5章
暗がりの奥で、私は体を丸めたまま動けなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
壁に預けた背中は熱で脈打ち、手足は自分のものではないように重かった。
意識は薄い膜の下に沈んでいくようで、眠っているのか気を失っているのか、はっきりしていなかった。
そのとき、外で金属が擦れる音がした。
熱に浮いた頭にも、その音だけは鋭く届いた。
瓦礫を踏む靴底の音が、乾いた地面に規則的に落ちてくる。
私は体を丸めたまま息を潜めていたが、震える胸の動きは止められなかった。
「死体確認、記録。遺体のからの採取は先に済ませろ」
「動体反応は?」
「微弱反応がいくつか。ただし生存の可能性は低い」
声はすぐそこにあった。
そのあと風に混ざって重たい匂いが漂ってきた。
油の生温くて喉にまとわりつく匂い。
何をしているのか見えなかったけれど、それが何を意味するのか、幼い頭でも理解できた。
逃げなければ――
しかし体が熱で強ばって動かない。
足に力を込めようとしても空回りし、筋肉は言うことを聞かなかった。
指先すら震えるばかりで地面を掴めない。
体が重く、動けなくなったと気づいた瞬間、潜り込んだはずの場所が急に狭く冷たく感じられた。
瓦礫のすぐ向こう側で棒が硬いものを押し上げる鈍い音がする。
金属が何かに引っかかり、崩れかけた材木や石がずれる音が続く。
見えてはいないのに、その下から“何か”が引きずり出されているのが分かった。
写真を撮る乾いたシャッター音が、狭い隙間を震わせて届く。
ペン先が紙を擦る音も近い。
そのひとつひとつが、遺体が番号で処理されていく光景を音だけで連想させた。
見えない分だけ、想像の方が残酷だった。
灰のついた地面にそっと指を押しつけた。
熱でぼうっとする頭でも、土の冷たさだけは確かな感覚として残るはずだ。
けれど触れた土は思ったほど冷たくなかった。
触れた瞬間自分の体温のほうが勝って、土がじわりと温まっていく。
地面の冷たさに頼れないほど体が火照っているのだ。
指先はしびれ、関節は軋み、握りこぶしを作ろうとしても、力が途中で抜け落ちてしまった。
土の感触だけを頼りにしたかったのに、その感覚すらうまく掴めなくなっているのだ。
「……こちらに生体反応。微弱だが、脈あり」
声が頭上から落ちてきた。
直後、私の隠れている空洞の横側で瓦礫が大きく揺れる。
耳のすぐそばで石が擦れ合う音がして、誰かが棒を差し込んでこじ開けているのが分かった。
見つかった――
押し広げられた隙間から、乾いた光がぱっと差し込み、影の中にいた私の目を鋭く刺す。
眩しさに反射的にまぶたを閉じた。
次に開けたとき、広がった隙間から、マスク越しの冷たい目がこちらを覗き込んでいた。
その視線が確かめるように動いたあと、手袋をした指が隙間から差し込まれ、私の頬に触れる。
親指で頬骨を押し上げ、呼吸の浅さや汗の量、瞳孔の動きを確かめていく。
まるで人間ではなく“状態を観察する対象”として扱われているようだった。
「生体反応あり。サンプルラインへ」
指が私の顎を軽く押し離し、別の手が隙間の奥へ深く差し込まれ、私の腕をつかむ。
引き寄せるときに折れないよう、力の加え方だけは妙に慣れているようだ。
私は抵抗しようとしたが、熱で力が抜けていて腕は布のように引かれるままだった。
瓦礫の縁に肩が一度ひっかかり、鈍い痛みが走る。
すぐに外側から別の兵士が瓦礫を押し広げ、隙間を強引にこじ開けた。
最後の石が外されると、私はずるりと地面へ引きずり落とされた。
息が胸の奥で跳ね、冷たい土が背中に触れる。
体は動かず、ただ呼吸だけが浅く続いていた。
「確保」
短い声とともに、両脇をがっしりとつかまれる。
その直後、手首に冷たいベルトが巻かれ、ぎゅっと締め付けられた。
皮膚と革の間に熱がこもり、脈がそこだけ強く打つ。
足首にも同じように固定具が巻かれ、金具がカチリと音を立てて閉まる。
私はそのまま持ち上げられ、灰色の担架へ滑らせるように乗せられた。
背中に固い布の感触が敷かれ、肩と腰に追加の固定具がかけられていく。
視界の先では、ほかの子が次々と同じように運ばれていくのが見えた。
煤で黒く汚れた顔、半ば閉じた目、動かない指。
泣き声が聞こえないのは、泣く力すら失われているからだ。
兵士たちは誰一人としてその顔を見ようとせず、ただ作業だけをこなしていく。
広場の隅に、青いシートをかけた簡易テントがあった。
発電機の唸り、照明の薄い白光、油と消毒液が混ざった刺すような匂い。
金属の器具が並び、注射器が無表情な光を返している。
「順番に処置。記録は映像をまわしておけ」
私たちは一列に並べられた。
体温、脈、呼吸……数字が淡々と読み上げられる。
その声は私たちを“人間”として扱っているようには聞こえなかった。
ステンレスのトレイには、琥珀色の液体の小瓶が並んでいた。
