5章
低い声が突然落ちてきた。
次の瞬間には腕を掴まれ、乱暴に立たせられていた。
「立て。移動だ」
眠っていたはずなのに、夢から引きずり戻されるような感覚もない。
昨日の死闘――あの怪物を殺した場面が、まだ皮膚の裏に残っている。
つい数秒前のことのように鮮明だ。
けれど、最悪の目覚めに反して身体は驚くほど軽かった。
骨の奥まで燃えていたあの熱も消えている。
筋肉の軋みも、疲労もない。
むしろ妙に澄んでいる。
視界が静かで、頭の中が不自然なほど静かだった。
ふと手首へ視線を落とす。
拘束具が――外れている。
足元の鎖も消えていた。
どういうことだ?
ここから出られるのか?
ぼんやりと腕を見ていた私を、いつのまにか立っていた武装兵が鼻で笑った。
「勘違いするなよ」
耳元に低い声が落ちた。
男は銃を私の首元に押し当てる。
金属が触れ合う「カチャ」という音が皮膚越しに小さく震えた。
「拘束は外したが、お前はまだ“サンプル”だ。逃げる自由を与えたわけじゃない」
銃を押し当てられたまま、私は反射的に首に触れた。
そこには、ひどく冷たい感触――
金属の輪が、喉元をきつく囲んでいた。
「……これ、は」
「新しい拘束具だ」
兵士が小さなな装置を見せる。
ボタンが二つ並んでいた。
「逃げようとすれば首輪が作動する。痛い思いをしたくなければ、大人しく従っていろ」
寝ている間につけられたのだろう。
気づかないほど深く沈んでいたということか。
「なぜ……手足は解放されたのですか」
自分でも驚くほど弱い声が落ちた。
疑問は抑えたつもりだったのに、喉の奥から零れた。
兵士は答える価値もないとばかりに短く言い放った。
「C-221。会話は不要だ。歩け」
銃口が再び背へ押しつけられる。
私は前へ進んだ。
白い廊下に裸足の足音が乾いた響きを落としていく。
通路の奥ではもう一人の武装兵が待機しており、合流した後は左右を囲まれるようにして、歩かされる。
どこへ向かうのかは知らない。
ただ胸のどこかで薄く理解していた。
――これは地獄の“次の段階”へ歩みを進めていると。
やがて、無機質な廊下の突き当たりにひときわ重厚な金属扉が現れた。
私が前に立っても扉は微動だにしない。
セキュリティがかかっているらしく、反応もしなかった。
後ろの武装兵がカードを取り出し、扉横のリーダーにスワイプさせる。
低い電子音が鳴り、重い扉が左右にスライドして開いた。
中へ足を踏み入れた瞬間、肌に触れる空気が変わった。
そこは、これまでの檻や実験場とはまったく質の違う空間だった。
白い壁。
白い床。
どこを見ても、白。
整然と並ぶモニターと器具は、用途が分からないのに異様に存在感がある。
無臭ではない。
だが、匂いの正体が掴めない。
消毒液とも化学薬品とも違う、“清潔すぎて人間らしさのない空気”だった。
中央には、椅子ともベッドともつかない台がぽつんと置かれていた。
私のために用意された――そんな圧迫感を漂わせて。
兵士に導かれるまま、私は歩み寄る。
「横になれ」
銃を突きつけられながら命令され、私は逆らえず、台の上に横たわる。
金属の板の冷たさが背中に広がった。
「しばらくそこで待っていろ」
男はそう告げると、例のリモコンを見えるように掲げ、首輪が“ここにある”ことを示すようにしてから静かに退室した。
扉が閉まると、部屋には私ひとりだけが取り残された。
静かすぎる。
機械の微かな音だけが壁に反射している。
この空間は――
昨日のように戦わせる場ではない。
けれど、何のための場所なのか分からない。
私は横たわりながら、ゆっくりと目を動かす。
天井の角には小型の監視カメラ。
レンズがこちらを向き、まばたきするたびに光を拾って鈍く反射した。
ドアは閉ざされていて、この部屋には私以外の気配は見当たらない。
……はずだった。
だが耳を澄ませた瞬間、“近くで誰かが話している声”が確かに聞こえた。
「……C-221。これが報告に上がっていた適合個体です」
「感染後の経過は非常に安定しています。崩壊反応は皆無。治癒速度も異常値を維持。知性を保ち、言語能力も問題なし」
ヒソヒソと囁く様な会話だった。
しかし、すぐそばに立って話しているような明瞭さ――
なのに、目で追っても誰もいない。
私はゆっくりと首を巡らせた。
しかし白い空間は静まり返り、ただ監視カメラだけが無表情にこちらを見ている。
声はその沈黙を無視するように続いた。
「しかし今後暴走しない保証はどこにもない」
「……“首輪”があります」
私の喉元が、無意識にひくりと動く。
冷たい金属の感触が皮膚に沈んでいるのを、あらためて思い出させられた。
「調整は済んでいるのか」
「もちろんです。遠隔で鎮静剤も流せるし、電気刺激も段階的に上げられます。最終段階は――強力な弛緩剤で心肺停止させることも可能です」
すると別の声が重なる。
「で?もう試したのか?」
「いや……」
少し不満げな声。
「C-221は従順すぎて、反抗する気配がない。まだボタンを押す機会はない。つまらないくらいだ」
……つまらない?
