5章



暗闇の底から、映像がゆっくり浮かび上がる。

焦げた匂い。割れた屋根。風が吹くたび、錆びたトタンが軋み、灰が細雪のように舞った。
雪は灰と混ざって、白とも黒ともつかない色をしていた。

忘れたと思っていたはずの匂い、寒さ。
それらが形を取り戻すたび、胸の奥が軋む。

暗闇の奥で、私の記憶が音を立てて開いていく。
眠りの底ではなく、もっと深いところ。
痛みの形だけが鮮明に残る場所。

私は、その中に沈んでいた。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
光はなく、ただ冷たい風が頬を撫でる。


遠くで鈍い爆音が響く。
山を越えた向こうでは、まだ戦いが続いている。
国境はもう意味を失い、誰が敵で誰が味方かも分からなかった。
冬が終わらない場所。
凍った畑の上で、戦車の履帯が音を立てて通り過ぎていく。
地面は凍み、死体さえ腐らず、時間が止まったようだった。



大人たちは次々に前線で消え、代わりに銃を持たされたのは、まだ骨の細い子供たち。
兵士というより、ただ――数を埋めるための影。
補給も訓練もなく、撃てる者が兵であり、撃たれた者は土に還る。

その列の中に、幼い私がいた。

瓦礫の陰に並ぶ影はみな、痩せた子供たち。
背丈に合わない銃を抱え、黙って風の中に立っている。
風は雪の粉を巻き上げ、どこか遠くから焦げた油の匂いを運んできた。
かつて教会だった建物の尖塔は折れ、鐘楼だけが空を指していた。

「R-04」

呼ばれた番号に、私は反射のように一歩前へ出る。
骨ばった腕。土で黒ずんだ指先。銃床は重く、肩に当てるたび骨に響いた。

私は名前を持っていたのだろうか。
思い出せない。
誰かに名を呼ばれた記憶は遠く、番号だけが鮮明に残っている。
最初から名などなかったのかもしれない。
そう思えば、少しだけ楽だった。

私に親はいなかった。
いたのかもしれないが、気づいた時には、もういなかった。
ここでは、“いないもの”は最初からいないのと同じ。

夜になると、私たちは割れた壁の影に身を寄せ、互いの肩で風を避けた。
眠る前に数を確認するのが習わしだったが、朝になるとしばしば数は合わなかった。 

時折、遠くの町から鐘の音がかすかに届く。
それがなんのための鐘か、誰にも分からなかった。

配給は日に一度。乾いた黒パンの欠片か、塩気の抜けた豆のスープ。
奪い合いに負ければ、唇を噛んで空腹をごまかす。
パンは粉のように崩れ、口の中の傷に張り付き、血の味を連れて喉を通った。
腹はどうにか満ちても、胸の奥はいつも空洞のままだった。


私たちは「補助部隊」と呼ばれていたが、実際には人の盾だった。
前に出され、敵の位置を暴く。
それは小柄な子供の役目であり、戻れた者は次の戦いに出た。


訓練と呼べるものは特になく、教えられたのは
銃の打ち方と、命令に「はい」と答えること。
それからためらわないこと。仲間に情を持たないこと。

はじめて引き金を引いた日、私は耳鳴りにめまいがして吐いた。
吐いたことを叱られ、次の弾を装填した。
生き残るために、覚えるしかなかった。
そうしていつのまにか銃の分解まで、目を閉じてもできるようになった。


ずっと劣勢だった。
地図の上ではいつも赤い線が後退し、
私たちのいる村は、最前線の裏側で徐々に削られていった。
銃声のない夜はなく、
雪解けの泥はすぐに血を吸って凍りつき、
翌朝にはその上を、また新しい隊列が通る。

子供達の呼ばれる番号は減っていく一方で、
減った分が補充されることはなかった。
ここでは、人が死んでも戦いは止まらない。
理由も弔いもなく、ただ数が減るだけだった。




ある夜、焚火の弱い光のそばで、隣の少年が泥に汚れた掌を差し出した。
掌の真ん中に、小さな石が一つ、白くかすかに光っていた。
雪の下で拾ったと言っていた。氷のように冷たいのに、掌の上ではやけに温かく見えた。

「お守りなんだ」

少年は言って、子供のように鼻歌混じりに笑った。
かすかに訛りのある歌声の癖を感じた。
遠い村で誰かに教わったのだろう、柔らかい響きだった。

私は黙ってそれを見つめた。
食べられないものに意味はない。
役に立たないものに価値はない。
どうして石で笑えるのか分からなかった。
それでも、その笑顔だけは記憶に残った。
笑う筋肉の場所を忘れていた私の前で、その少年は――まるで人間のままだった。


