5章
扉が閉じる音が、部屋の空気に沈むように消えていった。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
手の中の震えは、まだ完全に収まらない。
セラフィナ――
その音だけが、何度も胸の内側で跳ね返っていた。
番号ではない。
識別でもない。
呼ばれたことのない形。
あの男が去った後の静寂は、檻の冷たさとは違う種類の寒さを部屋に満たしていた。
*
「セラフィナ、移動する。」
新しい名を呼ばれた瞬間、胸の奥がひくりと揺れた。
どんな反応を示せば正しいのか分からず、ただ歩かされるままについていく。
首輪にはまだ慣れない。
触れればひやりと冷たい金属が皮膚に沈み、
“自由ではない”という事実を静かに刻み込んでくる。
案内された先は、昨日まで閉じ込められていたあの湿ったコンクリートの檻ではなかった。
扉が閉まる音と共に、目に入ったのは――
整えられた、静かな空間。
薄い光に照らされた白い壁。
その一角には、小さなベットと、金属の縁がついた簡素な洗面台。
視線を上げれば、無機質な監視カメラがこちらをじっと見下ろしている。
ここら檻よりずっと“人間の部屋”の形をしていた。
その事実が、胸の奥に重く沈む。
期待してはいけない。
私は人間に戻ったわけではない。
これは、きっと――
生かすための設備ではなく、“観察しやすいよう整えられた環境”にすぎないのだ。
名前を与えられたからといって、
首輪が外れたわけでも、自由が戻ったわけでもない。
私はそのことを噛みしめるように呼吸をひとつ落とした。
足を踏み入れた瞬間、靴裏に伝わる感触に思わず立ち止まった。
床は、あのざらついたコンクリートではなかった。冷たく平坦で、つるりと滑るように均されている。
村のあの粗末な小屋の床、檻のざらついた床に座っていた私には、この白い床の滑らかさが、かえって不安だった。
綺麗すぎる場所は、ただの檻よりずっと怖い。
ここが“生かすための場所”なのか、“壊れるまで観察するための場所”なのか……今はまだわからない。
「今からはここで生活することになる。明日から訓練や教育を開始する。理解したか?」
言葉の意味を理解するために、思考が少し遅れた。
訓練――
教育?
それがどういうものか、私は知らなかった。
ただ頷くことしかできなかった。
*
翌朝から、すぐに“教育”が始まった。
白衣の男たちは、私を机に座らせ、紙の上に鉛筆を握らせた。
「これが文字だ。書け」
紙に描かれた線の束を、私はどう扱えばいいかわからなかった。これまで生きる上でそのどれも必要なかった。
手をどう置き、どれくらい力を入れるのか。
椅子に座るという姿勢そのものもぎこちない。
「違う。力が入りすぎている。腕ではなく指を使え」
叱責ではない。
淡々とした指摘。
だが、胸の奥がじくりと痛んだ。
それでも――
震える指でなぞった線が“文字”という形になった瞬間、白衣の男はわずかにうなずいた。
それが“正しい”のだと、すぐに分かった。
私は正しい反応をしたかった。
正しくしなければ、生き延びられないと身体が知っていたからだ。
けれどここでは、間違っても罵声が飛んでこなかった。
手殴られることも、背中を蹴られることも、何ひとつ起きなかった。
ただ淡々と、「もう一度」と言われるだけ。
罵られないこと。叩かれないこと。
それが“普通”ではなかった私にとって、
この静かな空気は、ごまかせないほどの異常だった。
*
「次は反応速度を測る」
「訓練銃を握れ」
「全力で走れ」
まるで機械のように指示が落ちてくる。
驚くほど身体が言うことを聞いた。
訓練で手渡された銃は、あまりにも軽かった。
おもちゃのようだと、一瞬本気で思ったほどだ。
引き金を絞っても、反動はほんのわずか。
手首が揺れるだけで、肩に衝撃はこない。
全力で走っても、息が乱れなかった。
足音が床を叩き、視界が流れるほど速度を上げても、胸の奥は不気味なほど静かなまま。
息切れしない。苦しくならない。
身体のどこにも“限界”の予兆が来ない。
壁際のモニターには、私の心拍が波形で映されている。
それがまるで冗談みたいに、一定のまま動かなかった。
走っている最中も。止まった瞬間も。
鼓動が跳ね上がることすらない。
観察する人たちが、一瞬だけ息を呑む音が聞こえた。
その微かな反応すら感じ取ることができた。
適合――
その言葉が、彼らの会話の端々に何度も出てきた。
私の身体は、もう“私が知っている身体”ではなくなっていた。
訓練を終えると、白衣の男たちはモニターの前で無表情のまま言い合った。
「反応速度は前回を圧倒的に更新している」
「運動負荷を上げよう。これでは子供の遊びに過ぎない」
「……上層はこの個体に相当期待しているみたいだ」
その言葉は、何の前触れもなく、胸の奥に鋭く沈んだ。
期待されている――
その響きが胸の奥に触れた瞬間、
刃物のように冷たいはずの言葉が、なぜかじんと熱を帯びて胸に沈んだ。
痛い。
なのに、少しだけ――誇らしい、と錯覚した。
こんな事に喜ぶ理由なんてどこにもない。
私は人間ではなく、怪物に近づいているというのに。
でもこの恐ろしい力があるから、その言葉を投げられているだけだと、頭では分かっている。
骨を砕く速さも、傷が消える異常も、生き残ってしまった偶然も、全部、“人ではない”証拠でしかないのに。
なのに、胸の奥のどこか浅い場所が、その言葉に揺れてしまう。
恐怖と、誇りのような錯覚が、同じ場所に触れてくる。
どうして。
人ではなくなっていくはずなのに、人として扱われたことのない私が、“価値がある”と言われたような錯覚をしてしまうなんて。
それがどれほど哀しい誤解かも、理解しているはずなのに。
*
訓練の合間、私は誰もいないはずの方向を向いてしまう瞬間が何度もあった。
気のせいだ。
ただの監視カメラだ。
そう言い聞かせても、研ぎ澄まされた感覚が――“見られている”事を静かに拾う。
否定できなかった。
昨日、あの部屋に入って来た男の影が、防護ガラスの反射越しに一瞬だけ見えた気がした。
錯覚かもしれない。
でも、胸の奥がざわつく。
冷たくて、強くて、
何もかもを見透かすような目――
私は彼らにとって明らかな“危険”を見せたはず。
あの男は、白衣を着た大人たちの仲間なのに。
本来なら、反抗した私をその場で処分してもおかしくなかったはずだ。
なのに彼は……殺意を向けてこなかった。
なぜだろう。
その理由を考えるほど、胸の奥で熱とも冷たさともつかないざわめきが広がっていく。
私が“特異個体”だから?
価値があるから?
それとも――
彼は他の白衣とは違う、もっと別の何かを見ていたのだろうか。
答えは分からない。
でも、あの一瞬の“殺されない確信”だけは、
どうしても嘘ではなかったように思えてしまう。
*
その夜、私はベットに座り、ひとりきりで呟いた。
「……セラフィナ」
舌の上で転がすように、何度も繰り返す。
まだ自分のものにはなっていない音だった。
だけど、言うたびに胸の奥で何かが灯る。
それが喜びだと認めたくはない。
でも、否定もできない。
私の人生で初めて与えられた――
“名前”。
この音ひとつで、世界が変わったように錯覚する。
そしてその夜、私は生まれて初めて――
明日を思って眠った。
その感覚が、どれほど甘く、どれほど残酷なものだったのかも知らないまま。