5章
意識は、深い水の底を漂うみたいに断続的だった。
短い目覚めが泡のように浮かんでは弾け、次の瞬間には息苦しいほどの暗闇に沈んでいく。
その繰り返しが、永遠に続くように思えた。
やがて――まぶたがわずかに動いた。
暗闇に沈んでいた私の身体が、初めて外の世界に反応した。
目を開けようとしただけなのに、それが鉛の塊を押し上げるほどの負荷に思えた。
ぼやけた視界が形を取り戻し始める。
ここは村ではない。
白い壁、金属の匂い。
規則的に脈打つ機械音が部屋の空気を震わせている。
身体の表面を覆っていた高熱は、いつの間にか静かに引いていた。
けれど皮膚の奥――骨の隙間で、まだ何かがひそやかに動いている。
まるで“熱が内側へ潜って形を変えただけ”のような、得体の知れないざわめきが残っていた。
気づけば私はベッドに縛られていた。
手首と足首には幅のあるベルト。
少し動くたびに皮膚が擦れ、乾いた痛みが走る。
ベッドサイドには波形を刻むモニターが取り付けられ、その機械から伸びる管や線が、私の体へと繋げられていた。
体を動かそうとした瞬間、筋肉痛のような痛みが全身に走る。
浅い息が唇から漏れ、そのかすかな音が、近くにいた白衣の男の注意を引いた。
男は私のそばへ近づき、覗き込むように顔を寄せた。
「C-221、覚醒」
番号。
それが今の私の“名前”だった。
これまでも番号で呼ばれていたけれど、ここで与えられた番号は、もっと冷たく、もっと徹底していた。
男はペンライトを取り出し、瞳孔に光を差し込んだ。
眩しさに思わず目を閉じる。
その反応すら、無表情に記録された。
続いて血を抜かれ、骨の響きまで確かめるような点検が続く。
肩の傷跡を手袋の指がなぞり、淡々と声が落ちた。
「……意識レベル……良好……閉鎖進行……
再生反応……予測値……上回る……記録」
聞こえているのに、意味がつかめない。
言葉の形だけが薄い膜越しに届き、内容は霧に飲まれたみたいに離れていく。
ただの確認作業だろう。
しばらくベッドに横たわったまま、身体はは重くすぐに動くことができなかった。
けれど徐々に視界が慣れ、首をわずかに捻ると、白い部屋、金属の器具、血のついたトレイが見えた。
どれも使われた直後なのだと、匂いで分かったが、その血が自分のものか、他の誰かのものかを考える気力はなかった。
やがて拘束が外され、歩けと命じられた。
無理矢身体を動かされ、足裏が床に触れたとき、冷たさが骨の芯まで沈んだ。
歩かないという選択肢はなかった。
手首は細い拘束具でつながれ、背後には銃を持つ黒服の男が立っている。
――逆らえば、すぐ殺される。
それは言われなくても理解できた。
しばらく通路を進むと、白い部屋とはまったく違う空気が流れ始めた。
壁はコンクリートに変わり、
左右には強化ガラスで仕切られた檻がずらりと並んでいる。
足を踏み入れた瞬間、胸の奥がきゅっと縮まった。
檻の中には、いくつかの“影”があったのだ。
何人かは、人の形をかろうじて残しているように見えた。
だがその輪郭はどこか歪で、目は焦点を失い、身体は異様に痩せこけていた。
そしてその隣には――
もう“人”として認識できないものがいた。
皮膚は半分ほど剝がれ、背骨は不自然に盛り上がり、爪は人の指ではありえないほど長く伸びている。
