5章
訓練と教育の日々は、恐ろしいほど順調に進んでいた。
教えられた通りに指を動かすと文字が生まれ、あっという間に読み書きができるようになった。
銃の扱いもそうだ。
引き金は軽く、照準はぶれず、反動すら皮膚の表面で消えていく。
あの頃の私は必死で銃を扱っていた。
でも今は身体が勝手に最適な形を覚えたかのようだ。
走れば走るほど呼吸は冴え、疲労もどこかへ消えていく。
私はいつも誰かに答えを埋め込まれているみたいに、期待に応えてしまっていた。
反抗する理由がなかったからだ。
ここでは正しく動けば怒鳴り声も、拳も、罵りも飛んでこない。
ただ淡々と次の課題が与えられるだけ。
それは私にとって、異常なほど優しい世界だった。
優しいなんて言ってはいけないのに。
ここは監獄で、私はサンプルで、与えられた名前だって、管理のための記号でしかないのに。
それでも、従えば叩かれないというだけで、この世界は前よりずっと“まし”に見えてしまった。
*
他にも変化はあった。
部屋が与えられてから、私の世界が形を変えたのだ。
冷たい土や硬いコンクリートの床の寝床はもうそこにはなかった。
代わりに置かれたのは、柔らかさを持つもの……マットレスと呼ぶらしい。
腰を下ろすとふわりと沈み、ゆっくりと形を戻して私を受け止める。
包み込むような布の感触。
体温を吸い上げて返してくる毛布のぬくもり。
……知らない感触だった。
どう扱えばいいのか分からず、最初はその柔らかさに怯えた。
そして、食事。
机と椅子があり、陶器の皿に湯気が立っている。
焼けた肉の香り。油のあたたかい匂い。
皿の上には“彩り”というものがある。
こんなものを私は食べていいのだろうか?
スプーンを持つ手が震えた。
恐る恐る口に含むと、柔らかさと温かさが広がる。
咀嚼するたびに胸が詰まり、飲み込むたびに、“生きている”という感覚が、内側から押し寄せてきた。
あまりのことに、喉が震えた。
仲間を失った日も、銃を突きつけられた日も、
怪物に喉を裂かれかけたあの瞬間ですら……
これまで、どんな地獄でさえ涙は出なかったのに。
人間らしい温度の食べ物を、初めて味わった今、どうしてなのか、涙が止まらなかった。
なぜ――
どうしてこんなものを私に?
その理由を考えるたびに、胸にひとつの音が沈む。
セラフィナ。
名前を持ったからだ。
名前というものにはこんなにも重く、温かい意味があったなんて知らなかった。
番号では満たされなかった場所が、そのたったひとつの“呼び名”でゆっくりと埋められていく。
危うい幸福だと分かっているのに、私のどこかが、その甘さに静かに溶けていく。
名前があるだけで――
生きることを許されたような気がしてしまう。
それほどに、名前は残酷なほどの価値を持っていた。
*
その日の訓練は、見覚えのある通路を抜けた。
湿った空気。コンクリートの匂い。
胸の奥が、ひどくざわつく。
――あの部屋だ。
かつて怪物に追い詰められ、恐怖で膝が震え、
死と隣り合わせのまま立っていた場所。
身体がわずかに止まりかけた瞬間、背後の武装兵の銃口が、無言で背中に触れた。
私は息を飲み、足を前に出す。
扉が閉まり、重い金属音が響いたその時――
背後から落ちてきた足音が、空気を変えた。
迷いのない、規則的な重さ。
ただそれだけで、誰かが分かる自分がいた。
振り返る。
黒いスーツに身を包み、金色の髪を硬質に撫でつけ、存在の輪郭そのものが空気を引き締めるような男。
サングラスに遮られて瞳は見えないのに、
その下にある視線が、すべてを見透かしているような気配だけははっきり伝わる。
私に名前を与えた人物。
その存在の重さだけで、空気がひりつくように変わる。
