5章



その日は、何の兆しもなく訪れた。
長く続いた紛争の日々は、唐突に終わった。
けれどそれは、勝利でも休戦でもなく……
殲滅という形の、最も冷たい終わりだった。


朝の配給が、いつもと同じように始まった。
霜のついた金属のバケツから薄いスープがすくわれ、乾いたパンの欠片がひとつずつ掌に落ちていく。
列は痩せた背中の影でつながり、腹の鳴る音だけが小さく、冷えた空気を震わせていた。


待てばなくなる。それだけが分かっていた。
だから口に押し込む。
粉のようなパンが舌に貼りついても、気にする余裕はない。
食べるというより、押し流すだけだった。


やがて、配給が底をつきる頃。
小柄な子が、ふいに胸を押さえて立ち止まった。

次の瞬間、体を弓なりに反らせて倒れ込んだ。
手足が跳ね、口元から泡がこぼれ、土の上で体が勝手に震えだす。

誰かが駆け寄ろうとした途端、その隣の子も膝を折った。
さらにもう一人、もう一人――
子どもたちが、順番に崩れていく。


倒れた子の息遣いも、痙攣する指先の震えも、
すべてがあまりに突然すぎて、頭が追いつかない。


いったい何が起きたのか。
倒れる理由なんて、どこにもなかったはずだ。
皆、いつもと同じように朝の配給を食べただけなのに――。


……配給、なのか?
あのパンとスープに、何かあったのか?

敵が毒を仕込んだ?
それとも、配給を配る大人が何か見落とした?
そんなはずはないと思いたいのに、
倒れた子の数が増えるほど、嫌な予感だけが強くなる。

……私もパンとスープを食べた。
それが毒なら、私も立っていられる理由がない。
そう考えた瞬間、胃のあたりが冷たくなった。
心理的な錯覚なのか、本当に痛むのかも分からない。


倒れたはずの子供達は、しばらく地面で震えていた。

やがて、倒れた子の肌に異変が走った。
最初は青ざめたのかと思った。
けれど違う。
肌の色が“変わっていく” 。
人間の色ではない暗さが、じわりと全身へ広がっていく。

皮膚が突っ張り、その下で何かが押し出されるように盛り上がったかと思うと、ぱきり、と音を立てて裂けた。
赤と黒が混じった液体が、そこから滲み出す。

目は白く濁り、焦点も失い、私を見ているのかどうかも分からない空洞のようになった。

関節が“逆”に曲がった。
折れるというより、まるで別の生き物の形に作り替えられていくみたいに。

手足は地面をひっかくように動き、もう人間だった頃の動きではなかった。
さっきまで私の隣にいた子の“輪郭”が、
みるみるうちに剝がれ落ちていく。

喉から漏れた音は声の形をしていない。
ただ、飢えだけをむき出しにしたような、本能だけの音だった。

私に向けられたわけでもないのに、その音が胸の奥のどこかを冷たく撫でた。
こんな音を、人間が出すはずがない。


配給をしていた大人が、青ざめた顔で後ずさった。

「……やめろ、近づくな! 逃げろ、離れろ!」
叫びは怒号ではなく、明らかな恐怖の声だった。

苦しむ子どもに手を伸ばすこともなく、大人は柄杓を投げ捨て、後ずさりし、振り返ったかと思うと一目散に走り出した。


「じ、自分の身を守れ! 来るな、巻き込まれるぞ!」
そう叫びながら、私たちを置き去りにして逃げていく。

誰も助けない。
小さな影が地面に崩れていくその横で、ただ大人の背中だけが遠ざかっていった。


 
しかしその背を向けた大人に、変わってしまった子が飛びつき、肩口へ歯を立てる。
噛まれた大人は悲鳴を上げ、もがき、地面でのたうち、やがて悲鳴は痙攣へ、痙攣は沈黙へ変わっていく。


配給を食べた子から、順番に倒れていく。
まだ口にしなかった子たちは梁の下や壁の影へ散ったが、周囲が変わっていく速さは隠れる速さを簡単に追い越した。

腕を掴まれ、引きずり出され、噛まれ、引き裂かれ――
同じ終わりへ飲み込まれていく。


叫び声や唸り声が次々に重なり、どれが誰の声かもう分からなくなっていく。
倒れた子の白く濁った目が、あちこちで光に反射してこちらを向くたび、逃げ場がひとつずつ奪われていく気がした。


