているかのように、
自分でも理由が分からないまま、離すことができないのだ。

私は目を閉じた。

明日になれば、私はまた“使われる形”に戻る。
それでいい。
それ以外を望んではいけない。

……それでも胸の底で、壊れたように澄んだ幼い願いだけが、仄暗い水の中で、静かに沈まずに揺れ続けていた。

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