5章
マスターのために生きると告げたあの日から、
私の生活は、さらに音もなく姿を変えていった。
首元を締めつけていた金属の重みが消えた代わりに、次に与えられたのは――腕に巻く、小さな連絡端末だった。
黒いバンドに埋め込まれた薄い画面。
触れると微かに鼓動のように震え、指先の体温を正確に読み取る。
「行動指示や訓練の呼び出しは、これに送る」
そう言われただけだった。
その機能がどこまで及ぶのか、私は知らない。
監視も、生体情報の取得も、拘束も――
首輪にあったものがすべて内蔵されていてもおかしくない。
けれど、首輪と決定的に違うのはひとつ。
着脱が私の意思に委ねられていることだった。
外してもいい。つけなくてもいい。
そのはずなのに――
気づけば私はいつも、寝る前にそっと確かめていた。
まだ腕にあるか。
ちゃんと肌に触れているか。
マスターのいる場所へつながる線が、切れていないか。
それは自由ではなく、強制でもない、不思議な縛りだった。
自分から巻きつけているのに、どこか首輪より深く、胸の内側へ沈み込んでいく。
この端末は命令のための道具でしかない。
それなのに、なぜかつけていないと不安になる自分がいた。
まるで従属をこちら側から差し出しているかのように。
*
与えられた個室の机に座り、私は黙々と文字をなぞっていた。
読み書きは一度覚えると、不思議なほど身体の中に吸い込まれていった。
まるで学ぶという行為が、最初から組み込まれていたかのように。
数字。英字。記号。
どれも初めてなのに、理解するたび胸の奥が微かに温かくなる。
マスターに呼ばれたとき、何も知らないままで立ちたくなかった。
その思いが、指先の動きを追い立てた。
ノートに走らせたペンの音だけが部屋に響く。
ページの端に指をかけたそのとき――
腕に巻かれた端末が、かすかに震えた。
ピピッ
小さな振動。
それだけなのに、胸の鼓動が一拍跳ねた。
呼び出し――マスターから。
端末の画面には、ただひとつの表示。
《 訓練室へ 》
機械的な文字。
それだけなのに呼ばれたことに喉が熱くなる。
私は椅子から立ち上がり支度を整える。
足が自然と前に出る。
考えるより先に動いてしまう。
――役に立ち、価値を証明したい。
その言葉が胸の深い場所で静かに灯っていた。
訓練室の様子はいつもと違った。
いつものように観察室から覗く影はなかった。
そこにいたのはマスターただひとり。
彼は私が到着するや否や、何の前置きもなく言った。
「ついてこい」
反論は浮かびもしなかった。
私はただ、歩幅を合わせるように後ろについていく。
*
連れてこられたのは訓練室のさらに奥。
いつもは閉ざされている、重い扉の前だった。
電子音がひとつ鳴り、内部のロックが解除される。金属同士が擦れる鈍い音を立てて扉が開く。
マスターは振り返らない。
まるでここへ私を連れてくることが当然と言うように、静かに歩を進める。
薄い光が床を均一に照らす。
足を踏み入れた瞬間、その光の温度だけで息が詰まりそうだった。
扉が後ろで閉じる音が響く。
その音の余韻を断ち切るように、彼の声が落ちた。
「……セラフィナ。今日の訓練の前に、理解しておくべきことがある」
マスターに名を呼ばれ、胸の奥がひとつ跳ねた。
名前の響きだけで、呼吸がわずかに揺れる自分がいた。
「……はい……マスター」
マスターは振り返らず、端末のデータを軽く指で弾く。
「気づいているだろう。その身体は痛みに鈍く、傷は早く塞がり、疲労は限界を超えても回復する。……もはや以前のお前ではないと」
言われなくても分かっていた。
でも、言葉ににされると胸の奥がひどく冷たくなる。
返事ができない。
けれど否定もできなかった。
「治癒速度、反応速度、筋出力……どれも“人間”ではありえない数値だ」
「わたしは……どうして……」
ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。
マスターはゆっくりとこちらへ向き直る。
サングラスの奥の表情は見えないはずなのに、
視線だけが肌をなぞるように突き刺さった。
「お前は、ウィルスに“適合した”」
鈍い刃物のような言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
「……ウィルス……に、てきごう……?」
自分の声が、自分のものではないように感じる。
「そうだ。だが恐れる必要はない。弱い肉体は捨て去られ、より強く、より鋭く作り替えられただけだ」
そう告げる声に、同情も慰めもない。
ただ事実だけがある。
「そのウィルスは、大半の人間を殺す。耐えられる器は極めて少ない」
マスターが近づいてくる。
足音すら無駄のない、沈黙を切る動き。
「これまで、数え切れぬほどの個体が崩れ落ちていった」
私の目の前で歩みを止める。
「適合とは奇跡でも幸運でもない。選別を越え、残るべきものが残った結果だ」
彼は顎をわずかに上げ、私を射抜く。
「お前はその選別を潜り抜けた。凡俗には理解できぬ段階へ踏み込んだ」
選別――
あの村での地獄が、脳裏に閃く。
失われていった顔。
変わり果てた仲間。
ただ私だけが残ったという、あの事実。
マスターは私の震えを見ても、声色を変えない。
「弱さは、人間という種の欠陥だ。だから私も過去にその枷を捨てた」
そう言いながら、彼の手がゆっくりと伸びてくる。
指先が頬に触れた。
ひどく冷たいのに、震えるほど熱く感じた。
顎を軽く持ち上げられる。
逃れられない角度で、視線を固定される。
「選別に耐え、なお立っている者。それだけが“価値がある”。……その意味が分かるか、セラフィナ?」
価値がある――?