銃を突きつけられ、従うしかないと言うのに。
私は小さく息を呑む。
呼吸音すら拾われそうで、胸の動きを押し殺した。
「そんなことを言うな。遊びで押して死んだらどうするつもりだ。上層が楽しみにしている“適合個体”だぞ」
「大丈夫ですよ、適合個体はこんな刺激で死にません。ほら、軽くやるだけなら――」
ピ、と小さな電子音がした。
その瞬間、首輪の内部が一瞬だけ震え、皮膚の奥に冷たい電気の針が刺さった。
息が止まる。
視界がかすかに白く揺れた。
全身が台の上で跳ね上がる。
「………っ!」
声にならない叫びが胸の奥で跳ねた。
しかし彼らは続けた。
「……反応値は上がったが、生命兆候に変動なし。こんなのほんの少しの刺激にすぎない。あれくらいなら平気だろう」
「はは……便利な個体だよな。壊れさえしなければ何度でも――」
その時だった。
扉が開く様な音が空気を押しのけるように静かに開いた。
足音はひとつ。規則正しく、重さを感じる。
彼が現れた瞬間、先ほどまでの会話がぴたりと途切れた。
静寂が落ちる。
……誰か、来た?
「――無駄話が多いな、ドクター」
その一言だけで、先ほどまで好き放題に私の命を弄んでいた声が、一斉に縮み上がった気がした。
「これまで適合個体の管理を任せていたが、くだらん遊びをするために預けた覚えはない」
低く、正確で、容赦がない。
「こ、これは単なる動作確認でして……適合個体の反応を――」
「言い訳は要らん」
息が止まるほど冷たい声音だった。
「今すぐ作業に入れ」
すると誰かが慌てて椅子を倒す音が響き、ばたばたと複数の足音が遠ざかっていく。
私は横たわったまま、動けなかった。
恐怖なのか、安堵なのか、自分でも判別できなかった。
ただひとつだけ確かに分かったのは――
この男が入ってきた瞬間、部屋の空気がまるで違うものに変わったということ。
やがて、この部屋のドアが開くと足早に白衣の男が二人、三人と入室してくる。
彼らは私を見るなり、一瞬だけ足を止めた。
それは恐怖か、戸惑いか――
自覚はないが、私は鋭く睨みつけていたらしい。
「……C-221」
先頭の男が喉を鳴らし、無理に声を整えた。
「今から複数の検査を行う。不要な行動をしたら……先ほどのような痛みを伴うからな」
言いながら、男は私の首元――首輪を一度だけ確認するように見た。
“あれ”があれば制御できる、と自分に言い聞かせるような目だった。
喉がわずかにひくりと鳴った。
首輪の内側がまだ痛むような錯覚が残っていて、思わず指先が震えた。
従わざるを得ない。
それは分かっている。
白衣たちは手早く装置を準備し始めた。
すると白衣の一人が、恐る恐る台の近くへ踏み出した。
手にはタブレット端末、もう一人は何本もの細い注射器を抱えている。
「……心拍と脳波の測定から始める。動くな」
胸に冷たい金属が貼りつけられる。
粘着の感触と共に、波形がモニターに走り始めた。
男たちは淡々と測定作業を続けていた。
採血、脳波、反応速度の確認。
タブレットに数字が並び、指先が無機質に画面を滑る。
私はそれを眺めながら、先ほどの会話で男が放った冷たい声を思い出していた。
……あの人は、誰?
