5章



訓練と教育の日々は、恐ろしいほど順調に進んでいた。

教えられた通りに指を動かすと文字が生まれ、あっという間に読み書きができるようになった。

銃の扱いもそうだ。
引き金は軽く、照準はぶれず、反動すら皮膚の表面で消えていく。

あの頃の私は必死で銃を扱っていた。
でも今は身体が勝手に最適な形を覚えたかのようだ。

走れば走るほど呼吸は冴え、疲労もどこかへ消えていく。


私はいつも誰かに答えを埋め込まれているみたいに、期待に応えてしまっていた。


反抗する理由がなかったからだ。

ここでは正しく動けば怒鳴り声も、拳も、罵りも飛んでこない。
ただ淡々と次の課題が与えられるだけ。

それは私にとって、異常なほど優しい世界だった。

優しいなんて言ってはいけないのに。
ここは監獄で、私はサンプルで、与えられた名前だって、管理のための記号でしかないのに。

それでも、従えば叩かれないというだけで、この世界は前よりずっと“まし”に見えてしまった。

 




他にも変化はあった。
部屋が与えられてから、私の世界が形を変えたのだ。

冷たい土や硬いコンクリートの床の寝床はもうそこにはなかった。

代わりに置かれたのは、柔らかさを持つもの……マットレスと呼ぶらしい。

腰を下ろすとふわりと沈み、ゆっくりと形を戻して私を受け止める。
包み込むような布の感触。
体温を吸い上げて返してくる毛布のぬくもり。

……知らない感触だった。

どう扱えばいいのか分からず、最初はその柔らかさに怯えた。



そして、食事。

机と椅子があり、陶器の皿に湯気が立っている。
焼けた肉の香り。油のあたたかい匂い。
皿の上には“彩り”というものがある。

こんなものを私は食べていいのだろうか?

スプーンを持つ手が震えた。

恐る恐る口に含むと、柔らかさと温かさが広がる。
咀嚼するたびに胸が詰まり、飲み込むたびに、“生きている”という感覚が、内側から押し寄せてきた。


あまりのことに、喉が震えた。

仲間を失った日も、銃を突きつけられた日も、
怪物に喉を裂かれかけたあの瞬間ですら……
これまで、どんな地獄でさえ涙は出なかったのに。


人間らしい温度の食べ物を、初めて味わった今、どうしてなのか、涙が止まらなかった。


なぜ――
どうしてこんなものを私に?


その理由を考えるたびに、胸にひとつの音が沈む。

セラフィナ。

名前を持ったからだ。

名前というものにはこんなにも重く、温かい意味があったなんて知らなかった。

番号では満たされなかった場所が、そのたったひとつの“呼び名”でゆっくりと埋められていく。

危うい幸福だと分かっているのに、私のどこかが、その甘さに静かに溶けていく。

名前があるだけで――
生きることを許されたような気がしてしまう。

それほどに、名前は残酷なほどの価値を持っていた。





その日の訓練は、見覚えのある通路を抜けた。

湿った空気。コンクリートの匂い。
胸の奥が、ひどくざわつく。



――あの部屋だ。

かつて怪物に追い詰められ、恐怖で膝が震え、
死と隣り合わせのまま立っていた場所。

身体がわずかに止まりかけた瞬間、背後の武装兵の銃口が、無言で背中に触れた。
私は息を飲み、足を前に出す。

扉が閉まり、重い金属音が響いたその時――
背後から落ちてきた足音が、空気を変えた。

迷いのない、規則的な重さ。
ただそれだけで、誰かが分かる自分がいた。

振り返る。

黒いスーツに身を包み、金色の髪を硬質に撫でつけ、存在の輪郭そのものが空気を引き締めるような男。
サングラスに遮られて瞳は見えないのに、
その下にある視線が、すべてを見透かしているような気配だけははっきり伝わる。

