5章
マスターとの訓練はこれまでと違い、他者が立ち入らないとされるほとんど私室に近いフロアで行われた。
私はそこのアクセス権を腕の端末に付与され、自由に行き来する事が許された。
マスターへの従属を口にしてからは、ここでの扱いは……ずいぶんと変わったと思う。
腕をかざすと電子ロックが外れ、低い重音とゆともに扉が開く。
マスターは背を向けたまま、まっすぐ中央に立っていた。
ここは完全に戦闘のためだけに整えられた部屋。余計な障害物が何ひとつない空間は、まるで逃げ場を許さない実験場のようだ。
「来たか、セラフィナ」
「はい……マスター」
自分の声が震えているのが分かった。
この人の前に立つといつも胸の奥の何かがざわついて、言葉がうまく息と混ざってしまう。
マスターは振り返らず淡々と告げた。
「これからお前には、適合者としての戦い方を教えていく。生き残るために必要な、そして殺すために必要な動きだ」
心臓が跳ねた。
適合者としての戦い方――
それは人間としての限界を捨て、殺すための動きを身につけろということだ。
その響きは恐ろしいはずなのに胸の奥はちがう感情で満たされていた。
この身体への変化は望んだ覚えなど一度もないのに。
怪物へ近づくのは本来、拒むべきはずなのに。
でも、時々思っとしまうのだ。
これは望まなかった結果ではなく、もしかするとずっと奥底に沈んでいた渇望そのものが形になってしまったのではないか、と。
誰かに必要とされること。
名前を呼ばれ、役割を与えられ、教えられ、導かれること。
それを私は、ずっと求めていたのかもしれない。
マスターがこちらを見た。
サングラス越しなのに視線の鋭さだけが皮膚を突き抜けてくる。
「お前の身体はすでに人間では到達できない段階にある。今さら疑う意味はない」
マスターはさらに言葉を続けた。
「だが、お前の動きにはまだ無駄が多い。使い方が分かれば、その身体はもっと速く、もっと鋭く、もっと合理的に動けるはずだ」
それはただの観察された事実にすぎないはずなのに、期待されているという事実に胸の奥が甘く震える。
「構えろ。まずは――私を倒すつもりで来い」
「……はい……マスター」
武器もない。ただ身体ひとつ。
私は深く息を吸った。
私が生き残った意味。
マスターについていく理由。
名前をくれた人に必要とされるという証明を今からするのだ。
マスターが一歩踏み出す。
硬質な足音が床を打ち、それだけで肌に“圧”が触れるようだった。
胸の奥がぞくりと震える。
次の瞬間、空気がわずかに揺れた。
マスターが動いたのだと理解できたときには、もうその姿が目の前に迫っていた。
速い――
これまで相手にしてきた怪物とは桁違いの速さ。
腕が閃き、空気が裂ける。
私は本能だけで身を翻し、床を転がる。
「ふむ。悪くない。だが、それではまだ遅い」
背後から落ちる低い声。
私は立ち上がり、再び床を蹴った。
しかし、マスターは視界から消えた。
いや――速すぎて、消えたように見えただけだ。
肩口に重い衝撃が走る。
身体が床へ叩き伏せられ、そのまま壁に跳ね返る。
肺から空気がこぼれ、喉が焼ける。
視界が揺れ、天井の照明が滲む。
速くて、重い……
マスターもまた、人間を超えた動きをするのだと、身をもって理解した。
そしてこの一撃のダメージも、過去の私なら骨も内臓も砕けていたはず。
今は痛みと同時に、回復の感覚がある。
私も同様に、人を捨ててしまっているのだ。
「どうした。まだ終わりではないはずだ」
床に長い影が落ちる。
マスターの足元から冷たい威圧が伝わる。
私は拳を握り締め床を押した。
指先が滑りそうになるたびに悔しさが胸を刺す。
倒れ続ければ失望されるだろう。
弱ければ、置いていかれる。
それだけは嫌だった。
あの背中が遠ざかるのが、怖かった。
「……まだ……立てます……マスター……」
痛みは確かにあるのに、その奥で何かが静かに燃え上がり、視界が細く鋭く収束していくのが分かった。