どうして怒ったの……?
あの瞬間だけ部屋の空気が鋭く変わった気がしたのだ。
この施設の“上”に立つ者であることは、会話だけでも明らかだった。
知るべきではないと分かっていても、胸の奥の疑問は消えなかった。
そして――沈黙を破ったのは、私自身の声だった。
「……さっきの人は……誰、ですか」
途端に、空気が張りつめた。
白衣たちの手が止まり、視線がわずかに揺れる。
数秒の沈黙がやけに長い。
ひとりが喉を鳴らし、低く言った。
「……まさか聞こえていたのか。だとしても……お前には関係ない」
その声には、かすかな震えがあった。
知る必要はない。
それは分かっている。
けれど――質問は止められなかった。
「……怒っていました。私は……ただのサンプルなのに。なぜ……?」
“サンプル”。
自分の口からその言葉が落ちた瞬間、胸の奥にひどい虚しさが広がった。
白衣の一人が苦笑する。
「余計な詮索は不要。それ以上続ける場合は……」
リモコンに指を添える動作。
鈍い金属音が、胸の奥の恐怖を呼び覚ます。
先ほどの痛みが脳裏に蘇る。
「やめ……っ!」
気づいたときには、もう動いていた。
反射だった。
思考より速く身体が先に走った。
私は白衣の男の手首を掴み上げていた。
指に力がこもり、骨が軋む感触が伝わる。
「……ぐあっ――!!」
乾いた音がした。
手首の骨が折れた音。
私は息を呑む暇もなく、男の手から滑り落ちたリモコンを空中で奪い取る。
そのまま検査台から飛び降り、部屋の隅へ一気に移動した。
自分でも信じられない速さだった。
「な――っ、速い……!」
「捕まえろ! 鎮静を――」
白衣たちの声が急に怒号へ変わる。
だが私は壁に背を預け、リモコンを胸の前に構えていた。
胸が早鐘のように脈打っているのに、身体は不思議なくらい冷静だった。
白衣たちは唖然とし、誰も近づけない。
私はリモコンを握りしめたまま、自分の手の内にある“力”と“危険”を同時に理解していた。
――なんで、こんなふうに動けるの?
恐怖と混乱と、そして微かな誇張でもない“力の実感”。
その全てが、胸の奥をひどくざわつかせていた。
白衣たちは全員、動きを止めていた。
私が壁際へ跳んだ瞬間、モニターの警告音がひとつ跳ね、それに応じるように空気が張り詰めていく。
リモコンを握った私の手は、かすかに震えていた。
さっき、自分の手が男の手首を折ったという事実が、まだどこにも落ち着く場所を見つけられずに胸の奥をぐらつかせている。
それに――
どうして、あんなに素早く動けたのか。
思った瞬間にはもう体が動いていた。
男の手首を掴み上げたときの自分の速度は、自分自身の意思よりもずっと前に走っていた。
私の体は、本来の“私”より速く、強く、鋭く反応している。
まるで知らない誰かの体を借りているような感覚。
けれど確かに、この手は私のものだ。
その違和感が、恐怖より先に胸の奥を冷たく締め付けた。
白衣のひとりが恐る恐る声を上げる。
「……お、おい、何をしている……!それを返せ、C-221……!」
返す?
私を殺すための装置を?