――ウェスカー。
あれからずっと、観察越しや周囲の会話を拾って、彼がそう呼ばれていることを知った。
けれど“名前を知った”ところで、彼が何者なのかはまるで分からない。
ただひとつ理解できたのは、この場所で“誰よりも強い影響力を持つ男”だということ。
彼はまっすぐ私の前まで歩み寄り、黒い手袋の手を内ポケットへ滑らせた。
取り出されたそれは、鋭い刃を持つ戦闘用のナイフだった。
刃の反射が、白い照明を鋭く跳ね返す。
彼は言葉もなく差し出した。
私は戸惑いながら手を伸ばす。
グリップが掌に触れた瞬間、冷たさが皮膚を通り抜けて骨に触れたような感覚が背を走った。
「……なぜ」
声にならない声が、喉の奥で震えた。
ウェスカーは微動だにしない。
ただ、一つの事実だけを告げるように低く言った。
「今日の相手は――素手で挑んだところで死ぬだけだ」
私は震える指で、ナイフをしっかり握りしめた。
刃の冷たさが掌に沈みこみ、鼓動がそこへ吸い込まれるように速くなる。
ウェスカーはそれ以上何も言わなかった。
私から視線を外すと迷いのない足取りで部屋の中央へ向かい、制御端末に手をかける。
その横顔には一切の感情がない。
その姿を見て、私は理解した。
また怪物と戦うのだ。前よりもはるかに恐ろしい存在と。
そして今日は、彼が見ている前で。
武器を渡したということは、ただ戦えという命令ではない。
生き残れ。見せろ。お前の価値を。
そう問われているかのようだった。
扉の向こうで何かが蠢く気配がした。
空気がぴんと張り詰め、照明の白さすら冷たくなる。
私はナイフを握り直した。
ウェスカーは無言のまま、正面の扉を開くためのレバーに手を伸ばす。
ゆっくりと、音もなく設定が解除されていく。
そして前方の大型扉がゆっくりと開いた。
コンクリートを爪で掻く、乾いた金属音。
歩いているのは二足――
けれど、そのリズムも重さも、人のそれではなかった。
光の下に姿を現したそれは、
爬虫類のような鱗に覆われた深緑の皮膚が、蛍光灯の白光を鈍く反射していた。
肩から腕にかけての筋肉は、不自然なほど発達している。
まるで「跳ぶ」「裂く」「殺す」という目的だけのために作られたような構造。
長い爪は骨ごと断ち切るための、迷いのない形。
そして——目。
視線を合わせた瞬間に分かった。
ただ“標的を仕留めるための距離”だけを測る、冷たい獣の目だった。
私は、肺が縮むような音を立てて息を飲んだ。
次の瞬間、怪物の爪が弧を描いた。
私は反射的に後退する。
空気を切り裂く音が頬を掠めた。
速い。
恐怖が身体を絡めとる。
何度も後退し、何度も死角を避けた。
でも――背後から落ちてきた声が、その恐怖を貫いた。
「跳ぶ前に膝が沈む。そこを狙え」
彼が、私を“見て”いる。
振り向かなくても分かった。
背中が熱を帯びるほど、その視線は正確だった。
怪物が再び跳びかかろうとする。
膝がわずかに沈んだ瞬間、私は刃を横へ滑らせた。
獣じみた叫びが響き、怪物の動きが一瞬乱れる。
「背後に回られるな。奴の一撃は致命傷だ」
声が落ちてくるたび、身体の反応が変わっていく。
私は跳ねるように脇へ避け、怪物の腕の隙間へ滑り込み、ナイフを喉へ深く突き立てた。
血が飛び、手の中で生温い熱が弾ける。
巨体が、崩れ落ちる。
倒した。私が、殺せた。
呼吸が乱れたのは、恐怖からではない。
胸の奥が熱く、苦しく脈打っていた。
ウェスカーはゆっくりと近づいてきた。
感情の読めない視線が、倒れた怪物と私を順に見下ろす。
そして短く言った。
「……悪くない」
ただの評価。ただの事実。
それなのに胸の奥のどこか浅い場所が、ひどく熱を帯びた。
「だが——まだ無駄が多い」
私ははっと顔を上げる。