マスターはわずかに顎を引き、口角をあげる。
「――そうだ。その目だ」
その一言で、脚に再び力が戻った。
私はふらつきながらも構えをとる。
痛みを無視し、恐怖を削ぎ落とし、ただ求められる領域へ踏み入れなければ。
マスターは数歩下がり、まるで試すように喉の奥で低く言う。
「来い。お前がどれほど“選ばれた身体”に馴染みつつあるか――見せてみろ」
「……はい、マスター」
私はこの人に見られたい。認めてほしい。
選ばれたと錯覚していたい。
その願いが恐怖よりも深い場所で脈打っている。
返事をするやマスターが再び動いた。
黒い影が床を裂くように走る。
速い――けれど、さっきよりは追える。
私は呼吸を合わせ、彼の肩のわずかな沈みを読んで横へ跳んだ。
視界の端を影がかすめ風が頬を切る。
その瞬間、私は全身をひねり、腕を伸ばした。
掌底が、マスターのわき腹を捉える。
乾いた衝撃。
骨の芯にまで反動が走り、その振動が床にまで伝わる。
――届いた。
たったそれだけで、胸の奥で何かが爆ぜた。
熱が滲み、血が脈打つ。
それはウィルスの昂ぶりか、私自身の歓喜か分からない。
ただ、生き物が目を覚ますように身体の奥がざわついた。
マスターはその一打を受けて、一歩後ろへ下がった。
驚いたようにも、試すようにも見えるその表情。
サングラスの奥の視線が、より深く――私という存在そのものを測るように沈んでいく。
「動きは読めてきたな」
マスターはゆっくりと私へ視線を戻した。
「だが――足りないな」
低く落とされた声は、冷静に観測結果を返すような響き。
「その身体は速く、動きも正確だ。だが……軽すぎるようだ」
マスターの視線が私の腕をかすめる。
「お前の一撃では、スピードは出せても決定打には至らない」
胸の奥がひりついた。
ウィルスに適合して速くなっても、痛みに鈍くなっても、骨が折れても立てる身体になっても――
この腕は細く、骨ばっていて、痩せた身体はまだ未熟なままだ。
内側だけがウィルスに引きずられて、限界値を無視した速度や反応を獲得してしまっている。
“殺す”ためには不足している。
マスターにそう断言された事実は、殴られるよりも鋭く、胸の奥をえぐった。
そのとき――マスターの手が動いた。
黒いグローブがゆっくり腰のホルスターへ滑り込む。
そして銀色の刃がふわりと空気を裂いて宙を舞った。
「……!」
反射だけで手を伸ばし、私はそのナイフを掴む。
掌に沈み込んだその重さが、マスターの期待のように感じてしまう。
マスターはそのまま歩み寄り、私のすぐ横へ並んだ。
「素手で足りなければ、補えばいい」
耳元に落ちた声は低く乾いていて、熱を帯びているように感じた。
「……殺す気で来い、セラフィナ」
その言葉の響きだけで心臓が跳ねた。
「その身体の“本当の使い道”を、見せてみろ」
血管の奥で何かじわりと熱を帯び、視界の輪郭が更にゆっくりと研ぎ澄まされていく。
私はゆっくりとナイフを握り直した。
刃の重さが、私の鼓動と同じリズムで震えているように感じる。
――この人に応えたい。
それだけが、胸の奥のもっと深い場所で脈打っていた。
「……はい、マスター」
私はふたたび間合いを取り、床を強く蹴った。
小柄な身体では正面からの重さで勝てない。
けれど軽い分だけ、速さでなら追いつける。
踏み込むたびに世界がわずかに遅くなる。
刃が光を裂き、一直線にマスターの胸元へ向かって伸びた。
届く。
そう思った瞬間――
「違う」
低い声が落ち、同時に手首を掴まれた。
ナイフの刃は、まるで空気に縫い止められたかのように、マスターの掌で完全に静止していた。
その圧倒的な差に、喉がひくりと震える。
「速いだけではだめだ」
淡々とした声が、耳の奥に落ちる。
「お前の腕では、刃はこの角度で走らせなければ殺傷には至らない」
そう言ってマスターの指が私の手に重なった。
革手袋越しに伝わる温度が、強烈に熱を持っていた。
その手で私の手首を導き、ゆっくり、正確に軌道を修正していく。