翌朝、その笑顔は列にいなかった。
不穏な空気の中で、大人が怒鳴り声を上げていた。
誰かが物資を盗んだと。
パンか、弾薬か、たいしたものではない。
けれど怒号は広がり、怒りは行き場を失って――
誰かを罰しなければ収まらない雰囲気になっていた。

やがて引きずり出されたのは、R-07だった。あの少年だ。

腕を縛られ、顔に泥を塗られたまま、地面に膝をつかされている。
その瞳は、何も理解していない子供のままだった。
「俺じゃない」と繰り返す声が、風にさらわれていく。

私は知っていた。
彼が盗むはずがない。
昨夜、分けてもらったパンの欠片を、他の子に渡していたことも。
それでも大人は笑っていた。
怒りをぶつける相手がほしいだけの笑い方だった。


「R-04」

番号を呼ばれた。
私のことだ。
心臓が音を立てた。
視線を上げると、1人の大人が銃を手渡してきた。

「撃て」

喉が硬くなる。
銃身が凍えて、指先に冷たく張りついた。

「命令だ。見せしめにしろ。
 裏切りは、罰をもって教えろ」

少年は首を振っていた。
泥の下の瞳が、まっすぐ私を見ている。
何も言わない。
ただ――お願いだ、違うと知っているだろう、と目が言っていた。

私は銃を構えた。
肩が震える。
風が唇を裂き、血の味が滲んだ。

「撃て、R-04」

背後の声は乾いて冷たかった。
「迷えばお前も同じだ」


喉が塞がる。
指が引き金にかかる。
――できない。

頭では分かっていたのに、体が動かない。

「……撃てない」

声は震えていた。
それを聞いた瞬間、頬に火花のような痛みが走った。
銃が奪われ、耳元で破裂音が鳴った。

少年の体が前に崩れた。
膝が泥に沈み、雪が黒く染まっていく。

時間が止まったようだった。
 

「ためらうな、その犠牲は道となる」

「次は撃て。道具は命令に従う」

頬を殴られ、視界が跳ねた。
地面が近い。
凍った土が皮膚に触れ、痛みよりも先に冷たさが染み込んでいく。
鉄と血の味が口の中に広がり、吐き出した息が白く凍った。

「立て」

肩を蹴られ、体が泥の上を転がる。
肋骨の奥で鈍い音がした。
立ち上がろうとしても、腕が言うことをきかない。

それでも、声が上から降ってくる。
命令は止まらない。
立て。動け。

動けなければ、また罰が落ちる。
泣けば更に長くなる。だから泣かない。
喉の奥に熱を押し込み、土の匂いで息をつないだ。


その夜、私はあの石を探した。
焚火の跡の近く、泥と血の混じる地面を手探りで。
しかし何も見つからなかった。
あの小さな白い石は、もうどこにもなかった。




靴は大人のお下がりで、足首が遊ぶ。
紐は片方しかなく、もう片方は布切れで代用した。
靴下は穴だらけで、指が覗くたびに土が黒く入り込む。
雪を踏むたび、冷気が骨に刺さるようだった。
雨が降れば靴の底から水が上がり、乾くまで足は氷のように冷えた。
手袋は誰にも配られなかった。
冬の銃身は肌に張りつき、指の腹は割れて血と油で固まっていく。
指から漂う油の匂いが、パンよりも“生きている匂い”に思えた。


私は大人から与えられる罰に慣れていた。
慣れたというより、罰と罰でないものの境目が薄れていた。
生きている限り、何かしら殴られる。
それが前提になり、前提はやがて安心に似たものへ変わり、安心はまた別の罰に変わる。
日々はそうして閉じた輪になった。


戦局が好転することはなかった。
赤い線はさらに押し込まれ、補給は細り、配給に並ぶ列は短くなった。
夜、肩を並べていた温度が一つ、また一つ消えていく。
消えるたび、風の音が強くなる。
私は心の奥に空洞を抱え、その空洞を風が通り抜ける感覚に慣れていった。
慣れることだけが、痛みを減らす術だった。

やがて、命令と動作の間にほとんど時間がなくなった。
銃は重いままだったが、その重さは私の一部になる。
撃つことは、呼吸と同じように自動になっていた。
生き延びること――それだけが結果であり、目的だった。



朝はいつも同じ手順で始まる。
数を数え、列に並び、掌に落ちるパンの欠片を受け取る。
しかし何も起きないはずの朝に、その日は小さな異物が混じった。

風の匂いが変わったのだ。
焦げでも鉄でもない、薄いのに鼻にまとわりつく匂い。

私は顔を上げる。空は青い。
青いのに、音は色を失っていた。

その日、望んだはずの“終わり“が、最も残酷な形で訪れたのだ。 

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