四つん這いで、まるで自分の身体がどう動くのか試そうとしているみたいに、ゆっくり蠢いていた。
かつて人だったのか。
今はもう、そうとは思えない。
それが村の子たちなのか、別の場所から連れてこられたのか――
変わり果てた姿では、もう判断できなかった。
私はそのうちのひとつの空の檻に押し込まれた。
床はざらついたコンクリートと金属板。照らす蛍光灯は明るく部屋の隅まで満たしていた。
檻の隅には、排水溝がひとつあるだけだった。
床が緩く傾いていて、水も汚れもすべてそこへ流れるように設計されていた。
ただ汚れを処理するための穴――
用を足すために作られたものではない。
つまり人として扱うことを前提にしていない造り。ここはそういう場所という事だ。
その事実を理解した瞬間、胸の奥で何かがひっそりと剝がれ落ちた。
日が経つほどに、檻の仲間は減っていった。
かろうじて人の姿をしていた者も、武装兵に連れて行かれた後はそのまま戻らない。
戻ってきても、すでに“人”ではなかったのかもしれない。
周囲がゆっくりと怪物になっていく姿を、私は檻の隅で小さくなって見ていた。
悲しむ余裕などなかった。
胸を満たしたのはただひとつ。
――次は自分かもしれない。
残っていたその怪物すらもどこかへ連れていかれ、最後に残ったのは私ひとりだった。
*
ある日、檻が開いた。
腕を掴まれ、乱暴に引き出される。
銃口を背中に押しつけられながら進むと、鉄の扉の向こうに広い空間があった。
天井の高いコンクリートの部屋。
白光に照らされた床。
上方は防護ガラスで覆われ、その向こうには白衣を着た大人たちが並んでいる。
私の腕には金属の装置がつけられた。この装置の意味はわからない。
ガラスの奥の人々はモニターへ映し出された波形をみている。
彼らの視線は私ではなく、その数字へ向いていた。
「動くな。ここで待て」
背後の武装兵がそう告げると、銃を向けたまま退室していった。
腕も足も、拘束具は外されていない。
逃げ場もない。
ただ、ここで立っているしかなかった。
するとすぐに、向かいの扉が開いた。
そこから“何か”が這い出てきた。
小さな身体。だが、人ではない。
剝き出しの皮膚。
盛り上がった背骨。
前方に張り出した異常な頭部。
四つん這いで、低く唸りながら進み出る姿。
檻の向こうで見ていた“彼ら”と同じだ。
子供だったはずの誰かが――
もう“何か”に変えられてしまったもの。
私を嗅ぎ分けたのだろう。
鋭い唸りを上げ、獣のように突進してきた。
反射的に身をひねったが、爪が肩を裂き、熱い血が散った。
「っ……!」
一瞬、視界が揺れた。
痛みは鋭く、深い。
でも、止まれば死ぬ。
私は避けるのに必死だった。
しかし拘束された手足では逃げ続けることすらままならない。
怪物は凶暴で、攻撃を止める事はなく、体勢を整えては何度も飛びかかってきた。
逃げ回っているだけではいずれ殺される。
なにか――武器さえあれば。
そのとき、足元の排水溝のグレーチングが怪物の踏みつけた衝撃で変形し、わずかに浮いているのに気づいた。
その隙間を見つけた瞬間、思考より先に手が動いた。
指を格子に滑り込ませ、歪んだ部分を掴んで引く。しかし片側がボルトで強く固定されている。
後ろで怪物が爪を壁に立てる音がする。
時間がない。
お願い、外れて……!