刃の角度。
殺すために必要な位置。
動かすべき方向。
ひとつひとつが手を取りながら教えられる。
息が震えた。
これは“殺すための動き”を教えられているだけなのに。
やがて、マスターが身を引き、私の手から離れた。
「もう一度だ」
そう言って間合いが取られると、私は再び踏み込んだ。
先ほどよりも深く、速く、正確に――
刃が空気を裂き、ほんのわずかにマスターの頬に風を触れさせる。
私はさら加速して刃を振るい、足を滑らせ、視界に残った影だけを追う。
殺すための動き。
生きようとする本能。
そして、もっと原始的で幼い――“見てほしい”という渇望。
その三つが、胸の奥で絡まり合う。
限界ぎりぎりで身体を回転させた瞬間――
視界が突如、黒い影で埋まった。
マスターが私の動きを完全に読んでいた。
背中を掴まれ、引き寄せられた勢いのまま床へと叩き落とされる。
「──あっ……!」
馬乗りになられ、冷たい金属が喉元へ――すっと押し当てられる。
私が握っていたはずのナイフが、いつの間にかマスターの手の中で静かに光っていた。
マスターの顔が近い。
「首を断つなら、ここだ」
刃が喉元をなぞる。
皮膚を浅く裂く軽い痛みとともに、薄い血の線が――私の呼吸に合わせて震えた。
「そこから数センチずれただけで、殺せない」
低い声が喉元へ直接染み込むように響く。
息が勝手に細くなる。
身体が震えて、止まらない。
今まで、誰もこんなに私を見たことなんてなかった。
それがたとえ“使える素材だから”という理由だとしても、マスターは一瞬たりとも目を逸らさない。
それがどうしようもなく嬉しい。
これは錯覚かもしれないと分かっているのに。
でも止められない。
マスターは私の震えに気づいているのか、あえて無視しているのか、その境界すら分からない。
「……しかし――今の段階では、上出来だ」
刃が離れ、喉の冷たさが消える。
なのに胸の奥で燃える熱だけは、逃げ場を知らないまま脈を打ち続ける。
「……マスター……」
掠れた声が漏れたのは、
恐怖でも安堵でもなかった。
名のつかない何かが、喉を押し上げていた。
マスターは立ち上がった。
その影が離れていくのに、皮膚にはまだ体温が残っている。
「その速さを生かす、ナイフや銃の戦い方を身につけるべきだ」
振り返らずに告げる。
「……特注のものを用意させよう」
そして最後にわずかに振り返り、視線がぶつかった。
サングラスの奥にある目が、私を“評価する者の目”として静かに向けられる。
「期待しているぞ、セラフィナ」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥がびくりと跳ねた。
刃を突きつけられたときよりも、ずっと強く、痛いほどに。
“期待されている”
その感覚を、私は一度も知らなかった。
床に手をついたまま、私はようやく息を吸い直した。
喉の傷に触れた空気が、ひどく熱い。
――マスターの役に立てるなら、何でもできる。
そんな思いが胸の奥で静かに形になりはじめていた。
危ういと分かっていても、止められなくなっていた。
*
訓練の後、私はまだ身体の奥に残る熱を抱えたまま、拠点の静かな廊下を歩いていた。
夜の研究区画は、他の区画とは違う。
ひどく静かで、機械の低い駆動音が腹の底に響くような静寂。
疲れているはずなのに、眠気は訪れなかった。
——期待しているぞ、セラフィナ。
その言葉が、何度も胸の奥でくすぶり続けているからだ。
気づけば歩きながら、私は無意識のうちにマスターのいる階層へと足を向けていた。
そこへ向かう理由などないはずなのに、身体がそちらへ傾く。
……それが危ういということを、理解していなかった。
不意に、空調の低い振動音に混じって、どこからか聞き慣れない高い声が響いた。
女の声。
気にする事なく、過ぎ去ろうとした矢先、続くように聞こえたのは、マスターの低い声だった。
私は思わず足を止めた。
無意識だった。
耳が勝手に音を追った。
