5章




扉が閉じる音が、部屋の空気に沈むように消えていった。

私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
手の中の震えは、まだ完全に収まらない。

セラフィナ――
その音だけが、何度も胸の内側で跳ね返っていた。

番号ではない。
識別でもない。
呼ばれたことのない形。

あの男が去った後の静寂は、檻の冷たさとは違う種類の寒さを部屋に満たしていた。



「セラフィナ、移動する。」

新しい名を呼ばれた瞬間、胸の奥がひくりと揺れた。
どんな反応を示せば正しいのか分からず、ただ歩かされるままについていく。

首輪にはまだ慣れない。
触れればひやりと冷たい金属が皮膚に沈み、
“自由ではない”という事実を静かに刻み込んでくる。


案内された先は、昨日まで閉じ込められていたあの湿ったコンクリートの檻ではなかった。

扉が閉まる音と共に、目に入ったのは――

整えられた、静かな空間。

薄い光に照らされた白い壁。
その一角には、小さなベットと、金属の縁がついた簡素な洗面台。
視線を上げれば、無機質な監視カメラがこちらをじっと見下ろしている。

ここら檻よりずっと“人間の部屋”の形をしていた。

その事実が、胸の奥に重く沈む。

期待してはいけない。
私は人間に戻ったわけではない。
これは、きっと――

生かすための設備ではなく、“観察しやすいよう整えられた環境”にすぎないのだ。

名前を与えられたからといって、
首輪が外れたわけでも、自由が戻ったわけでもない。
私はそのことを噛みしめるように呼吸をひとつ落とした。


足を踏み入れた瞬間、靴裏に伝わる感触に思わず立ち止まった。

床は、あのざらついたコンクリートではなかった。冷たく平坦で、つるりと滑るように均されている。

村のあの粗末な小屋の床、檻のざらついた床に座っていた私には、この白い床の滑らかさが、かえって不安だった。

綺麗すぎる場所は、ただの檻よりずっと怖い。

ここが“生かすための場所”なのか、“壊れるまで観察するための場所”なのか……今はまだわからない。



「今からはここで生活することになる。明日から訓練や教育を開始する。理解したか?」

言葉の意味を理解するために、思考が少し遅れた。

訓練――
教育?

それがどういうものか、私は知らなかった。

ただ頷くことしかできなかった。




翌朝から、すぐに“教育”が始まった。

白衣の男たちは、私を机に座らせ、紙の上に鉛筆を握らせた。

「これが文字だ。書け」

紙に描かれた線の束を、私はどう扱えばいいかわからなかった。これまで生きる上でそのどれも必要なかった。

手をどう置き、どれくらい力を入れるのか。
椅子に座るという姿勢そのものもぎこちない。

「違う。力が入りすぎている。腕ではなく指を使え」

叱責ではない。
淡々とした指摘。

だが、胸の奥がじくりと痛んだ。

それでも――
震える指でなぞった線が“文字”という形になった瞬間、白衣の男はわずかにうなずいた。

それが“正しい”のだと、すぐに分かった。

私は正しい反応をしたかった。
正しくしなければ、生き延びられないと身体が知っていたからだ。

けれどここでは、間違っても罵声が飛んでこなかった。
手殴られることも、背中を蹴られることも、何ひとつ起きなかった。

ただ淡々と、「もう一度」と言われるだけ。

罵られないこと。叩かれないこと。
それが“普通”ではなかった私にとって、
この静かな空気は、ごまかせないほどの異常だった。





「次は反応速度を測る」

「訓練銃を握れ」

「全力で走れ」

まるで機械のように指示が落ちてくる。

驚くほど身体が言うことを聞いた。

訓練で手渡された銃は、あまりにも軽かった。
おもちゃのようだと、一瞬本気で思ったほどだ。

引き金を絞っても、反動はほんのわずか。
手首が揺れるだけで、肩に衝撃はこない。


全力で走っても、息が乱れなかった。

足音が床を叩き、視界が流れるほど速度を上げても、胸の奥は不気味なほど静かなまま。

息切れしない。苦しくならない。
身体のどこにも“限界”の予兆が来ない。

壁際のモニターには、私の心拍が波形で映されている。
それがまるで冗談みたいに、一定のまま動かなかった。

走っている最中も。止まった瞬間も。
鼓動が跳ね上がることすらない。

観察する人たちが、一瞬だけ息を呑む音が聞こえた。
その微かな反応すら感じ取ることができた。


適合――
その言葉が、彼らの会話の端々に何度も出てきた。

私の身体は、もう“私が知っている身体”ではなくなっていた。




訓練を終えると、白衣の男たちはモニターの前で無表情のまま言い合った。

「反応速度は前回を圧倒的に更新している」

「運動負荷を上げよう。これでは子供の遊びに過ぎない」

「……上層はこの個体に相当期待しているみたいだ」

その言葉は、何の前触れもなく、胸の奥に鋭く沈んだ。

期待されている――
その響きが胸の奥に触れた瞬間、
刃物のように冷たいはずの言葉が、なぜかじんと熱を帯びて胸に沈んだ。

痛い。
なのに、少しだけ――誇らしい、と錯覚した。


こんな事に喜ぶ理由なんてどこにもない。
私は人間ではなく、怪物に近づいているというのに。

でもこの恐ろしい力があるから、その言葉を投げられているだけだと、頭では分かっている。

骨を砕く速さも、傷が消える異常も、生き残ってしまった偶然も、全部、“人ではない”証拠でしかないのに。

なのに、胸の奥のどこか浅い場所が、その言葉に揺れてしまう。

恐怖と、誇りのような錯覚が、同じ場所に触れてくる。

どうして。

人ではなくなっていくはずなのに、人として扱われたことのない私が、“価値がある”と言われたような錯覚をしてしまうなんて。

それがどれほど哀しい誤解かも、理解しているはずなのに。





訓練の合間、私は誰もいないはずの方向を向いてしまう瞬間が何度もあった。

気のせいだ。
ただの監視カメラだ。

そう言い聞かせても、研ぎ澄まされた感覚が――“見られている”事を静かに拾う。

否定できなかった。

昨日、あの部屋に入って来た男の影が、防護ガラスの反射越しに一瞬だけ見えた気がした。

錯覚かもしれない。
でも、胸の奥がざわつく。

冷たくて、強くて、
何もかもを見透かすような目――

私は彼らにとって明らかな“危険”を見せたはず。

あの男は、白衣を着た大人たちの仲間なのに。
本来なら、反抗した私をその場で処分してもおかしくなかったはずだ。

なのに彼は……殺意を向けてこなかった。

なぜだろう。

その理由を考えるほど、胸の奥で熱とも冷たさともつかないざわめきが広がっていく。

私が“特異個体”だから?
価値があるから?

それとも――

彼は他の白衣とは違う、もっと別の何かを見ていたのだろうか。

答えは分からない。
でも、あの一瞬の“殺されない確信”だけは、
どうしても嘘ではなかったように思えてしまう。






その夜、私はベットに座り、ひとりきりで呟いた。

「……セラフィナ」

舌の上で転がすように、何度も繰り返す。

まだ自分のものにはなっていない音だった。
だけど、言うたびに胸の奥で何かが灯る。

それが喜びだと認めたくはない。
でも、否定もできない。

私の人生で初めて与えられた――
“名前”。

この音ひとつで、世界が変わったように錯覚する。

そしてその夜、私は生まれて初めて――
明日を思って眠った。

その感覚が、どれほど甘く、どれほど残酷なものだったのかも知らないまま。


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