そんな言葉は喉まで上がったが、声にならなかった。
緊張は極限まで張りつめ、白い部屋は呼吸すら裏切るような静寂に沈む。
――そのとき。
電子錠が解除される微かな音がした。
金属の扉が、ゆっくりと、だが異様な確かさで開いていく。
足音はひとつ。
他と違う重さを纏っていた。
白衣たちが見えない何かから逃げるように一瞬で姿勢を正す。
私は壁際から目だけを動かした。
黒いスーツを身に纏っていた。
見上げるほど背が高かった。
暗い金色の髪は丁寧に撫でつけられ、整えられた髪が蛍光灯の白に淡く縁取られて、奇妙なほど整った輪郭を浮かび上がらせる。
そして――
何より目が、恐ろしいほど印象的だった。
黒いサングラスが瞳を覆っているはずなのに、視線が“突き刺さる”のが分かる。
見えないはずの瞳が、私の骨の奥を測っているような感覚。
扉の向こうから現れたその人物は、こちらを見ずに歩を進め、白衣の男たちの前で立ち止まり、ゆっくりと顎をわずかに傾けた。
それだけで、誰もが固まる。
そして低い声が落ちた。
「……愚か者どもが」
それだけで、室内の空気が一変した。
白衣たちはまるで首を掴まれたように凍りつく。
「適合個体に不用意に刺激を加えるな。その警告すら理解できないのか」
淡々とした言葉なのに、温度だけが削ぎ落とされている。
「も、申し訳ありません……!しかし、彼女が……」
「出ていけ。今すぐだ」
刃物のような命令。
やがて白衣たちは競うように逃げ出し、扉が閉まった瞬間――
その男と私の――
ただ二人だけが、そこに残った。
白衣たちが去った後の静寂は、先ほどとは違う意味で、息苦しいほど濃かった。
空気が重い。光が冷たい。
私の呼吸だけが、この空間で浮いていた。
「……なるほど。反応速度が想定以上だな。恐怖で動いたか。あるいは——本能か」
驚きも、称賛もない。
観測結果を読み上げるだけの静かな声だった。
私はまだ、リモコンを握ったまま壁に背を押しつけていた。
足が震え、動かない。
息は浅く、胸の奥が熱い。
彼は顎だけわずかに動かし、冷ややかに言った。
「それをこちらへ渡せ」
逆らうという選択肢が最初から存在しない、そういう声だった。
私はゆっくり息を吸い、震える視線を上げた。
彼は私に向かって歩み、真正面で立ち止まる。
影と視線が落ちてきて、まるで空気の密度すら変えてしまうような存在感だった。
そして震える私に向かって手を伸ばす。
殺される――
そう思った――
しかし伸ばされた手は、私の指に触れもせず、リモコンだけをすっと奪い取った。
力も感じなかった。
ただ気づいたときには、私の手は空っぽだった。
「……これは、お前が持つべきものではない」
低く澄んだ声音に、胸の奥がわずかに震えた。
サングラスに隠された表情は読みとることができなかったが、そこに殺される気配だけは、なぜか微塵も感じなかった。
「……C-221」
「……はい」
不意に呼ばれ、返事が自然に出た自分に驚いた。
素直すぎるほど素直な声だった。
「お前は、選別を通った特異個体だ。番号のままでは管理効率が悪い」
端末に視線を落とし、ほんの一拍。
そして、淡々と言葉が紡がれた。
「――セラフィナ。それがこれからのお前の管理呼称だ」
一瞬、音の意味を理解できなかった。
セラフィナ。
唐突すぎて、意味が落ちてこない。
何かの言語の響きだろうか。
どういう意味なのか、呼称なのか、記号なのか――
私は理解できずに立ち尽くした。
「理解したか?」
「…………」
彼は一つ、短く息を吐いた。呆れというより、確認のための吐息。
「声に出して言ってみろ」
「……セラ……フィナ……?」
震えた声が漏れた。
彼はゆっくりと背を向けて歩き出す。
「そうだ。お前はこの瞬間から C-221 ではなく、“セラフィナ”として管理される」
名前――なのだろうか。
それは私にとって、物語の中にしか存在しないものだった。
番号ではなく、識別ではなく、
人間にだけ与えられる音。
胸の奥が、何か温かいもので満たされる。
それを喜びだと認めるには、あまりにも痛みと恐怖が混ざっていたが――
それでも、確かに灯った。
どうして。
どうして私なんかに、名前を。
その音は、私を縛る鎖のはずなのに――
なぜか、胸の奥底に落ちた瞬間だけは、あたたかかった。
震えが喉へせり上がり、目の奥が熱くなる。
怖いのに、なぜか苦しくない。
そして彼は最後にひとことだけ落とした。
「それから明日からお前には、あらゆる教育を施す。身体の使い方もだ。……お前はもう、ただのサンプルではない」
言い終えると、彼は私に背を向けて歩き去った。
扉が閉じる小さな音が、やけに遠くで響く。
残されたのは、白い室内と、私ひとりだけだった。
そして今はただ、胸の奥に落ちたひとつの“音”だけが――
世界のすべてのように、温かく響いていた。
セラフィナ。
それが、私の“最初の名前”だった。
そして、この瞬間こそが――
マスターとの出会いだったのだ。