銃を構えるが意味はなかった。
撃つべき敵がいない。
標的は、こちら側にいたはずの小さな影ばかりだった。


私は瓦礫の影へ身を滑り込ませ、膝を抱えて体を縮めた。
……あの配給を口にしたのだから、いずれ私も崩れるはずだ。

体が震える。
寒さなのか、恐怖なのか、それとも――

胸が早く脈打ち、喉がうまく開かず、息を吸うだけで熱と冷たさが同時に走った。


やがて――広場に満ちていたその音は、一つずつ途切れていった。
耳が壊れたのだと思ったけれど違う。
声を上げる者が、もう誰も残っていなかっただけだった。


異変があった子どもたちは、やがて自分の体すら支えられなくなり、皮膚は剝がれ、肉は崩れ、骨は糸のように砕けていった。
牙も爪も泥へ沈み、残された形はもう“何か”だった。

熱に揺らぐ空気と、鼻に残る匂いだけがその場に留まり、風が吹くたびに赤黒い染みが地面に広がり、午後の陽に乾いていった。



配給を食べなかった子は、少しだけ長く生きていたが、でも結局は影から影へ走る間に腕を掴まれ、倒れ、噛まれ、同じ色に染まっていった。


仲間達が生き延びるために覚えた勘も、足の速さも、隠れ方も、今日だけは役に立たなかった。
まるで、見えない何かが村全体に初めから印をつけていたみたいに。


私は呼吸を整えようとした。
だがすぐに乱れ、手は震えて思うように動かない。

――恐怖。

その言葉が胸に沈んだ。
罰の痛みには慣れても、この震えは違う。
忘れていたはずの感覚が、皮肉にもここで戻ってきた。

時間は伸びたり縮んだりしながら過ぎていき、やがて広場に動くものはなくなった。
世界全体が灰色に沈んでいく。


空は青いのに、青さはどこにも触れてこない。
風だけが灰を撫で、静けさを横切っていった。


いつもの癖で、私は周囲に残った影を数えようとした。
番号を確認することだけが、日々の唯一の儀式だった。

でも今日は、その数字に意味などはなかった。
呼ぶ声も、応える者も、もう跡形もなく消えていたのだから。



私はおそらく助かったわけではない。
ただ、終わりが少し遅れているだけ。
これから訪れるであろう恐怖で生きているという実感もなかった。


敵がいないまま、村は滅んでいった。
銃声も、抵抗もなかった。
朝の配給から始まった破壊は、短い時間で日常を丸ごと呑み込み、すべてを無にした。

そして残ったのは、痛いほどの静けさ。


その静けさの中で――ふと、自分の体に違和感を覚えた。


熱い。

そう思った瞬間、ようやく気づいた。
体の奥で、何かがじわじわと熱を放っている。
風邪の熱とも、寒さで火照ったものとも違う。
骨の内側から灯されたような、深いところの熱。

なぜ気づかなかったのか分からない。
けれど気づいた瞬間、その熱は急に存在を主張し始めた。

頭が重くなり、目の奥に鈍い痛みが刺すように広がる。
関節が軋み、動かすたびに自分の骨が自分の重さに耐えきれていない気がした。

流れる汗の温度さえ分からない。
冷たいのか、熱いのか――それすら判断できない。


……おかしい。
これは、ただの疲労や熱じゃない。
体が、中で何かを始めている。


徐々に思考がまとまらなくなる。
息が浅い。
体が、自分のものじゃないみたいだ。

私もここで崩れるのか――
その予感だけが、脈より速く胸を叩いた。


倒れる前に少しでも安全な場所を探さなければ。
そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
私は這うように瓦礫から離れ、崩れた建物の影へ向かって身を滑らせた。
壁の裏側に、小さな空洞のような暗がりがある。
見つかりにくい場所だろう。ただそう願った。

そこにやっと体を押し込んで、壁に背中を当てて丸まった。
呼吸の音が自分の耳にだけ響く。
外の気配が遠ざかっていく気がした。



額に触れると、指先のほうが冷たかった。
震えは止まらず、歯が無意識に噛み合って小さな音を立てる。

やがて視界が滲み、輪郭がほどけていく。
屋根も瓦礫も、波のように揺れて形を変えた。


――ここで終わるのか。

熱がいっそう高くなり、思考の輪郭に白い縁がつく。

遠くで、金属が擦れるような音がした気がした。
風のせいかもしれないし、本当に誰かがいるのかもしれない。
熱のせいで判断がつかなかった。

光が視界の端でにじみ、まぶたが鉛のように重くなる。
世界がぼやけていく。

音は近づいているのか、遠ざかっているのか――
それすら分からないまま、私は静かに意識を手放した。

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