「……無駄、ですか……?」
「そうだ。あれでは運が良かっただけだ。次は生き残れない」
淡々と告げながら、彼は私の握っているナイフへ視線を落とした。
「戦い方を教えてやろう」
その声音には熱も慈悲もない。
けれど、拒絶の気配もまるでない。
「その身体は、すでに人を超えたの動きができるはずだ。だが……まだ正しい使い方を知らないようだ」
サングラス越しの眼差しが、まるで内側の構造まで見透かすように触れてくる。
「教えれば、もっと正確に動けるようになる。お前の身体は、そのために作り替えられたのだからな」
その言葉の意味が胸に落ちた瞬間、私は息を呑んだ。
作り替えられた身体。
人間ではないと宣告されたも同じなのに――
なぜか胸の奥に、ひどくあたたかいものが灯った。
哀しいはずなのに……
なのにその言葉が、“ここにいていい”と告げられたように聞こえてしまった。
「……教えて、ください」
気づけばそう言っていた。
ウェスカーは無駄のない動作で歩み寄ると、私の喉元へ手を伸ばした。
反射的に肩が跳ねる。
首輪。
冷たい金属が皮膚に食い込み、恐怖の象徴のようにそこへ存在していた。
彼の指が首輪の固定具に触れる。
瞬間、かすかな電子音が鳴り――
カチリ。
金属の重みが、喉元から離れた。
その一瞬、肺の奥に空気が一気に流れ込むような感覚がした。
軽い。
自由という言葉を使ってはいけないのに、それに似た感覚が胸の内側を震わせた。
ウェスカーは取り外した首輪を掌に転がしながら、まるでなにも感じていない声で告げる。
「従わせるための道具など……もう不要だ。――お前は自分の意志で従うだろう。」
視線が、逃れようのないほどまっすぐ向けられる。
「……従うのか、セラフィナ」
名を呼ぶ声が、息の奥に触れた。
その瞬間、喉がひとりでに震え、言葉が落ちてきた。
「……はい……私は……あなたに従います」
震えは恐怖ではない。
嘘でも、演技でもない。
その声は、自分の意志よりも深い場所――
もっと幼く、もっと饐えた渇きの底から滲み出ていた。
「そうだな。それが生き残る最善だ」
ウェスカーは表情ひとつ変えなかった。
殺される気配を感じなかった理由が、
胸のいちばん深いところでようやく形になった気がした。
あのとき私は、白衣の男の手を折った。
反抗したサンプルなら、その場で処分されてもおかしくなかった。
番号で呼ばれていた頃から、私はずっと“使い捨て”で、壊れれば次が補充されるだけの存在だった。
首輪ひとつで、いつでも殺せたはずだ。
それでも、彼は私を排除しなかった。
それどころか、“名前”さえ与えた。
その意味なんて分からない。分かるはずもない。
なのに――胸の奥で、静かに何かが灯った。
“この人だけは、捨てないかもしれない”
そう思った瞬間、自分でも理由が分からないまま、もう逆らうという選択肢が、どこにも見当たらなくなった。
胸に灯ったその感覚が、希望なのか呪いなのかその違いは分からなかった。
ただ――離れてはいけない。
あの背中に、ついていくべきだ。
そう思ったのだ。
「……マスター……」
ウェスカーがわずかに動きを止めた。
驚きでも、拒絶でもない。
ただ、静かな確認のような沈黙。
そして、低い声が落ちた。
「……今後、私に従う意志があるなら――その呼び方で構わない」
胸の奥が熱くなり、視界が揺れた。
私は深く、頭を下げた。
「……はい、マスター」
この瞬間、私は気づいてしまった。
それがどれほど危うい関係の始まりであっても、どれほど歪んだ救いであっても――
生まれて初めて与えられた“名前”の主に、私はもう逆らえなかった。
なぜなら、この人こそが、私の生きる理由になってしまったのだから。