私は力の限り引き剥がした。
金属が悲鳴を上げ、ボルトごと外れた。
「……っ!」
手のひらに鋭い痛みが走り、血が溢れる。
だが、そんな痛みはどうでもよかった。
生きるために必要なのは、武器だけだった。
化け物はすぐそこまで迫っていた。
振り返った私は、その鉄片を全力で叩きつけた。
鈍い音。
怪物は呻き声を上げ地面に叩きつけられた。
私はさらに二度、三度とその鉄片を頭部に叩きつける。
ぐしゃり、と頭部が潰れ、体液が飛び散った。
無我夢中だった。
やがて怪物は動かなくなった。
頭部はぐちゃぐちゃになり、体液が床に広がっていたが、その体はやがて溶けるように形を失った。
私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
ぬるりと掌を伝い落ちる感触で、ようやく意識が現実に引き戻された。
視線を落とす。
鉄片を握っていた手は、血で真っ赤に濡れていた。
グレーチングを無理やり引き剥がしたときに、手のひらを深く裂いた――
そう理解するまでに数秒かかった。
鉄片が手からこぼれ落ちる。硬い音が床に跳ね返った。
流れ出た血の量から考えて、傷は相当深いはず。骨が見えていてもおかしくない。
震える指で、私はゆっくりと手のひらを開いた。
……その瞬間、思考が止まった。
血は滴っているのに、
裂けているはずの傷口がどこにもない。
皮膚はどこも割れていない。
まるで最初から傷などなかったかのように、
手のひらは滑らかだった。
理解が追いつかないまま、私は肩の傷に触れた。
怪物の爪で裂かれたはずの傷は、薄い線を残す程度で、すでに血は止まり、皮膚は寄り、赤みまで引いていた。
「……なんで」
押しても痛まない。
熱もない。
触れた部分から、じわりと温かいものが引いていくような、奇妙な静けさだけが残る。
興奮で痛みを忘れているわけではない。
痛みそのものが、消えている。
身体の中で“何か”が勝手に働いている。
その確信が、ぞくりと背骨をなぞった。
理解は追いつかないのに、恐怖だけははっきりと形を持って胸の奥へ沈んでいく。
これまで深い怪我を負ったときは、何日も高熱にうなされ、動けなくなり、役立たずだと罵られ続けた記憶がある。
だが今の傷は――
ほんの数分で、何事もなかったように消えた。
不意に、防護ガラスの向こうで声が上がった。
「……すばらしい」
「創部閉鎖、異常な速度だ」
「戦闘行動も……想定以上だ。知性を保持している」
「これは適合個体として上層に報告するべきだ」
興奮とざわめき。
意味は分からないが、私のことを話しているのは分かった。
それから間もなく、背後の扉が開き、
私をここへ連れてきた黒服の兵士が戻ってきた。
腕に装着されていた装置を無言で外し、
そのまま肩を掴んで引きずるように歩かされる。
抗う力はどこにも残っていなかった。
檻に戻された瞬間、
冷たい鉄格子の空気が肌にまとわりついた。
周囲の檻は空のまま。
床の黒いシミだけが、生き物だったものの名残として残されている。
私はゆっくりと座り込み、蛍光灯の白光を見上げた。
世界は明るいのに、どこにも温度がなかった。
あの怪物は何だったのか。
どうして私は動けたのか。
今思えば、ボルトで固定されていた格子を素手で引き剥がすなんて、本来の私にできるはずがない。
あの時は無我夢中だったから――そう言い訳したくても、常識では説明できない。
そして、なぜ傷が消えたのか。
思考を手繰り寄せながら、私はそっと肩に触れた。
「……もう、ない」
指先に触れるのは滑らかな皮膚だけ。
その質感の変化こそ、決定的な答えだった。
私の身体が、内側から塗り替えられていく。
それはただの違和感ではなく、これは“現実の変化”なのだとようやく理解した。
私はもう、あの日の村の私ではない。
“C-221”という、別の何かへ組み替えられていく途中なのだ。
胸の奥が、ゆっくりと沈んでいく。
何を失っているのかさえ、もううまく掴めなかった。
そのとき――どこかから声がした。
檻の外を覗いても誰もいないのに、
遠くの部屋で交わされているはずの声が、
なぜか耳元のように鮮明に届く。
「C-221は明日、上層に引き渡す。次の段階だ」
「身ひとつで“アレ”を殺したらしい」
次の段階――
その言葉だけが、妙に重く胸に沈んだ。
この先、自分がどこへ連れていかれるのか。
もっと怪物に近づくのか。
それとも、完全に化け物へ作り変えられるのか。
何ひとつ分からない。
けれど、分かりたくないという抵抗ももう薄れていた。
私はただ、自分の鼓動を聞いた。
それは確かに私の胸の奥で鳴っているのに、
どこか遠く、別の場所の響きのように感じられた。
まるで、心臓の音だけが、先に“別の私”へ移ってしまったみたいに。