私に名前を与えた人物。
その存在の重さだけで、空気がひりつくように変わる。


――ウェスカー。

あれからずっと、観察越しや周囲の会話を拾って、彼がそう呼ばれていることを知った。

けれど“名前を知った”ところで、彼が何者なのかはまるで分からない。

ただひとつ理解できたのは、この場所で“誰よりも強い影響力を持つ男”だということ。


彼はまっすぐ私の前まで歩み寄り、黒い手袋の手を内ポケットへ滑らせた。

取り出されたそれは、鋭い刃を持つ戦闘用のナイフだった。

刃の反射が、白い照明を鋭く跳ね返す。
彼は言葉もなく差し出した。

私は戸惑いながら手を伸ばす。
グリップが掌に触れた瞬間、冷たさが皮膚を通り抜けて骨に触れたような感覚が背を走った。


「……なぜ」

声にならない声が、喉の奥で震えた。

ウェスカーは微動だにしない。
ただ、一つの事実だけを告げるように低く言った。

「今日の相手は――素手で挑んだところで死ぬだけだ」


私は震える指で、ナイフをしっかり握りしめた。
刃の冷たさが掌に沈みこみ、鼓動がそこへ吸い込まれるように速くなる。

ウェスカーはそれ以上何も言わなかった。
私から視線を外すと迷いのない足取りで部屋の中央へ向かい、制御端末に手をかける。
その横顔には一切の感情がない。


その姿を見て、私は理解した。
また怪物と戦うのだ。前よりもはるかに恐ろしい存在と。
そして今日は、彼が見ている前で。

武器を渡したということは、ただ戦えという命令ではない。

生き残れ。見せろ。お前の価値を。

そう問われているかのようだった。


扉の向こうで何かが蠢く気配がした。
空気がぴんと張り詰め、照明の白さすら冷たくなる。

私はナイフを握り直した。
ウェスカーは無言のまま、正面の扉を開くためのレバーに手を伸ばす。

ゆっくりと、音もなく設定が解除されていく。

そして前方の大型扉がゆっくりと開いた。


コンクリートを爪で掻く、乾いた金属音。
歩いているのは二足――
けれど、そのリズムも重さも、人のそれではなかった。

光の下に姿を現したそれは、
爬虫類のような鱗に覆われた深緑の皮膚が、蛍光灯の白光を鈍く反射していた。

肩から腕にかけての筋肉は、不自然なほど発達している。
まるで「跳ぶ」「裂く」「殺す」という目的だけのために作られたような構造。
長い爪は骨ごと断ち切るための、迷いのない形。