蜂蜜のように見えるのに、その色には温度も甘さもない。
キャップが開けられ、針がつけられ、空気を抜くために小さく弾かれる。
「投与、開始」
最初の子の腕に針が刺さる。
その琥珀色が静かに管を満たし、体内へ押し込まれた。
かすかな間があって、すぐに痙攣が始まる。
背中が跳ね、視線が宙を泳ぎ、喉から声にならない短い音が漏れた。
「痙攣、発作開始」
「呼吸、不安定」
「心拍、低下」
数字と状態が淡々と読み上げられ、二分も経たずにその子は動かなくなった。
担架が入れ替わり、次の子が前へ押し出される。
二人目は強く痙攣し、拘束ベルトが軋んだ。
三人目は静かで、静かすぎて、かえって恐怖を感じた。
2人とも声も出ないまま、呼吸が薄くなり、すっと途切れていった。
そして、私の番が来た。
腕を伸ばされ、ゴムの帯が巻かれて血管が浮く。
針が刺さった瞬間は、まるで皮膚が諦めていたみたいに簡単だった。
針が入った瞬間の痛みも、ほとんど分からなかった。
体はすでに熱でぼやけ、呼吸も浅く、鼓動だけがやけに強く耳の奥に響く。
琥珀色の液体が押し込まれたのを、最初に感じたのは“温度”ではなく、血管の内側で何かが滑り込むざらりとした違和感だった。
その直後、冷たい流れが一気に腕へ走り、すぐに逆方向から熱が追いかけてくる。
冷水と熱砂が同時に体内を走るようで、心臓がひとつ脈を飛ばし、骨の奥で見えない何かが軋んだ。
喉の奥まで熱く、息を吸うたび胸が焦げるみたいに締めつけられる。
私は歯を食いしばり、浅い呼吸を肩で押し出した。
指先の方から熱がじわじわと広がり、胸、腹へと波が押し寄せていく。
目の裏で白い光が弾け、世界が少しずつ斜めに傾いた。
吐き気が込み上げ、胃が裏返るようにひっくり返る。
頭の奥で何かが揺れ、自分の体の“内側の位置”がずれるような、不自然な感覚が走った。
体が自分のものじゃなくなる予兆。
その境界線を、液体の流れがなぞっていく。
「反応あり。痙攣軽度。血圧維持」
記録の声は落ち着いていた。
針が抜かれ、小さなガーゼが押さえられた。
息は荒く、視界は波のように揺れているのに、
意識だけがしつこく沈まずに残り続けていた。
もう落ちてもいいほど体は限界なのに、意識だけが上から糸で吊られているみたいに離れないのだ。
「状態安定。適合の可能性あり」
その言葉が頭上で反響し、心臓の鼓動と重なる。
適合——
それが示す意味など分からないのに、体の奥がざらりと反応した。
手首のベルトがわずかに軋み、熱がまだ皮膚の内側で燃えている。
隣で別の子が叫び、すぐに静かになった。
生と死の境界が驚くほど薄い紙のように感じられた。
「識別を更新。被験者コード、C-221」
胸に白いテープが貼られた。
油性ペンの匂いが鼻を刺し、太い線が私の新しい“名前”を書き記した。
固定具が外れ、輸送用の帯に付け替えられる。
透明な点滴が腕に繋がれ、液体が落ちてくる。
「C-221、輸送準備」
担架がわずかに揺れ、テントを抜けた瞬間の風が汗を冷やした。
皮膚がその冷たさを受け止めきれず、ぞくりと震えが走る。
遠くで、油に火が移る軽い破裂音がした。
続いて乾いた木が割れる音が、遅れて胸の奥へ響く。
横目に見える村はもう形を保っていなかった。
黒い煙が空に伸び、家々の輪郭をゆっくり溶かしていく。
崩れた屋根も、倒れた塀も、みんな同じ灰色へ沈んでいく。
風が吹くたび、灰が細かく舞い上がり、私の上を静かに通り過ぎていった。
焼け焦げた匂いが喉に絡みつき、微かにむせそうになる。
輸送車の扉が開くと、狭い車内に担架が二つあり、その上に白い布に覆われた膨らみがあった。
確かめたくても、もう首すら回らない。
私の担架がレールに沿って押し込まれ、固定具が嵌まった。
扉が閉まる直前、外から声が飛んだ。
「C-221、生体反応は安定」
扉が閉じ、闇が増した。
発電機の唸りは遠のき、代わりに車両の振動が体に伝わる。
熱はまだ残り、汗は冷たく、指先は重く、瞼が自然に落ちる。
そこには、さっきまでの光景が焼きついていた。
広場、炎、琥珀色の小瓶、白布。
すべてが本来の色を失い、灰の向こう側へ沈んでいく。
身体が生きようと抵抗しているのか、死へと向かっているのかわからなかった。
熱が皮膚の下をゆっくりと這い回り、じりじりと広がりながら、まるで内側から別の形に組み替わっていくような感覚を残していく。
骨の奥で何かがひそやかに動き、血の流れがいつもより深いところを通っている気さえした。
私の知らない“何か”が、身体の中で勝手に働いているようだ。
それはただの勘違いではないと、熱の波が上がるたびに少しずつ理解していく。
担架の振動に揺られながら、私はその違和感の意味を考える余裕もなく、ただ全身を蝕んでいく熱に身を預けるしかなかった。
こうして私はC-221と記録される日々の最初の夜へ運ばれていった。