聞いてはいけない、と頭のどこかで分かっているのに、気づけば神経を集中して会話を探っている自分がいた。
「……あなたが面倒を見ている子のこと、聞いたわ」
女は楽しげに笑った。
「あんな子を拾って育てるなんて……あなた、意外な一面もあるのね」
「価値があったから拾い上げた。あれは次の段階へ進める」
――“あれ”。
その表現に胸の奥がきゅ、と縮む。
その女は、くすくす笑いながら続けた。
「ふふ……そんなに気に入ったの?あんな子供を相手に……まるで――」
「価値のある存在を、正しく評価をしているだけだ」
価値がある……。
言葉自体は訓練中にも言われたその響きなのに、誰か別の人間に向けて語られると、なぜこんなに痛いのだろう。
「そう。ずいぶんとご執心なのはわかったわ。珍しと思っただけ。あなたが“自分以外の成果”を褒めるなんて」
「適合者は貴重な存在だ。それを私の手で仕上げ、使いこなすのは当然だろう」
私の手で仕上げ、使いこなす。
それは、訓練で言われた「期待している」とは違う響きだった。
私は急に、喉に鉄みたいな味を感じた。
「そうね。あなたがそんなふうに誰かを“選んだ”という事実が面白わ」
「……この先の計画に不可欠だ。選ばれたという事実は、いずれ誰の目にも否応なく明らかになる」
女がくすりと笑った。
甘く刺すような声音。
「あら……ずいぶん本気じゃない。あの子ひとりのために、あなたがそこまで言うなんて」
マスターは揺らぎもしない声で返す。
「事実を述べているだけだ。いずれ――私が仕上げる“最高の作品”が、しかるべき場所に立つことになる」
「最高の作品……。ふふ、あなたらしいわね、アルバート」
それは、ナイフをひと撫でするような甘い呼び方だった。
アルバート——。
耳に落ちた瞬間、胸がぎゅ、と強く縮んだ。
まるで心臓を爪で掴まれたように、呼吸が浅くなる。
それがマスターの“名前“なのだろう……。
私はひょんな事からマスターの“名前”を知ってしまった。
きっと私は呼んではいけない。
私に許されるのは、従属を違う主の呼び名だけ。
苦しくて、温かくて、惨めで、嬉しい。
矛盾が胸を切り裂く。
*
その夜、眠れなかった。
シーツに頬を押しつけても、瞼を閉じても、あの女が甘く呼んだ“アルバート”の声だけが耳の奥に残ったままだ。
私には呼べない。
その名は、従属の誓いを自ら裏切るような響きをしていた。
私が口にしていいのは、主を示すたった一つの呼び名だけ。
……でも、心の中だけで何度も転がしてしまう。
セラフィナ。
アルバート。
それは許されない並びのはずなのに、どうしようもなくあたたかかった。
自分だけの小さな秘密のように、胸の奥でその音を何度も転がした。
マスターは、私を“最高の作品”になりうると語った。
あの言葉を聞いた瞬間、胸の奥が誇らしく跳ねた。
選ばれた。必要とされた、と。
ほんの刹那そう思ってしてしまった。
……でも。
本当は“私”なんてどこにもいない。
価値があるのはウィルスが流れる身体の性能でしかなくて、名を与えられたところで私はただの道具だ。
ただ、使い捨てではなくなっただけ。
それだけの違い。
だがそれだって、ひとたび期待を外れれば、簡単に剥がれ落ちてしまう脆い位置にいるのだろう。
それでも――
私は錯覚していたいのだと思う。
自分がここにいていいと。
“私”という存在に意味があると。
そう思わせてくれる場所を、ずっとどこかで求めていのだ。
「……私は道具で構わない。側に置いてくれるなら……でも……いつか……」
喉の奥で、熱い何かがふっと揺れた。
期待に応え続ければ。
役に立ち続ければ。
そうすればいつか――
“私”という内側を、あの人が見つけてくれるかもしれない。
それはひどく幼稚で、愚かな願いだと分かっているのに。
それでも胸の奥でその未熟な熱だけが確かに脈打っている。
だから続きを言葉にする前に、私はそっと飲み込んだ。
口にしてしまえば、壊れてしまうと分かっていたから。