そして——目。

視線を合わせた瞬間に分かった。
ただ“標的を仕留めるための距離”だけを測る、冷たい獣の目だった。

私は、肺が縮むような音を立てて息を飲んだ。


次の瞬間、怪物の爪が弧を描いた。
私は反射的に後退する。
空気を切り裂く音が頬を掠めた。

速い。
恐怖が身体を絡めとる。
何度も後退し、何度も死角を避けた。

でも――背後から落ちてきた声が、その恐怖を貫いた。

「跳ぶ前に膝が沈む。そこを狙え」

彼が、私を“見て”いる。

振り向かなくても分かった。
背中が熱を帯びるほど、その視線は正確だった。

怪物が再び跳びかかろうとする。
膝がわずかに沈んだ瞬間、私は刃を横へ滑らせた。

獣じみた叫びが響き、怪物の動きが一瞬乱れる。

「背後に回られるな。奴の一撃は致命傷だ」

声が落ちてくるたび、身体の反応が変わっていく。

私は跳ねるように脇へ避け、怪物の腕の隙間へ滑り込み、ナイフを喉へ深く突き立てた。

血が飛び、手の中で生温い熱が弾ける。
巨体が、崩れ落ちる。

倒した。私が、殺せた。

呼吸が乱れたのは、恐怖からではない。
胸の奥が熱く、苦しく脈打っていた。



ウェスカーはゆっくりと近づいてきた。

感情の読めない視線が、倒れた怪物と私を順に見下ろす。

そして短く言った。

「……悪くない」

ただの評価。ただの事実。
それなのに胸の奥のどこか浅い場所が、ひどく熱を帯びた。

「だが——まだ無駄が多い」

私ははっと顔を上げる。

「……無駄、ですか……?」

「そうだ。あれでは運が良かっただけだ。次は生き残れない」

淡々と告げながら、彼は私の握っているナイフへ視線を落とした。

「戦い方を教えてやろう」

その声音には熱も慈悲もない。
けれど、拒絶の気配もまるでない。


「その身体は、すでに人を超えたの動きができるはずだ。だが……まだ正しい使い方を知らないようだ」

サングラス越しの眼差しが、まるで内側の構造まで見透かすように触れてくる。

「教えれば、もっと正確に動けるようになる。お前の身体は、そのために作り替えられたのだからな」

その言葉の意味が胸に落ちた瞬間、私は息を呑んだ。

作り替えられた身体。

人間ではないと宣告されたも同じなのに――
なぜか胸の奥に、ひどくあたたかいものが灯った。

哀しいはずなのに……
なのにその言葉が、“ここにいていい”と告げられたように聞こえてしまった。


「……教えて、ください」

気づけばそう言っていた。


ウェスカーは無駄のない動作で歩み寄ると、私の喉元へ手を伸ばした。

反射的に肩が跳ねる。


首輪。

冷たい金属が皮膚に食い込み、恐怖の象徴のようにそこへ存在していた。



彼の指が首輪の固定具に触れる。
瞬間、かすかな電子音が鳴り――

カチリ。

金属の重みが、喉元から離れた。

その一瞬、肺の奥に空気が一気に流れ込むような感覚がした。

軽い。
自由という言葉を使ってはいけないのに、それに似た感覚が胸の内側を震わせた。

ウェスカーは取り外した首輪を掌に転がしながら、まるでなにも感じていない声で告げる。

「従わせるための道具など……もう不要だ。――お前は自分の意志で従うだろう。」


視線が、逃れようのないほどまっすぐ向けられる。

「……従うのか、セラフィナ」

名を呼ぶ声が、息の奥に触れた。
その瞬間、喉がひとりでに震え、言葉が落ちてきた。

「……はい……私は……あなたに従います」

震えは恐怖ではない。
嘘でも、演技でもない。

その声は、自分の意志よりも深い場所――
もっと幼く、もっと饐えた渇きの底から滲み出ていた。

「そうだな。それが生き残る最善だ」

ウェスカーは表情ひとつ変えなかった。

殺される気配を感じなかった理由が、
胸のいちばん深いところでようやく形になった気がした。

あのとき私は、白衣の男の手を折った。
反抗したサンプルなら、その場で処分されてもおかしくなかった。

番号で呼ばれていた頃から、私はずっと“使い捨て”で、壊れれば次が補充されるだけの存在だった。

首輪ひとつで、いつでも殺せたはずだ。

それでも、彼は私を排除しなかった。
それどころか、“名前”さえ与えた。

その意味なんて分からない。分かるはずもない。

なのに――胸の奥で、静かに何かが灯った。

“この人だけは、捨てないかもしれない”

そう思った瞬間、自分でも理由が分からないまま、もう逆らうという選択肢が、どこにも見当たらなくなった。

胸に灯ったその感覚が、希望なのか呪いなのかその違いは分からなかった。


ただ――離れてはいけない。
あの背中に、ついていくべきだ。

そう思ったのだ。


「……マスター……」

ウェスカーがわずかに動きを止めた。

驚きでも、拒絶でもない。
ただ、静かな確認のような沈黙。

そして、低い声が落ちた。

「……今後、私に従う意志があるなら――その呼び方で構わない」

胸の奥が熱くなり、視界が揺れた。

私は深く、頭を下げた。

「……はい、マスター」

この瞬間、私は気づいてしまった。

それがどれほど危うい関係の始まりであっても、どれほど歪んだ救いであっても――

生まれて初めて与えられた“名前”の主に、私はもう逆らえなかった。


なぜなら、この人こそが、私の生きる理由になってしまったのだから。


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