その言葉が胸のどこか浅い場所に落ちて、波紋のように広がっていく。
自分自身の価値なんて、考えたこともなかった。
番号で呼ばれていた頃、私は壊れればそのまま捨てられ、使い切れば次と取り換えられるだけの存在で。
“価値がある”なんて、誰からも言われたことがなかった。
むしろ、価値など最初からないことを前提に扱われてきた。
だから今、その言葉が意味することをうまく理解できない。
分からないはずなのに――胸が、痛いほど熱くなる。
「だからこそ、鍛え、導く意味がある。私と同じ場所まで来たお前に――次の段階を。そしていずれ……私が望む形へと仕上がっていくのだ」
そして、マスターはサングラスへ手を伸ばした。
その仕草だけで、緊張で空気が凍りつく。
静かに外されたレンズの向こう――
そこにあったのは、赤い光を宿した瞳。
瞳孔は縦に裂け、蛇のように鋭く収束する。
本能が固まった。
恐怖か畏敬か分からないまま、息が止まる。
「あ……」
かすれた声が漏れると、彼は微動だにせず問いを落とした。
「この目が恐ろしいのか?」
怖い――確かに怖いはずなのに、それだけではなかった。
喉を震わせる恐怖の奥で、踏み出せば触れられる距離にいる、その危うい近さが、甘い錯覚のように胸を締めつけた。
逃げたい気持ちと、近づきたい衝動が、同じ場所でゆっくり混ざりあっていく。
するウェスカーはその様子を見ていたのか、あるいは最初からこの反応を予期していたのか。
ゆっくりと手を伸ばし――手鏡を差し出した。
「見ろ」
震える指でそれを受け取り、私はおそるおそる鏡の中を覗き込む。
――!
息が止まった。
鏡に映る私は、もう私ではなかった。
瞳孔が細く縦に裂け、暗い赤が光を吸い込み返し、まるで深い傷跡のように、瞳の中心が冷たく揺れている。
マスターと同じ形、同じ色。
恐怖が脊髄を走るのに、胸のどこかがひどく熱くなる。
「……これ……が、わたし……?」
喉の奥が震える。
それは悲鳴の前でも、歓喜の前でもない、
もっと幼い、名もない感情だった。
「そうだ。その目こそ “選ばれた者” の証だ」
喉が震える。
怖くて、でも――温かい。
この目こそマスターと同じ“領域”に足を踏み込んだという証。
「……わたしの目は、マスターと……同じ……選ばれた……」
問いにならないような呟き。
言葉にならない。
恐怖と熱がぐしゃぐしゃに絡まり、喉の奥で震えてほどけ、ただ胸の奥から零れた“混ざった音”のよう。
それでも、マスターは静かに答えた。
「そうだ。……だからついてこい、セラフィナ。その力を正しく使える“唯一の者”が、お前の前にいる」
胸が熱く、苦しいほど脈打つ。
押し寄せるものが何なのか分からない。
でも――この人についていく以外、もう選択肢はなかった。
「……はい、マスター」
その返事は、生き残るためでも、命令への服従でもない。
もっと深いところ。
名前を与えられたあの日から芽生えた、取り返しのつかない感情の底から溢れ出たものだった。